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鎌倉橋残日録  ~井本省吾のOB記者日誌~

鎌倉橋残日録 ~井本省吾のOB記者日誌~

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日本・日本人

2016.10.27
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カテゴリ:日本・日本人

来日したドゥテルテ氏に見られるのは、政治家あるいはリーダーとしての決断力、行動力である。「アメリカはフィリピンを長く植民地とし、フィリピン人を抑圧し、虐殺もした。その米国大統領に麻薬犯の取り締まりが人権蹂躙などと言われたくない」「植民地化、侵略という過去の歴史を考えたら、上から目線でえらそうに言える身分か」。

言いたい放題で、オバマ大統領と米国政府を批判する。正直、胸のすく思いだ。憧れさえ抱く。日本もアメリカには国際法違反の東京など大都市への大空襲や広島、長崎の原爆投下を実施された。占領下では言論・報道の自由が著しく制限され、教育改革や憲法改正でも国際法違反の押し付け政治をさんざんやられた。

だが、日本のマスコミは今、私が書いた程度のことも言えない。米国はどう思うか。つねにそう考え自己規制して羊のように判断し、行動しているのが日本のメディアであり、政府である。そこがドゥテルテ氏との大きな違いである。

ドゥテルテ氏は中国の習近兵国家主席との会談では中国との協調、友好を強調しつつ、2兆5000億円の経済協力金を引き出すことに成功した。
一方で、安倍首相との会談では「両国の友情とパートナーシップの強化」を強調、習近平国家主席との会談では直接の言及を避けた仲裁判決について、「同判決の範囲外の立場を取ることはできない」と拘束力を持つとの立場を強調した。

米国に対しても、経済的、軍事的協力を否定するような大胆な話をする一方で、「米国との外交関係を断ち切るわけではない」とも語る。

要するに、フィリピンにとって必要なものは中国からも日本からも、米国からも頂く、「第一に掲げるのはフィリピンの国益だ」という点でドゥテルテ氏の行動は一貫している。その範囲内で相手が嫌がることでも「言いたいことは自由に言わせてもらう」という姿勢である。それをフィリピン人は高く評価し、同氏は圧倒的な支持を得ている。


日本でドゥテルテ氏に近い行動力を示せたのは石原慎太郎氏、あるいは、石原氏が「天才」として再評価する田中角栄・元首相だろう。角栄氏は様々な問題を解決する器量と決断力を示すことができた。

しかし、米国はその「天才」をもロッキード事件で社会的に葬り去る力を持つ。それを知っているからこそ、角栄氏ほどの実力のない日本の政治家は思いきった行動に出れない。

怖いのは米国だけではない。日本の野党であり、何よりも世論、有権者である。法的には稼働してなんら問題のない原子力発電所を動かせないのは一例だ。国民が「怖い、不安」と恐れる原発は原子力規制委員会のお墨付きがないと、動かさない。2011年の東日本大震災以来、停止している原発のムダなコストは10兆円をはるかに超えている。それがあれば消費税率を引き上げなくてやれたという規模だ。

支持率の高い安倍首相は、野党や世論の反発の強い集団的自衛権の行使容認には動いたが、それは米国の推奨していることであり、それ以上には動いていない。

好例は憲法改正だ。自民党や日本維新の会などいわゆる「改憲勢力」が衆参両院で発議に必要な3分の2 を超えたにもかかわらず、憲法論議が一向に前に進まない。

安倍首相は世論の反発で、支持率が下がることを恐れ、「各党間の自由闊達な議論をしてもらいたい」「国民からも憲法 改正を理解してもらえるよう進めてほしい」と求めるだけで、それ以上の行動には出ない。極めて慎重だ。

山田吉彦・東海大学教授は尖閣諸島への中国侵略に対抗するには今すぐにでも、尖閣に海洋開発、環境保護の責任者を送り込んで、尖閣諸島を日本主導の国際的な海洋開発の拠点にすることが大切だと説く。結果として尖閣諸島を領土として確保する有効な政策になるとして、安倍首相に一歩踏み込んだ行動を期待している。
だが、そんな動きも今はない。「今そこにある危機」に対して極めて不活発な動きしか示せないのが、日本の政治である。

フィリピンでは麻薬被害が深刻で、麻薬犯をその場で殺害するような超法規的な警備をしなければ治安が保てないという厳しい状況にある。平和な日本とは決定的に異なる。だから、ドゥテルテ氏は思いきった行動がとれる。是非は別にして、日本はフィリピンよりも政治的に成熟し、安定した国家だから、思いきったことはできないとも言える。

だが、それにしても、ドゥテルテ氏ならば、日本でもっと思いきった判断と行動をしているのではないか。それはリスクを伴う。下手をすれば、米国の離反と中国の支配を招く危険と隣り合わせの外交をドゥテルテ氏は進めている。

が、それを「うまくやる」自信と意欲が、ドゥテルテ氏にはある。そう感じさせる昨今だ。リスクは最小限にしなければならない。だが、ある程度のリスクを覚悟しなければ、米国の軍事外交力が低下し、「Gゼロ」と言われる現在の国際社会を乗り切れない。

今一歩、踏み込んだ政治外交を、安倍首相に望みたい。






Last updated  2016.10.31 22:21:26
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2016.08.30
カテゴリ:日本・日本人

日本経済新聞社の26~28日の世論調査で、内閣支持率が62%と今月9~11日の調査より4ポイント上昇した。60%台に乗せたのは2014年9月の内閣改造直後の調査以来。不支持率は5ポイント低下の27%だった。

日経は「安倍晋三首相が閉会式に出席したリオデジャネイロ五輪が盛り上がり、4年後の東京五輪への期待が政権の追い風になった可能性がある」と分析している。

だが、もっと大きな背景は「中国の相次ぐ領海侵入に対する国民の不安の強まり」と見るべきだ。そこから集団的自衛権を重視し安保体制に配慮する安倍首相への期待と依存度が強まっていると見るのが妥当だろう。

国民は、中国と戦争状態になることを望んではいない。だが、中国公船が毎日のように尖閣領域に侵入してキナ臭い状態が続き、東シナ海で中国と自衛隊が偶発的な戦闘状態に入る可能性が高まっていることを不安視している。

産経を除くと、日経を含め大手メディアはそのことへの配慮が不足し、そうした紙面を作っていない。「あまり中国を挑発するような紙面構成は望ましくない。冷静さが大切だ」と慎重かつ地味な紙面作りに腐心している。

だが、既に読者はその先を行っていると見るべきだろう。中国政府と中国軍がそうした行動をとっているからだ。

ネット上では「中国との交戦必至」「そうなる習近平政権や中国政府の事情」「もし戦闘となったら」といった記事やブログが増加しており(かくいう当ブログもその一つだが)、大手メディアよりもそちらに目をやる読者が増えているということだ。言い換えれば、大手メディアは読者のニーズに対応していない。

