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2010.05.08
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カテゴリ:歴史その他

 なんの本にあったのか忘れたので、違っているかもしれないが(したがって、実話かどうかは確認できない)、革命から間がない内戦中のある日のこと、当時、チェーカーの議長だったジェルジンスキーが会議中のレーニンに、「反革命」 分子として収監している囚人のリストを渡したという。

 会議に没頭していたレーニンはメモに目を通したあと、×印のようなものをつけて、ジェルジンスキーに返した。メモを受け取った彼は、そこにある×印を見て、「処刑」 の指示だと思いこみ、リストにあった全員を即刻銃殺した。

 ところが、あとで分かった話によると、実はレーニンには、日頃から目を通した書類にたんなる 「確認済み」 の意味で印をつける癖があったという。もっとも、いずれにしてもレーニンの指令で、多くの人間が 「反革命」 の罪により処刑されたことは、紛れもない事実ではある。

 チェーカーとはロシア国内の反革命を取り締まる非常委員会のことだが、後にGPUに改組され、その初代長官もジェルジンスキーが務めている。なので、これはその時代のことなのかもしれない。GPUはようするにロシアの秘密警察であり、途中、いろいろと名前は変わっているが、最後は今のロシアの隠れ大統領であるプーチンが、かつて属していたKGBにまでつながっている。

 ジェルジンスキーはもともと、ポーランドの貴族出身だそうだ。つまり、リトアニア出身のユダヤ人だったローザ・ルクセンブルグとは、一時は盟友関係にあったのだが、ローザはドイツに移住し、いっぽうジェルジンスキーのほうは、政治犯として収監されていたロシアでそのまま革命に参加し、やがてレーニンの重要な配下のひとりとなっていく。

 レーニンがチェーカーの仕事を彼に任せたのには、当然その 「真面目」 で 「高潔」 な人柄に対する信頼もあっただろう。だが、おそらくは彼がロシア人ではなく、おまけに党にとっても新参者であったため、ロシア国内のいろいろな政治勢力をめぐる、複雑な人脈だの関係だのにわずらわされずにすむだろうという計算も、あったのかもしれない。

 客観的に見るならば、ジェルジンスキーは党の新参者であるばかりに、「暴力」 の行使という、誰もがいやがる 「汚れ仕事」 を押し付けられたことになる。政治路線については、民族問題やドイツとの講和などで、レーニンと対立したこともあったが、党と革命への忠誠ということでは、ゆるぎなき 「良心」 の持ち主であり、野心や権力欲はもちろん、のちのベリヤのような暴力的な性癖とも無縁の人物であったとされている。

 貴族の家に生まれた彼が革命運動に跳びこんだのは、いうまでもなく、抑圧されている貧しい民衆に対する 「愛」 であり、「良心」 によるものだっただろう。そのような彼にとって、いくら 「革命」 のためとはいえ、処刑というような行為が決して心地よかったはずはない。任務を終えたあと、彼はしばしば苦痛にゆがんだ蒼ざめた顔をしていたという。

 つまるところ、彼もまた 「正義の人」 であったのであり、革命家としての 「良心」 に基づいた、「テロル」 の行使という任務の裏で、彼個人の良心もまた血を流し、うめき声をあげていたに違いない。そのせいかどうかは分からないが、彼は革命の九年後、レーニンのあとを追うように急死している。

 ちなみに、やはりポーランド出身のユダヤ人で、トロツキー派のコミュニストから歴史家へと転じたアイザック・ドイッチャーは、『武力なき預言者』 の中で、「ゲ・ペ・ウにはいって仕事ができるのは、聖者か、でなければならずものだけなのだが、今では聖者は僕から逃げ出してゆき、僕はならずものだけとあとに残されているしまつだ」 という、GPU長官時代の彼の言葉を紹介している。

 ところで、ナチス時代のドイツに、少数ながら残されていた、ナチへの協力に抵抗した人々について、やはりユダヤ人であるハンナ・アレントは、それはイデオロギーや思想などの問題ではなく、単に彼らには、友人を裏切ったり見捨てる、といった行為ができなかったのだというようなことを言っている。

 これらの人々は、たとえ政府が合法的なものと認めた場合にも、犯罪はあくまで犯罪であることを確信していました。そしていかなる状況にあれ、自分だけはこうした犯罪に手を染めたくないと考えていたのです。 (中略)

 この 「私にはできない」 という考え方には、道徳的な命題が自明なように、その本人にとっては自明なものであるという分かりやすさがありました。「二足す二は五である」 と言うことが<できない>のと同じように、「私には無辜の人々を殺すことはできない」 ことは自明なことだったわけです。 

 「汝、なすべし」 とか 「あなたはそうすべきである」 という命令に対しては、「私はどんな理由があろうとも、そんなことはしない、またはできない」 と言い返すことができるのです。いざ決断を迫られたときに信頼することのできた唯一の人々は、「私にはそんなことはできない」 と答えた人々なのです。

「できない」 という確信
ハンナ・アレント 『責任と判断』
 

 言うまでもないことだが、「良心」 はしばしば盲目であり、「善意」 はきわめてだまされやすい。「良心」 の命令には、「~~すべし」 という命令と 「~~すべからず」 という命令の二種類がある。前者が行為を促す積極的命令であるのにくらべ、後者は消極的な禁止命令にすぎない。

 だが、消極的であるだけに、間違いをしでかしにくいのは、どちらかといえば後者である。しかし、それはおのれが最後に守るべき拠り所でもあり、その意味では、頑強なる抵抗や反攻のためのもっとも堅固な砦でもある。「いざ決断を迫られたときに信頼することのできた唯一の人々」 という彼女の言葉は、ようするにそういう意味だろう。

 この 「できない」 という確信について、アレントは 「良心と呼ぶべきものだとして」 という留保をつけ、義務という性格は帯びていなかったと語っている。たしかにそれは、言語によって規範化された道徳というよりも、むしろ生理的な感覚といったものに近い。

 

関連記事:「美しい魂」を持った人







Last updated  2010.05.10 05:19:31
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2010.05.02
カテゴリ:思想・理論

 自動車事故で死んだカミュに、『正義の人々』 という戯曲がある。このもとネタは、革命前のロシアで、社会革命党の秘密組織の指導者として、要人暗殺などのテロを行っていた、サヴィンコフという名のロシア人革命家が書いた、『テロリスト群像』 という回想録の中にある。

 サヴィンコフは、ロープシンという名で 『蒼ざめた馬』 などの小説も書いているが、革命後はボルシェビキ政権に対する武力闘争に加わり、最後は逮捕されて裁判にかけられた。そこで、いったんは死刑判決を受けたものの、「十年の禁固刑」 という特赦による減刑を受けたのち、なぜか刑務所で投身自殺をとげたとされている。

 この話については以前書いたが、要約すれば、爆弾投擲による暗殺実行の任務を与えられた、カリャーエフという青年が、目標とする人物が乗る馬車に爆弾を投げようとしたものの、その中に幼い子供らが同乗しているのを見て、投げるのを止めたという話。

 その多くが高い教育を受け、それなりの地位なども約束されていたでもあろう、ロシアの青年たちを、革命運動へと駆り立てたのは、むろん自由への憧れもあっただろう。だが、そこには、おそらくは貧しく抑圧されていた民衆に対する負い目という、「良心」 のうずきもあったに違いない。それは、たとえば有島武郎についても言えることだ。

 「良心」なるものを定義するとすれば、おそらくは善と悪を判別する心の中の装置といったことになるだろう。むろん、善とはなにか、悪とはなにか、などという話になると、またややこしくなる。ただ、とりあえず、完全な善や完全な悪など存在しないし、善も悪も、それ自体として存在しているわけではないということは言える。

 ようするに、世の中に存在しているのは、実体としての善や悪ではなく、せいぜいが 「善きこと」 「悪しきこと」 の相対的な区別であり、しかもそれは多くの場合、ややこしく入り組んだりもしている。ただ、その善と悪を区別する良心の基盤にあるのは、おそらくは、人間が持っている他者への 「共感」 能力というものだろう。

 たとえば、『国富論』 の著者として有名なアダム・スミスは、最初の著書であり、彼自身、もっとも重要な主著と考えていたという 『道徳感情論』 の冒頭で、こう言っている。

