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鎌倉橋残日録 ~井本省吾のOB記者日誌~

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生活・人生

2015.11.03
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カテゴリ:生活・人生
日本人の平均寿命は長い。2013年で見ると、男性80.21歳、女性86.61歳と世界トップクラスの長寿である。だが、「死ぬ前日まで元気いっぱいだった」という人はそれほど多くない。

「健康寿命」という用語がある。死亡するまでが寿命だが、健康寿命は介護を受けたり寝たきりにならず、自立した日常生活ができる期間を指す。最近、これが意外に短いことを知った。

厚生労働省によると、日本人の2013年の健康寿命は男性で71.19歳だ。平均寿命との差は9.02歳もある。女性は74.21歳で平均寿命との差は12.4歳も開く。

還暦の60歳を過ぎれば腰痛とか心臓病とか、多くの人はどこに持病を抱えているものだが、介護を受けねばならないほどに体力や知力(認知症など)が衰える時期も意外に早いのだ。

日本人の中で突出して人口が多い段階の世代も今や66-68歳(広義には65-69歳)と、すべて前期高齢者の仲間入り。私もその一人だ。男性の場合、平均寿命が80歳ということから「人生80年、死ぬまでまだ10年以上ある。仕事の整理をしたり、遺書を用意するなど死の準備をするのはまだ先のこと」とあまり考えていない人が多いのではないか。

だが、健康寿命が74歳の女性はともかく71歳の男性はそれほど先のこととは言えないと思った方がいい。団塊の世代なら健康寿命まで3-5年(広義では2-6年)しかない。介護という人の世話にならない年齢はすぐそこに迫っている。

命短し、団塊の世代。自らの状況をしっかりと認識すべしと、私は今、自らに言い聞かせている。

その思いで書棚にあった文芸春秋2008年2月月号の特集「見事な死」を開くと、日本を代表する作詞家にして小説家でもあった阿久悠氏は2001年(平成13年)に64歳で腎臓癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年8月、尿管癌のため70歳6ヶ月で他界した。

死去した2007年も、4月から「言いたいことがまだたくさんある。それを肉声で伝えたい」とラジオ放送に出演した。収録の日は人工透析の後でスタジオに訪れるので、ぐったりして声はかすれ、顔も土気色だった。だが、放送が終わる頃には元気になって、何も喉に通らないと嘆いていたのに、収録後はサンドイッチをつまむほどだったという(同ラジオ放送を共にしたNHKアナウンサー、葛西聖司氏の記事)。

自分の望むことをすると、それほど気力、体力を回復するということだろう。癌の手術をした2001年から約6年も生き延びたのも、好きな仕事で充実した時をすごす機会が多かったからかも知れない。

何で残された時を過ごすかは人それぞれ。好きな趣味や旅行、家族との団らんを大事にする生き方もある。「命短し、恋せよ乙女」ではないが、バツイチやバツニの身が素敵な異性との交際に心をときめかすのも結構だ。

いずれにせよ、前期高齢者の仲間入りしたら、(平均的には)健康でいられる時間はそれほど長くない、ということは認識しておいた方がいいようだ。






Last updated  2015.11.03 19:31:23
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2015.09.15
カテゴリ:生活・人生
2010年に公開された映画「武士の家計簿」(森田芳光監督)をBSテレビで見た。加賀藩の下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を務めた猪山家の生活と、その背景にある加賀藩の営み、幕末から明治維新にかけての歴史的変遷を描いた時代劇だ。

主テーマの1つが、借財が大きくなった猪山家の債務整理だ。家財の大半を売り払ったり、質入れしたりしたうえで、収入、支払いを入払帳にきめ細かくつけて行く。

堺雅人が演じる主人公の猪山直之は、若き猪山家の当主として一切の妥協を許さない。父が趣味で集めた陶器の多くや母が凝っている友禅の着物を、渋る父母を強く説得しつつ、すべて売却、質入れしてしまう。

日々の食事も一挙に質素になり、祝いの席でもタイなどの高級魚はあきらめ、安価な魚を買い、料理で味を工夫する。

厳しい倹約生活なのに、どこかほのぼのと明るさがあり、清潔感が漂うのは、下級武士とはいえ、そろばんの才能を買われて、多少なりとも出世し、少しずつ収入がふえるからだろう。

だが、それ以上に大きいのは彼らの生活が分限をわきまえ、質素倹約を受け入れる律儀な姿勢に貫かれているからだと思われる。

長年、質素倹約に努めて結果、猪山家は借金完済を果たす。その束の間、母は死の床につく。臨終の直前、母が最も大切にして「手放したくない」と泣いて訴えていた着物を買い戻して、寝ている母の布団の上に広げてみせる。そのシーンはちょっと感動的だ。

映画の話を長々と紹介したのは、発売から2か月で8万部を売り上げた「下流老人 一億総老後崩壊の衝撃」(朝日新聞
出版)の著者、藤田孝典氏へのインタビュー記事がNBオンラインに掲載されていたからだ。