それはともかく、日経調査では、(日中戦争を望んでいない)読者が最近の中国の行動に腹を立てている。(日本政府は)中国に「もっと強い姿勢で臨むべきだ」が55%に上り、「もっと対話を重視すべきだ」(33%)を大きく上回った。

「強い姿勢で臨むべきだ」は内閣支持層で62%、自民党支持層も63%。さすがに民進党支持層や公明党支持層は「もっと対話を重視すべきだ」の方が多いが、無党派層では「もっと強い姿勢で」が47%で「対話重視」の40%を上回っている。

あまり国民がナショナリスティックになって戦闘姿勢が強まるのは望ましいことではないが、政府の「対中友好、協調姿勢」と国民の間にミゾ、温度差が広がっているのは確かなようだ。

それは日韓関係にも表れる。日本側が求めるソウルの日本大使館前に置かれた慰安婦を象徴する少女像の移転について、韓国は昨年末の慰安婦合意で「解決への努力」を約束したが、具体的な動きはみられない。それなのに日本は関係改善を促すため、元慰安婦を支援する韓国の財団に10億円を出すことを決めた。

少女像移転が進まない中での資金拠出に「反対」が49%と「賛成」の37%を上回った。内閣支持層、自民党支持層とも「反対」が52%と過半数を占め、無党派層も「反対」48%、「賛成」30%と批判的な見方が多い。

日本政府は先ごろ、緊急時に韓国に通貨を融通する通貨交換協定の再開に向けた協議の開始でも合意した。

韓国は李明博・前大統領時代に「日本に通貨を融通してもらう必要はない」と突っぱねた経緯があり、日本の財務省や金融関係者の心象が悪化。「通貨の融通などしてあげる必要はない」との声が日本側関係者の間に強まっていた。

簡単に再開してあげるのだとすれば、なんともお人好し。「だから、韓国は日本を甘くみて、舐めてかかるのだ」という不満の声が広がっている。

中国は9月上旬に中国・杭州で開く20カ国・地域(G20)首脳会議を開く経緯もあり、最近の対日侵略は下火になっている。

だが、それは一時的と見るべきだろう。日本の軍事的な防衛姿勢にスキが出れば、今後もすかさず侵略行為を始めるに違いない。

それへの対応を怠らず、軍事的な対応力を着実に拡充していかねばならない。韓国にも甘い姿勢は見せない。

今回の日経調査はそうした国民の意識を反映している。その意味では日経のアンケート調査は質問は今までよりも踏み込んだ良い内容になっていると評価する。






Last updated  2016.08.31 19:01:33
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2016.06.05
カテゴリ:日本・日本人
唐・天竺に始まって中国、欧米と外に「真の世界」があり、「日本は常に劣っている、海外に学ばなければならない」とする伝統的な弱い価値観がいかに、日本を蝕んできたか。

西尾幹二氏が月刊「Hanada」7月号に掲載した論文「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」を読むと、その感を深くする。大事な問題だと思うので、しつこいようだが、もう1回付き合ってもらいたい。

2002年、当時の小泉首相の北朝鮮訪問により蓮池さんなどの拉致被害者が日本に帰国した。覚えている人もいると多いと思うが、それを再び北朝鮮に戻すかどうかについて、朝日、毎日などリベラル系メディアが読者の投稿欄を駆使して、なんと「(拉致被害者が)日本と北朝鮮の間を自由に行き来できるようにすべきだ」という論陣を張った。

核武装を展開する一党独裁、専制主義今の北朝鮮を思えば、なんともおかしな論考、キャンペーンだと思うが、当時の彼らはそうは考えなかったし、多くの国民もそれを許していた(イヤ、今でも心から反省しているとは思えないフシがある)。

「両国を自由に往来できるようにして、子供と将来について相談できる環境をつくるのが大切ではないでしょうか。子供たちに逆拉致のような苦しみとならぬよう最大限の配慮が約束されて、初めて心から帰国が喜べると思うのですが」。

当時の朝日新聞に載った典型的な世間知らずのエエカッコシー読者の投稿である。逆拉致!? 今ではとても信じられないが、そういう読者が存在し、それを価値ある考え方として各メディアが採用したのである。

北朝鮮への大いなる幻想――。その数年前まで「地上の楽園」という北朝鮮の宣伝を信じ、現地に招かれた記者が向こうの言う事を少しも疑わずに偏った情報を垂れ流していたのだから、当然かも知れない。当時は北朝鮮と仲良くし、貧しい彼らに戦前の植民地化を贖罪する意味もあって巨額の経済援助をすべきだ、と考えていた(彼らには今も根強い発想である)。

「拉致をしたのは悪いが、戦前の日本の朝鮮半島での植民地化はその何十倍も悪かった」という論法を保持していた。今もそれを改めない論者も少なくない。

全体主義国家の北朝鮮との間で、「拉致された日本人の子供たちが自由に往来できる!」などということがありうる、と当時の朝日や毎日は考えていたのである。全体主義国家の恐ろしさを理解していないのだ(しつこいようだが、今もその考え方から完全には抜けきっていない)。

そもそも多数の日本人を拉致したのは北朝鮮である。その日本人を全員、有無を言わずに返還するのが当然なのである。

ところが、当時の朝日や毎日、それに連なる評論家はそう考えない。それどころか、当時の北朝鮮との外交交渉を担当していた田中均氏など外務省の高官は日本に一時帰国していたた蓮池さんら5人の拉致被害者について北朝鮮に戻すべきだ、と主張していた。「いったん戻すのは北朝鮮との約束だから」というのである。

そういう信頼の置けない日本の外交当局をにらんで、拉致被害者も帰国後、すぐに北朝鮮に戻る素振りを見せていた。安倍官房副長官はじめ当時の政治家たちの強い意志で、日本政府が永住帰国を決めたことがはっきりした後、ようやく5人は「北には戻りたくない」「日本で家族と会いたい」と言い出す。

それほど外務省高官やメディアなど日本政府の姿勢は危なっかしく、日本人の拉致被害者よりも北との交渉を優先していたのだ。北朝鮮との交渉で成果を挙げたいとする外務省の省益が国民の拉致をなくすべきだという国益より優先していた、とさえ言いうる。

外国は「日本より自由で民主的だ、それに比べれば、日本は劣っていることが多い」。それが今に続くマスコミの論調だった。「韓国や北朝鮮、中国が日本の過去の歴史について怒っているのなら、その怒りが解けないうちはずっと向こうの要求を受け入れるべきだ」という空気が強かった。