 人間がどんなに利己的なものと想定されるにしても、明らかに彼の本性の中には、いくつかの原理があり、そのおかげで、人間は他の人々の運不運に関心を持ち、彼らの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも得られないのに、自分にとって必要なものとする。
 この種類に属するものは、哀れみや同情であって、それはわれわれが他の人々の悲惨を見たり、生き生きと強く心に描き出されたりしたときに、それに対して感じる情動である。われわれがしばしば、他の人々の悲しみから、悲しみを引き出すということは、例をあげて証明する必要もないほど、明らかである。


 もっとも、人間の心の中には、そのような原理と対立し、それを打ち消す原理もある。それは、スミスも認めている。「悪」 は、たしかにしばしば魅惑的であるし、人間は 「善」 や 「正義」 などという観念によって、生きているわけではない。しかし、そのことは今はおいておく。

 われわれは、たしかに 「良心」 というような言葉を使うのは、あまりに気恥ずかしい時代に生きている。「良心」 という言葉は、たしかにあまりに濫用されすぎてもきた。いわく、信徒としての 「良心」、国民としての 「良心」、あるいは階級的 「良心」、革命的 「良心」 だのというように。

 そこでは、「良心」 という言葉が、宗教や政治的イデオロギーによって、大文字化されている。しかし、そのような 「良心」 は、むしろ個人を拘束する共同的な規範にすぎない。そのような大文字の 「良心」 は、個人が持っている素朴な良心の預け先として、ときにはその本来の良心を解除させもする。大義の名による血なまぐさいテロルは、しばしばそうやって正当化される。

 「良心」 というものは、おそらく心の中の知的な部分よりも、感情的な部分に属する。「良心」 への刺激が、しばしば怒りや悲しみをもたらすのはそのためだろう。それは感情的な部分であるがゆえに、たしかに統御が難しい。そのうえ、人間の情念は複雑であり、たがいに影響しあいもする。神ならぬ人間の 「良心」 は、そもそも完全でもなければ万能でもない。

 だから、目の前の怪我人を助けるというような単純な行為ならともかく、政治的行為のような複雑な行為では、「良心」 という単純な装置だけに頼るわけにはいかない。「地獄への道は善意で敷き詰められている」 という、有名な格言はそのことを表している。しかし、それはそのような行為において、「良心」 が無用だということではない。ただ、「良心」 は万能ではないということにすぎない。

 いうまでもなく、「良心」 は個人のものであり、人は他人の 「良心」 を代行できない。それは、精神が個人の精神としてしか存在しない以上、自明のことだ。とはいえ、それは、個々人の 「良心」 の間に共通性がまったく存在しないということは意味しない。「良心」 が善・悪を判別する心の中の装置だとして、それがたがいにまったく異なるのだとしたら、社会はそれこそ一瞬にして崩壊するだろう。

 そもそも、人間が人間になるのは、他者との関係を通じてだ。孤立した人間は、人間の人間としての様々な能力、たとえば言語すらも身につけられない。つまるところ、人間の精神は個別にしか存在しないものの、最初から 「間主観性」 を帯びており、その意味でも一定の共通性を有している。それは、なにも 「良心」 のみに限られたことではない。

 なるほど、「良心」 とか 「善」、「正義」 といった言葉は、たしかに手垢がつきやすい言葉である。そのような言葉を、政治の場で多用する者がいたなら、とりあえず疑っておいた方がよい。なぜなら、そのような場合、それらの言葉が指し示しているのは、実は規範化された大文字の 「良心」 や 「正義」 であり、その存在が暗黙のうちに前提とされているからだ。そのうえ、そのような言葉には、理性をマヒさせる魔力もたしかにある。

 しかしながら、世の中、手垢の付きえない言葉などというものは存在しない。どんなに立派な言葉だって、手垢はつきうる。「権威を疑え!」 というような言葉ですら、ときにはただの無知な夜郎自大の正当化に利用されもする。しかし、だからといって、次から次へと、ただただ新しい言葉や言い回しを作り出せばよいというものでもあるまい。

 「良心」 というような素朴で単純な言葉が、ときに手垢を帯びながらも、いまなお使い続けられているのには、それなりの根拠があるだろう。であるならば、その手垢の付いた言葉から、びっしりとこびりついた手垢をこそぎ落とすという作業も、ときには必要と言えるだろう。

 社会の中の抑圧や不正に対して、ときにその直接の当事者でもない者らまでが立ち上がるのは、それが彼らの 「良心」 を刺激するからだ。そのような問題について考えるということは、とりあえずそのために必要な 「良心」 という場を呼び起こすことでもある。ただし、そこから先へ進むには、それだけでは足りない。

 しかし、そこで呼び出された 「良心」 によって指し示された 「正義」 なるものが暴走を始めたなら、その暴走に歯止めをかけるのも、やはり同じその素朴な 「良心」 の役割と言えるだろう。カミュが言いたかったのは、おそらくはそういうことのように思える。


参照先: 意図や目的より手続きを重視するということ 

 

追記: 世界には 「完全なる善」 や 「完全なる悪」、あるいは 「善」 そのものや 「悪」 そのものは存在しないということは、言い換えるなら、世の中の物事は、「善」 と 「悪」 という言葉で考える限りにおいて、すべて多かれ少なかれ 「善なる性質」 と 「悪なる性質」 の両方を帯びているということを意味する。それは、「善」 と 「悪」 を厳しく対立させる正統的なキリスト教の倫理とは異なる、ユングの善悪観とも一致する。







Last updated  2010.05.05 21:30:21
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2010.04.25
カテゴリ:思想・理論

 いわゆる 「人権」 なるものはもちろん西欧起源であり、したがってキリスト教に由来する。中学の社会科では、ロック、ルソー、モンテスキューの三人を、代表的な啓蒙思想家として教えられるが、基本的人権といえば、ロックの 『市民政府二論』 ということになっている。

 明治の自由民権運動では、「天賦人権」 なんて言葉も流行ったが、ようするに人権なるものは、神から与えられたものだから、たとえ国王でも侵すことはできないよ、という話。ロックは、たとえばこんなふうに言っている。

 自然状態には、これを支配するひとつの自然法があり、何人もそれに従わねばならぬ。この法たる理性は、それに聞こうとしさえするならば、すべての人間に、いっさいは平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない、ということを教えるのである。人間はすべて、唯一人の全知全能なる創造主の作品であり、すべて、唯一人の主なる神の僕であって、その命により、またその事業のため、この世に送られたものである。


 ロックは17世紀後半のイギリスの人で、こういう彼の思想は、同時代の名誉革命や 「権利の章典」、さらには遠く離れた、海の向こうのアメリカの独立宣言とかにも、反映されている。

 イギリスが議会の発祥国であることは誰でも知っているが、ロックより前の世代の人で、渡辺淳一でないほうの 『失楽園』 で有名なミルトンは、クロムウェルの政府を支えた一人であり、『言論・出版の自由』 などの人民の権利を擁護する政治的パンフレットも数多く残している。彼もまた、自由という権利に対して大きな貢献をした人の一人である。

 しかし、人間の権利として 「自由」 なるものが与えられたからといって、それだけで人間は自由だ、ということにはならない。たとえ、奴隷のような拘束を受けていないとしても、それでもなお、本当に自分が 「自由」 かどうかは定かではない。そもそもロックやミルトンが 「人間は自由だ」 と言ったのは、人間は神の子であるという宗教的信念に基づいている。では、「自由」 とは、そもそもいったいなんのことなのか。

 やはり17世紀の啓蒙思想家で、オランダに住む在野のユダヤ人哲学者であったスピノザは、「自由」 について、こんなふうに言っている。

 自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ行動しようとするものである。だがこれに反して、必然的あるいはむしろ強制されていると言われるものは、一定の仕方で存在し作用するように、他のものによって決定されるもののことである。

『エティカ』 第一部より    
   
 

 スピノザがここで言っているのは、神の自由について。少なくとも一神教においては、神とは定義上、唯一にして最高の存在であるから、他のものから、ああせい、こうせいと命令されたりはしない。神の行為は、すべて神自身の内発的意思によるものであり、だからこそ、神は絶対的に自由なのである。