題して「『高齢者の貧困率9割』時代へ 老後は誰しも転落の淵を歩く」。

1980-90年代前半のバブル期に現役として年収1000万円前後稼いでいた定年者でも、病気や介護、認知症、子供が独立せずに家に居つくといった事態に陥ると、一気に生活は苦しくなる。藤田氏によると、バブル雇用で安定した世代の高齢者ですら、今や貧困率は22%に達している。しかも――。

<いま40代前半に当たる団塊ジュニアは4割程度が非正規社員・従業員です。平均年収は200万~400万円が中心で、この水準だと定年後の年金受給額は月額8万~10万円。生活保護を受給すべき最低ラインに掛かります。>

だから、多くの人が老後、貧困の危機に直面する公算大、というわけだ。

やや大げさな感じもするが、以上の数字を見ると、単純に大げさとも言えない。言うまでも無く、その最大の原因は少子高齢化にある。老人の比率が少なく、人生50-60年で定年後5-10年たつと他界したころは、現役の働き手が彼らを養うことができた。

しかし、人生80-90年へと寿命が延び、定年後の生活が20年以上にもなれば、高齢者比率が大きくなりすぎて、とても養えるものではない。

とすれば、老人自らが年金に見合って生活できるよう、「武士の家計簿」のように、質素倹約の生活に転換するしかない。藤田氏は語る。

<(貧困化を避けるには老後の病気や介護、認知症などの不測の事態の発生をもにらんで)早い時期に生活スタイルの“ダウンサイジング”を決断することです。年金の受給水準で生活するには、どうすればいいのか。50代できちんと考え、実行することです。>

同時にもう1つ、大事なことがある。ダウンサイジングの生活を楽しむ工夫をすることだ。「武士の家計簿」に見るように、低級魚に味付けして「おいしい」食事にすることだ。「内外の旅行が好きだったのに費用が捻出できない」というのなら、歩いて日帰りの山歩きや近隣町村の名所旧跡を訪ねる、という方法もある。工夫次第でカネのかからない楽しみはたくさん見出せる。

ダウンサイジングばかり考えず、収入を増やすことを考えるのも多いに結構だ。60-70代ではできることは限られるようだが、どっこい働いている人はたくさんいる。

その際大事なのは、好きなことをして収入を得られるようにすることだ。好きなことなら収入が少なくても不満は少ない。その範囲内で生活しようと思えるはずだ。もちろん高齢者でもたくさん稼げるなら、それに越したことはない。その分、日本経済にも貢献することとなる。

どんな境遇でも楽しんで生活する、という当たり前の結論になる。口で言うほど簡単ではないが、映画「武士の家計簿」には、どこかで愉しんでいる風情があった。森田監督の製作スタイルなのかも知れない。見ていて「ちょっといいな」と感じた。






Last updated  2015.09.15 16:51:03
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2015.06.17
カテゴリ:生活・人生
先日、5年ごとに開催されている高校時代の同期会に10年ぶりに参加した。列席者は卒業生の2割強といったところで、なつかしくも老けた顔ぶれに再会し、旧交を温めた。

ただ、在校時親しくしていたある友人の顔が見えない。幹事に聞くと、昨年亡くなったという。エッと驚いた。10年前には元気にやって来て、ひとしきり談笑したのに……。68歳(67歳だったかも知れない)の生涯である。鬼籍に入ったクラスメートはほかにもいたが、親しくしていた人間との別れはやはり寂しい。

一瞬、卒業以来の半世紀の月日を超えて高校時代の思い出が蘇った。月並みな表現だが、なんと人生は短いことか、という感慨が胸に広がった。

帰宅後、寝室で当時の思い出を反芻していて、頭に浮かんだ句があった。

飛び込んで手にもたまらぬ霰かな--。

赤穂浪士で俳諧をたしなんだ富森助右衛門が討ち入り前(討ち入り後と言う説もある)に詠んだ句である。ちょうど高校時代に見た赤穂浪士を描いたテレビドラマで、小雪が舞い散る中で助右衛門がこの句を詠む場面があり、耳に残った。

この世に生を受けたが、吉良屋敷に飛び込んで討ち入りを果たすまでアッという間の人生だったという思いが、感じ取れた。その句が高校時代の友の死と重ね合わさって蘇ったのかも知れない。合掌。

友人の他界の経過はわからないが、死ぬときは苦しむことがないように一瞬のうちに……という願いも「手にもたまらぬ霰」という句を想い起こさせたのかも知れない。

たまたま寝室の本棚に並べていた文芸春秋(2008年2月号)が「見事な死」というタイトルで著名人の死を特集していた。中に、作家の古山高麗雄氏が「亡き妻の布団の上で」死んだという長女の文章があった。

布団の上で半裸の状態、胎児のような格好で死んでいたという。ちょうど風呂上がりでパジャマを着るところだったようで、心筋梗塞だった。医師は「苦しんだとしても、せいぜい1、2秒くらいの間。痛いと感じる前に亡くなられたんでしょう。こういう言い方をしては失礼ですが、うらやましい最期です」と診断した。

まさに、うらやましいが、そんな幸運には簡単にめぐり合えない。そう思いつつ、5ページ前までパラパラめくると、ファンだった喜劇俳優の三木のり平氏は「すべての治療を拒否」して亡くなったと長男が綴っている。

