遠方からの手紙

2009/09/14(月)23:09

「トリックスター」と「文化英雄」

神話・伝承・民俗(8)

  先日ちょこっと言及した大林太良の別の著書 『神話学入門』 に、ドイツの民族学者カール・シュミッツ(政治学者のカール・シュミットと名前は似ているが、まったくの別人。1920年生まれだそうだ)による神話の分類として、次の三つがあげられている。 1 だれが、どのようにして世界を創造したか(宇宙起源論) 2 だれが、どのようにして人類を創造したか(人類起源論) 3 だれが、どのようにして文化を創造したか?  この三つの分類について、大林は下のように説明している。  天と地に関する関する神話とか、天体やその他の自然に関する神話は、私の考えではみな宇宙起源論の一部であり、洪水神話その他の大災厄神話も、宇宙起源神話の一部である。 他方では大災厄神話も、人類の起源を物語るかぎりにおいては人類起源神話の一部であり、また原古の状態に関する神話は、それが原古における文化の起源を説明するかぎりにおいては文化起源神話である。  たとえば、『旧約聖書』 であれば、神が 「光あれ!」 と叫んで光と闇とをわけ、さらに天と地をつくり、七日間で世界を創造したという 「創世記」 冒頭の説話などは、典型的な 「宇宙起源神話」 ということになる。また、土からアダムを、さらにその肋骨からエバを作ったという話は、ここでいう 「人類起源神話」 ということになるだろう。  本居宣長の死後の弟子と称した、平田篤胤による日本神話解釈は、天照大神を唯一神化するなど、当時国禁であったキリスト教の教義をひそかに取り入れることで、「神道」 教義の体系化を試みたものといわれているが、「古事記」 冒頭の 「天地の初発のとき」 の一節も、彼によって 「創世記」 同様の宇宙創造論として解釈されている。  ところで、「文化英雄」 というのは、神話の中ではあまり待遇がよろしくない。文化の起源とは、たとえば火の利用についての起源や農耕の起源、言葉や文字の起源などのことだが、ギリシア神話の場合、巨人神族のひとりであるプロメテウスは、ゼウスの目を盗んで天界から火を持ち出して人間に与えたため、報復として大きな岩に縛り付けられ、毎日毎日、鋭いくちばしを持った鷲に、生きたまま肝臓をつつかれるという目にあうことになってしまった。  原始的な宗教における神々が、冷厳な 「自然の鉄則」 や人間を取り巻く 「運命」 の象徴であるとするなら、「文化」 とはそのような自然や、あるいは自然法則であるかのように人間を訪れる 「運命」(たとえばオイディプスの物語のように)に対する反抗ということになる。「文化」 はそのような神々を出し抜き欺くことで、はじめて人間の世界に登場したということだ。  だから、神話の世界では、「文化」 が持つ意味はしばしば両義的である。そのことをいちばん象徴しているのは、これもまた 『創世記』 にある、エバをそそのかしてエデンの園の中央に立つ禁断の木の実を食べさせた、ヘビの話ということになるだろう。  『創世記』 では、ヘビは 「神が創造した野の獣の中でいちばん狡猾」 な獣と描かれているが、ヘシオドスもまたプロメテウスについて、「さまざまな策に富む」「策に長けたプロメテウス」、「知略にかけては尊大なクロノスの御子(ゼウスのこと)と、互角に張り合うほどであった」 などと描いている。  ここからは、またトロイアからの帰国途中、海神ポセイドンの怒りを買って船が難破し、あちらこちらでいろいろな苦難にあいながらも、セイレーンや一つ目の巨人だのという怪物や魔女、妖精らの裏をかいて、最後には無事故国に帰りついた 「策略巧みな」 オデュッセウスのことも連想される。  エバに対して、禁断の木の実を食べても、「君たちが死ぬことは絶対にないよ」 とささやいたヘビは、たしかに悪意を抱いて彼女を騙したのだが、それに続く、「神様は君たちがそれを食べるときは、君たちの目が開け、神のようになり、善でも悪でもいっさいが分かるようになるのをご存知なだけのことさ」 という言葉は、必ずしも嘘ではない。  実際、禁断の木の実とは 「知恵の実」 のことであり、これを食べたことで、「たちまち二人の目が開かれて、自分たちが裸であることが分かり、無花果の葉をつづり合わせて、前垂れを作ったのである」 と、『創世記』 には書かれている。人間は 「知恵の実」 を食べたことで、楽園からは追放されたのだが、そのかわりに、天にも届こうという 「バベルの塔」 を力を合わせて建てようというほどの知恵をも手に入れたということだ。  さて、掟を破って知恵の実を食べたアダムとエバは、怒った神により、次のように宣告される。 君のために土地は呪われる。 そこから君は一生の間、労しつつ食を得ねばならない。 君は額に汗してパンを食らい ついに土に帰るであろう。 君はそこから取られたのだから。 君は塵だから塵に帰るのだ。  「知恵」 とはつまり根源的には人間の反省意識、すなわち自意識のことだが、それと不可分のものとされている 「死」 とは、この場合、「死」 そのものというより、むしろ 「死の意識」 と言ったほうがいいだろう。つまり、人間は 「自意識」 を手に入れることで、同時に 「死」 に対する恐怖という意識にも憑りつかれるようになったということだ。 ディオゲネス・ラエルティオスによれば、古代ギリシアの哲学者であるエピクロスは 「死」 について次のように言っている。  死は、もろもろの災厄の中で最も恐ろしいものとされているが、実は、われわれにとっては何ものでもないのである。なぜなら、われわれが現に生きて存在しているときには、死はわれわれのところにはないし、死が実際にわれわれのところにやってきたときには、われわれはもはや存在していないからである。 『ギリシア哲学者列伝』  なので、彼によれば、「死はわれわれにとって何ものでもないと考えることに慣れるようにしたまえ」 とのことだ。たしかに、彼の言うとおり、「死が実際にわれわれのところにやってきたときには、われわれはもはや存在していない」 のだから、悩んでもしょうがないということにはなる。だが、やはりそうはいかぬのも事実だろう。 アダムとエバに禁断の木の実を食べるようそそのかして、その目を開かせたヘビもまた、人間に対して 「知恵」 という文化の原理をもたらしたのだから、「文化英雄」 ということになる。だが、そこには神と人間に対する一定の悪意が存在していたことも明らかであるから、彼は同じく神話学で言う 「トリックスター」 としての性格も備えている。 「トリックスター」 とは、もとはネイティブ・アメリカンの神話についての研究から生まれた言葉で、「神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好き」 なのだそうだが、人類学者だけでなく、心理学者のユングなどもいろいろと論じている。「文化英雄」 と 「トリックスター」 が多くの場合、重なり合うということは、文化とは、本来そのような 「神や自然界の秩序」 を破るという性格を持つものだということを意味しているのだろう。 逆に言うならば、そのような 「神や自然界の秩序」 に対する挑戦という意味を失ってしまえば、文化は停滞してしまうということであり、文化としての意味も失われるということになる。つまるところ、「文化」 とは本来危険なものであり、だからこそほとんどつねに「文化」 は、時の権力による取り締まりや規制の対象とされてきたということでもあるだろう。

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