 だから、フォイエルバッハがいうように、人間の運命だとか幸不幸だとかを思い煩ったり、人間のお祈りだの呪文だのにほいほい呼び出されて、お願いされるままに、雨を降らせたり、風を吹かせたりするのは、人間様の下僕であって、本物の神様ではない。

 したがって、自由とは結局 「意思」 の自由に帰着する。神様ほどではないが、人間も、いちおう自分の意思を持っている。暗闇の中を飛ぶ虫や、夜の海を泳ぐ魚などは、明るい光を見つけると、思わず知らず引き寄せられるが、それでは磁石に引き付けられる鉄粉と変わらない。その結果、まんまと人間様の罠にはまって、火で焼かれたり網ですくいあげられて、身の破滅を嘆くことになる。

 しかし、人間ならば、たとえ少々腹が減っており、おいしそうなお菓子とかがテーブルの上にあるのを見つけても、待てよ、これは誰かの罠ではないかなとか、毒入りではないかな、腐ってないかな、黙って食べたらあとで怒られないかな、などと少しは考えるだろう。つまるところ、「意思」 の自由とは、この場合、即自的な直接の欲求に身を任せずに、抵抗する力のことを意味する。

 日本国憲法では、自由権として 「思想および良心の自由」 とか 「信教の自由」、「表現の自由」、「学問の自由」 などといった権利が保障されている。そのような国民の権利を国家が侵すことは、当然ながら憲法違反である。だから、国家は国民を、その思想や信仰などで差別してはならないし、本人の自発的意思によらずに、個人の内心の告白を迫ったり、「踏絵」 を踏ませるような行為を行ってはならない。

 たしかに、これによって、われわれの 「内心」 は、いちおう国家だの政治的権力だのによる、直接の介入は受けないことになっている。では、それによって、われわれの 「内心」 なるものは、本当に自由なのだろうか。

 たとえば、上役の命令によって、公園に住むホームレスのテントを破壊する県や市の職員とか、上官の命令によって、非武装の市民の上に爆弾を落としたり銃弾を浴びせたりする兵士とかは(これは今のところ日本の話ではないが)、はたしていかなる 「良心の自由」 を持っているのだろうか。

  「内心」 というものは、たしかに人間にとっての最後の抵抗の砦のようなものだ。たとえば、隠れキリシタンはその 「内心」 によって、「踏絵」 による詮議は受け入れながらも、250年もの間、キリストへの信仰を保つことができた(もっとも、もとの信仰からは、ずいぶんと変わってはしまったが)。

 全体主義国家でも、独裁者への 「面従腹背」 を貫くことで、おのれの 「内心の自由」 を守り続けることがまったく不可能なわけではない。軍国主義時代の日本にだって、みんなと一緒に 「天皇陛下ばんざーい」 と大きな声をあげていても、心の中では 「こんな馬鹿なこと、やってらんないよ」 などと思っていた人も、おそらくはいたことだろう。

 だが、それは口で言うほど簡単なことではない。街中には、独裁者のでっかい肖像や銅像が並び、扇情的な音楽が大音量で流され、みながみな独裁者を讃え、反対派を 「反革命」 だの 「非国民」 だのと罵っている中で、おのれの 「内心」 を保つことはけっして易しいことではない。そのためになにより必要なのは、おそらくは理性や良心に裏打ちされた、周囲に流されない強い意思であり、おのれの正しさに対する確信ということになるだろう。

 むろん、現代ではかつてのような 「欲しがりません、勝つまでは」 とか、「贅沢は敵だ!」 みたいな国家による宣伝は行われていない。しかしながら、どんな時代にも、国家や政治家らは、国民に対していろいろな宣伝を行っている。学校だって、ある意味、子供らに対する一種の 「洗脳装置」 である。

 現代社会には、その他にも様々な情報があふれている。政治的宣伝だけでなく、あれを買え、これを買え、というような情報もいっぱいある。そのすべてが無意味というわけではないが、われわれは少なくともそういう社会の中に生きている。そして、われわれの 「内心」 なるものは、そのような情報の洪水の中に曝されている。

 「内心」 なるものがどこに隠されているのか、頭の中なのか、胸の奥なのかは知らないが、いずれにしてもわれわれの 「内心」 なるものは、爆弾が落ちても大丈夫なような、頑丈な金庫の中に隠されているわけではない。憲法で 「内心の自由」 なるものが保障されているからといって、われわれの 「内心」 というものは、そもそもそんなに確固としたものではない。

 あれやこれやの情報に左右されて右往左往したり、空っぽの権威にすがったり、ただ大勢の意見や行動に付和雷同してくっついて行動するのは、自分の意思で動いているように見えるが、本当はそうではない。スピノザに言わせれば、そんなものは全然自由ではない、ということになるだろう。

 むろん、神ならぬ人間としては、自分の内心など完全に統御できはしない。欲望や気分、感情といったものを完全に統制することは、お釈迦様でもない限り、不可能だ。誰しも、突如として 「邪悪」 な欲望を抱いたり、どうにもならない怒りや悲しみの感情に襲われることはあるだろう。

 しかし、そういった欲望や感情の発生そのものは統御できぬからといって、そのようなものに支配され、その赴くままに流されてしまうかどうかは、全然別の話。人間はたしかに 「不自由」 であるが、そればかりをただ嘆いていたのでは、人間の 「自由」 などどこにも存在しないことになる。







Last updated  2010.04.26 14:59:50
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2010.04.12
カテゴリ:国際

 一昨日、ロシアのスモレンスクで行われる予定だった、第二次大戦中に起きた 「カティンの森」 事件の追悼式典に参加するために現地に向かっていた、ポーランドの大統領夫妻ら、多数の政府要人を乗せた飛行機が墜落し、全員が死亡するという事件があった。情報によれば、深い霧で視界が悪かったため、ロシア側は別の空港への着陸を要請したにもかかわらず、無理に着陸を試みたことが原因のように思われる。

 「カティンの森」 事件を世界に公表したのは、第二次大戦勃発から二年後に始まった独ソ戦によって、ソビエト領内への侵攻を開始したナチスの側だが、ドイツのポーランド侵入とほとんど同時に、東からポーランドに攻め入り、ポーランドをナチとともに分割したソビエト軍の捕虜となったポーランド将校らがその犠牲となっている。

 長い間、ソビエトはこの事件はナチによるものだと主張していたが、旧共産圏の崩壊によってようやく、事件がスターリンの命令を受けたものであることを認めた。ソビエトとポーランドの間には、ロシア革命後に限っても、独立を果たしたポーランドによる内戦介入と、ワルシャワまで迫った赤軍の反攻、そしてその失敗という長い歴史がある。

 このときの赤軍を率いたのは、もとは帝政時代の将校だったトゥハチェフスキーだが、彼もまたのちにスターリンによって粛清される。この 「トゥハチェフスキーの陰謀」 では、大勢の赤軍の幹部や将校が粛清・追放され、そのことが結果的に、独ソ戦での初期の大敗につながったとも言われている。

 航空機事故による要人の死亡というと、近年ではルワンダの大量虐殺のきっかけとなった、同国と隣国ブルンジの大統領が乗った飛行機が墜落したという事件があった。ただし、これは偶然の事故ではなく、どうやら当時の軍の一部による意図的な攻撃のようだから、純然たる事故ではない(参照)

 もっと古い話だと、日中戦争が終結した直後、「抗日民族統一戦線」 という表向きの 「国共合作」 にもかかわらず、共産党に対する警戒を崩していなかった蒋介石の軍の攻撃によって捕虜となっていた葉挺の釈放を受け、彼を迎えにいった博古ら数人の共産党幹部を乗せて、重慶から延安に向かった飛行機が墜落したという事件もある。博古はモスクワ留学の経験もあり、一時は党の最高幹部として、毛の上に立ったこともある人物である。

 なお、文化大革命中に毛沢東の暗殺を企てたとして失脚した林彪も、飛行機でソ連へ逃亡する途中、モンゴルで墜落し死亡している。このときの飛行機はパキスタンから譲り受けたイギリス製のトライデントだそうで、林彪のほかに夫人の葉群、息子の林立果ら9名が乗っていたそうだ。

