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カテゴリ:文学その他

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンと夏目漱石の因縁浅からざる関係については、以前にちょっとだけ触れたことがある。八雲が熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)を退職したのが1894年。漱石はその二年後に第五高等学校で、同じく英語の教師を務めている。

 五高を退職した八雲は、いったん神戸のジャパンクロニクルなる英字新聞社に務めるものの、外国人居留地の雰囲気にうんざりし、二年後の1896年には東京大学の英文学講師となる。この間、漱石のほうは文部省からイギリス留学を命じられる。留学中の漱石が、その極端な言動のゆえに、友人らから狂人扱いされたのは有名な話。

 漱石が帰国したのは1903年、ちょうど日露戦争の前年にあたる。その年、八雲は東大を退職し、イギリスから帰国した漱石が、すぐにそのあとを継ぐよう命じられる。八雲の東大退職は任期満了のためだそうで、大学を辞めること自体に不満はないものの、通知一本での解職というやり方にはいささか腹をたてたらしい。しかし、その翌年に狭心症を起こして亡くなっている。享年54歳である。

 漱石の作家としての処女作は、いうまでもなく 『吾輩は猫である』 だが、その中には、主人公の苦沙弥先生が 「僕のも大分神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しい事に先生は永眠されたから、」 と一ヶ所だけ、八雲について語ったところがある。八雲の奥さんだった小泉節子が書いた 『思い出の記』 によれば、八雲の家には、誰によっては分からぬが、俳誌の 「ホトトギス」 が毎号届けられていたとのこと。

 このとき東大の学生の中には、やめた八雲を慕うものが多く、漱石はいささか苦しい立場にあったようだ。漱石の死後に、夏目鏡子が書いた 『漱石の思い出』 には、この辺の事情がこんなふうに書かれている。

 狩野さん大塚さんなどの肝煎りで、望みどおり熊本に帰らないで、東京にいて一高で教鞭をとることになりましたが、それだけでは生活にも困ろうとあって、文科大学の講師ということになって、小泉八雲先生のちょうど後に入ることになりました。どうしてそういうことになったのか、その間の消息は私には分かりませんが、当人ははなはだ不服でして、狩野さんや大塚さんに抗議を持ち込んでいたようです。

 夏目の申しますのには、小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いた偉い方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものがその後釜にすわったところで、とうてい立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない。

 八雲は漱石より17も年上で、日本とその文化について紹介した著書はすでに世界的に有名となっていたから、漱石が困惑したのは分からないでもない。『猫』 で 「僕のも大分神秘的で」 と主人公が言ったのがなにを指すのかはわからないが、たしかに漱石の 『夢十夜』 などはりっぱな怪談であるし、『倫敦塔』 や 『幻影の盾』 なども気味の悪い怪奇小説である。なお、漱石の 『こころ』 に対して、八雲には 『心』(現題は"kokoro")という随筆集がある。

 年譜によれば、八雲はアイルランド人の父親とギリシア人の母親の間に生まれている。二人は父親が軍医として勤務していたイオニアの島で知り合い、そこで生まれたそうだ。思わず、ソフィア・ローレンが主演した映画 『島の女』 を連想しそうだが、こちらは土地の名士の娘なのだそう。そういえば、島尾敏雄も、戦争中に特攻隊の隊長として赴任した島の女と結ばれている。やっぱり、遠い海の向こうから来た人とかはもてるのだろうか。むろん、皆がみなそうというわけではあるまいが。

 話がすこしそれた。その後、八雲は父親の家があるアイルランドのダブリンに帰国しているが、父親は今度は西インドに赴任し、残された母親は精神を病みギリシャにひとりで帰国(このへんもやや島尾と似ている)。八雲は大叔母さんに育てられたとか。ところが17歳のときに父親は死亡、おまけに保護者であった大叔母は親類にだまされて破産したとか。これでは、こんどは 「小公女セーラ」 である。

 そこで仕事を探しにロンドンにで、さらに移民船で海を渡ってアメリカへ向かうことになる。ここまでは、ヨーロッパでは希望のみえぬ者がたどるよくある話。そこで20年をすごしたのち、1890年にようやく日本に来ることになる。それ以前に、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で、日本人の役人に会ったことがあり、そのつてで松江に行くことになったそうだ。

 八雲がヨーロッパやアメリカを嫌い、日本の文化に憧れたのには、おそらく彼個人のそれまでの体験が大きな影響を及ぼしているだろう。たまたま文才を認められて這い上がることができたものの、彼の一生はけっして順風満帆なものだったわけではない。そのことが、奴隷として連れてこられた黒人による独特な文化が残るアメリカ南部やカリブの島々に魅せられることになり、やがては海の向こうの日本へと向かわせることになる。

 それは、産業革命によってすべてが機械化され、天をも突くような高層ビルが建ち並ぶ大都会と、その中でが気ぜわしく動き回っている人々への嫌悪から来たものであり、それがおそらくはその対極にあるものへと引き付けられた理由なのだろう。そういう彼の気質が、そもそもの出自であるアイルランドと関係あるのかは、なんとも言えないのだが、まったく無関係ともいえなさそうな気はする。

 アイルランド出身者といっても、もとをたどればイングランドから来た植民者であり、支配者の側につながる者もいて、十把一絡げにはいかぬのだが、この地からは古くは哲学者のバークレーや 『ガリバー旅行記』 のスウィフト、『フランス革命についての省察』 を書いたエドマンド・バークから、ワイルドやバーナード・ショー、詩人のイェーツや作家のジョイス、劇作家のベケットと多士済々の人物が出ている。

 クロムウェルによる占領以来、イギリスの支配下に置かれていたアイルランドが、いかに困窮のきわみにあったかということは、そこから多数の移民(いまふうに言えば「経済難民」)が流出したことからも分かる。現在、本国に住むアイルランド人は、イギリス統治下の北アイルランドを含めても、わずか500万ほどにすぎぬのに対して、アメリカなど、海外に流出した移民の子孫はその十倍近い4,000万に上るのだそうだ。

 イングランドへの隷属に長く苦しんだアイルランドがようやく独立したのは、19世紀に始まる独立運動の末、第一次大戦後の1921年のこと。ちなみに、アイルランド問題について、マルクスは1869年に友人のクーゲルマンに宛てた手紙の中で、こう書いている。

 僕はますますつぎの確信をふかめるにいたったが、これをイギリスの労働者階級に徹底させることはきわめて重要である。すなわち、イギリス労働者階級がアイルランドにかんする彼らの政策を支配階級の政策からもっとも断固として分離させ、アイルランド人と共同歩調をとるばかりでなく、1801年に創設された同盟を解体して、そのかわりに自由な連合関係を樹立しないかぎり、彼らはこのイギリスではなにひとつ決定的なことはできないのだ。






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Last updated  2009.12.20 13:20:17
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