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社会

2009.08.23
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カテゴリ:社会

  夏の定番といえば、一にお祭り、二に花火、三四がなくて五に怪談ということになるだろう。古典的な怪談といえば、なんといっても夫の伊右衛門に毒を盛られて目の上を腫らしたお岩さんが登場する 「四谷怪談」 が有名だが、ほかにも、「一枚、二枚、三枚...」 と皿を数えては、最後に 「一枚足りない」 と恨めしげに語る、お菊さんの幽霊で知られる 「番町皿屋敷」「牡丹燈篭」 の話も有名である。

 そのほかにも、江戸時代には行灯の油が大好きという化け猫で有名な、佐賀の鍋島騒動の話もあるし、明治になれば、そのものずばり小泉八雲の 「怪談」 というのもある。「高野聖」 などを書いた泉鏡花にも様々な怪談話があるし、夏目漱石の 「夢十夜」 にも、いささか怪談じみた話が多い。ただし、Wikipediaによれば、最初にあげた三つが日本三大怪談ということになっているようだ。

 「怪談」 というのを定義するとすれば、お化けや妖怪、幽霊などの超自然的な存在や超自然現象が出現して人を脅かす話ということになるだろうが、日本におけるその原型というのは、奈良・平安の頃に書かれた 『日本霊異記』 や 『今昔物語』 などに収められた、前世や現世での人間の悪行の報いを説く仏教説話ということになる。

 これらの話は、ようするにこの世で悪いことをすると、あの世で閻魔様や怖い鬼たちにしばかれますよという話であり、つまりは、怖さそのものを味わう怪談話というよりも、だから悪いことをしてはいけませんよ、という話である。したがって、これはむしろ道徳の話といったほうがいい。実際、奈良・平安の時代の人々にとっては、飢えや病気、夜盗や追い剥ぎなど、てんで珍しくはなかった現世そのものが、まずは恐ろしいものであっただろう。

 それだけに、人々には仏教などのありがたい教えに救いを求める気持ちも強く、したがって寺の僧侶らがとく因縁話も、おそらくは誰一人ちゃかすことなく真面目に信じられていただろう。村の古老とかが話して聞かせただろう妖怪変化などの伝説の類だって、とてもリアルなものであって、その恐ろしさを味わうなんて心の余裕は、とうていなかったに違いない。

 つまり、話の怖さそのものを楽しむ 「怪談話」 というものは、そのようなお話が本当にありうるとはもはや受け取られない時代になって、はじめて成立したということになる。「恐ろしさ」 を味わうというのは、「恐ろしさ」 そのものをベタに受け取るのではなく、たとえその場では無理だとしても、「恐ろしい」 という自分の気持ちをさらにメタに見ることができるようになって初めて可能なのだ。

 事実、「四谷怪談」 にしても 「番町皿屋敷」 にしても、本当にこわいのは化けて出てきたお岩さんやお菊さんではなく、仕官の話に目がくらんでお岩に毒を持った伊右衛門や、お菊に濡れ衣を着せて惨殺したお殿様などのように、生きている人間のほうである。つまり、このような怪談は、ほんとうは幽霊の恐ろしさではなく、人間の欲望の恐ろしさや、業の深さをえがいたものなのである。

 だから、その 「恐ろしさ」 は、劇を見ている人間自身の恐ろしさでもあるということになる。そこでは、そのような 「怪談」 が本当にありうるかどうかは、もはや問題ではない。そこで出てくる幽霊は、人間がみな持っている恐ろしさの象徴であり、人間の業というものがひとつの実体として、目に見えるものに 「化体」 したにすぎない(哲学的に言うと、これは一種の 「疎外論」 である)。

 さて、いよいよ選挙もたけなわであるが、ある政党からこんなパンフレットが出ているそうだ。

  知ってドッキリ民主党 これが本性だ!!


 これによると、なんでも、民主党には、日本で革命を起こし、社会主義化しようという 「秘密の計画」 があるそうなのだが、結党以来、80年を超える共産党にも、戦後長らく第一野党の座を占めていた旧社会党にもできなかった 「革命」 なるものが、いったいどうやったら、多種多様な意見を有する議員で構成された民主党にできるというのだろう。

 このパンフを作成した連中がこんな馬鹿話を本当に信じているとしたら、彼らはただのアホウということになる。しかし、もし自分では信じてもいない話を、こんなにでかでかと宣伝しているのだとしら、それは彼らが、この国の大衆なんて、この程度の馬鹿話で簡単に丸め込むことができると思っているということになるだろう。

 「嘘をつくなら大きいほうがばれにくい」
とか、「どんな嘘でも繰り返し宣伝すれば真実になる」 などと言ったのは、たしかヒトラーであるが、いやはやなんともかんともである。

 これではまるで、夏休みの子供の毎夜毎夜の夜遊びに悩まされ、万策尽きたどこかの親が、「夜遅くまで遊んでいたら、お化けに出くわすぞ!」 といった話で脅かしてなんとかしようというような話である。だが、いまどきの子供は、もはやそんな話に納得したりはしないだろう。現代っ子をなめてはいかんのだ。

 「ヨーロッパにはひとつの妖怪が出没している」
というのは、有名な 「共産党宣言」 の書き出しだが、どうやら、この人たちの頭の中には、いまだに 「日教組」 とか 「共産主義」 などという冷戦時代の亡霊が、そっくりそのままの姿で徘徊しているらしい。いったい、いつの時代に生きていらっしゃるのだろう。

 大衆の受容能力はひじょうに限られており、理解力は小さいが、その代わりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、その言葉によって、目的としたものが最後の一人にまで思い浮かべることができるように継続的に行われなければならない。

 人々がこの原則を犠牲にして、あれもこれも取り入れようとすると、すぐさま効果は散漫になる。というのは、大衆は提供された素材を消化することも、記憶しておくこともできないからである。それとともに、結果はふたたび弱められ、ついにはなくなってしまうからである。