 さて、国内のほうに目を転じると、なんとも訳のわからぬ状況になりつつある。鳩山首相の支持率が急降下しているそうだが、そのこと自体はなんら驚くべきことではない。彼に政治的な能力が欠けていることは以前から明らかだったのだし、小泉退陣後に次々誕生した安倍、福田、麻生の各政権のていたらくを見れば、そう不思議なことでもない。

 しかし、奇妙なのはほんの昨日まで、ずっと政権を握っていた自民党やその系列の政治家らのほうである。なんでも、「立ち上がれ日本」 なる新党ができたそうだが、だとすると今まで日本は座っていたのか。選挙で大敗したり、政権を手放したりすると、とたんに右往左往し始めるのは、ロッキード事件のときの 「新自由クラブ」 以来のお家芸のようなものだが、なんともみっともない。

 選挙というものは、負けるときもあれば勝つときもある。同じように、政党ならば、与党になるときもあれば、野党になるときもある。それは、議会制民主主義のイロハのイというものだろう。おまけに、自称竜馬があちこちにいるようだが、竜馬が暗殺されたのは31歳のとき。少なくとも、すでにその二倍の人生を無駄にすごしてきたような人らに、いまさら竜馬を名乗る資格などないのは自明のことではないか。


関連記事: 今年は16年ぶりの冷夏となるか







Last updated  2010.04.14 16:07:12
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2010.04.04
カテゴリ:文学その他

 昨日今日と天気は回復したが、今年の春はずいぶんと気象の変化が激しかった。初夏なみの暑さになったかと思うと、いきなり冬に逆戻りして、ところによっては雪まで降った。それでも、いったん開花を迎えた桜は、誘爆式の仕掛け花火のように一気に花を咲かせた。名前は知らないが、まだ裸のままの落葉樹からも、天に向かって触手のような細い枝が無数に伸びている。

 『春の嵐』 といえばむろんヘッセであるが、ヘッセはどちらかと言えば苦手なので、これは読んでいない。叙情的なのはまだよいが、「芸術」 だの 「精神性」 だのとかを持ち出されると、いよいよかなわない。かわりにといってはなんだが、藤村には 『春』 という長編と、『嵐』 という中編がある。これを二つあわせると、「春の嵐」 となる。

 どちらも自伝的作品であるが、『春』 のほうは 『桜の実の熟する時』 に続く、藤村の青年時代、盟友であった北村透谷が自殺した頃の話。いっぽう 『嵐』 のほうは、それからほぼ二十年後、最初の奥さんに死なれ、手伝いに来ていた血のつながった姪を妊娠させてしまい、三年間フランスに逃げたあと、ようやく帰国して子供らと暮らしていた頃のことを描いた家庭小説である。

 『嵐』 は、彼が日本を逃げ出すきっかけとなった、この事件を描いた 『新生』 の七年後に書かれているが、藤村というのは煮えきらない男で、フランスから帰国してからも、兄に内緒で、また姪との関係は復活している。なので、この題名の 『嵐』 とは、たんに気象現象のことを指すというより、そういった彼の身の回りで起きた一連の事件のことをさすと見ていいだろう。

 三十年ほど前に亡くなった評論家の平野謙は、この 『新生』 執筆の動機について、姪とその父親である兄との間での 「秘密」 をめぐる関係の中で、にっちもさっちも行かなくなった藤村が、すべてを放り出してご破産にするためだったと論じている。

 もはや事態は明白である。藤村が 『新生』 を書いた最大のモティーフは、姪との宿命的な関係を明るみへ持ちだすことによって、絶ちがたいそのむすびつきを一挙に絶ちきるところにあったのだ。その自由要望の声はほかならぬ恋愛からの自由を意味している。

平野謙 「新生論」 より    


 実際、『新生』 という作品は、自分の子供を生ませた、ようやく二十歳を少しこえたばかりの姪に対する愛情も同情もほとんど感じられない、エゴイズム丸出しで自己弁護ばかりに終始している、酷い小説である。彼より二十年若い芥川が、 『或る阿呆の一生』 の中で、この主人公のことを 「老獪な偽善者」 と呼んだのも当然ではある。

 『春』 の最後には、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」 という主人公(つまりは藤村)の有名な台詞がある。この台詞は 『新生』 の中でも繰り返されているが、藤村はその後 『夜明け前』 を書き上げて、戦争が終わる二年前の1943年まで生き、71歳で亡くなったのだから、結果的には、そんなに心配することはなかったということになる。平野謙によれば、「かくて業ふかき人間島崎春樹はついに救われた」 のだそうだ。

 話は変わるが、昔々、左翼系の文学理論に 「典型理論」 なるものがあった。つまり、革命的な作家は、典型的な時代の、典型的な事件と典型的な人物を描かなければならないというものだが、よくある時代の、よくある事件とよくある人物を描いたところで、それだけではちっとも面白くはなかろう。

 戦後の中国では、魯迅の 『阿Q正伝』 の主人公、阿Qをめぐって、阿Qはいかなる階級の典型であったかを論じた、「典型論争」 なるものまであったという。たしかに、阿Qのような人間は、いつの時代にもいるだろう。そういう意味では、たしかに阿Qは人間のひとつの典型である。

 ただし、小説の登場人物が、人間のあるタイプを代表するという意味での典型でしかなければ、それはとうてい生きた人間とは言えない。ナポレオンのような非凡な人物を描こうが、阿Qのような卑小な人物を描こうが、あるいはリアリズムで描こうが、アレゴリカルに描こうが、小説というものは、なにかの 「一般論」 のような無味乾燥な公式に還元されるものではない。

 結局のところ、文学というものを支えているのは、たとえ表現形式としては 「虚構」 であろうとも、生きた人間である作者の 「実感」で あり 「感情」 ということになるだろう。世界中の物語をコンピュータにぶち込んで分析し、出てきたものにあれやこれやと脚色を付け加えたところで、それで 「はい、できあがり」 というわけにはいくまい。

 むろん、個人の実感や感情が、そのままでは一般性を有しないのは言うを待たない。人によって経験は違うし、経験の積み重ねの中からうまれた、ものの考え方や感じ方がひとりひとり違うのは、当然のことだ。だから、それをそのまますべてに当てはまるかのように一般化してしまえば、ただの実感主義や感情論にしかならない。

 しかし、それが人間の実感であり感情であるかぎり、そこにはなんらかの普遍性が存在するはず。であればこそ、そういった実感や感情は、たとえ完全な共感は不可能だとしても、一定の理解は可能なのであり、そこにコミュニケーションというものが成立しうる根拠もあるだろう。でなければ、個々の人間の個々の感情などを描き出した文学というものが、ときには時代や文化をもこえた普遍性を持ちうるはずがない。

 ようするに、「論理」 には還元されない、人間と人間のコミュニケーションにとって必要なのは、そういった具体的な人間の 「実感」 や 「感情」 の中から、そこに含まれている 「普遍性」、言い換えるなら普遍的な意味を引き出すことであり、そういう努力をすることだ。

 それは、世の中の人間のありとあらゆる 「実感」 やら 「感情」 やらを集めてデータ化したり、定量化して平均を出すようなこととは全然違う (かりにそれが可能だとして)。むろん、「実感主義」 だの 「感情論」 だのという、そのへんにいくらでも転がっているようなつまらぬ非難ともまったく関係ない。







Last updated  2010.04.04 16:48:35
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2010.03.20
カテゴリ:歴史その他

鳥羽院のおんとき 北面に召し使はれし人はべりき。左兵衛尉藤原義清(のりきよ)、出家ののちは西行法師といふ。かの先祖は天児屋根命(あまつこやねのみこと)、十六代の後胤、鎮守府の将軍秀郷に九代の末孫、右衛門大夫秀清には孫、康清には一男なり。

 上の引用は、西行の死から五十年ほどのち、つまり鎌倉時代の中頃に成立したと推定されている 『西行物語』 の冒頭。ただし、俗名は憲清と書かれることもある。なお、藤原秀郷とはかの将門を討ち取った人物で、俵藤太の名前でも知られ、琵琶湖の近くで巨大ムカデを退治したとか、栃木のほうでは百目鬼という妖怪を退治したなんて話もある。

