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カテゴリ:文学その他

 昨日今日と天気は回復したが、今年の春はずいぶんと気象の変化が激しかった。初夏なみの暑さになったかと思うと、いきなり冬に逆戻りして、ところによっては雪まで降った。それでも、いったん開花を迎えた桜は、誘爆式の仕掛け花火のように一気に花を咲かせた。名前は知らないが、まだ裸のままの落葉樹からも、天に向かって触手のような細い枝が無数に伸びている。

 『春の嵐』 といえばむろんヘッセであるが、ヘッセはどちらかと言えば苦手なので、これは読んでいない。叙情的なのはまだよいが、「芸術」 だの 「精神性」 だのとかを持ち出されると、いよいよかなわない。かわりにといってはなんだが、藤村には 『春』 という長編と、『嵐』 という中編がある。これを二つあわせると、「春の嵐」 となる。

 どちらも自伝的作品であるが、『春』 のほうは 『桜の実の熟する時』 に続く、藤村の青年時代、盟友であった北村透谷が自殺した頃の話。いっぽう 『嵐』 のほうは、それからほぼ二十年後、最初の奥さんに死なれ、手伝いに来ていた血のつながった姪を妊娠させてしまい、三年間フランスに逃げたあと、ようやく帰国して子供らと暮らしていた頃のことを描いた家庭小説である。

 『嵐』 は、彼が日本を逃げ出すきっかけとなった、この事件を描いた 『新生』 の七年後に書かれているが、藤村というのは煮えきらない男で、フランスから帰国してからも、兄に内緒で、また姪との関係は復活している。なので、この題名の 『嵐』 とは、たんに気象現象のことを指すというより、そういった彼の身の回りで起きた一連の事件のことをさすと見ていいだろう。

 三十年ほど前に亡くなった評論家の平野謙は、この 『新生』 執筆の動機について、姪とその父親である兄との間での 「秘密」 をめぐる関係の中で、にっちもさっちも行かなくなった藤村が、すべてを放り出してご破産にするためだったと論じている。

 もはや事態は明白である。藤村が 『新生』 を書いた最大のモティーフは、姪との宿命的な関係を明るみへ持ちだすことによって、絶ちがたいそのむすびつきを一挙に絶ちきるところにあったのだ。その自由要望の声はほかならぬ恋愛からの自由を意味している。

平野謙 「新生論」 より    


 実際、『新生』 という作品は、自分の子供を生ませた、ようやく二十歳を少しこえたばかりの姪に対する愛情も同情もほとんど感じられない、エゴイズム丸出しで自己弁護ばかりに終始している、酷い小説である。彼より二十年若い芥川が、 『或る阿呆の一生』 の中で、この主人公のことを 「老獪な偽善者」 と呼んだのも当然ではある。

 『春』 の最後には、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」 という主人公(つまりは藤村)の有名な台詞がある。この台詞は 『新生』 の中でも繰り返されているが、藤村はその後 『夜明け前』 を書き上げて、戦争が終わる二年前の1943年まで生き、71歳で亡くなったのだから、結果的には、そんなに心配することはなかったということになる。平野謙によれば、「かくて業ふかき人間島崎春樹はついに救われた」 のだそうだ。

 話は変わるが、昔々、左翼系の文学理論に 「典型理論」 なるものがあった。つまり、革命的な作家は、典型的な時代の、典型的な事件と典型的な人物を描かなければならないというものだが、よくある時代の、よくある事件とよくある人物を描いたところで、それだけではちっとも面白くはなかろう。

 戦後の中国では、魯迅の 『阿Q正伝』 の主人公、阿Qをめぐって、阿Qはいかなる階級の典型であったかを論じた、「典型論争」 なるものまであったという。たしかに、阿Qのような人間は、いつの時代にもいるだろう。そういう意味では、たしかに阿Qは人間のひとつの典型である。

 ただし、小説の登場人物が、人間のあるタイプを代表するという意味での典型でしかなければ、それはとうてい生きた人間とは言えない。ナポレオンのような非凡な人物を描こうが、阿Qのような卑小な人物を描こうが、あるいはリアリズムで描こうが、アレゴリカルに描こうが、小説というものは、なにかの 「一般論」 のような無味乾燥な公式に還元されるものではない。

 結局のところ、文学というものを支えているのは、たとえ表現形式としては 「虚構」 であろうとも、生きた人間である作者の 「実感」で あり 「感情」 ということになるだろう。世界中の物語をコンピュータにぶち込んで分析し、出てきたものにあれやこれやと脚色を付け加えたところで、それで 「はい、できあがり」 というわけにはいくまい。

 むろん、個人の実感や感情が、そのままでは一般性を有しないのは言うを待たない。人によって経験は違うし、経験の積み重ねの中からうまれた、ものの考え方や感じ方がひとりひとり違うのは、当然のことだ。だから、それをそのまますべてに当てはまるかのように一般化してしまえば、ただの実感主義や感情論にしかならない。

 しかし、それが人間の実感であり感情であるかぎり、そこにはなんらかの普遍性が存在するはず。であればこそ、そういった実感や感情は、たとえ完全な共感は不可能だとしても、一定の理解は可能なのであり、そこにコミュニケーションというものが成立しうる根拠もあるだろう。でなければ、個々の人間の個々の感情などを描き出した文学というものが、ときには時代や文化をもこえた普遍性を持ちうるはずがない。

