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カテゴリ:政治
本当かどうかは分からないが、中国の古典 『史記』 によれば、聖帝 尭の時代に許由という人がいたそうだ。
この許由、非常に優秀なひとだったそうで、それを聞いた尭は彼に天下を譲ろうとした。ところが、許由は富も名誉も思いのままというせっかくの話を断り、箕山という山に隠遁し、なんて汚らわしい話を聞いてしまったんだ、耳が汚れたといって、潁水という川で耳を洗ったということだ。 この話にはさらに続きがあって、ちょうどそのとき、牛を引いて潁水に水を飲ませようとして、その場に居合わせた巣父という彼の友人は、許由が潁水の水で耳を洗うのを見て、おいおい、水まで汚れてしまったじゃないかといい、牛をひいて去ったのだそうだ。 そこから話はさらに、夏目漱石の 「漱石」 という号の由来にまで続くのだが、それは今は関係ないので省略する。 安倍首相が辞職の意思を表明した直後の麻生太郎の顔は、どう見ても、やったぞ、今度こそおれの番だ、という嬉しさを隠しきれないものであった。参院選後の首相の続投支持と、その後の内閣改造に、麻生氏のどういう隠れた意図があり、それがどのように働いていたのかはよく分からない。しかし、麻生氏のいかにも自分が後継になるのが当然だと言わんばかりの態度は、党内の大きな反発を呼んでしまったようである。 議員総会でのすったもんだや、小泉チルドレンによる小泉再登板を求める署名集めなどという茶番をへて、いつのまにか福田氏支持の流れができてしまっている。前首相の支持表明もあり、ほとんどの派閥が福田支持を決めた中で、麻生氏はきっと、こんなはずじゃなかったのに、という、臍をかむような気持ちでいることだろう。 そういう党内の大勢に対して、麻生氏は、「政策が発表される前に推薦が決まるのは、派閥レベルの談合との批判を受ける」 という批判をしているが、残念ながら、これはもはや負け犬の遠吠えのようにしか聞こえない。 世論を巻き込み、党内でも大いに議論して総裁を決めるというのは、むろん悪くはない。だが、前回の総裁選では、まさにそのような 「国民を巻き込んだ大いに盛り上がった選挙」 のすえに、安倍晋三というとんでもない人を皆で選んでしまったのではなかっただろうか。手続きも確かに問題ではあろうが、ちゃんとした人が選ばれて、それなりの仕事をすれば、支持率などは後から付いてくるはずだ。 いささか建前っぽいことを言ってしまったが、皆さん、一人前の政治家なら、そのくらいの余裕を持っていなければ困るだろう。泡のようなただの期待にしか過ぎぬ発足時の支持や不支持などより、その後の仕事と実績に基づいた支持のほうがよっぽど大切なはずである。 さっそく、麻生氏と福田氏、あちこちの報道番組にお呼ばれして、いろいろと質問を受けている。当然そこからは、外交や 「改革」 「格差問題」 などについての、2人の考えの違いのようなものがにじみ出てくる。だから、もちろんそれなりの意義はある。しかし、ひとつだけちょっと気になったことがある。 それはなにかというと、「あなたの国家観は」 というような質問である。そのような抽象的な質問に対して、1分や2分で答えられるはずはないとか、どうせ当たり障りのないことしか言うはずはない、というようなことはともかくとして、そういった質問を政治家に対してしたり顔で当然の如くにぶつける質問者の感覚には、なにか微妙な違和感を覚えるのだ。 「政治家には国家観が必要である」 たしかにそうである。非常にまっとうな命題である。ビジョンもなにもない、ただの名声欲や権力欲だけで、政治家になりたがる人には、たしかに困ったものである。しかし、実はそれ以上に困った存在であり厄介なのは、高邁な 「理想」 に燃えているつもりで、生煮えのトンデモな国家観や国家像を得意顔で振り回す人たちのほうではないだろうか。 安倍首相も、きっと小泉氏の次期総裁候補にまで上り詰めた時点で、誰に教えられたのか、「そうだ、政治家には国家観が必要だ!」 と気付かれたのだろう。そして、「美しい国」 という、きわめて独創的(?)な自らの 「国家観」をひねり出して、国民に向けて発表されたのであろう。 政治家が自分の考えを国民に向けて明らかにすることは、もちろん良いことである。しかし、政治家の一番の仕事は、なによりもまず一般の国民の意見によく耳を傾け、「民より先に憂い、民より後に楽しむ」 ことのはずだ。 幕末の志士や戦前の青年将校気取りで、おかしな 「国家観」 や「理念」 などを振り回し、あげくのはては国民にむりやり押し付けて、ひたすら迷惑をかけるような政治家などはいらない。そういう妙な勘違いをする政治家や政治家の卵を、これ以上増やさないためにも、あまりそのような意味のない質問は、テレビのような場ではしないほうがいいのではと思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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なるほど、さすが中国三千年の歴史、何にでも徹底してるんですね。しかし、それほど国を治めるというのは大事なこと。麻生くん恥ずかし~です。