 ただし、秀郷についてのそのような伝説が生まれたのは、西行が生きた時代よりもあとらしい。たとえば、室町に成立した 『俵藤太物語』 では、将門と秀郷の壮絶な死闘が語られており、それによれば、将門はつねに六体の分身をしたがえていて、七人いるように見えるが、分身には影がない、影のあるのは本体だけだとか、全身鉄でできているが、こめかみが弱点で、秀郷はそこを射抜いて倒したとか。

 実在の人物からこれだけシュールな伝説が生じるには、さすがにかなりの時間を要するだろう。とはいえ、『今昔物語』 にもあるように、平安時代というのは鬼や妖怪、怨霊などの超自然的威力が跳梁跋扈していた時代である。であるから、ある人物に対する伝説化の欲求がありさえすれば、そこに摩訶不思議なる伝説を生じさせる素地は、いつでもあったということになる。

 そのような武家の名門に生まれた西行が、二十三歳で突然出家した理由は、はっきりしない。親しかった友人が急死したからとか、高貴な年上の女性に振られたからとか、諸説あるようだが、どれもいささかできすぎている。むしろ、権謀術数うずまく宮中に嫌気がさしたというのが、平凡だがいちばんありそうな気がする。

 平安に限らず、その前の奈良にしても、宮廷内の権力闘争というものはすさまじい。様々な陰謀や政敵へのデマ中傷はもちろんのこと、僧侶や祈祷師を呼んでの呪詛合戦も珍しくはなかった。なにしろ、事件や事故が相次ぐと、誰々の呪いだ、祟りだといった噂がたちまち都中を駆け巡るといった時代なのである。雅な王朝文化なんてのは、しょせんただの表の顔にすぎない。

 それはなにも、非合理的な迷信とかのせいだけではない。同様のことは、権力が少数の閉じた集団に占有されている世界では、いつでも起こりうる。現代だって例外ではないのは、スターリンのような独裁者による政治の末路を見ればよく分かる。そういう世界では、自分にもっとも近い人間こそが、もっとも用心し警戒しなければならぬ相手なのだ。

 いわゆる浄土信仰の流行は、末法思想の広がりに伴うものだが、藤原氏のような上級貴族にとっては、それは現世の栄華を来世でも謳歌したいという、すこぶる利己的な欲求の表れでもあった。頼通が建てた壮麗な平等院鳳凰堂は、そのことをよく表している。道長は 「この世をばわがよとぞ思う」 と詠ったが、それも生きていればの話、死んでしまってはしょうがない。

 厭離穢土・欣求浄土とは、浄土信仰を一言で表したスローガンのようなものだが、信仰がしだいに下級武士や庶民へと広がるにつれて、重点はしだいに 「欣求浄土」 から 「厭離穢土」 のほうへと移動する。そこでは、阿弥陀経に謳われたような、迦陵頻伽が空に舞い、金銀財宝ざあくざくといった極楽浄土の華やかさなどは、もはや問題ではない。

 ただ、戦乱や天変地異に明け暮れ、人の命など無に等しい現世をいとわしいと感じる心だけが、浄土を求める根拠となる。実際、そういった人々は、なにもこの世ではとうてい味わえぬ豪奢な暮らしがしたいというような理由で、浄土を求めたわけではないだろう。

 しかし、そのような悲嘆が 「とく死なばや」 といった死の理念化へとひた走るなら、それは洋の東西を問わず、動乱期にはよくある宗教的急進化の一例にすぎない。そこへいたる心情がいかに純粋であろうと、そのような現世そのものを否定する思想は倒錯でしかない。そのような思想が無視できぬ広がりを持ったとすれば、それは時代のせいでしかあるまい。

 『西行物語』 では、西行は泣いてすがる4歳の娘を縁側から蹴落とし、心を鬼にして出家したなどと、無茶苦茶なことが書かれているが、これではただのよくできた抹香臭い 「聖人伝」 でしかない。実際の西行は、すでにきな臭くなっていた時代の中、奥州藤原氏のもとを訪れたり、その途中で鎌倉の頼朝に会ったりと、世の中の動きにもなかなか敏感な様を見せている。

 『吾妻鏡』 によれば、頼朝との会見を終えた西行は、土産にもらった銀の猫を屋敷の外で遊んでいた子供に与えて立ち去ったという。この話が本当かどうかはともかく、そういったことからうかがえるのは、権力などに関心はなくとも、現世そのもの、言い換えるなら、現世の中で生きる人間そのものは否定しないという思想のありようのように思える。


  願はくは 花の下にて 春死なん、そのきさらぎの 望月のころ

 この歌は、西行が50歳のころに詠んだものらしい。表現こそ直截だが、どこかにのんびりした感が漂っている。気がつくと、もう気の早い桜があちこちで花を咲かせている。







Last updated  2010.03.21 13:45:27
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2010.03.12
カテゴリ:歴史その他

 すでに卒業のシーズンだというのに、列島を襲った寒気と低気圧のおかげで、このところの天気は大荒れだった。こちらでも雪が降ったが、鎌倉の鶴岡八幡宮では、樹齢千年を超える銀杏の巨木がおりからの強風で倒壊したという。

 この巨樹には、鎌倉幕府の三代将軍実朝が兄頼家の子、つまり彼にとっては甥にあたる公暁に暗殺された事件で、犯人の公暁が身を隠していたという伝承があるそうだ。天下を揺るがしたこの事件について、比叡山の座主、慈円は次のように書いている。

夜ニ入テ奉幣終テ、寳前ノ石橋ヲクダリテ、扈従ノ公卿列立シタル前ヲ楫シテ、下襲尻引テ笏モチテユキケルヲ、法師ノケウサウ・トキント云物シタル、馳カゝリテ下ガサネノ尻ノ上ニノボリテ、カシラヲ一ノカタナニハ切テ、タフレケレバ、頸ヲウチヲトシテ取テケリ。ヲイザマニ三四人ヲナジヤウナル者ノ出キテ、供ノ者ヲイチラシテ、コノ仲章ガ前駆シテ火フリテアリケルヲ義時ゾト思テ、同ジク切フセテコロシテウセヌ。(中略)

此法師ハ、頼家ガ子ヲ其八幡ノ別当ニナシテオキタリケルガ日ゴロオモイモチテ、今日カヽル本意ヲトゲテケリ。一ノ刀ノ時、「ヲヤノ敵ハカクウツゾ」 ト云ケル。公卿ドモアザヤカニ皆聞ケリ。カクシチラシテ一ノ郎等トヲボシキ義村三浦左衛門ト云者ノモトヘ、「ワレカクシツ、今ハ我コソハ大将軍ヨ、ソレヘユカン」 ト云タリケレバ、コノ由ヲ義時ニ云テ、ヤガテ一人、コノ実朝ガ頸ヲ持タリケルニヤ。


 公暁に実朝のことを親の仇と吹き込んで、暗殺をそそのかしたのは、彼の乳母の夫である三浦義村だと思われるが、頼家が将軍引退後に修善寺で暗殺されたときには、実朝はまだわずか十二歳であるから、とても事件の黒幕であったはずはない。実際の黒幕はむろん北条氏、具体的には政子の親父であり、つまり頼家にとっては母方の祖父になる北条時政だろう。

 公暁は実朝よりさらに年下であるから、事件当時はほとんどなにも知らなかったはずだ。とはいえ、それから十年以上たった実朝襲撃の時点では、ある程度の真実は知っていただろう。実際、このとき公暁は、実朝に随行しているはずの北条義時の首もとるつもりで、源仲章という別人を殺害している。なお、『吾妻鏡』 によれば、このとき義時は事件現場のすぐ近くまで来ていながら、不意に気分が悪くなり、自分の役を仲章にゆずって引き返したという。

 おかげで、義時は事件に巻き込まれずにすみ、かわりに源仲章なる人物が間違って殺されることとなった。実朝の首を取った公暁は、次はおれが将軍だと豪語して、信頼していたらしき三浦義村に使者を送る。報を聞いた義村は、すぐに迎えをよこすと答えながら、裏では義時にその旨を通報し、義時の命を受けて、迎えではなく公暁を討つよう配下に命じて送り出す。

