遠方からの手紙

2008/01/26(土)06:52

サルトルの 『嘔吐』 をちらちらと読み返してみた

文学その他(40)

 今は亡きサルトル先生の 『嘔吐』 というと、主人公のロカンタンが公園でマロニエの根っこを見ているうちに 「吐き気」 をもよおすという場面が有名だが、この小説の重要な脇役に 「独学者」 という人物がいる。 むろん、これはロカンタンが勝手につけたあだ名なのだが、この人物は町の図書館に何年間も通い詰めては、そこの蔵書を著者名のアルファベット順にひたすら読み続けているのだそうだ。ロカンタンはこの 「独学者」 について、こんなふうに描写している。  七年前のある日、彼は意気揚々とこの部屋に入ってきた。そして四方の壁をぎっしり埋めている数限りない書物を眺め回して、ほとんどラスチニヤックのように、「ぼくたちだけで、人類の全知識を所有するんだ」 といったにちがいない。 それから彼は、最右端の第一段の本棚から、第一番目の書物を取ってくる。そして尊敬と畏怖の感情とともに確固不動の意思を持って、その第一頁を開く、今彼はLまで来ている。Jの次がKであり、Kの次がLである。彼は乱暴にも、甲虫類に関する研究から、量子論に関する研究に移り、チムールに関する著作からダーウィンに反対するカトリック派のパンフレットに移る。一瞬とても彼は戸惑ったりしない。彼はすべてを読んだ。  この 「独学者」 が語るところによれば、第一次大戦で捕虜として収容所生活を送ったことが彼にとっての転機であったらしい。終戦によって帰国し社会党に入党して社会主義者になると同時に、自らを教育するために図書館通いを始めたということだ。 この 「独学者」 を見るロカンタンの目は、かなり辛辣だ。  たとえば、こんなふうに。  彼は目で私に問いかける。私はうなづいて賛意を評するのだが、彼がいくらか失望したということ、彼が欲したのは、もっと熱狂的な賛同だったということを感じる。私に何ができようか。彼が私に言ったことのすべての中に、人からの借り物や引用をふと認めたとしても、それは私が悪いのだろうか。 言葉を質問形にするのは癖なのである。じっさいには断定を下しているのだ。優しさと臆病の漆は剥げ落ちた。彼がいつもの独学者であるとは思われない。彼の顔つきは、鈍重な執拗性をあらわしている。それは自惚れの壁である。  ある意味では、「学ぶ」 ということは本質的に 「独学」 である。そもそも、学校で学べることなどは、しょせん大したことではないということも言えなくはない。社会に出てからも 「学ぶ」 ということを続けるには、多かれ少なかれ 「独学」 によらざるを得ないものでもある。 だが、サルトルの分身であるロカンタンが断じるように、「独学」 にはしばしば 「独断」 と 「自惚れ」 という落とし穴がある。それは、「独学」 という行為が必然的に孤独な作業であることから来るものだろう。 当然のことだが、いかなる 「独学者」 であっても他人との交流を欲するものであり、他者による 「承認」 を欲するものである。そして、「独学者」 はしばしば、そのさいに独力で身に付けた言葉や論法を披瀝したがるものだ。それは、いうまでもなく当然の欲求でもある。 たとえば、「論理」 や 「論法」 というものは、武道でいう 「技」 に似ている。「技」 を身に付けたと自惚れた者が、機会さえあれば、相手かまわずにその技を使ってみたくなるように、なにがしかの 「論法」 を身に付けたと思い込んだ者は、ところ構わずにその 「論法」 を使用してみたくなるものだ。 武道で 「技」 を身に付ける場合は、まず型どおりの技の練習を飽きるほど繰り返して、自分のからだに徹底して覚えこませる。だが、それはまだ、その技が本当に身に付いた段階ではない。基礎練習がすんだら、次は柔道でいう乱取りのように、わら人形ではない生きた相手との実践的な練習に進まなければならない。 たぶん、「独学」 という行為に欠けるのは、そういう実践的な練習の場なのだろう。そこが不足していると、独学者はしばしば相手との間合いをはかったり、相手の力量を適切に判断するといった実践的能力を身に付けないままに、「独断」 と 「自惚れ」 に陥り、ひいては非合理的な言説にも捉われてしまいがちなのだろう。 かつて、吉本隆明も同じように、三浦つとむ (『日本語はどういう言語か』 の著者)への追悼文の中で、三浦を 「独学者の星」 と評しながら、「三浦つとむの弟子の中にはブルジョア科学など学ぶ必要がない、と言って天狗になってしまったものがいる」 と批判したことがある。 追記: もちろん 「独断」 という病に罹るおそれがあるのは、「独学者」 にのみ限られるわけではない (念のため)。

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