その空気がようやくここ数年、変わってきた。北朝鮮の拉致や核実験、ミサイル打ち上げがはっきりし、尖閣諸島や南シナ海で中国の軍事攻勢が強まり、かつ韓国がうんざりするほどいつまでも慰安婦問題を批判する反日国家であることが明確となったからである。

大手メディアの北朝鮮びいきが収まったのも、これを背景にしている。

唖然とするではないか。それほど日本の外交は弱く、屈辱的だった。社会主義・共産主義国家を信じ続けていた。その責任を覆い隠す意味もあって、今も日本人を卑下する歴史観や価値観を引きずっている。

「日本は戦前悪い国だった、その清算をしなければいけない」という汚染された歴史観が日本人の骨髄に沁みこみ、そこから逃れられない。

北朝鮮や中国、そして韓国も、日本よりもはるかに自由と民主主義が制限されている。戦後、日本に言論の自由を許さなかったGHQを保有した米国よりも日本の方が自由である。

それが今もわからない。例えば、ベルリンの壁が崩壊し、社会主義・共産主義の旗色が悪化した1990年1月に、典型的な左翼・リベラル評論家である加藤周一氏は朝日にこう書いた。

「政治的に政権交代の制度化において……欧米が先行し、ソ連・東欧・中国・日本がはるかに後れていた。……1990年1月現在の日中両国には、一党支配が続いている」

日本は自民党の一党支配が続いていたからである。これに即、反論できる人は今でもそれほど多くないかも知れない。
業を煮やした西尾氏は「新潮4」1990年3月号にこう書いて、加藤氏を批判した。

「日本と中国の『一党支配』が原理を異にする、別次元の性格のものであり、「ソ連・東欧・中国・日本」と並べるわけにはいかないことは、加藤氏よ、13歳の中学生でも弁えている現実である」

だが、中学生にそうした教育をして来なかった日本の学校教育に問題があるのだ。自由や民主主義、経済の豊かさについて日本人が居丈高になる必要はない。今も不十分な点は少なくない。だが、多くの先進国の中でも、トップクラスの位置にいることはデータも示して、自信を持って教えるべきだろう。

でないと、時代錯誤のメディアがいつまでも残ってしまう。






Last updated  2016.06.08 12:57:05
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2016.06.04
カテゴリ:日本・日本人
前回のブログで紹介した西尾幹二氏が月刊「Hanada」7月号に掲載した論文「オバマ広島訪問と『人類』の欺瞞」(雑誌のタイトルは「オバマ広島訪問と拉致問題」だが、原題はこちら)にこうある。

<広島の原爆碑に書かれた「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」は案外に根の深い問題なのです。「繰り返させませぬから」でなくてはならない、と時間がたつにつれ、次第に気が付く人が増えて、主語が誰なのかが大騒ぎになりました。>

<広島市は昭和五十八年に、主語は人類であって「全人類が悲しみに堪え憎しみを乗り越えて」の意味であるとわざわざパネルを張って、数ヶ国語で掲示しました。いかにも苦しい弁解、言い逃れに見えますが、多分、半分は本音だったのでしょう>

これは鋭い指摘である。私も半分は「人類でいい」と思って来た。日本人はいつまでも憎しみを抱いて生活することが苦手であり、「良くない」と思っている。

どんなひどい相手に対してもどこかで「水に流す」ことが潔い態度だ、というのが日本人の美学だ。「恩讐の彼方に」自分を置いて和解するのが尊い態度だと思っている。

戦争末期に60万人の日本人を拉致し、シベリアで酷使し6万人を死に追いやったソ連に対しても、未だに拉致被害者を帰そうとしない北朝鮮に対しても、どこかで「許して」いる。そんな甘い態度が見られるのも、上記の日本人の姿勢に問題がある。

誰が原爆を落としたなどという詮索は止め、「人類」の立場に立って「過ちを繰り返しませぬから」というのが立派な姿勢だ――。

この辺の日本人の心の動きを、西尾氏は実に的確に、かつその奥にある弱点とずるさをつかんでいる。

<遙か遠い外の世界で自分を救済するために人類を「真の世界」に設定するという日本人本来の伝統に従うスタイルで、自分を誤魔化す自己欺瞞に走ったのではないか>

なぜ、そういう自己欺瞞をするのか。1つは米国への「恐怖」があるからである。それは戦後70年たった今も消えていない。

自由と民主主義の先端にいるはずのアメリカはいざとなったら、平然と残忍なことを実行する。その「記憶」が恐怖の原点である。東京大空襲や原爆投下は典型例だが、ベトナム戦争や中東での軍事行為にも冷酷な行動が散見される。自らの帝国主義遂行のためには、なんでもやるという怖さがアメリカにはある。

「そうしてもいいのだ。いや、そうすべきなのだ。我々には『マニフェスト・デスティニー=明白なる使命』がある」と思い込んでいる。

加えて、現在、日本は軍事的に米国に依存している。アメリカが日本を見捨てたら、どうなるか。昨今、トランプ大統領候補の「日本からの撤退」発言が話題になったのも、その恐れを多くの日本人が抱いているからである。

「アメリカを怒らせてはいけない」。その思いが「過ちは繰り返しませぬから」という、米国に責任がないか、のような原爆碑を産み出した。そこを突かれると、「人類全体の責任だ」という逃げを打ったのだ、と西尾氏は見る。


<「恐怖」を逃げるために日本対アメリカの対立構図を避けて、日本とアメリカの両方を越える「人類」という概念に救いが求められる。そして、オバマ大統領も私が予想した通り「人類」の語を使った。>

「人類」なら日本人は認めるし、米国人に対しても「直接、日本人に謝罪したわけではない」と言い訳できる。それでいて、「核兵器廃絶」というノーベル平和賞を確保した自身の主張にも沿っており、レームダック化しつつあるオバマ大統領にとって都合がいい。オバマ大統領の広島訪問が実現したゆえんであろう。

直接の謝罪はなかったのに、オバマ広島訪問に対する日本人の評価が高いのは次のような気持ちだろう。

「これまでは一人も広島に来なかったのにオバマはやってきた。それに『人類』の言葉に頼りつつも、核兵器の使用は極力、やめるべきだと演説で何度も言っている。間接的ながら、広島、長崎への原爆投下は避けるべきだったと述べている。今はそれで十分ではないか」

「水に流す」ことを重視する私もほぼ同意する。だが、どこかにひっかりはあった。
西尾氏はそのひっかかり、モヤモヤを鋭く指摘する。「原爆投下や東京大空襲で家族を殺された遺族の気持ちはそれほど簡単ではないのではないか」と。西尾氏の叔母や従姉もそうだったのだ。

<「人類」の名において大統領が祈るのに合わせて、われわれ被害国も恩讐の彼方に自分を高めよう、と新聞・テレビが一斉に叫ぶたびに、私は静かに首を横に振ります。叔母や従姉がそいういった白々しい大義で七十年を生きたとは、到底思えないからです>

