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カテゴリ:社会

 19年前に栃木で起きた 「足利事件」 の犯人として無期懲役の刑を受けていた、元幼稚園バス運転手の菅家利和さんが、再審前であるにもかかわらず釈放された。菅家さんは、当時いくつも起きていた同様の他の事件についても 「自白」 していたが、検察は奇妙にも他の事件については不起訴とし、一件のみについて起訴している(参照)

 連続した幼児の行方不明と殺害という重大事件であり、しかも本人がせっかく 「自白」 までしたというのに、検察はなぜか他の二件については起訴を見送った。むろん、それは、「自白」 以外の物証の不足が主たる理由だったのだろう。だが、おそらくは検察も、他の二件に関する 「自白」 の任意性と内容の真偽については、当初から疑問を持っていたのではないだろうか。

 むろん、事件はそれぞれ別である。理屈を言うなら、他の件に関する 「自白」 の疑わしさと、起訴された本件の 「自白」 の問題とは別だと言えなくもない。しかし、そのことは、少なくとも当時の取調べには、容疑者に対して、本人がやってもいない事件についての 「自白」 を迫る雰囲気があったということを示唆している。であるなら、裁判所は本件に関する 「自白」 の任意性と捜査の適正さについても、当初から疑いを持つべきではなかったろうか。

 もし、菅家さんが一件ではなく、他の件も含めて起訴され、そのすべてで有罪となっていれば、死刑となっていた可能性は非常に高い。実際、飯塚で起きた同様の事件では、二件の殺害容疑によって、被疑者は死刑判決を受け、すでに刑も執行されている(参照)

 問題は、DNA鑑定の技術的精度だけではない。鑑定や科学的技術そのものの精度がいくら上がったとしても、結局は人間がやることである以上、故意か故意でないかに関わらず、その過程において、なんらかのミスが生じる可能性はつねにある。そのことも忘れてはならない。

 さて、前置きならぬ前置きが長くなった。ここから本題にはいることにしよう。ただし、前置きと本題といっても、全然関係がないわけではない。お題は、「レッテル」 の正しい貼り方と使い方ということ。

 よく、議論の場などで、「レッテル貼りはよくない!」 と言い出す人がいる。そういうときの 「レッテル」 とは、つまりカテゴリ的な概念のことだ。たしかに、印象操作や思考停止を伴う 「レッテル貼り」 はよくない。だが、だからといって、分類のためのカテゴリ使用をすべて禁止するわけにはいかない。

 それでは、世界について思考するには、世界に存在する事物と同じ数の概念が必要ということになる。それは、見知らぬ町へ行くのに、その町と同じ大きさの地図を持って行け、というようなものである。

 概念は、具体的な事物や関係の抽象によって得られる。個々の具体的な事物は、様々な側面を持ち、様々な関係の中にある。だから、同じものでも、見方や視点、関係付けの違いによって、様々に定義することができる。つまり、カテゴリ的概念とは、すべて事物の一面を捉えたものにすぎないということだ。イルカとマグロは生物学的にはまったく別だが、海洋生物としては一緒である。なので、海洋汚染に対しては、イルカもマグロも利害が一致するのであり、ともに団結してたたかおう! ということになる。

 巨人ファンの中にだって、仏教徒もいればキリスト教徒もいるだろう。その場合、球場では仲がよくとも、宗教の話になったとたんに喧嘩を始めるかもしれない。逆に、同じ信者どうしであっても、一方は巨人ファン、他方は阪神ファンであり、野球の話については犬猿の仲という人もいるだろう。「好きな球団」 というカテゴリも、「宗教」 というカテゴリも、具体的な個人の全体を包摂することはできない。どんなカテゴリだろうと、あるカテゴリに包摂されるのは、そのカテゴリと関連したその人の一部であり、全体ではない。

 カテゴリは、事物についての特定の視点で構成されたものである以上、しょせん一面的な概念でしかない。一面的なカテゴリによって構成された 「全体」 とは、それ自体一面的な 「全体」 にすぎぬのだから、どんなカテゴリも、個の全体、個が有する関係の全体を包摂できはしない。具体的な場面において、どのカテゴリを適用し、優先させるかは、そこでの問題に依存するのであり、カテゴリそのものから引き出すことはできない。

