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カテゴリ:雑感

 岡崎次郎といえば、国民文庫版の 『資本論』 の翻訳者であり、『マルクス・エンゲルス全集』 でも多数の翻訳を行っている労農派系の経済学者である。向坂逸郎の名前で岩波文庫から出ている 『資本論』 も、実際には下訳者であった岡崎の翻訳がほとんどそのまま採用されているのだそうだ。

 その岡崎次郎については、出生は1904年6月29日と明確であるにもかかわらず、死亡の日時は1984年ごろというだけで、なぜか明確ではない。これは、どういうことだろうか。

 Wikipedia には、彼について次のような記述がある。

 1983年に青土社から出版した 『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記』 という自伝で向坂を批判。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、「これから西の方へ行く」 という言葉を残して、80歳となった翌1984年6月6日からクニ夫人とともに死出の旅に出た。
 全ての家財を整理し、東京・本郷の自宅マンションを引き払った夫婦の足取りは、品川のホテルに投宿したのを皮切りに、伊豆の大仁温泉・浜松・京都・岡山・萩・広島などを巡ったことがクレジットカードの使用記録から確認された。そして同年9月30日に大阪のホテルに宿泊したのを最後に足取りが途絶え、現在でも生死は確認されていない。


 話は変わるが、マルクスの次女のラウラは、キューバ生れのポール・ラファルグという人物と結婚している。ラファルグはのちにフランス労働党を結成するなど、フランスにおけるマルクス主義の普及に務めた人だが、1911年に夫人であるラウラとともに、高齢のためにもはや革命運動の役に立てないという理由で自殺している。ときにラウラは66歳、ポールは69歳であった。

 言うまでもないことだが、当時の革命家が、みなそのような理由で死を選んだわけではない。当然ながら、きちんと天寿を全うした人のほうが多いだろうし、またマルクスもエンゲルスも、生きていればそういうことさらな死に方は諒としなかったと思う。ただ、そのような、いわば殉死ともいえるような死に方は、ロシアの革命家や、さらには極東のマルクス主義者たちには大きな影響を与えたのかもしれない。

 たとえば、ロシアの革命家に、トロツキーの友人だったアドルフ・ヨッフェという人がいる。革命後はソビエトの外交官として活動し、1923年には日本にも来ている。北一輝は、このヨッフェに対して 『ヨッフェ君に訓ふる公開状』 なるものを書いているが、ヨッフェは重い病気のためソビエトに帰国した後、トロツキー派としてスターリンに対する批判と抵抗に加わり、最後はピストルで自殺している。これは、基本的には抗議の自殺といっていいだろう。

 ついでというとなんだが、対馬忠行のことにも触れておこう。対馬という人は、戦前には横瀬毅八という名前で 「日本資本主義論争」 などで労農派の立場から論陣をはり、戦後はトロツキーの影響を受けた、一般に 「対馬ソ連論」 と呼ばれている先駆的なソビエト 「社会主義」 批判により、60年代の急進的な左翼運動に大きな影響を与えた人である。


 対馬忠行はじぶんが学問的な研鑽をつむことができない衰えを感じたときトロツキーの自伝の言葉が蘇ったにちがいない。新聞記事は4月11日に播磨灘で投身し、8月11日に死体が浮上したことをひとつの小さなかこみ記事の中に伝えたのであった。
「試行」53号 1979.12.


 対馬は航行中のフェリーから身を投げたのだそうだ。高齢者の自殺ということで、社会にいちばん強い印象を残したのは、ノーベル賞を受賞した川端康成の死であろうが、「これから西の方へ行く」 という言葉を残して、夫婦で家を出たという岡崎の 「死に方」 には、むしろなにか東洋的で日本的なものを感じる。むろん、唯物論者であった岡崎は、中世の宗教者たちが海の向こうにあると考えていた 「西方浄土」 の存在を信じていたわけではないだろうが。






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Last updated  2009.09.06 02:30:30
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