遠方からの手紙

2008/12/20(土)23:46

ネット雑感

ネット論(28)

 早いもので、今年もあと10日あまりということになってしまった。一年が経てば、当然誰もが一年分、また年齢を重ねることになるわけだが、はたしてそれだけの時間に相当する積み重ねがこの一年でできたのかというと、残念ながら、はなはだ覚束ないと言わざるをえない。ようするに、あまり変わってないなということだ。  先日のことだが、近所の大型スーパーの階段で、乳飲み子を抱えた母親が目を放したすきに、2,3歳ぐらいの子を乗せたショッピングカートが、ごろごろと踊り場まで落ちていく騒ぎがあった。そこはちょうどトイレの前で、ひょっとすると母親は上の子をカートに乗せたままトイレの外に待たせておいて、中で下の子の世話をしていたのかもしれない。  カートに取り残された子がむずがりだして、その反動でカートが動き出したのか、それとも何かが触れたのか、あるいは床にわずかな傾斜でもあったせいなのか、そのへんは見ていないから分からない。 ただ、がたがたと音がし、おまけにぎゃあっという声までするので何事かと思って覘いたら、すでに一番下までカートが転がり落ち、横倒しになったカートで女の子が泣いていたのだった。すぐに母親と店員も駆けつけてきたが、階段にはリノリウムも敷いてあり、季節も冬で厚着をしていたからか、幸いたいした怪我はなかったようだった。 さて、ネット上では、つねにいろいろと騒動や議論のネタが尽きないものだが、そこでいろいろと感じたことを少々。  なんでもよいが、なにかしら微妙な問題について、いささか不用意なことを書いた文を公開したりすれば、批判的な意見を含めて、多くの人から即座に様々な反応が返ってくることはしかたのないことである。とりわけ、その発言者がそれなりに名のある有名ブロガーだったりすれば、そういうことが起こる可能性はそれだけ高くなる。 そういう反応の中には、当然ただの早とちりや感情的で教条的な反発、あるいはただ便乗しようという者もいるかもしれない。しかし、そのような多くの反応が返ってくるということは、基本的にはその問題に対して関心を持っている人がそれだけ多いということであるにすぎない。そこで、本人が対応を間違えれば、それこそ 「炎上」 といったことにもなりかねないが、多くの反応が返ってくること自体は、別になにも問題視すべきことではあるまい。  騒ぎが大きくなれば、自分もちょっと一言なにか言ってみたくなるというのも、人間の悲しい性というものである。しかし、反応の瞬時性と、その燎原の火のごとき拡大の早さというのは、ネットの特徴であり、これだけネットが普及した現在にあっては、しかたのないものだろう。良くも悪くも、それがネットというものだ。もともとの発言者が、そこそこの有名人であったりすれば、良し悪しは別として、それもまた本人が負わざるをえないリスクのようなものである。  そこで、集中的な批判を浴びた本人がびびり上がるのは分からないでもない。しかし、その人がネット上に、なにか自分に対する巨大な 「敵意」 や 「悪意」、ましてや一枚岩に組織された 「敵の陣営」 なるものが存在するかのように思い込んでいるとしたら、それは被害者意識の昂進によるただの妄想に過ぎまい。それに、そんな騒動など、しょせんは 「コップの中の嵐」 というものである。  多くの場合、一人一人は、それぞれ自分の関心に応じて、各自の意見を述べているにすぎないのであり、たまたま同じようなことを言う人がいたとしても、それはもともとの考え方が近いからにすぎない。なにも、特定の綱領だか方針だかに基づいて一致団結した、「反××同盟」 だとか 「打倒××連合」 みたいなものがネット上に存在しているわけでもあるまい。証明はできないが、それはたぶんただの思い過ごしである (ただし、ネットが持つ 「匿名性」 というものには、たしかにそういう一種の 「妄想」 を育むところがあるのかもしれない)。  それに、たとえ考え方が近いからといって、一から十までまったく同じはずはなく、そこにも多少の差異はあるはずだ。ところが、いっせいに批判を受けたりすると、相手がみな同じに見えてくる。相手の数があまりに多いと、その言葉や主張を混同してしまうのはしかたないにしても、そこで 「お前らは~」 などと、味噌もクソも一緒にするようなことを言い出しては、もはや理性的な対応など望めるものではない。  そうなると、見かねた善意の第三者が、「ちょっとちょっと」 というように声をかけても、「どうせ同類」 だと頭から決め付けて、またまた 「お前らは~」 などと言い出すのが関の山である。とりあえず、そういう人は、いっぺん頭を冷やして出直したほうが良い。 また議論の過程で、おかしなことを言ったり、的外れなことを言ったりして、相手から揶揄されたり笑われたりするのは、それこそ 「自己責任」 というものである。あまりに的外れな回答が返ってきたりすれば、誰しも揶揄の一つぐらい言いたくなるものである。そうでもしなけりゃ、たとえばちょっと合意ができたと思ったら、すぐにそれを引っくり返して元に戻ってしまうような人だとか、いつまでもぐだぐだと管を巻き続けるような人など、相手にしてはいられまい。 そういう揶揄というのは、別に相手を怒らせるためにやっているのではないだろう。揶揄されれば、誰しもむっとはするだろうが、揶揄というのも一つの反応なのだから、なんで自分が揶揄されるのか、とりあえずは考えてみたほうがよい。ただ、自分を怒らせることだけが、相手の目的なのだと思ってしまえば、そこですべては止まってしまう。  もちろん、そういうことをやる人間も、世の中にいないとは言わない。しかし、本当にそうだと思うのなら、それ以上、自分が相手にしなければいいだけのことである。そう決め付けておきながら、自分が逆切れしてしまっては、それこそしょうがあるまい。それなのに、まだぐだぐだと訳の分からぬことを言い続け、しょうもない罵倒返しをやり続ける人というのは、いったい何がしたいのか、さっぱり分からない。  風の噂によれば、東工大の東浩紀という人の講義で、なにやら一騒ぎが起きたらしい。しかし、自分でブログに 「文句があるなら来いよ」 というのに近いことを書いておきながら、それに応じた人らが来ると、今度はヒステリックに対応して排除にかかるとは、なんだかずいぶんとお尻の穴の小さな人のようである。  昔から、名のある先生の講義に、他校の学生や偽学生が潜り込むというようなことは珍しくなかったはずで、そういう潜りがいることは、先生にとってはむしろ名誉なことだろう。むろん、潜りが多すぎて、肝心の正規の学生が教室に入れないとか、講義に支障が生じるといったことになってしまっては困るだろうが。  別に、東氏に限らないが、実名と勤務先を公表してブログを書いているような大学の先生であれば、自分が教えている学生たちに自分の文章が読まれており、あっちやこっちでの言動も筒抜けになっていることぐらいは、覚悟しておくべきだろう。その覚悟がないのなら、最初から余計なことなど書かなければよい。 おかしなことを言って、学生たちに内心で馬鹿にされるようなことになっても (単位をくれる有り難い先生であれば、口に出して言ったりはしないだろうが)、これまた 「自己責任」 というものである。まあ、もっとも大学の先生だからといっても、しょせんは普通の人間なのだろうし、この世に完全な人間などいないのは、これまた自明の真理というものだが。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る