「病院で父は点滴や投薬のたぐいを一切、拒否していました」。おかげで入院日数は短く、点滴の管だらけにならない自然な最期だったという。

「くどいことを嫌う三木のり平らしい“演出”による人生の幕引きでした」

第一級の役者だった、のり平さんのように見事な演出ができるかどうかは心もとないが、余計な治療は拒否して、死に際は短く、ピンピンコロリと逝きたいものだ。そう思いながら雑誌を閉じた。








Last updated  2015.06.18 04:38:20
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2015.03.07
カテゴリ:生活・人生
 3日付けのブログ「男女関係のナッシュ均衡」について、フランス生活6年というmerciさんから長めのコメントをいただいた。次のフランスと日本の社会の違いについての観察は参考になった。

 <日本とフランスの一番の違いは、一つです。フランスはカップル社会、日本はおひとり様社会ということです。……日本はどこへでも一人で行けますし、なんでも一人でできます。……ところがフランスでは一人で外食できる場所はほぼありません。コンビニもありませんから、自炊するしかありません。そして、フランスでは友人たちと飲みに行く際もしくは仕事関係の集まりでさえパートナー同伴です。……フランスでは家族を作るのがとても自然で、シングルだと言い辛い環境です。日本(では)……ひとりで行動がとてもしやすくなっています。日本でも昔は周りが放っておかなかったというのがありましたが、絶食系と言うより人と人の繋がりが無くなっているのではないかなと思います>

 これはその通りだと思う。拙ブログ「絶食系男子が増殖している」でも、日本について同様の分析をしている。コンビニなどの存在が独身生活を快適にさせる一方、適齢期という言葉がほぼ死語となり、見合いの話を持ち込む世話焼きも激減している。
 
 これに男女平等思想、雇用機会均等法のもと、かつての男女関係のナッシュ均衡(「妻は夫を立て、夫は妻を労わる」関係)の崩壊が加わり、絶食系男子の増殖、少子化がすすんだというのが私の見立てである。

 働く女性が子育てしやすい保育所の整備不足、社会保障の不備も少子化の原因で、この点はmerciさんの意見とは多少異なり、フランスをはじめヨーロッパの方が進んでいると思う。

 merciさんの次のコメントは、私のブログを誤解した結果だと思う。

 <そんなに女性を家庭に縛り付けたいのであれば、日本をイスラム等の社会のように宗教から変えた方がいいと思います。「女性の社会進出に異論がある」とは、男性の賛成が必要ということでしょうか>

 私は「女性の社会進出に異論がある」とは書いていない。「女性の社会進出がこれ以上進む点については異論もある」と書いたのである。「これ以上」が付き、「異論がある」ではなく、「異論もある」としている。

 細かい違いのようだが、そうではない。なぜなら、その後すぐにこう書いているからだ。
 
 <私は女性の社会進出に反対ではない。能力のある女性は大いに活躍すべきだと思う。そうした女性と親しく接する男性が増えるのも望ましい>

 議論の基本にあるのは「自由」である。以前のブログ「続・少子化と『男女平等』思想」でもこう書いた。

 <夫婦百景、十人十色。二人の仲がうまく行っていて、子供も健やかに育っているのなら、他人がとやかく言う筋合いではない。どちらがどれだけ外で働き、どっちがどの程度家庭を担うかは二人の自由である>

 そう、夫婦で話し合って役割分担を決めればいい。男女が結婚するのは「その配偶者とずっと一緒にいたい、家庭を築きたい」ということである。男女とも多種多様なのだから、自分に合った人に運よく巡りあい、結びつけばいいのである。

 基本は各男女の選択の自由。外部からの圧力は少ない方がいい。

 しかし、言論の自由のもと、男女関係のあり方について、いろいろ意見を言える社会でもありたい。ただ、一定の傾向の意見が多数になり、学校や地域社会、マスコミ、議会で優勢になると、それは社会的な圧力になる。多数派の意見をもとに学校の規則、法律や条令になることもある。さらに、宗教的な教え、戒律となると、規制はもっと厳しくなる。

 それは社会生活を不自由にする。だが、人間とは面倒なもので、「すべてあなたの自由」と言われると、どうしていいかわからなくなり、かえって生活が不便になり、精神状態が不安定になる。

 親のしつけや地域社会の慣習、学校の規律、法律、そして宗教の戒律によって自分の生活を律してもらった方が安心して生活できるところがある。大いにある。

 私が「女性の社会進出をこれ以上進む点については異論もある」と記したのは、従来の社会的な枠組みがさらに崩れ、自由化が進むと、男女ともに生活の不安が高まる懸念はないか、と思ったからだ。

 男女関係のナッシュ均衡の崩壊による社会生活の不安定の増加である。

 「そんなに女性を家庭に縛り付けたいのか」というが、今でも「子供が生まれ、中学を卒業する頃までは家庭にいたい」という女性の方が多いのではないだろうか。その女性たちを「家庭に縛り付けられて満足なのか」と社会的圧力をかけない方がいい。

