|
カテゴリ:雑感
今日も暑い。連日、最高気温が30度を超える真夏日が続いていて、あちこちで最も遅い真夏日の記録を更新しているのだそうだ。アスファルトの道路には、くっきりとした影が灼きついている。
近親者を殺害された者としては、被告の死刑を望むという気持ちは分からないでもない。「目には目を」 という言葉が象徴するように、罪と罰は等価でなければならないというのは、たしかに古来からの法の原則のひとつである。だが、たとえ、被告を死刑にしたところで殺されたものが生き返るわけではない。 そもそも、個々の犯罪被害者や遺族の感情というものは、どんなものとも交換しえないただひとつのものである。それは、心的な外傷を残す性的犯罪やしつような暴力の被害者の場合にも言える。だからこそ、そのような遺族や犯罪被害者の感情が法廷に持ち出されれば、これに異議を唱えたり距離をとることはきわめて困難である。 被告人の利益のために、そのようなことをあえてする者には、それこそ 「人非人」 のレッテルがはられるだろう。実際、被告の元少年の弁護団には、そのような非難がすでに投げつけられている。 このような固有なものとしての遺族の感情を法廷の場に持ち込むことは、公正かつ公平でなければならない近代裁判にとっては、自殺行為なのではないだろうか。ほんらい、「犯罪被害者や遺族に対する配慮」 と 「真実の追究」 とは、別々の問題のはずである。この二つを混同してしまえば、公正・公平な裁判という、最も重視されなければならない原則そのものが危うくなりはしないかと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[雑感] カテゴリの最新記事
改正案は殺人や傷害など故意の犯罪行為や交通事故など過失により人を死傷させた罪の刑事裁判で、被害者や遺族、被害者側が委任した弁護士に裁判への大幅な関与を認めた。
被害者側は裁判への参加を希望すれば、法廷で検察官のそばに座る。証人尋問で被告の更生意欲など情状に関する事柄について尋ねたり、被告人質問で被告に直接事実関係を追及したりすることも可能となる。 ☆上記のような「改正案」が準備されているのですね。ここまで来ると、「目には目」「公的な復讐(敵討ち)」に限りなく近づきます。 「遺族の人権尊重」といううたい文句で登場してきている流れなんですが、「誰も反論できない言葉」がポン!と投げ出される事の怖ろしさを法曹関係者はどう思っているのでしょうか? (2007.09.21 22:08:14)
日本の法制度や文化とはひょっとしたら馴染まないのかもしれません。私のブログでも紹介したことがありますが、米国などでは陪審員は2段階の評決をします。すなわち、有罪か無罪か(有罪なら、manslaughter=事故殺人、first degree murder=第一級殺人、second degree murderのどれか)次に量刑判断です。事実関係の認定で陪審員は極力証拠事実と向き合うよう裁判官は指導しますが、決まった罪状の量刑においては被害者家族の心情を聞いた後陪審員が評決し、最後に裁判官が法的な検討を重ねて量刑を言い渡します。
Hammurabi法の流れにある旧約聖書の諸規定は、例えば姦通罪は現行犯逮捕でなければいけないとか証人は2人または3人以上でなければならないとか、事実認定に非常に厳しい制限を与えていますが、「目にへ目を」の基本は量刑の平等にあるわけです。片目だけなのに命を取るなどの過剰な刑を戒めますが、不当に低い刑も正義に反するとの認識があります。しかも、「目」は全てが同じ「目」ではないため、その<事実>の証言も必要でしょう。MWW (2007.09.21 22:08:52)
まろ0301さん
>改正案は殺人や傷害など故意の犯罪行為や交通事故など過失により人を死傷させた罪の刑事裁判で、被害者や遺族、被害者側が委任した弁護士に裁判への大幅な関与を認めた。 これは、「犯罪被害者等の権利利益の保護を図るための刑事訴訟法等の一部を改正する法律案」のことでしょうか。これは、もうすでに今年の6月に成立しているみたいですね。 被害者の救済という大義名分で重罰化の傾向が強まっていることぐらいは知っていましたが、刑訴法の一連の改正まではなかなかついていけません。 平成12年の改正も、この事件との関連でようやく確認したようなしまつで。 弁護士や法学者の中には以前から批判的な人もいるのでしょうが、刑訴法はあまり一般になじみがないのと、「被害者の立場」という大義名分のためになかなかその問題というのが分かりにくいように思います。 (2007.09.21 23:45:59)
Watermanさん