 「やつは○○だ。追い払え!」 といった差別や集団的憎悪は、個と全体を同一視し、個を全体に解消するところから生じる。彼らにとっては、AやBという個人、つまり個人としての人間などはどうでもよいのであり、AやBという個人が○○というカテゴリに属するかどうかが、すべてなのである。ようするに、彼らは、たった一枚の 「レッテル」 が生きた個人のすべてを包摂しうるかのように考えているのであり、これもまた、悪しき 「レッテル貼り」 思考のひとつということになる。

 「毒物」 というレッテルは、とりあえず注意を喚起するという点では役に立つ。しかし、毒にもいろいろあるのであり、具体的な場面では、それでは役に立たない。同じ毒でも、青酸カリと砒素ではまったく違うし、対処の方法だって違う。だから、目的と必要に応じて、レッテルはさらに細かく分類し、正確に貼らなければならない。レッテルを正しく使うということは、どんなレッテルも万能ではないということをふまえ、使用しているレッテルの意味、すなわち、その効用と限界を正しく認識しておくということだ。

 悪しき 「レッテル貼り」 とは、まずは不正確で曖昧なレッテルを使用することであり、また、その誤りを指摘されても、がんとして認めようとしない頑迷さのことである。そして、「毒物は毒物だ」 という一見正しそうに思える、ただしよく考えれば、ただの同語反復に過ぎない論理を振り回して、毒物Aと毒物Bの違いを認めようとしない 「レッテル全体主義」 のことでもある。

 なので、レッテルの正しい使い方と間違った使い方を区別できず、たまたま悪しき 「レッテル」 として使われることのある言葉を見つけただけで、パブロフの犬のように、「それはレッテル貼りだ!」 と叫び出す人も、実は同じ 「レッテル貼り」 思考に陥っているということになる。つまり、「レッテル貼り」 とは、個々の場合に応じた具体的な思考と判断を放棄した、怠慢かつ怠惰な思考のことなのだ。

 裁判で言うなら、「有罪」 と 「無罪」 というのもひとつのレッテルである。「容疑者」 とか 「被告人」、「受刑者」 というのも、同じようにレッテルである。警察に逮捕されたのだから、検察に起訴されたのだから、すでに有罪判決を受けているのだから、とそこで思考を停止して、「彼が犯人に違いない」 と決め付けてしまうのは、まさに悪しき 「レッテル貼り」 思考の典型である。

 たしかに、証拠もなしに警察が逮捕状を請求するはずがないとか、有罪の見通しもないのに検事が起訴するはずがない、根拠もなしに裁判官が有罪というはずがない、などというのも、全体としてならば、そこそこの推論としてなりたつかもしれない。しかし、個別の事例について判断するときには、そのような前提は、ただのよけいな先入観でしかない。全体としての蓋然的な正しさは、個々の事例における正しさとはまったく関係ない。

 「司法の独立」 という原則によって、裁判官の身分が保証され、その判決に対して責任が問われないのは、ときの政治権力や有力者の意思、あるいは法的判断以外の利害によって、裁判官の判断が左右されることを防ぐためであって、どんな判決を下そうがおれたちの勝手だよ、とあぐらをかくためではない。

 われわれは一生懸命やった、あの当時はあれでしかたなかった、という警察や検察、裁判所の弁明が、いまだにまかりとおるようでは、「国家無答責」 なる法理がまかりとおっていた 「大日本帝国憲法」 の時代とまったく違わない。国家とその機関は国民に対してなにをしても責任を負わないというのでは、「国民主権」 など絵に描いたもちですらない。

 冤罪を生み出さないために必要なことは、自白や証拠に疑問があるなら、徹底してその不明な点を追究するという態度だけである。当時のDNA鑑定の不正確さについては、最初から疑問が出されていたのに、なんだかんだといって10年以上も再鑑定を退け続けたのには、面倒くさい、という以外に、いったいいかなる理由があるのだろうか。

 この国の司法では、「疑わしきは被告人の利益に」 という近代司法の大原則があまりに無視されすぎてはいないだろうか。警察・検察や裁判所などの関係者もまた、個々の被疑者や被告人、受刑者を、それぞれ名前を持ち、家族を持ち、また未来を持っている生きた人間としてではなく、「レッテル」 が貼られた書類の上の記号としてしか見ていないということなのだろう。警察・検察の主張を鵜呑みにし、せいぜい検事の求刑をいくらか割り引いた刑を言い渡すというだけなら、サルでもロボットでもできることだ。






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Last updated  2009.06.06 05:13:29
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