この感慨は胸に響く。アメリカは日本に原爆を投下し、大空襲を仕掛け(いずれも国際法違反)、真珠湾の復讐を何十倍返しで日本に果たした。その上で「人類」の名において核兵器廃絶を唱えているにすぎない。きれい事なのだ。
そういう冷厳な国際社会の軍事外交を見ることを「はしたない」と考えてしまう日本人は(私も含めて)、やはり単純としか云い様がない。
 






Last updated  2016.06.04 15:15:29
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2016.06.02
カテゴリ:日本・日本人
日下公人氏が雑誌「WiLL」7月号のコラム「繁栄のヒント」にこう書いている。

<2016年を迎えたとき「日本の安部(首相)は間もなく世界の安部になる」と考えた。つづいて、そう考える人が少ないのはなぜだろう、と考えた。>

理由として、日下氏は「日本は世界をリードする先進国にはなれない」とする牢固とした「常識」が災いしていると見る。

世界で独走するのは先進国で、独創力は「白人国が持っている」「キリスト教国に限る」「民主主義国に限る」「自由主義国に限る」「高度工業国に限る」「軍事大国に限る」と考えてこの条件がない国は永久に後進国だと思ってきた、からというわけである。

だが、本来、先進国はフォロワーが決めるのであって、多くの国が後に続くとき、その国は先進国となり、リーダーとなる、と日下氏は見る。そして、今、安部首相と彼が統治する日本はそうなりつつあるではないか、と。

だが、日本人、中でも一流大学出の知識人はそうは考えない。6月2日の新聞を見ても、安部首相は消費税を再延期したが、「アベノミクスはいよいよ危なくなってきた」という論調が多い。まだ欧米のメディアや政府が安部の政策をそれほど批判していないので、その論調はあまり強くないが、批判が強まれば「それ、見たことか」と一斉になびくに違いない。

然り、日本のメディアは欧米次第なのである。彼らがなんというか、それを見てから決める。自分では考えない。「自分で独走しては危ない」と考えている。

まず日本の学識経験者の意見に頼る。その意見が欧米の知識人の見方に添ってていれば、その信頼度は大きく上がる。紙面づくりにそれが出ている。

このパターンに従わない「独走」した意見の持ち主は危険で、とりわけ国益を強調する思想家は「極右」というレッテルを張って敬遠する。

朝日や毎日などの新聞は典型的だが、政治や外交に「穏健」「中立的」な日本経済新聞の紙面作りも、このワクから出ようとしない。

背景には、やはり70年前に戦争で負けた体験がある。欧米に逆らって「独走」し、とんでもない敗戦を迎えた。もう欧米、とりわけ米国には逆らわない。この思想は牢固として残っている。そこには空襲、原爆投下、焼け跡での飢餓体験という「恐怖」の記憶がある。

「アメリカに逆らってはいけない」。米国への恐怖心は今もずっと続いている。「原爆投下は戦死者を少なくして早く戦争を終わらせるためだ」などという屁理屈がいまだに米国の市民の間に根強いが、アメリカという国は原爆投下、大都市への空襲という残忍な国際法違反を平然とやってのける。そうした冷酷な国だという恐怖心はいまだに日本人の記憶の底にある。

戦前、日本独自の方針で戦争を続けたから、こんなことになった。だから、彼らの要求には基本的に従えという態度が日本人の考え方を縛った、これに日本人に贖罪意識を植え付ける米国の多大な宣伝、教育効果もあり、多くの日本人は東京裁判史観から今も一歩も出られない。

今では日本人の過半が本気で戦前の日本は悪かったと思い込んでいる。もちろん悪い面はあったが、それだけではない。これには戦後、左翼・リベラル系のメディアが日本の過半を握っていることも大きい。

ソ連を中心とする共産・社会主義国家が崩壊した後もそれは続いている。共産国家を信じ、称賛する記事を書いてきた自分たちの責任をあいまいにし、そこから逃れるためにも、共産・社会主義国家に「甘い」記事を書き続けている。

以上、第2次大戦の敗戦とそれに伴う米国への恐怖心、日本人に戦前の贖罪意識を植え付ける米国の教育、さらに共産イデオロギーの浸透が、戦後の日本人の思想的「独走」を抑え続けた、と言える。

だが、それだけではなさそうだ。西尾幹二氏は雑誌「Hanada」7月号でこう書いている。

<日本人にはもともと国内にではなく、遠い、目に見えない広い場所に「真の世界を尋ね探したいというという根源的な欲望が大昔からあったように思えます。……日本は釈迦の生まれたインドから遥かに離れた粟粒のごとき辺境の小島にすぎない、本物は日本には存在しないのだ、と>

己をむなしくし、自分独自の考えなど持てる存在ではないのだ、という謙虚な考え方が日本人の属性なのだ。そう思えばそう思えて来る。島国のせいもあってか、舶来尊重のDNAは骨身にしみついているのである。優れたものは、ヤシの実のように遠い島からたどり着くのであって、自分独自のものなど偽物だ、謙虚に学ぶ姿勢こそ大切なのだ、と教わってきた。

日本人も独創性が大事だ、でなければ、グーグルもアマゾンもアップルもフェイスブックも生まれない、と数十年前から言われてきた。だが、具体的にそんな突飛なアイデアを出そうとすると、すぐに「そんなことよりもっと周囲から学びとれ」と言われるのがオチ。企業でもなかなか採用されない。「これも自分独自のものなど偽物だ」という従順な姿勢の産物だろう。

大体、教育そのものが「学ぶ」が主体で「独創」の場はほとんどない。自分の意見を言わせるディベートの場など、今も無きに等しい。受験勉強の大半はひたすら過去の実績を覚えることにすぎない。

だが、そろそろこうした「体系」から決別するときが来たのではないか。何も「日本は優れている」と居丈高になる必要はない。だが、日本の独創性を信じて、それを育てることは大切だ。

ここまでは誰もいう。ならば、安部首相についても批判ばかりしていないで(批判も大切だということは認めるが)独創性には拍手を送る柔軟性が必要だろう。

米国が軍事予算を削って「内向き」志向に入り、EUが中東からの移民の大量流入もあってその結束を乱し、中国が軍事攻勢を強める中、安部首相の独自の世界安定化策が求められているのは確かである。そこを支援する声が今、日本人に求められていると思えるのだ。






Last updated  2016.06.03 03:34:48
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2016.05.26
カテゴリ:日本・日本人
安倍内閣の支持率が今月に入って軒並み上がっている。読売新聞の13~15日の世論調査では53%で、前回調査(4月1~3日)の50%からやや上昇した。不支持率は34%(前回38%)と下落した。
時事通信が6~9日に実施した世論調査でも、支持率は前月比2.3ポイント増の47.6%だった。不支持率は同4.7ポイント減の29.5%に低下し、2014年10月以来約1年半ぶりに3割を切った。