アメリカの制度についての紹介、ありがとうございます。 「目には目を」という罪と罰との等価性を求める法の原則は、今日では一定の罪に対して一定の重さの刑罰を定めるという形で生きているのだろうと思います。 ただ、これはあくまでも社会の一般的な法的感情に立脚したもので、罪と罰を厳密かつ客観的に秤量することなどは本来不可能なことだろうと思います。 そもそも殺された者の命も殺した者の命も、それぞれ固有のものであって、けっして等価で交換できるものではないですね。加害者の命を差し出されたところで、それで必ずしも被害者の心は満足できるものでもない。量刑の問題ももちろんありますが、「被害者の救済」ということは、裁判制度の枠内だけでは解決できないことのように思います。 日本人には、どうも客観的な事実判断と主観的な価値判断をきちんと区別するのが苦手なところがあるのかもしれません。それと、原理・原則について十分に顧慮することなしに、いっきに突っ走ってしまうようなところもありますね。 むろん、それは日本人だけではありませんが。 (2007.09.22 00:12:40)
神概念のないほとんどの日本人は理解できないか誤解していることが多いのですが、もう一つ大事なことがあるのですよ。悔い改めと謝罪です。ただし、形式だけで済ますこともできるでしょうが、陪審員の全員を騙すことは至難です。(神をも欺くつもりなら言う言葉もありません。)
実際は、早く罪を認めた場合は罰は極端に軽くなります。また、最後まで犯行を否認した死刑囚は、実際は刑の執行が(テキサスなどを除けば)長期にわたり延期されます。冤罪の可能性があるからです。 この大事なことは、『被害者の「大義名分」』などという<不謹慎な>認識をなくすことにも繋がると思います。罪を犯した者も唯一の家族を殺された者も、残された人生をいかに生きるかと断腸と憔悴の中で呆然としているのです。そんな駆け引きで人は生きていると本当に思っているのでしょうか。Mark W. Waterman (2007.09.22 04:47:11)
人を殺した者の改悛の極限は、「もう自分はどうなってもいい。死刑になっても当然である」という「死を従容として受け入れる」ところにあると思うのですが、かつさんはどうお考えでしょうか?
(2007.09.22 10:22:27)
まろ0301さん
そうですね。ただ、そういう心境になるには、相当の時間がかかるものだろうと思います。 現実の裁判を見ていると、検察官はただ被告人を「残虐」で「冷酷」な「殺人鬼」であるかのごとく描き出すことをつねとしています。 それは「死刑求刑」のための手続きのようなものなのかもしれませんが、そういう裁判のありかたにはつねづね疑問を感じています。 (2007.09.22 12:32:19)
Watermanさん
「『被害者の立場』という大義名分」と書いたのは、昨今の刑訴法の改正や重罰化の傾向が、そのような名目で行われているという意味です。被害者が自己の立場を主張することを指弾するものではありません。 なお、自己の罪を認めれば刑が軽くなるというのは日本でも同じですね。ただ、容疑者にそのような圧力をかけることが、一方では虚偽の自白をさせて冤罪を生む原因にもなっているように思います。 (2007.09.22 15:39:27)
いままで、被害者の家族、および代理人が直接法廷で意見陳述する事が出来ず、どんなにか無念であったことかと私は思います。その被害者達の長年の思いがやっとかなった…と喜んでいます。
もちろん、家族と言えども犯行現場にいたのでなければ単なる感情、心情に過ぎないこともままあるでしょう。それでも被害者の家族は言いたいことがある筈で、それによって被告が真実を話す可能性も無きにしも非ず、と思います。意味がないとは思えないのです。 そもそも、事件現場に居合わせもしない検事と弁護士と判事が真実の究明を求めて争うのですから、被害者の家族が現場に居なかったことをもって排除されるのはおかしいと思うのですが。 そして、法廷はあくまで理性的であれ、という考えはごもっともですが、人間の生の声つまり犯罪被害者の遺族、に対する配慮は真実の追求に何の差し障りも生じないと私は考えます。 改正された刑事訴訟法を読んだことはありませんが、私はやっとここまで来た…という思いです。 (2007.09.22 20:18:44)
ジュンさん
確かに、今までの日本の刑事裁には、被害者や遺族を蚊帳の外に置いたままで進められてきたという欠陥があったと思います。 その点では、悔しい思いをされてきた方達がいるのも確かだと思います。本来ならば、検察官は公益の代弁者として、被害者の利益の代弁者でもあるはずで、その点の配慮が、これまではあまりになさすぎたのだと思います。 また、被害者が苦しみを直接加害者に訴えることで、犯した罪を自覚させ、反省をもたらすということもあると思います。それは、再犯を防止するうえでも重要な役割を持つだろうと思います。 ただ、それは公判とは別に行ったほうがいいのではないかと思うのです。 (2007.09.22 22:28:09)
