2008/08/20(水)00:29
「イノセント」という名の暴力
「美しい国」 日本の 「美しい神話」 を収めた 『古事記』 には、死んだイザナミいとしさのあまり黄泉の国に降りていったイザナギが、逆に 「見たなぁー」 と言って追いかけてくるイザナミを振り切り、ほうほうの態で逃げ帰ってきたあと、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」 というところで禊をして穢れをおとすという場面がある。
イザナギがそこで、黄泉の国の 「死」 で穢れてしまった身に付けていた杖や帯、衣や冠、腕輪などを外して投げ捨てると、そこから次々にいろいろな神様が生まれてくる。
さらに、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」 ということで川の中ほどに進み、水で全身を洗うと、またまた様々な神様が生れてくる。その中で、左の目を洗ったときに生れたのがかの天照大神であり、右の目を洗ったときに生れたのが月読の命、最後に鼻を洗ったときに生れたのが須佐の男の命である。
イザナギは、禊の最後にこの三人の子を得たことにたいへん喜び、アマテラスには天を治めるよう、ツクヨミには夜の世界を治めるよう、またスサノオには海を治めるように言い渡す。
ところが、三人の中でもスサノオというのはたいへんに甘ったれた我ままぼっちゃんで、ひげが胸元まで伸びる年頃になっても、父親の命令には従わず、ただただ泣き喚いてばかりいたという。おかげで、山の樹はすべて枯れ、海や川は干上がり、あらゆる禍が生じたというから、たいへんなことである。
不審に思ったイザナギに、「こらこら、おまえはどうしてそんなに泣いているのか」 と尋ねられたスサノオが言うには、「死んだ母がいる黄泉の国に行きたくて泣いているのじゃー」 ということだった (そもそもスサノオはイザナミから生れたわけではないのだが)。
結局、父親に叱られたスサノオは、姉のアマテラスがいる天に暇乞いのために昇っていくのだが、ここでもまたたいへんな大騒ぎになって、最後に怒ったアマテラスは天の岩戸に閉じこもり、おかげで世界はいつまでも暗闇が続くという、これまたえらいことになる。
この説話では、スサオという神は、徹頭徹尾 「イノセント」 な存在として描かれている。彼は一度も会ったことのない母親を求めて、赤子のようにただただ泣いているばかりである。 そして、そのように 「イノセント」 であるからこそ、彼はアマテラスとの子生み競争では自分が勝ったと一方的に主張して、田のあぜを壊し、神殿に糞をまきちらし、あるいは機織場の屋根に穴をあけて皮をはいだ馬を投げ落としたりと、まるで朝青龍のように、やりたい放題の乱暴狼藉をやりつくす。ようするに彼の行為はすべて本質的にはただの子供のいたずらなのであり、したがってそこに悪意は存在していない。 しかし、たとえ本人には悪気のない行為であっても、それによって取り返しのつかない結果が生じたり、他人の心を傷つけたりということは、世の中いくらでもある。あとになって、「わりー、わりー。あれはただの冗談だったんだから許してちょんまげ」 と言っても、ものごとには許せることと許せないこととが存在する。大人になるということは、そのような 「悪気はなかった」 という言葉など、起きた結果に対するなんの言い訳にもならないということに気付くことでもある。 そもそも 「イノセント」 には、つねに素朴な自己肯定が付随している。「イノセント」 な状態が善と悪との区別、つまりは 「罪」 というものを知らないという状態であるなら、それは、「罪」 を知らないがゆえに、無意識に 「悪」 を行いうるということであり、また自己がはらむ暴力性を自覚していないがゆえに、それを抑制することができないということでもある。 実際、子供は 「罪」 というものを知らないがゆえに、ただの無邪気な遊びの中でときにきわめて残酷な行為を行いうる。童話や神話の世界が、しばしば残酷で暴力的であるということは、おそらくそのことと無関係ではないだろう。 子供というものは、たしかに共感能力に優れている。大勢の幼児がいる中で一人がたまたま泣き出すと、その感情は次々と伝染し、しまいにいっせいにわんわんと泣き始める。一人が笑い出すと、その笑いもまた伝染し広がっていく。 しかしそれは、いまだ子供の世界では、自己と他者の区別が明確についていないからであり、子供の心的世界はそのような 「共感」 が容易に成立するほど、未発達だからでもあるだろう。つまり、子供にとっては、共感不能なものとしての 「他者」 など、はじめから存在していない。 アダムとイブはヘビに騙されてリンゴを食べて楽園を追放されたというが、そのような 「罪」 という意識を知ることによって、はじめて人は人間となったのだろう。「罪」 を知るとは、そのように自己が他者に対して悪意を持ちえ、害を加えうる存在であるということを自覚することだ。そして、そのような自覚によって、はじめて人間は 「社会」 を形成し、「文化」 を創出することができたのだということを、この「原罪」 説話は表しているように思える。
フェリーニが監督したイタリア映画 『道』 の最後には、アンソニー・クイーン扮する粗野な怪力の旅芸人が、旅の途中で邪魔になって捨てた 「白痴」 の娘ジェルソミーナがよく口ずさんでいた曲をふとしたことで耳にし、彼女の哀れな最期を知って泣くという場面がある。彼もまた、そのときに自分がけっして 「イノセント」 な存在ではないということに気付かされたのだろう。
ところで、「イノセント」 にしても 「ナイーブ」 にしても、英語ではどちらかというと 「否定」 的なニュアンスを込めて使われることが多いのだが、これが日本語化すると、それとは反対に 「肯定」 的なニュアンスで使われるようになるというのには、なかなか興味深いものがある。
それは、本居宣長ふうに言えば、なにごとも作為を嫌い自然(じねん)なることを尊ぶという、神話の時代から連綿と続いている古代的な心情とも深くつながっているのだろう。たしか、アメリカに帰国したあとのマッカーサーの言葉に、「日本人は12才の少年のようだ」 という言葉があったような気もするのだが。