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鎌倉橋残日録  ~井本省吾のOB記者日誌~

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2013.10.07
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カテゴリ:歴史
 鴨下信一著「誰も『戦後』を覚えていない」(文春新書)を読んで、戦前(昭和10年)生まれの鴨下氏と、戦後(昭和22年)生まれ、団塊の世代の自分との間に明確な違いがあることがわかった。

 言うまでもなく、大きく違うのは空襲や戦災、疎開を経験し、戦争を肌で知っている世代と、戦争を知らない子供たち」の相違である。

 そこには大きな断絶がある。ただ米軍の兵士が都内を闊歩する姿や傷痍軍人の姿を目撃するなど、戦後生まれも、少しではあるが、戦争につながる記憶を持っている。

 連続的だが、濃淡が違う両者の差。その点で見ると、一番大きいのは「食」の貧しさの度合いだろう。
 
 餓死者も出ていた終戦直後の昭和20-24年を飢餓すれすれで暮らした世代とすれば、団塊の世代は「貧しくはあるが、飢餓の心配はなかった世代」と言えようか。


 戦後生まれは飢餓線上の時期に生まれたが、物心のついたの昭和25-29年には飢餓は去り、餓死者は激減していた。皆無に近い状況だった。

 それは食べ物に見られる。終戦直後にはオカズなんて上等なものはなく、主食のコメが大幅に不足していた。イモかカボチャか、アワかヒエか、それも量が少なく、腹いっぱい食べられない状況。つねに腹をすかしていた。

 団塊の世代はその時代に生まれ、飢餓線上の生活を経験してはいるのだが、覚えていない。4、5歳になって物心ついたときには、不十分ながら白米を食べられるようになっていた。うどん粉を練って丸めて煮込んだ「すいとん」を食べさせられたこともよくあったが、4歳、5歳、6歳と成長するにつれ、日本経済の回復とともに、白米のごはんを食べる機会が急速にふえた。

 オカズを買う金がなく、残飯をしょう油と油でいためた「炒めメシ」だけという昼飯や、それに近い晩飯も多かった。ごはんと味噌汁にコロッケがつけば上等の夕飯だった。オカズが乏しく、不満そうな子供たちに対し、母親はよくこう話していた。

 「白米のご飯を食べられるだけで幸せなのよ。戦時中や終戦直後は買出しに行っても白米そのものが手に入らないんだから。甘いものなんて、何にもなくて、あの頃は、雨が降って道路がぬかるむと、そのぬかるみの土があんこやチョコレートに見えたものよ。本当にそう見えるんだから」

 すいとんやオカズなしの食事は昭和30年代に入り、「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれて以来、急速に姿を消し、30年代後半に高度成長軌道に乗ると、後は豊かさが増す一方となった。

 「戦争を知らない子供たち」である団塊の世代はその分、恵まれている。ただ、飢餓線上の生活をかすかに覚えているし、父母や兄姉から聞かされている。
戦前、戦中世代とつながっている世代であることは間違いない。

 平成時代が25年となり、昭和そのものが遠くなりつつある今日、団塊の世代は兄姉の世代とともに、終戦前後や昭和20年代の話を、後の世代に伝えて行く役割を担っているなと感ずる昨今である

 

 





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Last updated  2013.10.07 10:54:15
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