「わが闘争」 より 







Last updated  2009.08.23 13:06:03
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2009.08.10
カテゴリ:社会

  最近というわけでもないが、一部の 「右派」 勢力や団体、政治家らによって 「反日」 なる言葉がしきりと使われている。いわく、「反日国家」、「反日サヨク」、「反日マスコミ」、「反日外国人」 などなど、その使用例は、まことに枚挙に暇がない。

 たとえば、西尾幹二や渡部昇一のような 「学者」 や、彼らを信奉する者らに言わせると、中国や韓国、北朝鮮は 「反日」 国家であり、在日韓国人・朝鮮人らは 「反日」 外国人なのだそうだ。また、日教組や朝日新聞は「反日サヨク」であり、男女平等やDVについての啓蒙活動、性教育、差別の禁止や人権の保護などを訴えている人らもみな、「反日」 勢力なのらしい。

 彼らによれば、戦後のGHQによる占領と東京裁判、さらには日本国憲法制定によって、神武天皇の即位以来、2600年の歴史を持つ日本の古きよき伝統は破壊されたということだ。戦後の占領政策は、なにより日本と日本人を無力化することを目的としており、そのために様々な陰謀が企まれ、実行されてきたのだそうだ。それは、たとえば連合軍内に潜んでいたコミンテルンのスパイと、戦後解放された日本の左翼勢力の協力によって進められたということのようだ。

 戦後の日本社会に、ハリウッド映画やアメリカ製のドラマが氾濫し、さまざまなスポーツが盛んになり、また 「性の解放」 が進んだのも、「スクリーン、スポーツ、セックス」(3S政策というらしい)の三つを与えることで、日本人を愚昧化させようという連合国の陰謀なのだそうだ。また、学校給食にパンが導入され、それまでのコメにかわってパン食が普及するようになったのも、一部の 「識者」 によると、日本人の食生活の破壊をつうじて、家庭の破壊と日本人の弱体化をもくろんだ 「反日」 勢力の陰謀なのらしい。

 ようするに、そのような人らに言わせると、核家族化と少子化が進行して伝統的な家族制度が崩壊したのも、街中にポルノが氾濫しているのも、「反日」 勢力のせいということになる。オタクや 「引きこもり」 が増えているのも、「メイド喫茶」 とかが流行っているのも、教員や公務員のモラル低下が指摘されるているのも、つまりは戦後60年にわたって続けられてきた、そのような 「反日」 勢力の陰謀のせいであり、その成果ということになるのだろう。

 いまや、彼らはいたるところに 「反日」 勢力の陰謀をかぎつけている。「反日」 なのはなにもサヨクや一部アジア諸国だけではない。創価学会と公明党もまた、自民党に取り入って日本の国家と社会の破壊を企む 「反日」 カルト集団なのだし、「日の丸」 をおったてて、大音量で軍艦マーチなどを流している 「街宣右翼」 もまた、実は 「在日朝鮮人」 らに操られ、真正右翼のイメージダウンを狙って活動している 「反日」 勢力なのらしい。

 最近ではすっかり凋落したとはいえ、近隣諸国との協調を主張する自民党内のリベラル派も、隠れ 「反日サヨク」 なのであるし、「夫婦別姓」 や 「外国人参政権」 に積極的な社民党や民主党については、言わずもがなだろう。日本の社会には、いまやありとあらゆるところ、毛穴のすみずみにまで 「反日」 勢力は潜んでいるのである。これは、まことにたいへんな由々しき事態なのである。

 世界も日本の国内も 「反日」 勢力だらけである。われわれはついに目覚めた。新聞もテレビも、「マスコミ」 はすべて 「反日」 勢力によって牛耳られている。大学などの教育機関もそうである。したがって、そのようなものを信じてはならない。「真実」 はなによりもネットの中にある。というわけで、いまや連日連夜、彼らはネット上のあちこちの掲示板で情報を交換し、ブログや掲示板を使って 「真理」 の普及に日夜励んでいるというわけだ。

 これは、カフカもびっくりするような、ほとんど不条理な世界である。しかし、いたるところに 「反日」 勢力の暗躍を見出している彼らが守ろうとしている 「日本」 とは、いったいなんなのか。それがさっぱり分からない。それは、白砂青松の自然豊かな日本なのか。それとも、能楽や狂言などの伝統芸能や、和歌や俳句、「源氏物語」 のような、「もののあはれ」 や 「わびさび」 にあふれた世界なのだろうか。

 近代史をひもとけば、「反○○」 運動というのはあちこちにある。ガンディーが指導したのは 「反英」 独立運動であったし、中国や朝鮮では日本の侵略に対する 「反日」 運動も行われた。戦後のインドシナの抵抗は 「反仏」 から 「反米」 にかわったし、インドネシアの場合は 「反蘭」 運動ということになる。日本でも、戦後の米軍による占領や基地に対する抗議活動などが、「反米」 闘争と呼ばれたことがある。

 これらの運動は、すべて具体的な内容と目標を持った、具体的な運動ばかりである。したがって、そこで使われている 「反○○」 なる言葉も、当然ながら具体的な意味、言い換えると明確に限定された意味を持っている。しかし、現在使われている 「反日」 なる言葉は、これとまったく異なっている。それはただの恣意的なレッテルにすぎす、具体的に限定された意味内容を持っていない。

 むしろ、それはすでに見てきたように、現在の日本がかかえる様々な問題の 「根源」 であり、現代における 「根本悪」 として一括して名指しされた、想像上の 「敵」 の名称でしかないように見える。しかし、現代社会の複雑な問題が、すべてある特定の勢力や、ただひとつの原因によって生じていると考えるのは、きわめて粗雑な問題の単純化でしかない。そこからうかがえるのは、社会全体を見通すと同時に、個別の問題をひとつひとつ整理するという能力の完全な欠如であり、おのれの知的無力と無能の告白ということになるだろう。