正義がひとつになっていく傾向が、どんどん強くなっている気がします。この場合、遺族の本村さんは、この事件の絶対正義です。みんながそうだそうだという事にこの国は陥りやすい。弁護団も志はあるんでしょうがやり方が稚拙で拍車をかける。空気を読む事の大切さが若者に恐怖に近くなってる。怒るべきものから目を逸らして怒る、それが間違いなく日本人です。公開処刑か象徴か、あるいは誘導のような事件にされてると思います。
(2007.09.23 09:48:49)
川風そよこさん
秋田の事件のほうでは、近隣者が公判で「極刑を望む」という「意見陳述」を行っていますね。 こういう先例が続くことには、やはりいい気持ちはしません。「証言」と「意見」の境目がなし崩し的に曖昧にされていくような気がします。 (2007.09.23 11:25:51)
まろ0301さん
> 人を殺した者の改悛の極限は、「もう自分はどうなってもいい。死刑になっても当然である」という「死を従容として受け入れる」ところにあると思うのですが、かつさんはどうお考えでしょうか? ----- まろさん、横レス失礼します。 私が死刑廃止論の組するきっかけになったの本があります。『死刑執行人の苦悩』(大塚公子著)がそれです。 その本の中では、「死を従容として受け入れる」死刑囚の姿が描かれています。もちろん死刑囚全員がそうだとは限らないのでしょうけれど、この本には「従容として受け入れた」死刑囚を、実際に死刑に処さなければならない刑務官たちの苦悩も描かれています。刑務官たちにとっては「従容と受け入れない」死刑囚を死刑にする方が、まだしも気楽ではないかと思うくらいです。 「従容として死を受け入れた」、真に改悛した人を殺すことの忍びなさ。死刑制度がもつ歪みを感じずにはいられません。 (2007.09.24 10:41:16)
愚樵さん
>「従容として死を受け入れた」、真に改悛した人を殺すことの忍びなさ。死刑制度がもつ歪みを感じずにはいられません。 ☆私も、『宣告』(加賀乙彦)を読んだ時にその事を考えました。 紹介されている本とは違いますが、やはり職業として死刑執行を命じられ、行わざるを得ない方達の心のうちを綴った本を読んだことがあります。 退任前の鳩山法相が、ベルトコンベアみたいに自動的にどんどん死刑を執行して行ったらいい・・と発言したそうですね。 在職期間中にサインするだけでなく自ら死刑執行を行っていただきたかったと思います。 (2007.09.25 21:44:42)
まろ0301さん
丸山健二が23歳で芥川賞を受賞した「夏の流れ」という作品も、死刑囚と死刑を執行する看守を描いた作品です。 鳩山邦夫は法相に再任のようですが、なんとも無知なうえに卑怯きわまりない男だと思います。 この男は、死刑囚の冤罪の可能性について考えたことすらないのでしょうか。まさか再審という制度について知らないわけでもないでしょうに。 (2007.09.25 22:23:00)
かつ7416さん
>まろ0301さん >鳩山邦夫は法相に再任のようですが、なんとも無知なうえに卑怯きわまりない男だと思います。 >この男は、死刑囚の冤罪の可能性について考えたことすらないのでしょうか。まさか再審という制度について知らないわけでもないでしょうに。 はじめましてです ずいぶん居丈高になって法務大臣を誹謗してますね。 日本国民のコンセンサスとしては、冤罪の可能性は排除されてる凶悪事件について死刑やむなし だと思うんですがね。やみくもに殺人犯は死刑なんて国民は少ないでしょ (2007.10.19 23:43:25)
ヨシュアさん
議論の筋がまったく読めてないようですね。 鳩山が「無知」だと言ったのは、死刑囚に冤罪の可能性があることをまったく無視しているからです。 また、「卑怯」だといったのは、彼の発言は、たんに死刑執行に対する法相としての責任を回避することでしかないからです。 鳩山は、この発言をしたときに、冤罪の可能性がある場合は別だというようなことを言いましたか? 私の記憶では、そのような留保はなかったと思います。 刑訴法では死刑確定から6ヶ月以内に執行することになっています。 しかし、わずか6ヶ月間で新証拠を集めて再審を請求することは現実的に不可能でしょう。 ということは、彼が言うように刑訴法の規定どおりに「自動的」に刑を執行するということは、事実上死刑囚から再審を請求する権利を奪うことではないのですか。 (2007.10.20 01:52:04) |