付け焼き刃の国家観よりも、まず、民に心を沿わせてこそ、宰相の資格ありと、教えてやりたいですね。 (2007.09.16 16:16:10)
薔薇豪城さん
麻生さん、なんだかすっかり腹黒のイメージがついてしまったみたいですね。これは、かなり痛そうです。 麻生氏の言う『とてつもない国』というのもよく分かりませんが。 (2007.09.16 16:26:35)
安倍総理の辞意表明をうけて、今、TVでは政治家としての「資質」などという言葉が飛び交っています。政治家に求められる資質はいろいろとあるのでしょうが、その中に「国家観」というものも入っているように思います。
政治家が国家観をもつ。これは確かに悪いことではありません。必要なことと言っていいでしょう。しかし、もちろんどのような国家観をもっても良いわけではない。政治家にはもっても良い国家観と悪い国家観とがある。この場合の国家観の良し悪しとは、その国家観の「質」ではなく、「由来」をもって判断されるべきでしょう。つまり、その国家観は誰が構築したものなのか、ということです。 政治家は、自ら国家観を構築すべきではありません。政治家は誰かの国家観に耳を傾け、それに賛同し、その国家観を実現するための実務家でなければならないのではないでしょうか。 つまり、政治は啓蒙された人でなければならない。政治家が自ら国家観を構築し、啓蒙する人であってはならない。もっと言えば、誰かの弟子であって師匠を持たなければならない。 権力を持つことになる政治家にとって、師匠を持つ、それも、政治以外の領域で師匠を持つということは大変重要なことではないでしょうか。師匠を持つということは、他人の意見に謙虚に耳を傾けるという姿勢にも通じます。 国家観についての師を持てば、政治家に必要な資質とは、現実と粘り強く妥協していく姿勢です。昨今の政治家は、自前の国家観を持たねばという強迫観念に駆られて、実務家としての資質を忘れているように思います。 (2007.09.16 16:35:50)
愚樵さん
>昨今の政治家は、自前の国家観を持たねばという強迫観念に駆られて、実務家としての資質を忘れているように思います。 本論の補足のようなコメント、まことにありがとうございます。まったく、そのとおりだと思います。 こういうことがとくに叫ばれるようになったのは、やはり小泉時代からでしょうか。 背景としては、国際関係や国内の社会的な問題などで、いろいろと危機感めいたものが感じられるようになっていることがあるのでしょう。 これは「強い指導者」や「政治重視の指導者」(財界から対中関係で注文を付けられたときに、商売人がなにをいう、みたいなことを小泉は言ってましたね)を求める心性とも、共通しているようです。ナチスが典型的な例ですが、政治や政治家に過大な期待をすることは、下手をすると危険な結果をもたらしかねないことのように思います。 (2007.09.16 17:07:18)
たとえ先行き不透明だろうと、人物払底だろうと、われわれは、民意を汲む事につとめ、無力な者を虐げたりしない、われわれよりは少し賢い政府、指導者の舵取りで暮らしたいものである。安易にこわもての英雄を求めたりすると、とんでもないババを引き当てる可能性がある。
藤沢周平さんの随筆集「ふるさとへ廻る六部は」に収録されている「信長ぎらい」というエッセイの末尾です。 日本人は「俺について来い!」型のリーダーについて行きがち・・というところがどうも最近また復活してきているような気がします。 (2007.09.16 22:46:35)
まろ0301さん
そちらでの話ですけど、岩見さんが書かれていたことは、やはりワイマール共和国の末路を踏まえてのことなのでしょうね。 「国家観」もそうですが、「国益」という言葉もそうで、こういう言葉を安易に使っていると、肝心の具体的な国民の生活という問題がしばしば見失われ、一見正論のように聞こえる、硬直した議論ばかりが横行するといったことになりかねません。 そういった認識を古館あたりに求めるのは、ちょっと無理ではありましょうが、前回の総裁選出の失敗を自民党はもちろん、マスコミや評論家はどれだけ反省しているのでしょうか。「盛り上げればいい」という程度の馬鹿な意見にはうんざりです。 (2007.09.16 23:15:05) |