 結局のところ、彼らはおのれが敵視した相手に 「反日」 なるレッテルを貼ることで、自分たちが抱いている 「日本」 または 「日本人」 なるものとその価値を確認しているにすぎぬように見える。つまり、これは論理が逆なのであり、他者に対して 「反日」 なる本来は対抗的でしかないレッテルを貼ることによって、はじめて 「日本」 と 「日本人」 なるものを確認するという、逆転した自己確認の言葉にすぎぬように思える。

 言うまでもないことだが、日本人を親とする、生まれながらの日本人が日本人であることには、なんの対価も努力もいらない。だから、「日本」 や 「日本人」 なるものを価値とするならば、これまた本人にとって、なんの努力も代償もいらないきわめて手軽な価値だということになる。なにしろ、それにはただ 「自分は日本人だ!」 と叫びさえすればよいのだから。

 しかし、それでは、どの日本人も等価ということになる。それでは、あまりに虚しかろう。そもそも価値とは差異の体系であるから、自己と他者を差別化できなければ意味がない。それに事実はそれだけでは価値とはならない。たんなる事実を価値とするものはやはり基準であり規範であるから、なんらかの価値基準が必要である。そこで引っ張り出されるのが、「真の日本」 であり 「真の日本人」 ということになる。だが、それはいったいなんなのか。やはり、わけがわからない。

 しかし、空疎な価値といえども、走り続ける自転車のように、たえずそこに差異を持ち込むことによって維持することは可能かもしれない。だから、彼らは自己が敵とみなしたものに対して、次々と 「反日」 なるレッテルを貼っていかねばならない。つまり、彼らが自らの価値観の基準としているであろう 「日本」 と 「日本人」 なる価値は、国家や社会の外部だけでなく、内部においても「反日」 的なものを見つけ出し、次々にそういうレッテルをはることによってしか維持できないということになる。

 彼らにとっては、「日本」 と 「日本人」 なるものは、なによりも相対化できない絶対的価値でなければならない。だが、そのためには、「日本」 や 「日本人」 なるものを具体的に措定することは禁止されねばならない。なぜなら、具体化とは限定化と同義であり、限定化されたものはいずれは相対化をまぬがれないからだ。

 彼らのいう 「反日」 なるものが、つねに恣意的なレッテルでしかないのは、おそらくそのためでもあるだろう。彼らにとっての 「日本」 と 「日本人」 なるものが、いつになっても具体的で明確なものではありえぬのは、まさに理の必然なのである。

 むろん、いうまでもなく、自己認識は他者を鏡とすることによって得られるものである。だが、最初に空疎な 「日本」 なるものを価値基準とすることで得られる彼らの他者認識は、当然ながら虚偽の認識でしかない。したがって、「反日」 なるレッテルによる反照として得られた彼らの自己認識は、結局のところ当初の空疎な自己認識をただ再確認するものでしかないということになる。つまりは、自分の尻尾に噛み付いているヘビのような話である。







Last updated  2009.08.10 08:39:19
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2009.07.11
カテゴリ:社会

 6月は雨が少なくて、このままではどうなるかと思っていたら、7月に入ってからようやく雨が降り出した。やや季節遅れの梅雨というところだろうか。われわれの住む猥雑なる下界は、空一面に低く広がった落し蓋のような厚い雲で閉じ込められ、自ら放出した熱で自家中毒を起こしている。

 雨の合間に外に出てみると、こないだまで輸入家具を扱っていた近くの倉庫のような建物が、いつのまにか、数年前に 「元気があっていい」 発言でいちやく全国に名をとどろかせた某議員の事務所に様変わりをしていた。きたるべき選挙に備えてということなのだろうが、アップになどしなくても十分にでかい顔だというのに、さらにその下に麻生首相の顔まで並べているのだから、暑苦しくてたまらない。9月に個人演説会を予定しているということだが、それはちょっとのんきすぎやしないかなと思ってしまった。

 自民党内の内紛は、いよいよ末期的な様相を呈している。このままでは総選挙は戦えないとかで、一部からは総裁選前倒しという声も出ているようだが、その連中はようするに自分の首が心配なだけだろう。そもそも、小泉チルドレンなどと呼ばれる、前回の選挙で大量に当選した新人議員など、ほとんどが自分の力ではなく、小泉元首相の人気のおかげで当選したにすぎないのだから、一期だけでも議員を務められたことを天に感謝すべきである。

 次も当選したけりゃ、人に頼らず自分の力で正々堂々と戦えばよろしかろう。この連中は、いったいなんのために、4年も議員を務めてきたのだろう。4年の間に自分がやってきたことに自信があるのなら、選挙も間近な今頃になって右往左往するのはあまりに恥ずかしいことだろう。首相ってのは、日本国の政治全体に責任を負っているのであって、君らの選挙のためにだけ存在しているわけではない。

 しかし、そういう声を抑えなければならないはずの内閣官房長官まで、「表紙をかえても」 とか言い出す始末。おいおい、天下の首相をただの本の表紙扱いとは、さすがに失礼ではあるまいか。麻生おろしについて記者団に尋ねられた野田聖子消費者相は、「麻生さん以上に総裁にふさわしい人がいますか」 と答えていたが、まことにそのとおりである。

 野田消費者相が反問したとおり、今の自民党には、もはや麻生さん以上に総裁にふさわしい人間がいないのであり、それこそがまさに今の自民党がかかえる最大の悩みなのだ。思わず、この人、にこやかな顔をして、なかなかこわいことを言う人だなと感心した。「笑って人を斬る」 とは、まさにこういう言葉のことをいう。

 さて、話は変わるが、人はだれでも自分の立場を持ち、自分の考えというものを持っている。「知識社会学」の祖であるマンハイムは、「インテリゲンチャ」 というものを、「社会のために世界の解釈を準備することを専門の仕事している社会集団」 と規定し、近代においては 「従来の完全に組織化された閉鎖的な知識人階層にかわって、自由なインテリゲンチャが台頭してきている」 と述べている。

