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鎌倉橋残日録  ~井本省吾のOB記者日誌~

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2014.03.09
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カテゴリ:日本・日本人
「ある明治人の記録」(石光真人編著、中公新書)を読んだ。副題は会津人芝五郎の遺書。
 
 明治33年、北京の義和団の当時、見事なリーダーシップで居留地の篭城戦を戦い抜き、その功績は欧米でも高く評価された武人だ。

 だが、会津藩の武士の家に生まれた柴は少年時代、苦境のどん底を経験した。明治維新に際し、一方的に朝敵の汚名を着せられた会津藩は降伏後、下北半島の痩せた火山灰地に移封され、柴は極寒と飢餓の日々を強いられた。

 「遺書」から、その生活の一部を抜粋すると――。

 <余の一家は……空家を借用せり。間口三間ばかりの店造りにて、六畳の二階と店と炉のある十畳ばかりの台所兼用の板敷と、屋後に納屋あり。建具あれど畳なく、障子あれど紙なし。板敷には蓆(むしろ)を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等を藁縄にて縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚火して寒気をしのがんとせるも、陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き貫け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。炊きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜(すす)る。……売品を購う銭の余裕まったくなし>

 <用水は二丁ばかり離れたる田名部川より汲むほかなし。……冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を掘りて汲み上げ、……手桶を背負えるも途中にて氷となり溶かすに苦労せり。玄米を近所の家の臼にて軽くひきたるに大豆、馬鈴薯などを加え薄き粥を作る。白き飯、白粥など思いもよらず。馬鈴薯など欠乏すれば、海岸に流れつきたる昆布、わかめなどあつめて干し、これを棒にて叩き木屑のごとく細片となして、これを粥に炊く。……色茶褐色にして臭気あり、はなはだ不味なり。……豆腐を作らんと試みたるも、ついにできず、砂糖、醬油などまったくなし>

 まさに「赤貧洗うが如し」を絵に描いたような生活である。今の日本人の豊かな生活とは天地の差がある。東北だけではない、明治初年の日本では大同小異の状況が各地で見られた。

 私は昭和22年生まれで、これほどの貧困は経験してはいない。だが、昭和20年代の日本も今とは比べ物にならない貧しさだった。ご飯に醬油をかけ、植物油で炒めるだけ、おかずはないか、あってもコロッケ1つという夕飯も珍しくなかった。昼食は弁当箱にご飯を詰め、真ん中に梅干1個、だから日の丸弁当と呼ばれた。

 それでも「白米を毎日食べられるだけで幸せ。戦時中はお米が手に入らなかった」と母親に良く言われたものだ。

 戦争を経験しながらも曽祖父母、祖父母、父母の世代が明治、大正、昭和の中を刻苦勉励して働いた結果、今日の豊かさが築かれた。「芝五郎の遺書」を読むと、その原点を知らされる思いだ。

 あさって11日で東日本大震災に見舞われて以来3年になる。被災地の復興はいまだ道半ば。仮設住宅に住む多くの人々の生活は不自由だし、ふるさとを離れて帰還できない住民もたくさんいる。

 だが、「明治人の記録」を読むと、当時の極貧生活よりはましだろう。明治人がどん底から這い上がったように、努力と知恵で再建はなると思う。

 もちろん、政府や自治体をはじめ外からの支援は必要だが、再建の基本は逆境にくじけない住民の独立自尊の精神にある。

 





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Last updated  2014.03.10 06:28:25
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