 また、そうした家庭的な女性を望む男性も多く、そうした男性には「それでいいのではないですか」と声をかけてあげたい。それが「女性の社会進出をこれ以上進む点については異論もある」と書いた真意である。

 重ねて言えば、それでも働きたい女性はどしどし勤めればいいし、それを望む男性と結婚すればいいと思っている。

 また、結果として女性の社会進出が現在よりも格段に進んだとしても、自由な選択の結果、そうなったのなら、それでいいとも思っている。また、女性が社会進出しやすいように、保育所や子育て手当てなどの社会保障を充実させることも必要だと思っている。
 






Last updated  2015.03.07 16:20:56
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2015.03.03
カテゴリ:生活・人生


 3日付け日本経済新聞の「エコノ探偵団」は「欧米では中古住宅の価格がいつまでも低下せず、逆に上がる傾向が強いのに対し、日本の中古住宅価格は時とともに下降線をたどるのはなぜか」と追究している。

 答えはこうだ。

 <住み替えが頻繁な米国や欧州では『投資』という意識が強く、高く転売できるように購入後はメンテナンスするのが常識。これに対し、日本では建物はいずれ無価値になるという前提に立つため、メンテナンスはしない。だから実際に価値が下がるという悪循環に陥る>。

 <日本大学教授の中川雅之さん(53)(によると)、日本では中古住宅取引で建物の質を評価する慣行はなく、「売り手は家をメンテせず、買い手はコストをかけて質を調べない」ことで「均衡」している。双方が利益を最大化しようとした結果で、一方だけが行動を変えれば損をする。ゲーム理論の「ナッシュ均衡」という状態だ>


 この分析は面白い。同じような欧米(あるいは世界)と日本の対比で、話題に上るのが女性の活用だ。日本では企業でも役所でも女性の登用が欧米に比べ(世界全体で見ても)格段に少ない。

 このため人口減少、少子高齢化のもと、日本では女性の活用が叫ばれている。保守政権といわれる安倍政権も成長戦略と女性有権者の支持獲得のため、この対策に注力している。

 だが、なかなか進まない。企業や役所が女性を登用する以前に、東京大学や京都大学、早稲田、慶応など、いわゆる難関大学に入学する女子学生の比率が20-36%と低い。男女の能力差がほとんどないという前提に立てば、日本の有能な女性の多くは最初から難関大学を選ばない傾向があるようなのだ。


 なぜか。大きな原因(の1つ)は、住宅価格と同様の「ナッシュ均衡」にあるようだ。アゴラのブログ(「女性活用が進まない理由をデータで考える」)で村山聡氏が、興味深い観察をしている。

 <子供は、自分と同性の親をロールモデルとして見る傾向があります。父親が企業で働き、家庭の年収の大部分を稼ぎ、母親はパートで、家計を補助するという家族における役割分担が根強い現状では、高い専門知識を学べる難関大学に入り、企業で働き、成果を上げ管理職になりたいと考える女の子は少ないのではないでしょうか>

 もっとも、ここ20~30年間の男女平等思想の普及で、このナッシュ均衡は崩れつつある。

 村山氏も次のように、女性が活用されない風土の打破を勧める。

 <このような状況を打破する方法として、企業で働く父親が社会で働くことのやりがいや楽しさを自分の娘に積極的に教えてあげる必要があるのではないでしょうか?女のお子さんを持つお父さんこそが、女性活用を推進するキーマンかもしれません>

 エコノ探偵団でも中古住宅市場の活性化のカギとしてナッシュ均衡の変化を説く。

 <低水準の均衡から欧米型の「売り手はメンテし、買い手は質を調べる」という高水準の均衡に移るには双方が同時に行動を変える必要がある。……そうなれば日本でも質の高い住宅は資産価値が維持され、ライフステージに応じて住み替えしやすくなり、老後生活の安心にもつながる>

 だが、中古住宅市場の活性化は賛成できるが、女性の社会進出がこれ以上進む点については異論もある。それが拙ブログ「少子化と『男女平等』思想」のテーマだった。
女性を避ける、あるいは女性に無関心な「絶食系男性」がふえているという話で、反論、賛成、いろいろなコメントを受けた。

 私は女性の社会進出に反対ではない。能力のある女性は大いに活躍すべきだと思う。そうした女性と親しく接する男性が増えるのも望ましい。


 ただ、男性はどこかで「立てる」ことを望んでいるのもまた、確かである。妻子のために一生懸命働く男性を望む女性が多いのも確かである。欧米ではその点、どうなっているのか。少しは知っているが、さらに知見を広げたいな、と思っている。







Last updated  2015.03.03 18:23:45
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2015.02.24
カテゴリ:生活・人生
 前々回のブログ「少子化と『男女平等』思想」について、Merciさんから「平等でなくても良いですが、どうしていつも女性が我慢を強いられる方法しかないのですか?」というコメントをいただいた。

 
 これはブログで紹介した国内最高齢の現役助産師、坂本フジヱ氏(91)が「(昔は)女性が旦那を立てることで夫婦関係や家庭が円満に運んだ」という趣旨の発言をしたことを指しているのだろう。