 彼によれば、この 「自由なインテリゲンチャ」 は、社会において比較的階級色がうすく、「社会的に浮動する」 階層であるがゆえに、政治という舞台においてあい争う、階級的利害によって拘束された政治党派のもつイデオロギー的で部分的な 「党派的見方」 をこえた、社会に対する全体的総合という見方を可能にするのだそうだ。

 しかし、そうはいっても、どんなに偉大な知識人であろうと、個人としてみるなら、みなそれぞれに固有の歴史と背景をもち、その中で意識的無意識的に形成された、固有の立場と固有の主義主張というものを持っている。だから、「党派的見方」 からまったく自由ということはありえない。客観的な証明が可能な科学ならざる人間の思想とは、ようするに選択された一定の立場のことであり、それはその良し悪しは別として、「偏向」 や 「バイアス」 ということと同義なのである。

 たとえば、なにかの問題をめぐってどこかで論争がおきたりすると、人はだいたいにおいて、その相対立する二つの主張のうち、自分が共感するほうの意見を実際以上に自分にひきつけて読み、その逆に、違和の残る、なんとなく共感できない意見に対しては、自己がもつ日頃の 「敵意」 や 「反感」 を投影して、実際以上に敵対的なものとして読んでしまいがちなものである。

 ネット上で公開で行われる議論というものは、基本的にだれでも参加できる 「バリアフリー」 なものであるから、そのような無用な 「対立」 が持ち込まれ、話がややこしくなってしまうのはどうしても避けられない。結局のところ、お互いとも、妙な 「押しかけ応援団」 などは無視して、対立しているかに見えるさまざまな意見の中から、ただの石ころと、そうではないダイヤとをふるいわけるという努力が必要なのではないだろうか。

 社会的 「弱者」 や 「少数者」 などの他者支援運動というのは、「当事者」 である他者の総体をまるごと支援するものであって、自分の好みでもってふるいわけてはならない。しかし、人はどうしても、自分につごうのいい 「当事者」 の声のほうに耳を傾けがちなものであり、しかもそれを実際以上に自分に引き付けて読んでしまう。

 だが、「当事者」 といっても、けっして一枚岩ではないのだから、そういうときは自分にとって違和の残る 「当事者」 の声にこそ、注意して耳を傾けるべきだろう。まかりまちがっても、頭の中で自分が作り上げた 「期待される当事者」 像に基づいて、「当事者」 を勝手に選別するようなことはしてはならない。

 それまでの 「反ファシズム」 運動から180度転換した、スターリンとヒトラーによる独ソ不可侵条約締結の報を受けて、「欧州情勢は複雑怪奇なり」 という名文句を吐いたのは、平沼赳夫の血縁上の祖父にあたる平沼騏一郎だが、現実というものはいつだって 「複雑怪奇」 なものである。なかなか両立しがたい矛盾や対立などは、いくらでもある。頭の中でこしらえておいた 「公式」 だけで、いつもいつも正解が出るのなら、だれも苦労はしない。

 吉田拓郎が体調不良を訴えて、予定していた全国ツアーを中止したそうだが、拓郎君のことしの夏休みはいったいどうなるのだろうか。拓郎君が元気になって、また 「きれいな先生」 に会えるようになることをぜひとも望みたいものだ。







Last updated  2009.07.12 00:44:38
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2009.06.05
カテゴリ:社会

 19年前に栃木で起きた 「足利事件」 の犯人として無期懲役の刑を受けていた、元幼稚園バス運転手の菅家利和さんが、再審前であるにもかかわらず釈放された。菅家さんは、当時いくつも起きていた同様の他の事件についても 「自白」 していたが、検察は奇妙にも他の事件については不起訴とし、一件のみについて起訴している(参照)

 連続した幼児の行方不明と殺害という重大事件であり、しかも本人がせっかく 「自白」 までしたというのに、検察はなぜか他の二件については起訴を見送った。むろん、それは、「自白」 以外の物証の不足が主たる理由だったのだろう。だが、おそらくは検察も、他の二件に関する 「自白」 の任意性と内容の真偽については、当初から疑問を持っていたのではないだろうか。

 むろん、事件はそれぞれ別である。理屈を言うなら、他の件に関する 「自白」 の疑わしさと、起訴された本件の 「自白」 の問題とは別だと言えなくもない。しかし、そのことは、少なくとも当時の取調べには、容疑者に対して、本人がやってもいない事件についての 「自白」 を迫る雰囲気があったということを示唆している。であるなら、裁判所は本件に関する 「自白」 の任意性と捜査の適正さについても、当初から疑いを持つべきではなかったろうか。

 もし、菅家さんが一件ではなく、他の件も含めて起訴され、そのすべてで有罪となっていれば、死刑となっていた可能性は非常に高い。実際、飯塚で起きた同様の事件では、二件の殺害容疑によって、被疑者は死刑判決を受け、すでに刑も執行されている(参照)

 問題は、DNA鑑定の技術的精度だけではない。鑑定や科学的技術そのものの精度がいくら上がったとしても、結局は人間がやることである以上、故意か故意でないかに関わらず、その過程において、なんらかのミスが生じる可能性はつねにある。そのことも忘れてはならない。

 さて、前置きならぬ前置きが長くなった。ここから本題にはいることにしよう。ただし、前置きと本題といっても、全然関係がないわけではない。お題は、「レッテル」 の正しい貼り方と使い方ということ。

 よく、議論の場などで、「レッテル貼りはよくない!」 と言い出す人がいる。そういうときの 「レッテル」 とは、つまりカテゴリ的な概念のことだ。たしかに、印象操作や思考停止を伴う 「レッテル貼り」 はよくない。だが、だからといって、分類のためのカテゴリ使用をすべて禁止するわけにはいかない。