政党支持率も自民党が前月比1.7ポイント増の25.6%で、3月に発足した民進党は同0.1ポイント増の4.3%とほぼ横ばいだ。

NHKの5月の世論調査では、安倍内閣の支持率は先月より3ポイント上がって45%、不支持率は3ポイント下がって36%だった。 
支持率上昇の理由は熊本地震への迅速な対応やオバマ米大統領の被爆地・広島への訪問などが評価された、というのが各メディアの分析。

だが、私はもう1つ、米トランプ氏の人気上昇が背景にあると思う。このまま行くと、米大統領になる可能性が高まってきた。そのトランプ氏が「日本は米軍が駐在してほしいなら、駐留経費を全額、支払え。それがイヤなら米軍は日本から全面撤退する」と吼えている。

これに対して、日本の識者の多くは高をくくっている。

<在日米軍は日本の防衛以上の米国の軍事・安全保障の世界戦略のためにある。米国にとってなくてはならない不可欠な基地だ。米軍が簡単に手放すわけがない。今は大統領戦の最中だから、トランプ氏も極端なことを言っているが、当選すれば、国務省や国防省の高官や関係者がその辺を十分に説明するはずで、トランプ氏も理解するだろう>

しかし、過激なトランプ氏は、オバマ氏以上に「世界の警察」の立場を降りたがっているようでもあり、その場合、米軍の活動範囲を狭める可能性はある。「米軍基地はグアム、ハワイ、オーストラリア以東で十分だ」と考えているフシもある。
「ヒスパニックやイスラムの面倒をみたくない。彼らの流入を防ぎ、自分たちの雇用と生活を守ろう」という「内向きのアメリカ人」の増加がトランプ人気を支えている。

実は「世界の警察」から降りようとする過去10年近い米国の動きが、安倍政権に集団的自衛権の行使容認、安保法制の整備を迫った。これに対して有権者の多くは集団的自衛権の行使容認に反対している。米軍普天間基地の辺野古移設も反対する有権者の方が多い。

だが、安倍内閣の支持率は落ちても一定以上を維持している。自民党の支持率も安保法案に反対した民主(進)党を大きく上回っている。この傾向がトランプ大統領実現の可能性が高まるとともに強まっているのだ。

そのココロは?

多くの日本人は従来、こう考えてきた。

<米国の軍事力が圧倒的ならば、日米同盟は片務的で良い。日本の安全は米軍に任せる。軍事基地が沖縄をはじめ全国にあっても、それで安全ならいいではないか。「思いやり予算」もドイツなどに比べて多めでも、向こうに全面的に守ってもらえるならばそれでいい。>

だから、自分のリスクが強まる双務的な集団的自衛権の行使容認に反対だった。要するに、自分を守る行為をできるだけサボりたかった。ところが、このところ、米軍は軍事予算を削減し、日本に対し「自分のことは自分でやって」と言うようになった。大手メディアがはっきりとは書かないが、詳細に読むとそんな感じである。

であれば、やむを得ない。米軍が退いたアナを責任を持って埋める努力をしそうなのは安倍内閣ぐらいだろう。そう思って今も安保法案や辺野古移設に反対しつつ、安倍政権に任せようとなっているのではないだろうか。

日本の有権者の多くはこれまで米国の厳しい注文や難題に対して、あまり真正面から考えてこなかった。自民党政権が防波堤になって処理してきたからである。それだけ怠けていられたのだ。

だが、トランプの攻勢は「安倍政権を防波堤にして、自分は何も考えないでいい」ということにはならなくなってきた。「軍事費を出さないなら日本から米軍はすべて撤退する」「自分が大事ならば、日本は核武装もすればいい」とまで言っている。

これは日本の有権者に「頭の体操」(ブレーン・ストーミング)を強いる難問の頻出である。

「もし米軍が日本からいなくなったら東シナ海や沖縄に中国が本格的に進出(侵略)してくるのではないか」。「いや、米国はそこまではさせないだろう。させないように、日本の政権は米国に働きかけるべきだ」「ならば、米軍への軍事費を増額しなければならない」「その前にトランプが認めるのだから日本も核武装に大きく前進しようではないか」……。

という具合で、来年1月に新大統領が誕生するまで、頭の体操は尽きない。そして、それは日本人が自立(自律)するのに、大切なプロセスでもある。トランプ氏の「暴言」「激論」はなかなか有益である。






Last updated  2016.05.26 17:24:54
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2015.12.09
カテゴリ:日本・日本人
   
日本人は自然や伝統的な町並みを大切にし、その美しさ、清らかさの維持、保存を心がける。洗練された美意識を持ち、それが町並みや衣食住の文化に表れている--。

これが知識層を中心にした多くの日本人の自己評価であり、そこには誇らしい気持ちがある。


だが、古美術や日本の伝統芸能を研究する米国の東洋文化研究者、アレックス・カー氏は「日本人は景観を大切にしない」と一蹴する。カー氏は日本に長く在住、京都の民家を舞台にした滞在型宿泊施設まで運営する日本通だ。その経験に基づき「ニッポン景観論」(集英社新書)を著しており、指摘は具体的で痛烈だ。

以下は、NBオンラインでの清野由美氏のカー氏へのインタビュー(12月4日)から抜粋した。

たとえば、京都の三十三間堂の前には電線が張り巡らされ、大きな看板が我が物顔に立てられている。日本人の多くは「これほど汚れた、場違いなものが日本の素晴らしい文化遺産である三十三間堂の周囲にあるわけがない」と思い込んでいる。だが、実際には存在する。

同様の光景は京都市内のみならず、多くの名所旧跡地に見られるし、普通の町並みともなると小売店や飲食店の巨大看板や自販機、電線が林立し、醜悪ともいえる景観は珍しくない。なぜ、こうなるのか。

<カー 「あるわけがない」という思い込み。たとえ見ていたとしても、頭の中でフォトショットを働かせて、そこだけ消し去っているんですよ。僕が『ニッポン景観論』を書いた動機のひとつが、その「意識」に対するものですね。みんな「日本は美しい」という意識を頭の中に持っていて、現実を見ようとしていないんです。>

なぜか。カー氏は「日本は美しい国なんだから、という日本人の意識はワクチンみたいなもので、免疫ができてしまっていて、どんなひどい景観を見ても感じなくなっている」と手厳しい。