 坂本さんの判断では、当時の女性は我慢を強いられていたわけではない。それは「旦那を立てていても、実際は自分が上位。そういう家庭が多かった」という言葉に表れている。


 現在でもそうだ。家庭の財布の中の8割は女性が実権を握っているといわれる。子供や自分の衣服はもとより亭主のカジュアルウエアも自分が見立て、家具・インテリア、家電製品もほとんどすべて自分の好みで選んでいる。

 消費財メーカーやサービス業もそれを前提に商品企画を進めている。賢い女性は夫を立てつつ、楽しく自由に自分好みの生活設計を立てている、と考えられるのだ。夫は別の形で妻を立てている、あるいは尊重しているとも言える。

 だが、それでも「男は社会へ出てうまくやっている。犠牲を強いられるのは女性ばかりだ」と思う女性がふえた。女性にも男性と同様の仕事をやらせるべきだし、地位もポストも与えるべきだ、と考える。

 そこで、有権者の声を尊重する民主政治のもと、男女平等の労働、経済政策が進んだ。女性の自由が増したという点では望ましい社会になったと思う。でも、坂本さんはそれで夫婦は幸せになったのだろうか、行き過ぎてはいないかと疑問を向けたのである。再録すると--。

 <男女雇用機会均等法ができて以降、家庭でも会社でも、女性と男性が同じような役割を果たすべきという考えが当たり前になりました。でも……(全く違う男女を)同じようにしたら歪みが出てくるんは当たり前です。セックスレスの夫婦は最近ほんとに多くて、深刻な問題やなぁと思うんですが、男と女がおんなじようになってきたら、セックスせん人が増えるんは分かる気もします>

 女性が我慢を強いられるくらいなら、結婚しない男女やセックスレス夫婦がふえてもいいではないか。それも一つの考え方である。

 女性が自由に仕事をし、なおかつ夫婦仲良くという社会が望ましい。だが、男という「性」は多くの場合、女性に「立てて」もらわないと、結婚欲や性欲が失われてしまうようなのだ。

 もちろん「妻が仕事に出てバリバリ働き、夫はアルバイト程度に仕事をしているほかは、もっぱら家事、育児を担っている。それで夫婦はうまく行っている」という例はある。典型的な草食系亭主と肉食系夫人のカップルであり、私の知人にも見当たる(ただ、その場合でも、どこかで妻が夫を立てていることが少なくないが)。

 夫婦百景、十人十色。二人の仲がうまく行っていて、子供も健やかに育っているのなら、他人がとやかく言う筋合いではない。どちらがどれだけ外で働き、どっちがどの程度家庭を担うかは二人の自由である。

 ただ、確率的に安定しやすいのは男性が肉食系、女性が草食系という関係なのではないか。むりやりその関係を逆転、ないし同じ(平等)にすると、居心地の悪さから絶食系がふえる。特に女性よりも男性の方で絶食化が進む。現在はそういった状況ではなかろうか。

 






Last updated  2015.02.25 02:11:08
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2015.02.21
カテゴリ:生活・人生
 前回の続きを書く。私が夫婦別姓に反対ないし慎重な理由は以前のブログで示したが、補足的に、ある助産師の発言を取り上げる。

 日経ビジネスオンラインが特別企画「遺言 日本の未来へ」の連載の中で、インタビューした国内最高齢の現役助産師、坂本フジヱ氏(91)の「遺言」である。

 坂本さんは約70年に渡り、赤ん坊を取り上げてきた。総計4000人。「遺言」のタイトルは「男と女が同じなら、そらセックスもせん

 核心の発言は以下の通り。

 <近頃は男女平等、平等って言いますけど、女は昔っから特権階級ですよ。神様が子供を産むということを女の人に与えているわけじゃないですか。日本の昔の女性が賢かったのは、自分が上位であるけどそれを表向きは隠していたことです。旦那を立てる。でも実際は自分が上位。そういう家庭が、多くあったんですよ>

 <でもそれがいつの間にか、仕事の面で「女性が抑圧されている」って世の中がなりました。それで安倍首相なんかもいろんな政策をやっとるんでしょうけど「女性が安心して働けるように」っていう感じのものが多い。でもそれは自己中心主義の気持ちを、助長させるような政策に思えるんです>

 <男女雇用機会均等法ができて以降、家庭でも会社でも、女性と男性が同じような役割を果たすべきという考えが当たり前になりました。でも私はこれには断固反対です。男性と女性は本来、全く違うんです。同じようにしたら歪みが出てくるんは当たり前です。セックスレスの夫婦は最近ほんとに多くて、深刻な問題やなぁと思うんですが、男と女がおんなじようになってきたら、セックスせん人が増えるんは分かる気もします>


 以前(2013年11月15日付け)で「絶食系男子が増殖している!」というブログを書いた。結婚願望の女性から聞いた話で、草食系男子は「女性との交際に興味があるが、自分からは誘わずに女性のアプローチを待つ受身型」。これに対して、絶食系男子は「そもそも女性との交際に興味がなく、女性からのアプローチにも反応しない男性」を指すのだという。

 これでは女性が結婚したくて接近しても打つ手がない、とくだんの独身女子は嘆くのだ。確かに周辺を見渡しても絶食系がふえているように感じられる。彼らは同性愛者でもない。