 それでは、世界について思考するには、世界に存在する事物と同じ数の概念が必要ということになる。それは、見知らぬ町へ行くのに、その町と同じ大きさの地図を持って行け、というようなものである。

 概念は、具体的な事物や関係の抽象によって得られる。個々の具体的な事物は、様々な側面を持ち、様々な関係の中にある。だから、同じものでも、見方や視点、関係付けの違いによって、様々に定義することができる。つまり、カテゴリ的概念とは、すべて事物の一面を捉えたものにすぎないということだ。イルカとマグロは生物学的にはまったく別だが、海洋生物としては一緒である。なので、海洋汚染に対しては、イルカもマグロも利害が一致するのであり、ともに団結してたたかおう! ということになる。

 巨人ファンの中にだって、仏教徒もいればキリスト教徒もいるだろう。その場合、球場では仲がよくとも、宗教の話になったとたんに喧嘩を始めるかもしれない。逆に、同じ信者どうしであっても、一方は巨人ファン、他方は阪神ファンであり、野球の話については犬猿の仲という人もいるだろう。「好きな球団」 というカテゴリも、「宗教」 というカテゴリも、具体的な個人の全体を包摂することはできない。どんなカテゴリだろうと、あるカテゴリに包摂されるのは、そのカテゴリと関連したその人の一部であり、全体ではない。

 カテゴリは、事物についての特定の視点で構成されたものである以上、しょせん一面的な概念でしかない。一面的なカテゴリによって構成された 「全体」 とは、それ自体一面的な 「全体」 にすぎぬのだから、どんなカテゴリも、個の全体、個が有する関係の全体を包摂できはしない。具体的な場面において、どのカテゴリを適用し、優先させるかは、そこでの問題に依存するのであり、カテゴリそのものから引き出すことはできない。

 「やつは○○だ。追い払え!」 といった差別や集団的憎悪は、個と全体を同一視し、個を全体に解消するところから生じる。彼らにとっては、AやBという個人、つまり個人としての人間などはどうでもよいのであり、AやBという個人が○○というカテゴリに属するかどうかが、すべてなのである。ようするに、彼らは、たった一枚の 「レッテル」 が生きた個人のすべてを包摂しうるかのように考えているのであり、これもまた、悪しき 「レッテル貼り」 思考のひとつということになる。

 「毒物」 というレッテルは、とりあえず注意を喚起するという点では役に立つ。しかし、毒にもいろいろあるのであり、具体的な場面では、それでは役に立たない。同じ毒でも、青酸カリと砒素ではまったく違うし、対処の方法だって違う。だから、目的と必要に応じて、レッテルはさらに細かく分類し、正確に貼らなければならない。レッテルを正しく使うということは、どんなレッテルも万能ではないということをふまえ、使用しているレッテルの意味、すなわち、その効用と限界を正しく認識しておくということだ。

 悪しき 「レッテル貼り」 とは、まずは不正確で曖昧なレッテルを使用することであり、また、その誤りを指摘されても、がんとして認めようとしない頑迷さのことである。そして、「毒物は毒物だ」 という一見正しそうに思える、ただしよく考えれば、ただの同語反復に過ぎない論理を振り回して、毒物Aと毒物Bの違いを認めようとしない 「レッテル全体主義」 のことでもある。

 なので、レッテルの正しい使い方と間違った使い方を区別できず、たまたま悪しき 「レッテル」 として使われることのある言葉を見つけただけで、パブロフの犬のように、「それはレッテル貼りだ!」 と叫び出す人も、実は同じ 「レッテル貼り」 思考に陥っているということになる。つまり、「レッテル貼り」 とは、個々の場合に応じた具体的な思考と判断を放棄した、怠慢かつ怠惰な思考のことなのだ。

 裁判で言うなら、「有罪」 と 「無罪」 というのもひとつのレッテルである。「容疑者」 とか 「被告人」、「受刑者」 というのも、同じようにレッテルである。警察に逮捕されたのだから、検察に起訴されたのだから、すでに有罪判決を受けているのだから、とそこで思考を停止して、「彼が犯人に違いない」 と決め付けてしまうのは、まさに悪しき 「レッテル貼り」 思考の典型である。

 たしかに、証拠もなしに警察が逮捕状を請求するはずがないとか、有罪の見通しもないのに検事が起訴するはずがない、根拠もなしに裁判官が有罪というはずがない、などというのも、全体としてならば、そこそこの推論としてなりたつかもしれない。しかし、個別の事例について判断するときには、そのような前提は、ただのよけいな先入観でしかない。全体としての蓋然的な正しさは、個々の事例における正しさとはまったく関係ない。

 「司法の独立」 という原則によって、裁判官の身分が保証され、その判決に対して責任が問われないのは、ときの政治権力や有力者の意思、あるいは法的判断以外の利害によって、裁判官の判断が左右されることを防ぐためであって、どんな判決を下そうがおれたちの勝手だよ、とあぐらをかくためではない。

 われわれは一生懸命やった、あの当時はあれでしかたなかった、という警察や検察、裁判所の弁明が、いまだにまかりとおるようでは、「国家無答責」 なる法理がまかりとおっていた 「大日本帝国憲法」 の時代とまったく違わない。国家とその機関は国民に対してなにをしても責任を負わないというのでは、「国民主権」 など絵に描いたもちですらない。

 冤罪を生み出さないために必要なことは、自白や証拠に疑問があるなら、徹底してその不明な点を追究するという態度だけである。当時のDNA鑑定の不正確さについては、最初から疑問が出されていたのに、なんだかんだといって10年以上も再鑑定を退け続けたのには、面倒くさい、という以外に、いったいいかなる理由があるのだろうか。