<カー 汚い景観に慣れてしまって、景色を見る時でも、「こっちはヘンな看板があるけれど、あっちの田んぼはきれいだ」というふうに脳の中で使い分けているんです。たとえばフランスやイタリアでは、都会から田舎に向かって車で何時間走っても、景色はずっときれいなままです。でも日本に帰ってきたら、1分もたたないうちに、看板とか電線とか醜いものが目に入ってくる。僕はこのごろ電車で移動する時は、席についてすぐにブラインドを下ろすようにしています。10年前まではまだ残っていた「普通の」「何気ない」風景すら、今ではもうなくなってしまっていて、どこを見ても看板や、景色にそぐわない派手な建物がある。悲しい思いにとらわれてしまうんです。>

こう指摘されると、うーんとうならざるを得ない。当っているからだ。カー氏は追及の手を緩めない。

<カー (日本人は)現状の景観に対して「嫌だな」という思いすら持っていないことが、大きな問題なんですよ。……ワクチンがよほど強烈なんですね。>

本来、こうした光景は経済成長期にある発展途上国、新興国にみられる。貧しく、インフラが整っていないので、自然や伝統的な町並みを壊し山を削って新しい町を作り、道路や橋を建てる。ある程度の生活水準の向上のためにはやむを得ない面がある。

今でもインドやパキスタン、イランなどはそうだ。昔は欧米も同様で、「ローマやパリでも都市からちょっと離れると、やっぱりごたごたしたヘンな光景はあった」とカー氏は認める。

だが、欧米はその時期をとうに卒業し、町並みや自然を大事にする慣習が根付いている。なのに、先進国の仲間入りをしたはずの日本はいつまでも途上国並みの景観にとどまっている。なぜか。

思うに、1つは、政府や自治体が景観の保存に力を入れないからだ。その背景には景観をそれほど重視しない国民、市民の意識がある。国民は電気、ガス、水道、橋、道路などのインフラの欠陥、未整備は厳しく追及する。だから、政治家も役人もその整備には尽力する。

しかし、景観に文句をつける市民(国民)は少ない。たとえ、寺社や伝統的な町家のある地域に電線が張り巡っていようと、個々に「嫌だな」とは思う人はいても、電線を地中化し、電信柱をなくせという統一的な運動にまでなかなか発展しない。だから、景観保存は政治家の票にならない。

むしろ「家や店を新改築する際や看板を架け替える際は伝統的な町並みの色やデザインに沿うように、派手なものにしないよう心がけよ」などといった、景観条例などの厳しい規制をつけると、市民、町民の反発を食う。

「店の色やデザインが看板を目立たないように、小さく、地味な色やデザインにしてお客が来なかったら、その責任はだれがとってくれるんだ」「自分は原色を使ったほかにはない個性的な外見の家が造りたいんだ。オレも自由だろう」ねじ込まれたら、黙ってしまうのだ。

町全体の景観よりも個々の商店、オフィス、サービス業の営業の自由、個々の住民の住生活の自由を優先させる。ゴミを集めてゴミ屋敷のようにして暮らすといった、周辺住民に迷惑をかけない限り、住民の自由を尊重する、ともいえる。

景観を尊重する価値観が乏しく、商売や個人趣味の優先の社会になってしまっているのだ。

これがドイツなど欧米では庭や窓ガラスの掃除を怠っただけで、向こう三間両隣の住民から、「町の美観を損ねるから掃除しなさい」とクレームをつけられるという。それほど住民は町の景観を重視して暮らしている。周囲の住宅の色調とかけ離れたけばけばしい家を建てようとすれば、即刻住民や自治体から「待った」がかかる。個々の商店や住民にとっては日本より不自由だが、それが景観を保つ。

日本は戦後の地域社会の崩壊や核家族化もあって、「隣は何をする人ぞ」と知らない同士が暮らしている町もふえた。でも、個々の日本人に美意識はある。日本の町並みや自然は美しく保存されて欲しいと思っている日本人も多い。
だが、ドイツ人のように強く主張できるほどの価値観、主体性が乏しい。

「看板を小さくしてオレの商売がうまく行かなかったらどうしてくれる」「景観保持したからといって、市民生活が便利に安全になるわけでもない。電線を地中化する予算を立てるくらいなら、ほかにやることはいっぱいある」と言われると、強く反論する自信がない。この辺が「日本の美」を大事にしたいと思っている日本人の意識ではなかろうか。

美意識はあるが、強く主張はできない。で、美しくない光景を見ても、見てみないフリをしている。カー氏に言わせれば、「こっちはヘンな看板があるけれど、あっちの田んぼはきれいだ」というふうに脳の中で使い分けるワクチンが働いている、というわけだ(私も含めて)。

でも、いつまでもそこにとどまっていてはいけないとも思っている。カー氏は言う。

<最近は、日本でも(景観に対する意識を国全体で変えて行かなければならないという)考え方が少しは浸透してきて、古い町並み保存に行政のお金も投じられるようになってきました。「日本人は足元の汚い景観に気付いていません」と僕は言いましたが、気付いている人はちゃんと気付いていて、だからこそ『ニッポン景観論』のような本もみなさんに読まれているのだと思います。>

低成長、成熟社会の日本。ぜひ景観保存に尽力する政治行政にし、国民がそれを後押しするようになってほしい、と思う。






Last updated  2015.12.21 22:02:15
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2015.10.28
カテゴリ:日本・日本人
前回書いた林千勝著「日米開戦 陸軍の勝算」を読む、の続編を書く。

陸軍省研究班が有力な対英米戦略を策定しながら、山本五十六連合艦隊司令長官が「暴走」したことから日本は敗戦した。これが前回の結論だ。

世間では未だに「海軍は善で、陸軍が横暴だった」という固定観念が根強い。特に山本五十六は「日米開戦反対を最後まで主張していた。開戦と決まって仕方なく真珠湾攻撃をめざした」という好意的な意見が多い。

だが、ではなぜ米国民を怒らせる真珠湾攻撃を強行したのか。

実は陸軍省研究班の対英米戦略の腹案(アイデア)は、陸軍参謀本部と海軍軍令部の間で基本的に了承され、昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で正式に決定されていた。その「方針」は以下の通りだ。

<極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更に積極的措置により蒋(介石)政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈服を図り、米の継戦意思を喪失せしむるに勉む>

米国に対してはどういう態度で臨むのか。腹案はこう書いている。

<日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せしむるに勉む/対米宣伝謀略を強化す/其の重点を米海軍主力の極東への誘致並びに米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置き、米国輿論の厭戦誘致に導く>

日本の軍部は、ルーズベルト大統領がチャーチルの要請に応えて第2次大戦に参戦したがっているのに反し、米国民の多くが第2次大戦への参加を拒んでいることを良く知っていた。だから、米輿論の厭戦気分を高め、戦意を喪失することが得策と考えていた。