 では、なぜ、絶食系がふえたのか。原因はそのブログでいろいろ推測したが、大きな要因の1つとして、坂本説があると思うのだ。すなわち「男と女が同じなら、そらセックスもせん」である。

 女性に積極的に迫って「オレについて来い」という、生まれながらの「肉食系男子」は実はそれほど多くない。全体の1~2割ではなかろうか。残りの8~9割は「一人前の家庭を持てる男子になれよ」という子供の時からの両親のしつけや立ち居振る舞いの指導、それを支える地域社会の文化的な要請、習慣によって徐々に肉食系男子になって行くのである。消極的な男子でも受身型の草食系にはなり、絶食系はほとんどいない。社会がそうさせないからだ。

 加えて思春期、結婚適齢期に入ってからは女性の態度が男子を肉食系に変えた。坂本さんのいうように「女性は自分が上位であっても表向きはそれを隠し、旦那を立てる」からだ。


 女性が男子を一人前の男性に変えてきたのである。「あなたと一緒になりたい。私はあなた次第、私を守ってね」と言われることで、若い青年は自分の中の「(肉食系)男性」を意識する。

 「そうか、自分を頼り、自分に身を委ねる女性がここにいるのだ。よし、彼女と添い遂げ、彼女を守って生きよう」と決意する。

 8~9割の若い男性は女性に「立てられる」までは、一人前の男性としての力量があるのかどうか、本当のところ自信はないのだ。女性(もちろん親しみを感じている女性ではある)に頼られることで、自信をつけ、信頼に答えるべく努力し、結果として一人前の男性に成長するのである。

 子供が生れればなおのこと。「この子を養ってね」と妻に言われることで、さらに家族のために一生懸命働く。親も先輩も学校の先生も、地域社会、会社の上司がみな、そうした「男性」に成長するよう促した。相手がいなければ、あちこちから見合いの写真を持って、結婚を促してきた。

 だが、今はどうだ。坂本さんの語るように、男女雇用機会均等法ができて、家庭でも会社でも、女性と男性が同じような役割を果たすのが当たり前という考えになってきた。

 女が男を立てるなど、男女平等に反する。雇用機会均等法の精神に反するという空気である。それが悪いと言うのではない。対等、平等では男は自信を持って女性に接近できない。

 「男のくせにだらしがない」というなかれ。大方の若い男性は昔からそうなのである。昔も「男を立てる」習慣があったから、(肉食系)男性に変貌することができていたのだ。

 女性の多くもそうした「男を立てる」男女関係の中で安定した人生を見い出していた。

 その文化と習慣が男女平等、雇用機会均等法の浸透で徐々に破壊されてきた。男女別姓はその破壊をさらに推し進める働きをするだろう。

 少子化の原因は保育所の整備、働く女性の労働環境の遅れにあるといわれる。それは一面の真実ではあるが、「男を立てる」文化、習慣の衰えも大きな原因だと思えるのだ。

 「男を立てる」文化に長く不満を覚え、不自由を感じてきた女性、それに同調する男性がいることはわかる。「夫婦同姓」「夫婦別姓」のどちらを選ぶか、選択の自由を与えるのが自由と民主主義の望ましい社会だ、という考え方もわかる。

 だが、それが安定した家庭環境を損ない、絶食系男子をふやし、少子化を促し、人々がバラバラになる社会不安を助長しないかという不安が、私にはある。助産師の坂本さんは言う。

 <「子供がいたら子供に邪魔されて、自分の人生が面白くない」という今の考え。これが一番の大きな問題なんですよ>

 <最近は離婚も増えているといいますね。私はこれも、自己中心的な考えの結果やと思うんです。人のために我慢することができなくなっている。若い夫婦で親の干渉がないように、関係をほぼ切っているような人も多いですね。こういう人は学はあるのかもしれんけど、それは見せかけの賢さや。子供のために自分はどうしたらいいか、ってことを考えられないんや>

 <若い人に言うことがあるとしたら「夫婦仲良く」。それが全ての基本ですよ。そうでなかったら、そもそも子供も生まれないわけですからね。生まれても、仲良くなければ子供に影響がでる。お母さんが旦那を馬鹿にしていれば、子供だって父親をないがしろにしますよ。人生は計画通りになんて行きません。自分中心じゃなしに、周りにいる人と互いに思いやって生きることですよ>

 <努力の努は「女のマタの力」と書きますけど、子宮の力は国の礎ですよ。子供が生まれんかったら国は亡びるんですから、いわば最後の砦です。そういう女の股の力がね、全部なくならん間に何とかしてほしいなと思う気持ちがやっぱり私にはあるんです>

 4000人の赤子を取り出した91歳の助産師の言葉には含蓄と重みがある。






Last updated  2015.02.23 19:49:29
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2015.02.11
カテゴリ:生活・人生
 伊東乾氏がJBプレスで「『イスラム国へ行った人は自己責任』に潜む大問題」と題し、過激派テロ集団「イスラム国」によって殺害された後藤健二氏の行動を「自己責任だ」と指摘する見方を批判している。