 この国の司法では、「疑わしきは被告人の利益に」 という近代司法の大原則があまりに無視されすぎてはいないだろうか。警察・検察や裁判所などの関係者もまた、個々の被疑者や被告人、受刑者を、それぞれ名前を持ち、家族を持ち、また未来を持っている生きた人間としてではなく、「レッテル」 が貼られた書類の上の記号としてしか見ていないということなのだろう。警察・検察の主張を鵜呑みにし、せいぜい検事の求刑をいくらか割り引いた刑を言い渡すというだけなら、サルでもロボットでもできることだ。







Last updated  2009.06.06 05:13:29
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2009.05.24
カテゴリ:社会

 仕事のせいで(本音を言えばネタがなかったからでもあるが)更新を怠っていたうちに、いろんなことが起きていた。国内では鳩山氏が小沢氏に代わって民主党の代表になり、海の向こうでは、盧武鉉 前韓国大統領が在職時代の「献金問題」をめぐって自殺した。

 さて、21日にはいよいよ裁判員制度が始まったわけだが、この制度を定めた 「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」 なる長ったらしい名前の法律では、まずこんなふうに規定されている。

第一章 総則

第一条
この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法(昭和22年法律第59号)及び刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)の特則その他の必要な事項を定めるものとする。

第二条
   1. 死刑又は無期の懲役・禁錮に当たる罪に係る事件(法2条1項1号)
   2. 裁判所法第26条第二項第二号に掲げる事件(法定合議事件)(法律上合議体で裁判することが必要とされている重大事件)であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの(同項2号)

 というわけで、この制度は、外患誘致罪、殺人罪、強盗致死傷罪、傷害致死罪、現住建造物等放火罪、強かん致死傷罪、危険運転致死罪、保護責任者遺棄致死罪といった、いわゆる重大事件を対象としているということだ(参照)

 しかし、「死刑または無期の懲役・禁錮」 という、現在の刑法においてもっとも重い刑が課せられる可能性のある事件、言い換えれば被告人にとっては、その命を左右される可能性もあるような事例に、法律の素人である 「一般大衆」 をいきなり参加させるという発想は、どう考えても解せない。

 裁判というものは人間がやる以上、誤判の可能性を完全に除去することは、不可能である。であるなら、死刑という最も重い刑が課せられる可能性のある重大な事件こそ、専門家による慎重で精確な審理をもっとも必要とするのは自明なことだろう。言うまでもないことだが、そのような被告人の立場に立たされる可能性は、誰にだって皆無というわけではない。近代の裁判において、被告人の権利と利益が法で守られているのは、そのためでもある。

 法務省によれば、この制度が発案された背景には、「凶悪事件」 の裁判がしばしば長期化したり、「社会的常識」 とかけ離れた判決が下されることに対して、被害者を含めた社会の一部に、現在の裁判に対する不満がくすぶっているということがあるらしい。

 しかし、そうは言っても、すべての「凶悪事件」 裁判が長期化しているわけではない。長期化する裁判には、物的証拠の少なさや、自白の任意性や証言の信頼性、被告人の責任能力など、それぞれにいろいろな理由があるのであり、その結果として一部の公判が長期化したからといって、被害者感情などをとりあげて、それを問題視するのは筋が違う。

 この制度導入を進めた司法制度改革審議会での議論を読む限り、裁判員の参加が重大事件に限定された背景には、最初から 「社会的関心」 が高い事件を対象にするという意向があったようだ。それには、むろん、対象事件の範囲をしぼることで、国民の負担を軽くしようという意味もあっただろう。たしかに、重大事件の件数は年間ほぼ2,000件ほどであり、刑事事件全体に占める割合はきわめて小さい(参照)

 だが、同時にそのことは、この制度の目的が、そこで謳われた 「統治主体・権利主体」 である国民の裁判参加などということよりも、むしろ光市母子殺害事件だとか、和歌山砒素カレー事件などのような、世間の耳目を集める裁判のたびに、あれやこれやと吹き上がる、マスコミを含めた世論対策の一環でしかないことを示しているようにも思われる。

 つまるところ、この制度の趣旨は、国民の裁判参加を促すことでも、国民に裁判を身近なものとさせることでもなく、いわゆる 「凶悪事件」 をめぐる裁判の長期化や、理解しがたい事件を起こした被告人の責任能力の問題、あるいは刑の軽重や死刑制度の存否をめぐって、しばしば論議の的になる現在の司法制度に対して、「国民の参加」 という、それ自体としてはほとんど現実的な意味を持たない制度を導入することで、司法制度全般の正当性を象徴的に高めることにすぎないように思われる。

 むろん、司法制度に対する国民の信頼は、高いほうがいいに決まっている。だが、そのためになすべきことは、そのような小手先の改革ではなく、警察の捜査や取調べの可視化、虚偽の自白強要につながる拘留の長期化や代用監獄の問題などを含めた、制度全体の信頼性を高めることであり、それによって、なによりも冤罪や誤判の発生を可能な限り抑え、万が一の場合の救済についても、より納得のいく制度を完備することのはずだろう。

 一般に、民主主義とは国民の側から言えば、政治や行政への国民の積極的参加という意味を持つ。だが、国家の側から言えば、それは国民を政治過程へ動員することによってその一体感を高め、権力の正当性を担保するという意味も持つ。「国民」 の創出と並行する国家の 「民主化」 は、同時に国民の政治過程への動員によって、「国民国家」 を完成させるという役割も持っていた。

 歴史的に言うなら、フランス革命とナポレオン戦争によって始まった、国家と国民のすべてを動員した 「総力戦」 の登場は、身分制度の廃止による市民の平等という 「国家」 の民主化という過程と並行している。超大国ペルシアと戦ったアテネも、自腹で武器を揃えることのできない貧しい民衆らも市民として認め、彼らを戦いに動員することで、二度の戦いに勝つことができた。

 ナポレオンからの解放戦争を戦ったプロシアも、農民や中産階級らの一般国民に民主化を約束することで、民衆のナショナリズムを鼓吹し、ナポレオンを追放することができた。もっとも、アテネと違って、プロシアの場合にはナポレオンの没落とともに、その約束はあっさりと反古にされてしまったのだが。

