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カテゴリ:思想・理論

 ずいぶん前に、某古書店の店主(もともと大学の先輩に当たる人だったのだが、50代の若さでガンで亡くなり、その後、店も結局閉じてしまった)から聞いた話だが、フルシチョフによる 「スターリン批判演説」 ののち、あちこちの古書店に 「スターリン全集」 が大量に安値で並んだ時代があったそうだ。

 その話とは別に関係ないのだが、先日書棚を整理していたら、スターリン大元帥の著書が8冊も出てきた。といっても、全部、ぺらぺらの国民文庫なのだが、たしかずいぶん昔に、古ぼけた古書店の棚の隅で埃を被っていたのを何冊か見つけて、ほほぉー、と買い込んだものである。とくに彼の 「中国革命論」 や 「十月革命論」 は、政敵だったトロツキーの著書とあわせて読むと、なかなか興味深い。

 スターリンという人はグルジアの出身だが、若い頃、聖職者になるために神学校で学んだことがあり(結局、自主退学だか放校処分だかになったらしい)、「レーニン主義の基礎」 とか 「弁証法的唯物論と史的唯物論」 などに顕著な、図式的で無味乾燥なカテキズムめいた文体に、そのときに受けた教育の影響を指摘する人もいる。

 「カテキズム」 というのは、教義問答集などとも呼ばれる、キリスト教の教理指導を目的に作成された教科書のようなもので、一般に問答形式で書かれることが多い(いまでいえば、取扱説明書などにある、FAQ(よくある質問集)みたいなものだろうか)。

 マルクスが 「共産党宣言」 を書いたのは、仕立職人をしながら共産主義の宣伝をしていたヴァイトリングという人の流れをくむドイツ人亡命者らが、イギリスで作っていた 「共産主義者同盟」 という組織から、綱領起草を依頼されたのがきっかけである。

 このときも、最初はマルクスのお友達のエンゲルスが、「共産主義の諸原理」 という問答形式の文書を書いたのだが、エンゲルス自身もその古臭い形式に不満で、結局、マルクスが新たに書き直すということになったという話である。

 ヴァイトリングは、ドイツに進軍してきたナポレオン軍の兵士だった父親と、現地のドイツ女性との間に生まれたそうで、その父親はモスクワ遠征に出かけたまま帰らなかったそうだ。なにやら、ソフィア・ローレンが主演したイタリア映画 「ひまわり」 のような話だが、帰らなかった父親が、相手役のマルチェロ・マストロヤンニのように、吹雪の中で倒れているのを助けられて生き延びたのかどうかまでは分からない。

 初期の社会主義・共産主義思想というのは、多かれ少なかれキリスト教的な平等主義の影響を受けていて(聖書には、「富む者が神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」 という言葉がある)、ヴァイトリングの場合も当時の教会や聖職者に対しては批判的だったが、聖書からうかがえる原始的な平等思想には強く引かれていたようだ。とくにドイツの場合には、かのルターから 「悪魔の頭目」 呼ばわりされた、農民一揆の指導者トマス・ミュンツァーなど、中世以来のユートピア的な異端思想の流れというのもあるのかもしれない。

 ちょっと、話がそれてしまった。スターリンのことに話を戻すと、彼の有名な論文のひとつに、「マルクス主義と民族問題」 というのがある。これは革命の前、第一次大戦が勃発する直前に書かれたもので、レーニン夫人のクループスカヤの証言(レーニンの思い出)によれば、レーニンがいわば赤ペン先生になって書かせたようなものである。

 この中で、スターリンは民族について次のように定義している。

民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を特徴として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である。


 スターリンによれば、この定義は 「民族のあらゆる特徴を数えつくした」 ものであり、ここにあげた 「すべての特徴が同時に存在するばあいに、はじめて民族があたえられるのである」 ということだ。

 この定義が完全かどうかはともかくとして、そこそこに考えられたものであることは認めても良い。とくに、「心理状態の共通性」 という言葉によって、「民族とはなにか」という問題が、当事者らの主観的な 「意識状態」 に関わることは、少なくとも認められている。