 結局、公暁は迎えを待たずに、実朝の首をかかえたまま義村の屋敷へ向かうが、途中で義村の討手と出会い、奮戦むなしく、中へ入ろうと義村の屋敷の塀によじ登ったところを討たれたという。慈円はことの顛末を、「頼朝は優れた将軍であったのに、その孫になるとこんなことをしでかすとは、武士の心構えもできていない愚か者よ」 というような、辛辣な言葉で締めくくっている。

 唐木順三は 「実朝の首」 という文の中で、義村が公暁をそそのかして実朝と義時を討たせようとしたものの、義時生存の報を聞いて、急遽寝返ったのではと推測している。しかし、北条にとっても、実朝の殺害は以前からの既定路線であったのだし、この義村という人物、その前の和田一族が討たれた事件でも、盟を結んでいた義盛を裏切って、義時に通報している。なので、公暁は最初からただ踊らされていたに過ぎないのでは、という推測も成り立ちそうである。

 翻ってみるなら、最初の武家政権である平氏政権が、清盛という卓越した個人を中心としながらも、一門としての基盤をもった権力であったのに対し、頼朝の権力は、平安以来の歴史を持つ関東武士団を軸にし、それを束ねることで成り立ったものであった。頼朝が伊豆に流されたのは十三のとき、以来二十年も関東で暮らしていた頼朝は、源氏の嫡流であり、父義朝ゆかりの縁はそこそこにあっても、ほとんどただの亡命者にすぎない。
 
 しかし、将門以来、離合集散がたえず、しかも遠く離れた京の政治などにはさして関心もないような関東武士団を、朝廷に対抗するひとつの権力にまとめあげるには、北条だの畠山だのという個々の豪族すべての上に立つ 「象徴」 としての人物が必要であった。それはむろん 「貴種」 の血を引くものでなければならなかった。

 しかしながら、いったん制度ができてしまえば、トップに立つのは本当にただの 「象徴」、つまりは 「傀儡」 でいいということになる。とりわけ、しだいに他の御家人を排除して、幕府内での独裁的地位を固めつつあった北条氏としてはそうだろう。北条氏から見れば、頼家は頼朝の息子というだけでのぼせ上がったわがまま小僧であるし、京に憧れる実朝は、独自の権力たる関東武士団の存在を危うくしかねない困り者ということになる。

 結局、この事件以降、将軍は京の摂関家や皇族から次々選ばれることになるが、いずれも右も左も分からぬ幼いころに将軍に任じられ、成長するや、ことごとく罷免されて京へ送り返されるということが繰り返されている(参照)。これは、平安時代の摂関政治や院政における幼帝の擁立とほとんど同じである。

 つまるところ、いったん権力が創設されると、そのトップの地位はしだいにただの 「象徴」 と化し、実権はナンバーツーに握られるというのは、どうやらこの国の政治の古きよき伝統なのらしい。そして、ナンバーツーも無能であるなら、権力はやがて下へ下へと移行し、権力装置そのものの拡散と解体にいたる。それは、戦前や戦中の政治過程でも見られたし、小泉退陣後の自民党政治にも、ある程度あてはまる。

 さて、宇宙人と称し、意味不明の宇宙語をしゃべるらしき現宰相のほうはどうなのか。基地移設をめぐる発言にしても、朝鮮高校に通う生徒への学費援助をめぐる発言にしても、あっちに引っ張られ、こっちに引っ張られでくるくると変わっており、一貫性にも合理的根拠にも欠けている。だいたい、拉致問題担当相とかが、どうしてこの話に首を突っ込むんだ?







Last updated  2010.03.12 22:19:35
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2010.02.18
カテゴリ:歴史その他

遊びをせんとや 生れけむ
戯れせんとや 生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ ゆるがるれ

 後白河天皇といえば、平安末期から鎌倉初期にかけての人で、父親は鳥羽天皇、もともとその四番目の皇子という気楽な立場だったので、若い頃は遊蕩三昧の日々を送っていたという。慈円という坊さんが鎌倉初期に書いた 『愚管抄』 にも、彼が父の鳥羽天皇から、あいつは遊んでばかりで、とても天皇になれる器ではないと思われていた、というような一節がある。

 この天皇が、当時、遊女や白拍子など一般庶民の間に流行っていた、「今様」 と呼ばれていた歌謡にこっていたというのは有名な話で、天皇の位をおり出家して法皇となっていた後年、ちょうど鎌倉幕府が成立するかしないかのころに、『梁塵秘抄』 という今様を集めた書物を自ら編纂している。

 Wikipediaによれば、今様とは今で言う 『現代流行歌』 といった意味だそうだ。吉本隆明は 『初期歌謡論』 の中で、「『新古今和歌集』 の歌は、とぼけた心酔者がいうほどけんらんたる和歌の世界などではない。いわゆる大衆曲謡に浸透されて俗化し崩壊寸前においこまれていた危機の詩集である」 と書いているが、そういった伝統が重んじられる上流社会にも浸透していった雑芸の代表が、後白河が熱中した今様ということになる。

 若い頃のその熱中ぶりときたら、とにかく朝から晩まで一日中歌いどおしで、声が出なくなったことも三度ある。おかげで喉が腫れて湯水を飲むのもつらかったとか、一晩中歌いっぱなしで、朝になったのも気付かず、日が高くなってもまだ歌っていたなどというのだから、尋常ではない。親父殿から、「即位ノ御器量ニハアラズ」 と呆れられたのももっともな話だ。

 そういう伝統や伝統的価値観の崩壊というのは、信仰の世界でも同様で、平家は清盛にはむかった奈良の東大寺や興福寺など、「南都」 の大寺院を軒並みに焼き払っている。さすがに、後に信長が比叡山でおこなった皆殺しほどではなかったろうが、これが王朝貴族らに与えた衝撃には、同じようなものがあっただろう。

 堀田善衛の 『定家名月記私抄』 によれば、藤原定家はその日記 「明月記」 で、この事件について 「官軍(平氏の軍のこと)南京ニ入リ、堂塔僧坊等ヲ焼クト云々。東大興福ノ両寺、己ニ煙ト化スト云々。弾指スベシ弾指スベシ」 と書きしるしたそうだし、藤原兼実の日記 「玉葉」 には、「世ノタメ民ノタメ 仏法王法滅尽シ了ルカ、凡ソ言語ノ及ブ所ニアラズ」 とあるという。

 現世の生を終えたら、次は極楽浄土に生まれたいという浄土信仰が、貴族の間に広がったのは末法思想によるものだが、やがてその教えは、とにかく 「南無阿弥陀仏」 とただ一心に唱えよという法然の教えとなり、中には 「とく死なばや」 などと、物騒なことをいう者も出てくる。一遍などは、身分の上下や男女の区別なく、大勢の信者を引き連れて、踊りながら各地で布教を行った。

 こういった状況は、天台座主であった慈円のような、頭コチコチの伝統主義者の目には、きわめて由々しき事態として映っていたのだろう。法然と彼の教団について、「ただ阿弥陀仏とだけ唱えていればよい、ほかに修行などいらぬなどといって、なにも分かっていない愚か者や無知な入道や尼に喜ばれて、大いに盛んとなり広がっている」 などと憤慨している。

 慈円は、安楽房という法然の弟子が 「女犯を好んでも、魚や鳥を食べても、阿弥陀仏はすこしも咎めたりはしない」 と説教していたとも書いている。実際、この安楽房という坊さんは、後鳥羽上皇が寵愛する女官との密通という嫌疑により斬首刑に処せられ、さらに法然や親鸞も京都から追放される憂き目にあった。ちなみに、後鳥羽上皇は後白河の孫にあたる。

 伝統に挑戦するような新しい教えとかが広まると、正統派を自認する伝統主義者の側から 「異端」 だの 「淫祠邪教」 といったレッテルが貼られるのは、世の東西を問わず、よくあることで、この事件もまた、伝統的勢力の側による誣告が影響した可能性が高い。だが、少なくとも、彼らの眼には、新興の念仏教団が現代の怪しげな 「新興宗教」 のように、なにやらいかがわしいものと映っていたのは事実だろう。

 そういったものが、最初から 「無知蒙昧」 な下々の民の間に広がるのはしかたないとしても、それが仏典なども読み、それなりに教養もあるはずの宮中にまで浸透してくるとなると、伝統や文化の守護者を自認していたであろう慈円のような人にとっては、たんに宮廷の保護を受けてきた既得権益者としての利害というだけでなく、まことに世も末というべき 「文化の乱れ」 であり、上流階級としての 「品格」 が問われる事態でもあったのだろう。

