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カテゴリ:社会
19年前に栃木で起きた 「足利事件」 の犯人として無期懲役の刑を受けていた、元幼稚園バス運転手の菅家利和さんが、再審前であるにもかかわらず釈放された。菅家さんは、当時いくつも起きていた同様の他の事件についても 「自白」 していたが、検察は奇妙にも他の事件については不起訴とし、一件のみについて起訴している(参照)。 もし、菅家さんが一件ではなく、他の件も含めて起訴され、そのすべてで有罪となっていれば、死刑となっていた可能性は非常に高い。実際、飯塚で起きた同様の事件では、二件の殺害容疑によって、被疑者は死刑判決を受け、すでに刑も執行されている(参照)。 問題は、DNA鑑定の技術的精度だけではない。鑑定や科学的技術そのものの精度がいくら上がったとしても、結局は人間がやることである以上、故意か故意でないかに関わらず、その過程において、なんらかのミスが生じる可能性はつねにある。そのことも忘れてはならない。 さて、前置きならぬ前置きが長くなった。ここから本題にはいることにしよう。ただし、前置きと本題といっても、全然関係がないわけではない。お題は、「レッテル」 の正しい貼り方と使い方ということ。 よく、議論の場などで、「レッテル貼りはよくない!」 と言い出す人がいる。そういうときの 「レッテル」 とは、つまりカテゴリ的な概念のことだ。たしかに、印象操作や思考停止を伴う 「レッテル貼り」 はよくない。だが、だからといって、分類のためのカテゴリ使用をすべて禁止するわけにはいかない。 それでは、世界について思考するには、世界に存在する事物と同じ数の概念が必要ということになる。それは、見知らぬ町へ行くのに、その町と同じ大きさの地図を持って行け、というようなものである。 概念は、具体的な事物や関係の抽象によって得られる。個々の具体的な事物は、様々な側面を持ち、様々な関係の中にある。だから、同じものでも、見方や視点、関係付けの違いによって、様々に定義することができる。つまり、カテゴリ的概念とは、すべて事物の一面を捉えたものにすぎないということだ。イルカとマグロは生物学的にはまったく別だが、海洋生物としては一緒である。なので、海洋汚染に対しては、イルカもマグロも利害が一致するのであり、ともに団結してたたかおう! ということになる。 巨人ファンの中にだって、仏教徒もいればキリスト教徒もいるだろう。その場合、球場では仲がよくとも、宗教の話になったとたんに喧嘩を始めるかもしれない。逆に、同じ信者どうしであっても、一方は巨人ファン、他方は阪神ファンであり、野球の話については犬猿の仲という人もいるだろう。「好きな球団」 というカテゴリも、「宗教」 というカテゴリも、具体的な個人の全体を包摂することはできない。どんなカテゴリだろうと、あるカテゴリに包摂されるのは、そのカテゴリと関連したその人の一部であり、全体ではない。 カテゴリは、事物についての特定の視点で構成されたものである以上、しょせん一面的な概念でしかない。一面的なカテゴリによって構成された 「全体」 とは、それ自体一面的な 「全体」 にすぎぬのだから、どんなカテゴリも、個の全体、個が有する関係の全体を包摂できはしない。具体的な場面において、どのカテゴリを適用し、優先させるかは、そこでの問題に依存するのであり、カテゴリそのものから引き出すことはできない。 「やつは○○だ。追い払え!」 といった差別や集団的憎悪は、個と全体を同一視し、個を全体に解消するところから生じる。彼らにとっては、AやBという個人、つまり個人としての人間などはどうでもよいのであり、AやBという個人が○○というカテゴリに属するかどうかが、すべてなのである。ようするに、彼らは、たった一枚の 「レッテル」 が生きた個人のすべてを包摂しうるかのように考えているのであり、これもまた、悪しき 「レッテル貼り」 思考のひとつということになる。 「司法の独立」 という原則によって、裁判官の身分が保証され、その判決に対して責任が問われないのは、ときの政治権力や有力者の意思、あるいは法的判断以外の利害によって、裁判官の判断が左右されることを防ぐためであって、どんな判決を下そうがおれたちの勝手だよ、とあぐらをかくためではない。 われわれは一生懸命やった、あの当時はあれでしかたなかった、という警察や検察、裁判所の弁明が、いまだにまかりとおるようでは、「国家無答責」 なる法理がまかりとおっていた 「大日本帝国憲法」 の時代とまったく違わない。国家とその機関は国民に対してなにをしても責任を負わないというのでは、「国民主権」 など絵に描いたもちですらない。 冤罪を生み出さないために必要なことは、自白や証拠に疑問があるなら、徹底してその不明な点を追究するという態度だけである。当時のDNA鑑定の不正確さについては、最初から疑問が出されていたのに、なんだかんだといって10年以上も再鑑定を退け続けたのには、面倒くさい、という以外に、いったいいかなる理由があるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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>われわれは一生懸命やった、あの当時はあれでしかたなかった、という警察や検察、裁判所の弁明 ーーーー 冗談じゃないですよね 「あの当時だったから有罪になった、今なら無罪」では、司法の意味が無い 拷問に近い過酷な取り調べが有ったようだし こういう明白な誤審を招いた、警察・検察・裁判所を裁く特別法廷ってのは、無理なんでしょうね (2009.06.06 14:09:48)
alex99さん
こういう言訳を聞くと、まるで帝国軍人の敗戦の弁のように聞こえますね。やっぱり、敗戦によっても「国体」は護持されたということなのでしょうか。 「官尊民卑」という意識は、こういう組織の官僚にはまだまだ根強く生きてるみたいですね。だから、退職したあとまで、いろいろ面倒見てもらうのも当然だという話になるのでしょう。 >こういう明白な誤審を招いた、警察・検察・裁判所を裁く特別法廷ってのは、無理なんでしょうね ----- 最高裁が扱う上訴件数は、刑事・民事あわせて年間に5.000件を超えているそうです。これだけの数の事件について、わずか15名の判事で下級審の記録や原告・被告双方の主張に全部目を通すのは、不可能ですね。 最高裁は、冤罪を防ぐ最後の砦なのですから、もっと組織を拡充する必要があるのではと思います。「まだ最高裁がある!」というのは、松川事件でしたっけ。 (2009.06.06 21:01:25)
DNA鑑定のような科学技術は手段の一つであってそれが完全ではないですね。
科学は常に進歩している訳で、必ずミスが発生します。 17年の年月は金銭で償えるものではありませんね。 (2009.06.12 13:09:36)
ルキシトさん
検察は謝罪の意思を示しているようですね。 しかし、問題は裁判所にもあると思います。 判決を下すのは当然裁判官であり、裁判官には検察の主張に疑問や誤りがあったならば、そこを糾すことが求められるはずですが、そのへんがきちんと機能していないように見受けられます。 検察側と被告人・弁護側には圧倒的な差があるわけですが、有罪率が99%を超えているという現況は、ほとんど裁判官がその職責を果たしていないことの証左ではないのかという気がしますね。 (2009.06.13 05:22:59) |