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カテゴリ:歴史その他

 「会えば別れがこんなにつらい 会わなきゃ夜がやるせない」 とは、数年前に亡くなった青江三奈の歌だが、ことわざにも 「会うは別れの始まり」 という。というわけで、はや 「桜三月散歩道」 の歌が似合う卒業の季節である。ちなみに、作家の井伏鱒二が、漢詩の 「人生足別離(人生別離足る)」 という一節を、「さよならだけが人生だ」 と訳したのも有名な話である。

 前の記事の続きになるが、日本といえば 「サムライ」 と連想する発想の根拠は、おそらく幕末の攘夷運動が盛んな時期にやってきた、オールコックだのパークスだのといった外国人が、街角で刀を振り回したり、なにかといえば腹を切ったり切らせたりというサムライの姿に強い印象を受けたことにあるだろう。実際、彼らの中には、刀を抜いたサムライに追いかけられるという、おっかない経験をした者もいただろうし。

 しかし、ここ最近をのぞいて、日本人の大多数はつねに農民だったのだし、本来のサムライというものも、もとをたどれば農民とそんなに違わない。武士の発生については諸説あるが、そのひとつが秩序の乱れた平安末期に、自衛のために武装をはじめた地方の豊かな有力農民層にあったことは間違いない。

 源氏だの平氏だのといった連中は、彼らによって 「貴種」 として迎えられ、また教育を受け、武芸にも優れた指導者として乗っかっていただけで、兵の大半は、農繁期には農耕生活に戻る 「半農半武」 的生活を送っていたというのが実情だろう。一生懸命の語源である 「一所懸命」 という言葉に表されるような彼らの土地への強い執着も、もとはそういう農民的意識から発したものだったとすれば理解しやすい。

 谷川健一の 『日本の地名』 には、天竜川流域にある坂部(さかんべ)という集落の話がでてくるが、それによると、そこでは 「平家物語」 にも出てくる、かの熊谷直実が祖とされているそうだ。ただし、実際は、農民といわゆる落武者らとが一緒になって開拓を行ったらしい。平安末期から秀吉による統一まで、長く続いた戦乱の時代に、滅亡した家の一族郎党が山に入って帰農し、開墾を進めたというような例は、おそらく日本中にあるだろう。

 その逆に、二宮尊徳のように才能と能力を認められて、士分に取り立てられた者もいる。ようするに、殿様や大藩の有力家臣らを除けば、武士と農民の身分の差というものは、昔学校で習った 「士農工商」 という身分制度から想像するほど、大きくはなかったということだ。新撰組の近藤勇が農民の出であったことも有名だが、彼の場合には、武士への強い憧れが、生まれつきの武士ら以上に武士的な行動を取らせることになったのだろう。

 『資本論』 には、日本に関する言及が何ヶ所かあるが、マルクス自身の手で編集され、生前に唯一出版された第一巻に収められた、「第7編 資本の蓄積過程」 の中の本源的蓄積に関する章(24章)には、次のような注がある。

日本は、その土地所有の純封建的な組織とその発達した小農民経営とをもって、多くはブルジョア的偏見によって書かれたわれわれのすべての歴史書よりも、はるかに忠実なヨーロッパ中世の像を示す。中世の犠牲において 「自由主義的」 であることは、あまりにも便宜的でありすぎる。


 『資本論』 の刊行は1867年、つまり慶喜による 「大政奉還」 と同じ年である。日本についての彼の知識は、おそらく 「鎖国」 期にオランダ人がもたらした情報や(シーボルトもむろん含まれる)、開国後に日本を訪れたイギリス人やフランス人が書いた記録などに基づいているのだろう。

 もちろん、彼ら外国人には日本中を調査することなど不可能だった。なので、その知識がいささか表面的で不十分であったことは否めない。そのため、上のマルクスの見解も、やや的外れな感はある。とくに、江戸時代の日本について 「純封建的」 と見ているのは一面的な感が強い。

 江戸時代の正式の武士のほとんどは、土地を持たず城下に集住して、殿様から禄を与えられて食っていたサラリーマンのようなものである。したがって、彼らはもはや本来の意味での 「封建的土地所有者」 ではない。本来の 「封建的土地所有者」 というものは、君主や領主から土地を分け与えられ、そこに居住して農民らを直接支配する者のことである。

 また、幕府の力が絶大であった時期には、赤穂藩のように、殿様自身もしばしば改易や減封、転封の憂き目にあっている。なので、このこともまた、ヨーロッパ中世と同様の 「封建制社会」 という概念には馴染まない。実際、中央権力としての幕府の強さや、全国的な商工業や貨幣経済の発展程度から、当時の幕藩体制を 「絶対主義」 とか 「早期絶対主義」 のように見る学説もある。

 ただ、幕末になり幕府の力が衰えてくると、またもとの有力諸藩の割拠状態に戻ってしまう。その状態を目撃した西欧人にとっては、当時の日本が、国王の権力が弱かった 「ヨーロッパ中世の像」 と似たものに見えたのかもしれない。攘夷意識によって急進化することで、かえって武士本来の 「戦士集団」 という姿に立ち戻った、一部 「サムライ」 の行動もまた、そういう印象を強めさせたのだろう。

 話はかわるが、フィリピンから来て日本に 「不法滞在」 していた一家は、入国管理局の命令を受け入れて、長女だけを残して帰国することに決めたそうだ。結局、一家が望んでいた家族全員に対する特別在留許可は、ついに下りなかった。

 しかし、昨年の1月には、今回とほとんど同じ事例で、入国管理局は東京高裁による 「在留特別許可などの措置を検討されたい」 という意見を受け入れ、やはりフィリピン人である一家全員に対して、特別在留許可を出している。ちなみに、当時の福田内閣で法務大臣を務めていたのは、現総務大臣の鳩山邦夫である。(参照)

 大臣の裁量権とはむろん自由な裁量によるものだから、その行使が、権限者の胸先三寸になるのはしかたあるまい。しかし、たった一年で、こうも反対の結果がでるのはどういうことなのだろうか。一年前に、当時の鳩山法相が善処を求める高裁の意見を受け入れたのなら、どうして森法相は、今回の件で同じような措置が執れなかったのだろうか。

 長女の日本在留を認めたというのは、一見、温情のようにも見えるが、結局は親子を引き離したにすぎない。今回のケースで、森法相が一家全員の在留を認めなかったのは、彼個人の信条によるものかもしれないし、あるいは、官僚の意向や与党内の 「党内世論」 とかに遠慮した結果だったのかもしれない。それは分からないが、特別在留許可に関する裁量権を有しているのは、言うまでもなく、官僚ではなくトップの法務大臣個人である。 (出入国管理法第50条を参照)

 「不法入国」 や 「不法滞在」 という罪には時効が存在しないのもしかたないが、世の中には生まれつきの日本人であり、生まれたときから 「日本国籍」 を持ちながらも、詐欺や汚職、暴行傷害、殺人だのと、ろくでもない犯罪に手を染める者は、いくらでもいる。そういう連中に比べれば、彼ら一家は、国から表彰されてもいいほどの立派な 「市民」 ではなかったのだろうか。






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Last updated  2009.03.15 19:11:39
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