山本五十六は真珠湾を攻撃してギャフンと言わせれば、米国民の戦意は喪失すると考えていたようだ。これほど愚かなことはない。力のある者が緒戦で鼻っ柱を叩かれれば、激高して大反撃に出ると考えるのが自然ではないか。

実際に激高し、厭戦気分は雲散霧消、「日本叩くべし」の声が全米で高まった。米国は当時、経済力が世界最大。太平洋での海軍力は日本と拮抗していたが、イザとなれば一気に戦力を拡大できる。実際、そうなった。

上記の腹案はそれを恐れ、極力、米国の戦意を抑制することが肝腎と考えていた。山本五十六はそれと180度違う挙に出たのだ。日本を奈落の底に導いた愚将と言わずしてなんと言おう。


だが、もっと問題なのは、なぜ大本営はそんな山本の「暴走」を抑えることができなかったのか。もう一度言えば「腹案」が大本営連絡会議で決定したのは昭和16年11月15日である。

真珠湾攻撃によって日米戦の戦端が開かれたのは同年12月9日である。すでに「腹案」決定時には山本五十六率いる連合艦隊は真珠湾攻撃を目指し、大きく動き出していた。最後通牒が米国に手渡されればすぐに攻撃できるように。

これってあり、ですか。「腹案」は米国には極力、こちらから手出しせず、戦う場合は「極東に米海軍をひきつけて」と書いている。そのそばで太平洋の米国よりの真珠湾に攻撃に出かける。大本営政府連絡会議を完全に無視した格好である。

組織として体を成していない、と言わざるをえない。

これに対して「緒戦のみ戦術として真珠湾を攻撃して米国に打撃を与え、後は極東、インド洋での戦闘に注力するという戦術はありえた」という意見がある。大本営の「戦略」と山本の「戦術」に齟齬はない、というわけだ。

だが、それは牽強付会というものだ。真珠湾攻撃という「戦術」はどう考えても「米国を怒らせない」「厭戦気分を高める」「米軍は極東に誘致する」という「戦略」に対立する。戦術はつねに戦略に従わなければならない。

にもかかわらず、山本の戦術を認めたところに日本の軍部の、そして日本政府の組織的欠陥があったといわざるをえない。

統帥権の干犯問題により、政府は軍部をコントロールできない。のみならず、陸軍と海軍は同格で互いに相手を掣肘できない。できるのは天皇のみだが、それは形式的で、天皇に軍事的、政治的な権限は実質的になかった。

だから、勝手ばらばらというひどい状態だった。海軍、陸軍内においても統率がとれない。陸軍では関東軍の暴走を抑えられなかったし、海軍にも山本五十六という権威を抑える強い権力が存在せず、「腹案」に反する戦術を黙認してしまったのである。

緒戦の真珠湾攻撃で中途半端に勝ったことがさらに組織的欠陥の傷を大きくした。山本五十六は軍神のように当時の新聞などのメディアで賞賛され、日本から遠いミッドウェーへの攻撃、ガダルカナルへの進出など「腹案」の逆を行く山本の戦術を阻止できなかった。その結果、大敗し、失敗した。

リーダーの統制がきかず、ボトムアップで勝手な行動を黙認してしまう風潮は今も各省庁、古い体質の大企業に見られる。日本の業病ともいうべき、この組織的欠陥を正さすことが不可欠だ。

安倍政権は曲りなりにも強いリーダーシップを保っている。これを維持、強化する政治、行政を築いていかねばならない。






Last updated  2015.10.29 13:06:15
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2015.09.26
カテゴリ:日本・日本人
江藤淳氏の「海は甦る 第一部」(文芸春秋)に徳川幕府の海軍伝習所の教官を勤めたオランダの海軍艦長、カッテンディーケ大尉に、こんなエピソードがある。
 
同大尉が長崎の商人に「この町が脅かされたとき、どうして防衛するつもりか」と質問した。すると、くだんの商人は「そんなことは、われわれ商人風情の知ったことではございませぬ。戦はお上のなさることでございます」と答えてケロリとしていた。

商人だけではない。武士の間にも「いったん緩急の場合に、祖国防衛のために、力をあわせねばならぬという義務」の観念が、奇妙に欠如していると、カッテンディーケは観察していた。そこで、彼は思った。

<もしここに、一名の仕官と四十五人の陸戦隊があれば、恐らく一砲をはなつことなく……町を占領できるに違いない。市民は、商人の言葉が事実なら、幕府の防衛体制になんら協力しないにちがいないからである>

前回の拙ブログ「政治の要諦は『うまくやること』」で、こう記した。

<(多くの日本人の)望みは自分たちが危険にさらされず、米国のような強い国に守っていられる状態が半永久的に続くこと。そうなるように、政治家は「うまくやってほしい」ということに尽きる。誠に正直で、自然な感情である。安保法制への不人気とそんな不安な政治に突き進む安倍政権の支持率が下がるのも当然だ。無党派層が(久しい以前から)最大なのも、「政権はだれでも良い。うまくやってくれればいい」と思っている有権者が多いことを示している。>

上記のエピソードを読むと、この日本人の精神構造は江戸時代以来のことらしい。江戸250年の太平が日本人を戦さ嫌いの平和愛好民族にしてしまった。同様に戦後70年の太平が、日本を取り巻く危険な状況に対する無頓着を生んでしまった。

いや、戦さのなかった平安時代400年を思うと、日本人のDNAには強い戦争否定の因子が刻み込まれているのかも知れない。

そうした穏やかな性格が好ましいことは間違いない。だが、「戦さはお上がすること(現状では米国が日本を守る)」とのみ考え、自分は一切、戦わないと知らん顔の日本人が大勢を占めたら、どうなるか。

カッテンディーケの言うように、わずかな手勢で町(長崎)を、そして日本列島全体をやすやすと占領できるに違いない。

幸い、幕末の日本には、カッテンディーケの尊敬した勝海舟(海軍伝習所頭取)が幕府に、薩長など諸藩には維新の志士がいて、彼らの活躍を軸に日本は何とか独立を保つことができた。

同様に、今の日本にも危機感を感ずる人々は存在し、それが安倍政権を支え、安保法制を何とか成立させた。

日本の現状を、欧米列強の侵略著しい幕末になぞらえるのは大げさかも知れない。だが、東アジアにおける米軍事力の減退と中国の脅威の拡大、北朝鮮の核武装を考えると、戦後70年の「太平」に大きな変化が生じているのは間違いあるまい。

安保法制の整備はやはり必要なのである。






Last updated  2015.09.26 18:09:47
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2015.08.03
カテゴリ:日本・日本人
作家・五木寛之氏が読売新聞1日付けに語った「戦後70年 あの夏」を読むと、胸にどっしりと響いて重い気分にひたされる。

