半世紀前の違憲判決と明治の大津事件
毎日新聞8日配信の記事が、こう伝えている。 <1957年夏、米軍の旧立川基地にデモ隊が侵入した砂川事件で、基地の存在を違憲とし無罪とした1審判決(59年3月)後、田中最高裁長官が上告審公判前に、駐日米首席公使に会い「判決はおそら く12月」などと公判日程や見通しを漏らしていたことが、米国立公文書館に保管された秘密文書で分かった。……基地存在の前提となる日米安全保障条約改定を前に、日本の司法が米側に図った具体的な便宜内容が明らかになった……。専門家は「憲法や裁判所法に違反する行為だ」と指摘している> これは、難しい判断を迫られる問題だ。当時の最高裁は米国との外交を優先して、自ら司法権の独立を捨て、政治に屈したと見ることができる。 米主席公使の当時の書簡によると、田中耕太郎長官(当時)は「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話した、としている。実際、最高裁大法廷は1957年12月16日に1審判決を破棄、差し戻した。 「憲法や裁判所法に違反する」と指摘されてもやむを得まい。また、米軍基地が戦争破棄を規定した憲法9条に違反していることも明らかだ。 皮肉なことに、そうした憲法を日本に押し付けたのは占領下の米国だった。日本は1951年のサンフランシスコの講和条約後に憲法を改定することもできたが、米ソ冷戦下、自民―社会両党による、いわゆる55年体制のもとで、国論が二分しているときに、3分の2以上の賛成がないと憲法を改正できない規定では憲法改正は困難だった。重ねて、皮肉なことに、そうした改正が困難なような憲法を日本に押し付けたのも米国だった。 だが、冷戦下にあって、米国にとって在日米軍基地が不可欠だったのも事実で、そうした米国の軍事体制のもとで安全保障を確立していた日本政府にとっても、少なくとも当時は米軍基地が不可欠だった。 もし米軍基地は憲法違反という最高裁判決となれば、国内の共産勢力を勢いづかせることは明らかで、日本の政治的混乱、社会不安が高まったことだろう。 で、政治外交優先、司法の屈服という事態になってしまったわけだ。 だが、それで本当に良かったかどうか。類似した例に明治時代の大津事件がある。 1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県大津町(現大津市)で警察官の津田三蔵に斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。 列強の1つ、ロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件発生。発展途上だった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下。政府内では津田を死刑にせよという意見が相次いだ。だが、時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は「法治国家として法は遵守されなければならない」として、政府の圧力を跳ね除け、一般人に対する謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用して津田に無期徒刑(無期懲役)の判決を下した。 行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上の重要な事件とされている。 では、砂川事件での最高裁判決は間違っていたか。 私見を述べれば、当時の冷戦下ではやむを得ない最高裁判決だったと思う。だが、最高裁の裁判官が米国公使に会って、裁判の方向をほのめかすなどという行為はあってはならない。司法の独立を損ねるだけでなく、日本の主権を傷つけるものだ。 公使に会うのは外務相や外務官僚に限られる。できるのは最高裁長官と外務相が会うことまで。裁判の方向まで指し示すのも不可。あうんの呼吸で、裁判の方向をほのめかすのが限度だ。 判決で1審判決を破棄し、差し戻すのは役を得ないとしても、次のような条件を付けるべきだろう。 「違憲という議論の余地を残す米軍基地体制であるのも事実である。不透明な解釈の余地を絶つため、この点を明確にする方向での議論を早急に実施することが立法府(国会)に求められる」 最後に感想を言えば、昭和の田中長官の心情は理解できるものの、「国益を配慮しつつも司法の独立を保った」という点で、大津事件を裁いた明治の児島院長の方が気骨があったという感は残る。