 戊辰戦争で 「会津征伐」 の指揮を執った板垣退助は、後年の回想で 「会津の藩士と領民とが一致団結せず領民たちは会津の興亡に無関心じゃった」 ために、会津は滅亡したと語り、そのときの体験から、「自由民権」 の大切さを痛感したという。つまり、彼にとって、民主主義とは、なによりもまず外敵に対して、国民が一致団結できる国家を作り上げるための重要な手段として注目されたということだ。

 そもそも、「参加」 とは、当該者からの参加の希望と要求があることを前提とする。国民からの 「参加」 の希望や要望があったわけでもなく、国民に対して明確な意思が問われたわけでもないのに、政府や司法関係者、議会の意思でのみ、国民の裁判への参加を決めるというのでは、「参加」 ではなくむしろ 「動員」 というべきだろう。

 なお、とくに強かん致死傷罪のような性犯罪事件での裁判員制度導入が含む問題については、下を含めていくつかのブログで指摘されている。

 【性暴力事件】裁判員裁判に持ち込まれる「お茶の間裁判」の危険性

 「裁判員制度における被害者のプライバシー確保を求める要請」その後







Last updated  2009.05.24 19:14:04
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2009.03.10
カテゴリ:社会

 今日は、こちらはなかなかいい天気だった。それで、家の中にこもって仕事をしているのがもったいなくなり、途中で切り上げて散歩に出た。行く先は、もちろん家からやや歩いたところにあるBook Offである。

 いつものように100円コーナーを眺めていると、沢木耕太郎の 『天涯』 と題した写真集の1巻と2巻、それに 『象が空を』 というエッセー集が並んでいた。ノンフィクション作家としての沢木については知っていたが、写真集も出していたのは知らなかった。『東京漂流』 の藤原新也は沢木よりわずかに上だが、沢木は、写真家として出発し、のちにエッセーでも注目されるようになった藤原とは、ちょうど反対の道を歩んでいるということになる。

 沢木の単行本がBook Offに三冊も並ぶのは珍しいことだ。なので、同じ人が出したのかもしれない。写真集をひっくり返して定価を見たら3200円とある。三冊あわせれば、定価は8000円を超える。どういう事情があったのかは知らないが、売った人も断腸の思いで手放したのだろう。どこの誰かは知らないが、いささか同情したくもなった。

 ただし、10年前の出版で、その後の保管が悪かったのか、写真集にはやや湿気がきており、ページが一部べったりとくっついているところもある。もっとも、写真自体には変色や退色は見られない。

 ページをめくると、サハラ砂漠やポルトガルかどこかの石のマリア像の写真など、心惹かれるものもあり、ところどころに挿入された短い紀行文や、引用の類もぴたりと決まっている。いったんは買おうと思って棚から取り出したのだが、結局エッセー集のほうだけ買うことにした。

 むろん、三冊とも買っても税込み315円にしかならないのだから、金が惜しかったわけではない(嘘ではない)。ただ、写真集のほうはちょっとでかくて重かったのだ。手に提げててくてく帰るのも大変だし、なによりもう書棚に空きがない。そういうわけで、泣く泣くエッセー集のほうだけ買って帰ったのだが、今度行ってまだあったら、次は買うかもしれない。

 さて、昨日の韓国戦では惜しくも1対0で負けてしまったが、原監督が率いる日本チームはアジア予選を二位で通過し、二次ラウンド出場が決まったそうだ。こう見えても、「愛国心」 がまったくないわけではなく、顔も名前も知らない外国のチームよりは、それなりに馴染みのある選手のいるわがチームには、やっぱり頑張ってもらいたいものである。

 しかし、こういう国際試合のたびに思うのだが、アナウンサーが日本チーム応援のたびに、やたらと 「サムライ」 なんて言葉を連発するのにはいささか閉口する。なんでも、今のチームの愛称が 「サムライ・ジャパン」 なのだそうだが、いったいどこの誰が、そんな陳腐で漫画チックな名前を思いついたのだろう。

 そもそも、日本といえば条件反射のごとく 「サムライ、ハラキリ」 だの、「フジヤマ、ゲイシャ」 だのといった言葉を連想するのは、かつてはよくあった日本に対する欧米人らのステレオタイプな典型的反応である。外国の教科書に、日本の紹介としてちょんまげ頭に袴をはき、刀をさしたサムライの絵が載っていたのだって、そんなに昔の話ではない。

 日本といえばサムライと答える、そういう安直な発想というのは、ようするに、そのような欧米人の日本を見る目をそのまま逆輸入したものにすぎないのではないだろうか。それは、言い換えるなら、肝心要のわれわれ日本人自身の日本を見る目が、そういう欧米的なエキゾチシズム満載のオリエンタリズム的視線と、いまや同一化している証ではないかということだ。

 つまるところ、それはわれわれ現代人の大多数にとって、日本というこの国の歴史と過去が、いまや欧米人にとってのものと大差ない、ハリウッド的なエキゾチシズムの対象になりはてているということではないだろうか。

 成人の日になると、毎年、テレビには羽織袴を着て暴れまわる若者の姿が映し出される。別にけなすわけではないが、彼らにはその衣装が、日本の古式ゆかしき 「民族衣装」 である、などという意識はこれっぽっちもないだろう。大学の卒業式に女子学生が振袖を着ていくのも、文金高島田を結った花嫁と羽織袴の花婿が神前結婚式を執り行うのも、似たようなものだろう。

 ヨーロッパの近代は、それが自生的で内発的なものであるがゆえに、そこにはかえって古典古代や中世以来の歴史が色濃く根付いている。一度も行ったことなどない人間が言うのもなんだが、そこでは、近代以前と近代以降はけっして切れた歴史なのではない。