 ようするに、「論理」 には還元されない、人間と人間のコミュニケーションにとって必要なのは、そういった具体的な人間の 「実感」 や 「感情」 の中から、そこに含まれている 「普遍性」、言い換えるなら普遍的な意味を引き出すことであり、そういう努力をすることだ。

 それは、世の中の人間のありとあらゆる 「実感」 やら 「感情」 やらを集めてデータ化したり、定量化して平均を出すようなこととは全然違う (かりにそれが可能だとして)。むろん、「実感主義」 だの 「感情論」 だのという、そのへんにいくらでも転がっているようなつまらぬ非難ともまったく関係ない。






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Last updated  2010.04.04 16:48:35
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お久しぶりです   わど さん
かつさん、お久しぶりです。あまり更新されないので何かあったか、などと(失礼)。文学についてお考えにもなる、かつさんのブログは必読です。
『新生』って、ひどい話ですね。島崎藤村は、まだ彼が若いころの作品(1,2冊は読みました)以外、ぜんぜん評価できないものを感じましたが。そんな感性じゃ当たり前。
結局のところ、小説は作者が納得できるように書きまくればいい、ってことでしょうね。それ以外にありえないのだし。またそれが、どんな批判にさらされても、平然として次作を書きつづけられる力が必要不可欠でしょうか。まるで村上春樹氏のように、ブログのように。その点、気が小さいおれは失格ですけど(笑)。 (2010.04.05 04:39:42)

Re:お久しぶりです(04/04)   かつ7416 さん
わどさん
どうも
なにしろ、すでに山のように積読本がたまっているので、少しずつでも消化しようと思うと時間がいくら合っても足りません。なので、ネットに費やす時間は少し減らそうかなと思っています。時間はやっぱり貴重ですから。

藤村はむろん、明治を代表する作家の一人でしょう。作品も膨大だし。「新生」は発表当時は、よくぞ告白した、というような評価もあったらしいですけど、芥川の感想が正鵠を得ているように思います。まあ、似たような話はあちこちにありますが。

モデルとなった藤村の姪の女性は、本名を「こま子」と言いますが、戦後も健在で85歳で亡くなられたそうです。
http://edit64.jp/26annotation/2006/07/post_15.html
-----
(2010.04.05 12:27:07)

わたしに代わって?(笑)   たんぽぽ さん
「個人的体験にいっさいの普遍性はない」という
極端な主張をする人がいたのを、わたしは、思い出しましたよ。
ずいぶんむかしのことなんだけれどね...

その人は、「普遍性があるものは、客観的根拠で
裏付けられて万人が共有できるはず、
個人的体験は、客観的根拠がないから、
他人が共有できる普遍的なものは一切ない」という
両極端の二者択一しか考えらないみたいでした。

「その人の個人的体験の中にも、他者が共有できる
普遍的な部分が含まれている」という考えかたは、
ぜんぜんできない(したくない?)人のようでした。


でもって、おおむかし、その人とかかわって、
わたしはかなり、へきえきさせられたんだけどね...
そのとき、わたしが思ったんだけど、
うまくことばで表現できなかったことを、
代わりにおっしゃってくれたみたいだと、
エントリを読んで思いましたよ。
(2010.04.07 00:14:25)

Re:わたしに代わって?(笑)(04/04)   かつ7416 さん
たんぽぽさん
そのひとは、たぶん「普遍性」ということと「一般性」ということの違いが分からなかったのでしょう。「一般性」は物事の直接的なレベルで広く共通して存在するものを言いますが、「普遍性」とは視点を抽象的なレベルにあげることではじめて見えてくるものをさします。

もし、その人が言うように、「客観的根拠で裏付けられて万人が共有できる」ものにしか普遍性がないとしたら、結局は、自然界の物理法則のように、誰にでも観測可能で、全員の答が一致しうるものにしか普遍性はないということになりますね。

しかし、そのような意味での「普遍性」は、「意味」を有しない世界にしか存在しません。「意味」というものは、どれだけ多数の人間が賛成しようと、結局は人間の主観が構成するものですから。つまるところ、その人の結論では、人間的世界にはいっさい「普遍性」は存在しないということになります。もっとも、その人も、たぶんそこまでは考えてないでしょうが。

しかし、直接的であれ間接的であれ、人間は自己の体験から普遍性を導き出しうるということを原理的に否定してしまえば、いったい普遍性というのはどこから導かれるのでしょう。天から降ってくるわけでもないでしょうし。もし、経験ぬきに、頭の中の論理的思考だけで導けるというのだったら、カントもびっくりの独断的観念論ということになります。
(2010.04.07 01:31:10)

映画で見ました   さすらい日乗 さん
はじめまして、さすらい日乗をやっている指田文夫と申します。
この『嵐』は、稲垣浩監督で東宝で映画になっており、小学生のとき見ました。
主演は笠智衆で、娘が雪村いずみでした。
細部は全く憶えていませんが、非常に暗い作品だった記憶があります。

この姪の女性は、井上ひさしの林芙美子を主人公にした戯曲『太鼓たたいて笛吹いて』に出てきたと思います。 (2012.05.20 08:18:40)


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