 若い頃は、「即位の器量にあらず」 と父親からも見放されていたような後白河が天皇になれたのは、先に即位した異母弟の近衛天皇がはやく死んだためだが、親父様からたいして期待されていなかったのは、このときも同様で、後白河をとばして、まだ小さいその息子(のちの二条天皇)を即位させるという案もあったらしい。

 しかし、それはあんまりだろうということで、とりあえず中継ぎとして即位することになったのだが、院政をしいて実権を握っていた鳥羽上皇がなくなると、とたんに宮中のいろんな対立が噴き出し、まずは兄の崇徳上皇との間で保元の乱が勃発する。その後、平治の乱から源氏の挙兵、さらに同じ源氏の義仲と頼朝の争い、次は義経と頼朝、頼朝による奥州藤原氏討伐と、次から次へと戦乱が続く。

 その中での後白河の行動は、つねにその場しのぎをやっていただけの無定見と見る人もいれば、武士の台頭という大きな歴史的変動の中で、なんとか諸勢力のバランスをとって、朝廷の力を保とうとできる限りの努力をしたと評価する人もいる。ちなみに、頼朝は後白河のことを 「日本国第一の大天狗」 と評したそうだ。

 とはいえ、「諸行無常」 という言葉のとおり、次々と諸勢力が勃興しては滅びていく中で、天皇退位後も、子や孫にあたる二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代に及んで院政をしき、後鳥羽をのぞく四人の夭折した天皇より永らえて、65歳まで生き続けたのは、当時としては十分に天寿をまっとうしたと言えるだろう。

舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり)
舞はぬものならば
馬の子や牛の子に蹴させてん
踏みわらせてん
まことに美しく舞うたらば
華の園まで遊ばせん







Last updated  2010.02.21 14:25:50
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2010.02.02
カテゴリ:神話・伝承・民俗

 「節分」 とは、ほんらい春・夏・秋・冬の季節の分かれ目のことであり、立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日を指す。いまでも正月のことを新春と呼ぶ習慣が残っているように、もとは春が新年のはじまりであって、旧正月と暦上の冬と春の区切りである節分はほぼ同時期になる。

 ただし、立春が太陽の運行に基づいているのに対し、旧暦は基本的に月の運行に基づいているから、正月と立春の関係はかならずしも一定しない。ときには、年が明ける前に立春を迎えて春になることもあり、そこから、明治に短歌革新を掲げた正岡子規により、「実に呆れ返つた無趣味の歌」 などとぼろくそにいわれた、古今和歌集巻頭のこんな歌も生まれている。

としのうちに 春はきにけり ひととせを
こぞとや いはむ ことしとや いはむ


 たしかに、この歌の意味は、年のうちに春が来てしまった、それじゃいったい今日から正月までは、去年になるのか、今年になるのか、どっちなんだ、というたわいもないものだが、「実に呆れ返った無趣味の歌」 とはいささか手厳しい。なお、この歌の作者は在原元方といって、伊勢物語の主人公でもある在原業平の孫にあたる。

 「節分」 といえば当然豆まきであり、したがって鬼の話ということになるのだが、大正15年に三田史学会で行われた講演をもとにした、折口信夫の小文 「鬼の話」 は、次のように始まっている。

 「おに」 という語にも、昔から諸説があって、今は外来語だとするのが最も勢力があるが、おに は正確に 「鬼」 でなければならないという用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うている。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ (神)と、おに (鬼)と、たま (霊)と、もの との四つが、代表的なものであったから、これらについて、総括的に述べたいと思うのである。


 ここで彼が言っている、おにを 「外来語だとする」 説というのが、具体的にどういうものを指すのかは知らない。ただ、すなおに考えるなら、中国から入ってきた 「鬼」 という漢字に 「おに」 という読みがあてられたということは、漢字導入より前に 「おに」 なる言葉があったということになるだろう。ただし、それは、漢字で表された中国の鬼とまったく同じというわけではあるまい。

 「魏志倭人伝」 には、卑弥呼について 「鬼道を事とし能く衆を惑わす」 とある。「鬼神を敬してこれを遠ざく」 とは孔子の言葉であり、「断じて敢行すれば鬼神もこれを避く」 とは、『史記』にある趙高の言葉だが、中国での鬼とは、もともと死霊のことを指す。「怪力乱神を語らず」 と孔子は語ったが、儒教とはもともと祭祀の礼からはじまったそうだから、孔子とて、そのような存在まで否定したわけではない。

 ついでにいうと、プラトンの 『ソクラテスの弁明』 によれば、彼は少年のころから 「ダイモンの声」 を聞いていたそうで、田中美知太郎はこの 「ダイモン」 を鬼神と訳している。ソクラテスの罪状は、神を認めず青年を惑わしたというものだが、ダイモンの声をつね日頃聞いている自分が神を認めぬはずがないではないかと論じて、ソクラテスは自己の無罪を主張したということだ。

 さて、日本の文献で 「鬼」 という文字が最初に登場するのは、奈良時代に編纂された 「出雲国風土記」 らしい。これには、古老の話として 「昔ある人、ここに山田をつくりて守りき。そのとき目一つの鬼きたりて田作る人の男を食らひき」 という話が残されている。これ以降、鬼は人を襲い人を食らう恐ろしい存在として、様々な史書や説話に登場する。

 なかでも有名なのは、源頼光が四天王の一人、渡辺綱に片腕を切り落とされ、のちに綱の養母に化けて腕を取り戻しにきたという、大江山の鬼の話だろう。もうひとつは桃太郎の鬼退治だが、こちらは、崇神天皇によって今の岡山に派遣された四道将軍のひとり、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が、吉備の鬼ノ城を拠点とした温羅という名の鬼を退治したという伝説に基づくという説が有力のようだ。

 この吉備津彦命とは、七代目の天皇である孝霊天皇の皇子ということになっており、したがって、奈良の箸墓古墳に埋葬されているとされ、一部の学者によって卑弥呼ではないかとも言われている、倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)の弟ということになる。

 こういった鬼についての、『鬼の研究』 という本での歌人の馬場あき子による分類を借りると、日本の鬼はおおよそ次のように分類できる。

  (1) 最古の原像である、日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)
  (2) 道教や仏教を取り入れた修験道成立にともなう山伏系の鬼(天狗も)
  (3) 邪鬼、夜叉、羅刹、地獄の鬼などの仏教系の鬼
  (4) 放逐者や賎民、盗賊などの「無用者の系譜」 から鬼となったもの
  (5) 怨恨・憤怒・雪辱など、さまざまな情念をエネルギーとして鬼となったもの


 秋田のなまはげのように、新年の民俗行事に登場する素朴な鬼は、おそらく最も古い(1)にあたるだろう。いっぽう節分での鬼退治は平安のころ、中国伝来の宮中行事から始まったそうで、もとは新年の祝福に来ていた(1)の鬼が、その影響を受けて(2)や(3)の鬼に変化したもののようにも思える。

 かりにそうだとすると、かつては新年に歓待されていた鬼が、いまや子供にすら豆を投げつけられて追い払われるようになったわけで、ずいぶんと落ちぶれたものだ。最後は、上で冒頭を引用した折口信夫の 「鬼の話」 の結語から。

 まれびと なる鬼が来た時には、できる限りの歓待をして、悦んで帰って行ってもらう。この場合、神あるいは鬼の去るに対しては、なごり惜しい様子をして送り出す。すなわち、村々にとっては、良い神であるが、長く滞在されては困るからである。だから、次回に来るまで、ふたたび、戻って来ないようにするのだ。こうした神の観念、鬼の考えが、天狗にも同様に変化していったのは、田楽に見えるところである。


 なお、現代で鬼を比喩に用いるとすると、「土俵の鬼」 とか 「将棋の鬼」 などとなる。「土俵の鬼」 とは初代若乃花(つまり、このたびめでたく協会理事に当選した貴乃花の叔父)であり、「将棋の鬼」 とは大山康晴のライバルだった升田幸三のことだが、このような鬼という言葉からは、ただ強いだけでなく、勝負にすべてをかけ、それ以外のことはいっさい顧みないという、いささか狂気じみたものすら感じられる。

