1437024 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

遠方からの手紙

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

Comments

effelpist@ kilovermek.es effelpist &lt;a href=&quot; <small> <a href="http…
クロワッサン@ Re:物言えば 唇寒し 秋の空(10/08) 空ではなくて風なのでは??
夢野久作孫@ Re:玄洋社とカレーの関係(04/07) ‪本来の玄洋社は国権派ではありません。戦…
http://cialisvipsale.com/@ Re:あなたが思っているほど、人はあなたのことなど気にかけちゃいない(09/17) bijsluiter cialis 10mgpredaj viagra kam…
小林先生@ Re:恐妻家と愛妻家のはざまで(07/18) 失礼ながらよくまとまっているせいか たい…
akkun @ Re:岡崎次郎はどこへ消えたのか(10/01) 向坂逸郎(?)って悪いヤツだ! そういう欲…
大津 真作@ Re:岡崎次郎はどこへ消えたのか(10/01) 実は岡崎次郎さんには、岡崎三郎さんとい…

Freepage List

Category

Archives

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12
2023.11
2023.10
2023.09
2023.08
2023.07
2009.03.31
XML
カテゴリ:ネット論

 仕事がちょっと途切れているので、久しぶりに書棚の整理をしてみた。なにしろ、文庫本などは書棚に二重三重に詰め込んでいるので、さすがにどれがどこにあるのか分からない。小さな本一冊探し出すために、書棚の本を全部ひっくり返さねばならない始末である。いちおう出版社別、分野別、年代別、作者順とかに並べてはいるのだが。

 整理をしてみたら、田中克彦の 『言語学とは何か』 やら、山口昌男の 『文化人類学への招待』 やら、同じ本が何組も出てくるわ、出てくるわで、われながら呆れてしまった。そのほとんどは、買っても積んで置いたままできちんと目を通してはいない分だ。きっとそのために、書店で見かけると、家にあるのを忘れてまた買ってしまったということなのだろう。

 人生、半世紀を過ぎると、さすがに短期記憶力は落ちているようだ。同居人からは、毎日のように厳しい指摘も受けているし。すでに積読状態の本は膨大な量に上っており、新しい本など買わずとも、残りの人生に消化できる量は十分に超えている。それでも、立ち寄った古書店などで面白そうな本を見つけると、ついつい買い込んでしまう。

 毎月毎月、読める量をはるかに超える数の本を買い込んでいるから、どう考えても積読解消は不可能である(そのほとんどは100円本であるから、財政的にはたいしたことない)。これでは、「目標」 自体が遠くの銀河のように、そこへ向かうロケットよりはるかに速いスピードで遠ざかっているようなものだ。なので、「積読解消」 という目標の達成は、かの測量技師 K が城にたどり着くよりもはるかに困難なことである。

 さて、前回の記事で触れた 「怪人」 とまではいかずとも、「知ったかぶり」 やはったりをしたり、やたらと虚勢をはりたがる人というのも、ネットではよく見かける。ネットとは便利なもので、少しばかり手間隙かければ、たいていのことは調べられる。なので、多少のことなら 「知ったかぶり」 をしてもすぐにはばれない。それに、そのことについて知らない人なら、なおのこと騙すのも簡単だ。

 そもそも人間は、若いうちは誰しも 「背伸び」 をしたがるものだ。それは若さゆえのただの見栄でもあるが、一面では 「向上欲」 の現れでもあり、一種の 「目標設定」 のようなものであるから、必ずしも一概に否定すべきものではない。

 実際、よく分かりもしないのに、世間で名が売れている難解な小説だとか評論、哲学書などに手を出したがるのは、覚えがないわけではない。おかげで、ニーチェの 『ツァラトストラかく語りき』 などは、高校時代に買ってからそのまま放りっぱなしである。ちょこちょこ開いたことはあるのだが、いまさら全巻を通読しようという気にはちょっとならない。

 最近は 「不言実行」 ならぬ 「有言実行」 なる言葉がよく使われるが、スポーツ選手などが 「タイトル取ります」 とか 「メダル取ります」 などと公言するのは、そのような宣言によって自らを背水の陣に追い込むことで、自己の意欲をさらに高めるものであるから、それはそれで十分な意味がある。

 ただ、そういう、ときに背伸びをも伴う 「有限実行」 的な 「宣言」 と、ただの 「知ったか」 的な背伸びとの違いは、実際の自己の状況と目標とのギャップをちゃんと自覚しているか、そして、そのギャップを埋めるための地道な努力をするかどうか、ということになるだろう。

 というわけで、いったん誰かの前で 「知ったかぶり」 をしたならば、そのあとで、「知ったか」 がばれないように、ギャップを埋めるための努力を必死でやればよい。ところが、残念ながら 「知ったか」 が癖になっている人というのは、往々にして 「実際の自分」 と 「こうありたい自分」 という願望とを混同していて、その区別がついてないように見える。つまり、肝心の本人に、自分は 「知ったかぶり」 をしているという自覚が、あんまりないようなのだ。

 昔は、吉本隆明や埴谷雄高の本を小脇に抱えて、生協の食堂などでうぶな新入生を捕まえては、「対幻想」 と 「共同幻想」 がああしてこうしてなどと、わけの分からぬ議論で煙に巻いていた連中がいたものだが(たぶん、自分でもなんのことか分かってなかったのだろう)、最近はどうやらそれが、柄谷行人だの蓮見重彦だのに代わっているらしい。つまり、引き合いに出す名前は変わっていても、やってることは大差ないということだ。

 人間は個別にみれば、みな同じような成長過程をたどるものだ。いくら社会や文明が進んだところで、おぎゃあと生まれてくる赤ん坊は、奈良時代でも今の時代でも変わりはしない。なので、時代がかわっても、ひとりひとりは飽きもせずに同じことを繰り返さざるをえない。

 だから、若いうちは 「背伸び」 をしたがるのもしかたないのだが、そういう 「知ったか」 的な 「背伸び」 による大言壮語は、せいぜい学生までに卒業すべきだろう。大の大人なら、分からないことは分からない、知らないことは知らないと、最初にちゃんと認めたほうがいい。あとで恥をかくのは自分なのだから。

 野球やサッカーなどでもそうだが、テレビの前に座っているただの素人ほど、「あの選手はどうだ、あの監督はこうだ」 などと、評論家気取りのいっぱしの口を利きたがるものだ。多少とも、その世界のことを知り、選手や監督の苦労も知っている人間ならば、そう簡単に偉そうな口を利けるものではない、と偉そうなことを言っておく。 

 というわけで、ショーペンハウエルの 「読書について」 からの引用で終わることにする。

 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読むわれわれは、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書のさいには、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。

 だから読書にいそしむかぎり、実はわれわれの頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。


 ショーペンハウエルの主著は 『意志と表象としての世界』 だが、これは大作であるし、全然読んだことはない(調べたら、なんと西尾幹二訳で出ていた)。彼には当時一世を風靡していたヘーゲルの講義に、わざと自分の講義の時間をぶつけたとか(結局、彼の講義を受けようという学生はほとんどいなかったらしい)、「一家に偉人は一人しか出るはずがない」 といって息子の才能を認めようとしなかった、作家のお母さんに悩まされたとかいう逸話が残っている。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009.04.01 05:22:47
コメント(10) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.