 <渡航は危ない、と指摘されながら、それでもあえて出て行く人の決意や勇気は、チキンハートで尻込みしたような連中が「ジコセキニン」とか寝言を言うようなものではないということ。
 ただただ頭が下がるの一語に尽きるものであること>


なぜか。伊東氏は書いている。


 <身の危険を顧みず、戦闘地域に入って取材する従軍記者、カメラマンなどの職業があります。彼らは自己の判断においてそうした仕事に就き、私たちが行くことのできない危険な地域の1次情報をもたらしてくれます。
 それらの情報は、様々な判断を下すうえで時に決定的な意味を持ちます。情報であれば報道ですが、諜報であればスパイ、捕まれば命はありません。
 そういう仕事は「自己責任」で行われるものなのでしょうか?>

 一方で、元新聞記者の杉浦正章氏はブログでこう書いている。

<銃を乱発する立てこもり事件で張られた規制線を突破して、記者やカメラマンが取材活動をしようとすれば「取材の自由」などと言っていられない。警官は当然制止する>

 その制止を振り切って取材しようという人間は、救出されなかったとしても「それは自己責任でしょう」と言われても仕方がない、というわけだ。

 私は杉浦氏の意見に同調する。もちろん政府が「自己責任だ」と言って、拉致被害者を救出しなくても良いといっているのではない。政府の救出努力は当然の責務である。


 だが、最大限努力しも救出できないことがある。それはあきらめてもらうしかない。危険地帯と思われていない地域に観光旅行した日本人が強盗団や過激派に拉致され、救出できなかった場合でもそうである。まして後藤氏のように「危険地域だから渡航しないように」と外務省から再三警告されていた人間ならば、なおのことだ。その際、使われるのが「だから、危ないと言ったでしょ。自己責任です」という言葉なのだ。

 多くの日本国民はそういう意味で「自己責任」を使っていると思う。

 私も後藤健二氏の行動が無責任だとは思っていない。記者として中東の戦闘地域で何が起こっているのか、重要な情報をつかみたいという姿勢は評価している。

 後藤氏は先に「イスラム国」の拘束されて殺害された湯川遙菜氏を救出する目的もあって渡航したといわれる。その意思も立派である。ただ、それは実現の可能性との比較において、という条件がつく。できもしないのに自身の力量を過信して危険地帯に飛び込んで行けば、不注意と言われても仕方がない。

 後藤氏自身、以上の問題を自覚した行動していたようだ。「これからイスラム国の支配地域に入ろうと思う。全ての責任は自分にある」と潔いビデオメッセージを知人に託している。覚悟の上での行動は胸に響くものがある。

 後藤氏の夫人は後藤氏の死後、「大きな喪失感の中で、紛争地域の人々の窮状をリポートした夫に今でも大変な誇りを持ち続けています」と発言している。

 心から哀悼の意を表したい。

 国民が拉致されたり、様々な遭難事故にあえば、政府がその救出に全力を尽くすのは当然であり、大半の国民はそれを支持している。だが、救出には多大の労力と資金(税金)を要する。それらを医療、介護、生活保護、震災地の支援に回せば、多くの国民を助ける。

 だからこそ、政府、というよりも他の国民に迷惑をかけないよう、外国に出かけたり、冬山や海など危険な地域に足を踏み入れる場合、注意深い行動をとらねばならない。自己責任で行動せよとは健全な戒めの言葉なのである。
 






Last updated  2015.02.11 11:08:02
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2015.01.08
カテゴリ:生活・人生
日経ビジネスオンラインが「戦後のリーダーたちが未来に託す『遺言』」を連載しており、1月6日は登山家の三浦雄一郎氏(82)にインタビューした。三浦氏の「遺言」は「人間は150歳まで生きられる」だ。

 
「人生80年」の倍近いが、根拠はこうだ。

<(高山では)20歳の登山家が、90歳くらいになったように感じると言われているんです。酸素は地上の3分の1くらいしかありませんから、どうしてもパフォーマンスが出ないんですね。20歳の若者が70歳加齢されるんだから、僕が80歳でエベレストに登ると、体感年齢は150歳くらいということでしょう。……逆に言うと、人間は150歳くらいまで生きられるのかなと思うんです>


  相当に荒っぽい理屈で、冗談半分に近い。しかし、三浦氏が言いたいのは「要するに、病気であっても、けがをしても、いくつになっても諦めるなということです。可能性はいくつも開けるんだ」ということである。

 
 <みんな80歳を過ぎると、病気をしたりけがをしたりすると、すぐ「あ、俺はもうだめだ」って諦めるんです。
 僕だって(病気や怪我で)再起不能だと言われる困難に直面したことは何度もあったけど、エベレストに登ろうという目標があったから頑張れた>

 <「エベレストの山頂に立ちたい、立ったらすごいだろうな」と強く思う。そうすると、その過程で何をしなきゃいけないかが見えてくるわけです。けがしたら治さなきゃいけないし、心臓がだめだったら手術してリハビリをする。あるいは、登り方を、今までと全然違う方法に変えてみるとか、それなりの工夫をする>