 ただし、このスターリンによる民族の 「定義」 は、言うまでもなく、当時のレーニンが指導していたボルシェビキと、マルトフらが率いるメンシェビキとの分派闘争とも無縁ではない。また、ロシア外の他の社会主義政党との対立とも関係があり、その意味では、きわめて政治的な産物でもある。

 有名なレーニンの 「民族自決権について」 は、かのローザ・ルクセンブルクを相手取ったものだが、この時期の民族問題に関する論争で、彼が最も主要な相手としていたのは、通称 「ブンド」 と呼ばれていた、現在のポーランドの一部やリトアニアを含む、当時のロシア帝国内に居住していたユダヤ人労働者らが作っていた組織である。

 つまり、この時期、レーニンは民族自決権そのものを 「ブルジョア的権利」 として否定するローザと、メンシェビキに組して、固有の居住地域を持たぬユダヤ人に対しても民族としての権利を認めろ、と要求していた一部ユダヤ人との論争という、左右を相手取った二正面作戦を戦っていたのである。

 なので、上の定義で、スターリンが 「地域の共通性」 をあげたのは、意図的ではないにしても、特定かつ固有の居住地域を持たないユダヤ人を 「民族」 から排除するという意味も持っていたことは否定できないだろう。

 しかし、この定義からすると、ユダヤ人に限らず、いかなる民族も、相互の混住が進んで、固有の定住地域を失ってしまえば、もはや民族ではなくなるということなる。たしかに、「民族」 は孤立した個人のみによっては構成されない。しかし、混住が進んだからと言って、それだけで 「民族問題」 が解消されるとは限らないのだから、これもまた現実を無視した乱暴な話ではある。

 ところで、このユダヤ人らの要求を理論的に支えていたのが、当時、ロシア以上に深刻な民族問題を抱えていた、オーストリアの社会民主党(オーストロ・マルクス主義と呼ばれる独特の一派で、バウアーやアドラー、さらに戦後ドイツから再分離したオーストリアの初代大統領になったレンナーなんて人がいる)が掲げていた、「文化的・民族的自治制」 なるスローガンである。

 これは、前掲のスターリン論文での引用によると、「民族台帳」 なるものを作って、「成年に達した市民の自由な申告によって......住民が諸民族に区分されることを前提とする」 というものらしい。彼によれば、バウアーは、オーストリア内の各民族に属する個人は、その居住地域に関わらず、それぞれの 「民族評議会」 を選出し、この評議会に、教育や文化、芸術など、民族に関連するあらゆる問題についての権限を与えるといった制度を提唱していたということだ。

 民族の権利に関するレーニンの 「地域的自治制」 は、民族自決権の承認によって、特定の民族が多数居住する、その民族固有の一定の地域に対してのみ、分離の自由を含めた自治権を認めるというものだが、この 「文化的・民族的自治制」 は、それとあわせて、国民の全体を諸民族ごとに組織するものであるから、つまり国家全体が、「民族問題」 に限ってではあるが、上から下まで民族ごとに分けられることになる。

 これは、支配的なドイツ民族以外にも多数の民族が混住していた、当時のオーストリア帝国の多民族的構成を温存したままでの民主化を目指していた、社会民主党が考案した苦肉の策のようなものだが、このような制度は、「民族問題」 という爆弾をそっくりそのまま体内に抱え込むようなものであり、平和時はともかく、いったん民族間の反目が激化すれば、国家全体が民族の対立によって引き裂かれることになるだろう。

 その意味では、レーニンがこの問題について、深刻な危惧を抱いたのも不思議ではない。実際、ソビエトの力を借りずに、いやそれどころかスターリンとチャーチルの密約すら無視して、チトーにより自力で建国された、やはり多民族国家であった旧ユーゴスラビア社会主義連邦では、それと似た制度が採られていたのだが、彼の死後にそれがどうなったかは、もはや言及を要しないことだろう。

 このスターリン民族論は、その後、革命後のソビエトにおける民族政策の基本になっていくわけだが(もっとも、実際には理論など無視した、ただの政治的な 「ご都合主義」 もあちこちに見られるのだが)、そのへんの話は山内昌之とか田中克彦などの本に詳しいだろうから、そちらに譲ることにする (おおっ、偉そう)。

       ローザの民族論についても少し触れた






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Last updated  2009.04.09 17:20:20
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