五木氏は教師だった父母に連れられて生まれてすぐ朝鮮半島に渡り、終戦の年は平壌(ピョンヤン)の中学1年生だった。夢は戦闘機乗りになることで、負けるとは思っていなかった。

情報がまったくない中で、広島・長崎の原爆投下も大きなニュースにはならず、8月9日に侵攻したソ連軍が迫っている事実も知らなかった。終戦の前日、父親が「明日重大発表があり、ソ連が日本と同盟して、米英に宣戦布告するらしい。これでもう大丈夫だ」と話していたぐらいだ。

だが、重大発表は敗戦を告げる「玉音放送」だった。「治安は維持される。軽挙妄動を慎め。市民は現住所にとどまれ」というラジオ放送を信じていた。軍上層部や官僚、財閥と家族が真っ先に、列車や飛行機で内地に向かっていたことを知ったのは、戦後もだいぶたってからだった。

8月下旬、大量のソ連兵に踏み込まれ、母親はソ連兵に乱暴され、まもなく死亡。愛妻を亡くした父は茫然自失の状態となった。長男だった五木少年はソ連軍の宿舎に行き、片言のロシア語で「ラボタ。ダヴァイ(仕事ください)」と叫んだ。まき割りや靴磨きなど雑用をこなし、パンや肉のかけらなどをもらって生き延びる生活。冬は零下何十度の極寒で、発疹チフスでバタバタ人が死んだ。子供だけでも助けたいと、現地の朝鮮人に子供を預けたり、売り渡す人もいた。

人間の弱さ、ずる賢さ、弱肉強食の生存競争と利己心、品性が赤裸々に出てしまう極限状態。

収容施設にソ連兵が来て、「女を出せ」ということも多く、水商売風の女性が押し出されるようにして連れていかれる。その光景を五木氏は凝視する。

<一番こたえたのは、(その)女性がボロ雑巾のようになって帰って来た時、近くにいたある母親が子供に「あの人には近づくんじゃないよ。病気を持っているかもしれない」と叱っていたのを目にしたことです。本来ならば土下座して感謝すべきなのでしょうが、あの時は非常事態でしたから、みんな何を見ても無感動で、おかしくなっていた。>

逃げるためにトラックに乗り込む時、「お先にどうぞ」と言っている人は帰ってこられなかった。トラックに最初に乗り込んだ人たちが、後から乗ろうとする人を蹴落とすような日常だった。

<「飢えた子供の顔は見たくない」と言いますが、収容所でジャガイモをもらい、妹と分けようと思ったら、大人に横取りされたこともあった。「飢えた大人の顔は見たくない」。つくづく思いましたね。「善き者は逝く」。だから僕は、帰って来た自分を「悪人」だと思っている> 

「良い人ほど先に死んで行った」とは、戦中を生き延びた高齢者からしばしば聞かされる。「どこかずるく立ち回って死を免れたのだろう」という苦渋の思いが、生き残った自分を「悪人」と指弾させるのだろう。

五木氏のもう1つの反省は、時代の風潮や固定観念、役所やマスコミの情報、噂話に流されることなく、自力で「情報」をつかみ、自立した行動をとることの重要性だ。

<戦後70年の今、一番の反省点は、ラジオや新聞の情報、噂話を漠然と聞きながら、上からの指示を待っていた自分の怠惰さです。……真剣に事実、真実を知ろうとする執念に欠けていた……。父親(の)……官舎は空港のすぐ横にありましたから、終戦詔書の前に飛行場を観察すれば、高級将校らの引き揚げの動きを察知できたはず。当時はまだ列車が動いていましたから、体一つで脱出すれば、あんな目に遭うこともなかった。>

独自の情報把握による危機から脱出と言っても、一般庶民のできることには限りがある。日本への復員・引き揚げにしても、ソ連支配下の北朝鮮にいたか、米軍管理下の南朝鮮にあったか否かで状況は大きく異なり、「運」の要素が大きい。

だが、それでもやれることはあり、それを実行するかどうかが運命を分ける、と五木氏言いたいようだ。結語に実感が込もる。

<戦前・戦中の教育などで、お上の言い分に盲従する習慣にどっぷりつかっていた。それが「情報難民」を生みました。……いつの時代も情報は隠されるものです。だからこそ自分たちで隠されたものを探り当てる熱気がないと、生きていけない。戦争の教訓はそれにつきます。>

左派、リベラル派の知識人やマスコミ、野党なら、このくだりを、「戦争法案の強行採決、徴兵制の復活に突き進む安倍政権は情報を隠している。これをあばき、集団的自衛権の行使を阻止しなければならない」という風に読み込むのだろう。

だが、私の読み方はむしろ逆だ。「集団的自衛権の行使容認」を憲法違反と言い募るリベラル派は、統帥権の独立を声高に主張し天皇機関説を唱えた学者を非難し、「国体を守れ」と叫んだ戦前の軍部や右翼に似ている。

大事なことは国家と国民の安全を守ることだ、という視点にかけ、頑なに法律や制度の条文にこだわるからだ。

シビリアンコントロール(文民統制)は戦前も本来、国家の基本であったはずだ。一方、解釈改憲の行き過ぎ反対を唱えるばかりで、「憲法9条栄えて、国滅ぶ」ということになっては困る。外部環境の変化に即して防衛体制を変えて行くのは当然の政略だ。

その変化を具体的に解りやすく説明する責任が安倍政権にはある。国民に適切な情報を提供する姿勢が不十分だから支持率が下がっている。野党もマスコミもその点を突いている。

そこで、安倍政権が「中国の脅威拡大」を説明すると、民主党は「それは行き過ぎだ」と反論する。日経新聞によると、民主党の枝野幸男幹事長は7月29日の記者会見で、安倍晋三首相が中国の海洋進出などを強調して安全保障関連法案の必要性を訴えていることに関し「日中首脳会談を模索している状況で、特定の国名を出すことがトータルのわが国の外交安全保障戦略上、適切だとは到底思わない」と批判した。

安倍首相も徒に中国を刺激したくないという気持ちから、これまで国会で「中国の脅威」を指摘することを抑えてきた。しかし、実態は「脅威」なのである。

だが、リベラル系のマスコミはその事実を書くことについて抑制的だ。野党も中国を恐れてか、あるいは中国脅威論を語ると安倍政権に塩を送ることになると思ってか、何も言わない。「脅威をあおれ」とは言わない。しかし、事実を正確に書く姿勢は必要だ。でなければ、日本国民を「情報難民」にして、適切な判断を失わせてしまう。

戦前の新聞が情報を適切に開示せずに軍部の批判を抑えていたように、現在のマスコミも情報開示という責務を放棄しているとすら思える。あるいは中国におもねっているように見える。

「情報難民をなくせ!」。五木氏の「戦争の教訓」はそう主張していると思われる。






Last updated  2015.08.03 21:24:33
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