 具体例はこうだ。


 <僕は今だって心臓の冠動脈の65%が詰まっているんです。専門医の先生は「手術しなきゃ心臓が詰まって死ぬから、絶対にエベレスト登頂は許可しない」と言っていました。

 でも65%が詰まっているということは、35%が通っているんだから、それでいこうと考えたんですね。そのうえで、血液をさらさらにする薬を処方してもらいました。つまり、できる方法を探ればあるわけです>

 コップに水が半分入っているときに、悲観論者は「もう半分しかない」と考えるが、楽観論者は「まだ半分(も)ある」と考える。

 三浦氏は後者の典型。半分どころか、35%の冠動脈が動いているなら、それを活用しようと貪欲である。ただがむしゃらにがんばるのではない。35%を生かすために血液をさらさらにする薬を探す。与えられた条件の中で最善を尽くすわけだ。

 <まずは85歳でヒマラヤをスキー滑降すること。これに向けて挑戦していきたいですね>

 前向きに行動し、毎日ピンピンして充実した時をすごし、150歳とは行かないまでも、ある時、コロリと死ぬ。ピンピンコロリの生き方がそこにある。

 そのためには三浦氏のように、何歳になってもやってみたい目標を持ち、それに向かって行動することが大切なようだ。






Last updated  2015.01.08 16:47:05
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2014.12.21
カテゴリ:生活・人生
このところ、大学の同期会やサークルのOB会、退社した新聞社の親しかった仲間の会合に出席することがふえた。

 顔ぶれは60代後半から70代前半の前期高齢者だ。出席する人間がそうなのかも知れないが、皆、何かに取り組んでいる。

 Aは学校時代にグリークラブに入っていたので、今5つもの合唱団に属して毎週3、4日はその練習に明け暮れている。高校時代のOB合唱会、大学時代のOB会、退職した会社のOB合唱団、地元のサークルやネットで知り合った声楽好きとの交流。当初、男性合唱団だったのが、初老女性の合唱団に声をかけ、混声合唱団になった場合もある。各サークルとも1年に1度か2度、リサイタルを開いており、「それをめざして練習するので忙しくて仕方がない」と笑う。

 Bは会社時代の仕事を生かし、大学で非常勤講師をしたり、子供時代から好きだった昆虫採集を再開している。地元の子ども会に頼まれて、週末、子供と一緒に近くの野山に出かけ、昆虫観察や採集方法を教える日々だ。

 野鳥撮影を始めた者もいる。鳥ごと、場所ごとに観察のベストシーズンを調べて北海道から沖縄まで、一年中、歩いている。撮影は玄人はだしで、同期会に持参した分厚い写真集は見事な出来だった。

 このほか、小さな畑で野菜や花を育てている者、囲碁やゴルフ、絵画、そば打ち、魚釣り、山歩き、海外旅行に精を出す者、郷土の歴史を調べて本にしたり、その資料を集めて展示会を開く者もいる。

 もちろん医者や弁護士、科学書・論文類の翻訳家、経営コンサルタントとして、今も現役として働いている者も少なくない。過労から体を壊してしまって入院したと連絡が入る場合さえ、しばしばある。見舞いに行き「貯金も年金もあるのだから、健康を考えて仕事を半分以下に減らしたら」と忠告しても、その場では神妙に頷きながら、退院して3ヶ月もたつと、元の忙しさに戻っている。

 もとより、老親や妻の介護でに時間を割いている者も少なくない。

 定年退職してやることがなく、暇を持て余しているという人間は皆無に近い。私が30~40代のころ、会社一筋、仕事以外は無趣味で、地元の活動にも疎遠な人間は退社した後、無聊をかこち、家族から「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」だと嫌われる、と言われていた。

 だから、「退職前から趣味を持ったり、地元への人脈づくりをしておけ」などと評論家が盛んにテレビで発言、雑誌などでもそうした警告が目立った。

 だが、現実はどうか。周囲を見渡す限り、そんな人間はほとんど見られない。皆、何かやっている。「濡れ落ち葉」「粗大ゴミ」はもはや死語ではないか。

 「粗大ゴミになるぞ」という警告が利きすぎて、脅迫観念、不安にかられて取り組んだのか?

 そういう面もある。しかし、大体は自然に、今の道に入ったという者が多い。現役時代に仕事人間だった者は、退職後も何かをやってないといられない、やっていたい、ということなのではないか。

 そういう人間が日本人には多いのだ。70歳前後ともなれば、持病のない人間は皆無に近く、OB会では病気の話で持ちきりになるが、それでも基本的に元気である。何かやっているから元気なのか、元気だから何かやっているのか。ニワトリとタマゴの関係だろう。

 結果として病気が減り、若い世代への負担が少なくなる。また「直前まで元気で、アッと言う間に死ぬ」というピンピンコロリ型の、望ましい形で最後を迎える者がふえる。

 もちろん、事はそううまく行かず、寝たきりになったり、認知症になったりする例は多い。だが、少なくとも元気に活動している方がピンピンコロリで逝きやすいのではないだろうか。彼らの多くはそれを願っている。私もその一人である。






Last updated  2014.12.22 04:43:07
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