 このような表現は上の(5)の応用のようなもので、その強さとは、もちろん相手を圧倒する攻撃を主とした剛の強さであり、したがっていったん受けにまわると、あっけなく敗れてしまうというイメージも伴う。ただし、実際のところ、この二人がどうだったのかまでは、残念ながらほとんど知らない。







Last updated  2010.02.03 11:16:38
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2010.01.22
カテゴリ:政治

 こちらのサイトによると、「三寒四温」 とは もとは中国の東北部や朝鮮半島北部で冬の気候を表すために使われていた言葉で、シベリア高気圧から吹き出す寒気がほぼ7日の周期で、強まったり弱まったりすることに由来するのだそうだ。

 そこにも書いてあるように、この言葉はたしかに最近では、むしろ低気圧と高気圧が交代しながらしだいに暖かくなっていく、春先の気候変化を表すことが多くなっているが、ここ数日の気候と気温の変動は、まさにこの言葉の本来の意味にぴったりのようだ。

 昨日はひじょうに暖かく、近くにある小さな橋の上から下をのぞくと、浅く透明な川の底に、まるまると太った鯉が潜水艦のようにゆったりと沈んでいるのが見えたりしたのだが、今日は一転して冷え込んだ。明日はもっと冷え込むらしい。

 冬はなんとなく人が死ぬ季節というイメージがある。今年も、かつての名投手小林繁をはじめとして、様々な人の訃報があいついだ。むろん、冬でなくとも人は死ぬのだし、有名人の訃報などなくとも、あちらこちらで人が死ぬことにはかわりない。古代人ならば、冬とは太陽が最も衰える季節であるから、生き物の力もまたそれに呼応して衰えるものと考えるところだろうか。

 世間は不景気のようで、こちらもほとんど仕事がない。つぶれかけた零細塾から転職して、やっとなんとか人並みに暮らせるようになったと思ったら、また前の状態に逆戻りのようだ。とりあえず、しばらくは毎日散歩でもして体力増強とダイエット、それに長年書棚の肥やし状態になっていた積読本の解消に専念しようと思うのだが、それがいつまでも続くようではちと困る。

 ところで、衆議院の党首討論と代表質問で、自民党の谷垣総裁は鳩山首相と千葉法相に対して、「指揮権」 発動について三度も尋ねたという (参照)。この場合の指揮権とは、公法のひとつである検察庁法に定められた、法務大臣の次のような権限をさす。

第十四条  法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。


 法務大臣の指揮権は、このように明確な法的根拠を持つ。であるなら、事件とその捜査をめぐる状況が、今後どのように進行するかも分からないのに、その行使そのものを最初から問題視するような谷垣総裁の質問は、きわめて筋のとおらぬおかしな話でしかない。

 法的にいえば、検察庁は法務省のもとにあり、したがってその最高責任者は法務大臣である。検察庁に所属する検察官は独任官庁と呼ばれ、全体としても、またひとりひとりとしても独立性が強いが、検察庁はあくまで行政機関のひとつであり、法務大臣とひいては総理大臣に責任を負う。そして、同時に大臣はまた検察官の行為に対して、最終的な責任を負う。

 そうであれば、大臣が検察に対して指揮権を持つのは当然なのであり、その行使自体を問題視して、あらかじめ法務大臣の手を縛ろうというのは、本末転倒な話と言わざるを得ない。それに、法で明確に定められた権限を行使することが、それ自体としてはなんの問題も含まないというのは、それこそ 「法治国家」 としては自明の話にすぎない。

 ただし、捜査への政治権力の不当な介入を防止するために、その行使は慎重でなければならない。だから、問題なのは指揮権の行使そのものではない。ただ、そこには正当な行使と不当な行使の区別があるということであり、その正当・不当については、政治家が責任を負うということだ。反対派は、当然その行使を非難するだろう。また、場合によっては、マスコミなどによって激しく批判されたりもするだろう。

 しかし、その結果は国民の声であるところの世論として現れるし、次の選挙にも反映されることになる。つまるところ、政府や政治家の行為の正当・不当について判断するのは、国民自身なのであり、それが保証されているのが民主主義というものなのだ。法定の手続きに従った合法性は、それだけでその正当性を担保するものではない。

 官僚ならば、とりあえず法に従っておけば、責任を問われることはない。足利事件で菅家さんを起訴した当時の検察官が、法的な責任を問われずにすんでいるのは、そういうことだ。しかし、政治家の責任はそういうものではない。合法であっても、不当な権力行使として責任を問われることはある。それを引き受ける覚悟があるのが、ようするにウェーバー言うところの、政治屋ではない本物の政治家ということになる。

 そもそも、法で認められた大臣の指揮権そのものを封じることは、たんなる行政官庁にすぎない検察を、誰に対しても責任を負わない 「聖域」 とすることである。それは、捜査権と起訴権という強大な権力を有する検察を、絶対的な権力とするにひとしい。しかしながら、誰かの言葉にもあるように、絶対的権力は絶対的に腐敗する。そこに例外はない。

 憲法上の三権のうち、司法権は最高裁を頂点とする裁判所がになっている。だが、裁判所は提訴された事件を扱うだけである。とりわけ刑事事件の場合、日本では検察官のみが起訴する権限を持っている。その意味で、検察官は行政権の一部でありながらも、司法権の重要な要素をも構成している。

 まして、有罪率のきわめて高い日本の司法では、検察官の実質的な権力はひじょうに強いといわねばならない。その意味において、検察を誰も手をつけられない不可侵の 「聖域」=「独立国家」 とすることは、それを 「民主主義」 の埒外、言い換えるなら主権者たる国民の手の届かぬところにおくことにほかならない。

 それにしても、かつて自党の議員が検察の捜査を受け、つぎつぎと逮捕・起訴されたときには、「検察ファッショ」 だのなんだのといって非難していた自民党の諸氏が、選挙に負けて野党に回ると、今度は一転して検察を持ち上げ、政府を攻撃するとは、これはなんとも無様なご都合主義以外のなにものでもない。

 政治と金の問題は、たしかに重要な問題である。しかし、その摘発と捜査が検察の恣意に任されるなら、これは政治と政局を動かす大きな武器となる。悪質な違法行為は論外だが、法と手続きの煩雑化はその完璧な順守を困難とさせるものでもあり、場合によっては、「一罰百戒」 を名目とした捜査機関による恣意的な摘発と捜査をも可能にする。それは、政治家に対する生殺与奪の権を検察に与えるに等しい。

 国会がほんとうにこの事件に関心を持ち、真相を究明したいと望んでいるのなら、検察という名の虎の威を借るキツネのようなことをするのではなく、開会直前に逮捕された石川議員を釈放させ、国会の場で宣誓のうえできちんと証言させるべきだろう。それが、少なくとも 「国権の最高機関」 たる議会を構成する者らの矜持ではないだろうか。検察の捜査は、被疑者の身柄を拘束せずとも可能なはずである。

 政府を攻撃するという目前の利益だけで検察の威を借るような、現在の自民党のご都合主義的な言動は、「統帥権干犯」 や 「国体明徴化」 などの名を借り、一部の軍人や民間右翼を利用して、ときの政府や対立する政党、政党人を攻撃し、自らの墓穴を掘ったかつての愚かな政治家らとそっくりである。もっとも、検察が軍のような実力部隊ではないということだけは、幸いというべきではあろうが。

 たしかに、55年体制以来、長年権力を独占してきた政党としては、野党慣れしていないという点はあるだろう。しかし、鳩山政権に対する 「社会主義」 などというピントのずれた非難や、先日発表された党の新綱領原案(要旨)なるものの、選挙前とかわらないイデオロギッシュな愚かさといい、その志のあまりの低さにはあきれるほかにない。

 だいたい、党の綱領というものは一時的な政治状況に左右されない、党の長期的な基本方針を定めた文書のはずだが、これを見ると、現在の自民党には、どうやら現在の対立状況しか目に入ってないようだ。ということは、ひょっとすると、このままずっと 「万年野党」 の地位に甘んじるつもりなのだろうか。







Last updated  2010.01.23 05:42:19
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