 むろん、彼らの生活もまた、現代の科学技術と機械文明によって大きく変貌してはいるだろう。しかし、現代的な都会の中に古代の遺跡や中世の建築が共存し、あるいはところによっては、数百年前の街並みがそのまま丸ごと残され、そこで現に生活が営まれているというのは、たんに観光客目当てというだけではなかろうし、向こうの建築文化が、木と紙を使う日本と違って、石という恒久的素材を使用しているからというだけでもあるまい。

 それに比べ、幕末=明治と昭和の敗戦という二度の 「開国」 をへた日本の近代は、それまでの歴史との二度の暴力的な切断によって生成されたものだ。むろん、政治的な意味で言うなら、そこには 「切断」 だけでなく 「連続」 という側面もある。しかし、社会的・文化的に大きな 「切断」 が生じたことは否定できないし、その後の変貌もまた、すさまじいものだ。

 その結果、高度経済成長後に育った世代にとっては、戦前の社会とそこに生きていた人々の生活感覚すら、いまやほとんど実感できない。テレビもケータイも、冷蔵庫も洗濯機もない生活など、想像もできまい。まして、明治以前の社会については、まさに 「異国」 同様といっても過言ではあるまい。

 その二度の 「開国」 によって、この国の歴史は大きな断絶を余儀なくされた。おそらくは、そういう外部からの強制による歴史の断絶が、一方では、この国において、いまだ根深い西欧コンプレックスをどこかに抱えた知識人の中から、ロマン主義的な憧憬による失われた 「過去」 の幻想的美化へと走る、狂信的で妄想家じみた 「ナショナリスト」 が定期的に生まれてくる根拠なのかもしれない。

 それが、たとえば昭和の経済危機の中では 「超国家主義」 という逆流をうみ、そして現代においては、西尾幹二のように、かつてはニーチェ研究者としてそれなりの業績をあげたはずの者が、年をへ年齢を重ねるに従い、ほとんど妄想じみた狂信家に成り果てるという喜劇を生んでいるのだろう。


 『諸君!』3月号の拙論「米国の覇権と東京裁判史観が崩れ去るとき」はこの時代の転換について論説した。『WiLL』4月号の「いまこそ『昭和史』と戦おう」と『諸君!』4月号の秦郁彦氏との対論はこれを承け、さらに思想的に発展させている。


 同時に私たちがこれから相手として戦わなければならない今の時代の典型的な「進歩的文化人」は、半藤一利、保阪正康、北岡伸一、五百旗頭眞、秦郁彦の諸氏であることを、『WiLL』4月号で宣言しておいた。

 4月号のこの両誌の私の発言は、時代の転換に対する一つの里程標になるものと信じて疑わない。  (参照)


 自分のブログで、このようにアジっている西尾の姿は、まるで、歴史家の津田左右吉や憲法学者の美濃部達吉のように、文化的にリベラルな学者ではあっても、その心情においては生粋の尊皇家であった者らをも、「国体」 に反する非国民として弾劾してまわった蓑田胸喜にそっくりである。むろん、二度目は滑稽なだけの、ただの 「喜劇」 にしかなるまいが。







Last updated  2009.03.11 12:24:33
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2008.12.28
カテゴリ:社会

 せっかくクリスマス用のネタを考えていたのだが、あいにく仕事と重なってしまい、あっという間にクリスマスは去ってしまった。そういうわけで、そのネタは来年まで大事に取っておくことにしよう。

 法学や倫理学の教科書によく出てくる話に、「カルネアデスの板」 という話がある。カルネアデスという人は、紀元前のギリシアにいた哲学者であるが、彼が提出した問題だということで、こう呼ばれているらしい。もっとも、カルネアデス本人は著作を残さなかったらしく、この話はキケロの 『国家について』 という著作での話が基になっているということだ。以下は、Wikipediaからの引用である。

 一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、一片の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。その後救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。


 この法理は、現在では 「緊急避難」 と呼ばれており、日本の刑法でも、外形的には違法行為に当たるが、法による処罰を免れる場合として、「正当防衛」 と並べて次のように定められている。

(緊急避難)
第37条   自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

 東大の元教授で最高裁判事を務めたこともある団藤重光は、著書の 『刑法総論』 の 「緊急避難」 の節で、「緊急は法を持たない」 という法格言を引用し、それに付した注で 「グローティウス、プーフェンドルフ等の自然法学者は、緊急状態では法秩序そのものがなくなると考えていたらしい」 と書いている。

 グロティウスは 「国際法の父」 として教科書にも載っている有名なオランダの法学者、プーフェンドルフはドイツの法学者であり、いずれも17世紀の人だが、そこにある思想は、せんじ詰めれば、人間の肉体的な生存そのものの要求は、法的秩序や合法性よりも優先されるということだろう。

 法学的に言えば、この場合に違法性が阻却される理由としては、そのような場合には、もはや法の順守を期待できないために責任が阻却されるためだという 「期待可能性理論」 であるとか、いろいろ議論があるようだが、ややこしいことは抜きにすれば、その根拠はやはり上に書いたことに尽きるだろう。

 むろん、誰も彼もが勝手に 「緊急避難」 を主張すれば、それこそ 「万人の万人に対する闘争」 といった事態も生じかねない。だから、そこには 「緊急性を要する」 とか 「ほかに手段がない」 といった制限があるのは当然である。また 「緊急避難」 が違法性阻却事由として認められているからといっても、侵害された法益がきわめて軽微な場合を除いて、その主張がそのまま認められることも、実際にはそうあることではない。

 しかし、もし目の前に緊急の医療処置を必要とする者がいれば、たとえ医師免許を持っていなくとも、それがそう難しい行為でない限り、それなりに心得がある者や、場合によってはただの素人であっても、そのような行為を行うことは可能であるし、そのために医師法違反で処罰されることもあるまい。その場合には、形式的な合法性よりも目の前の人を救うことのほうが優先される。

 また操縦士が失神して飛行機が墜落しかけているとなれば、免許は持たないが多少は心得はあるという者が代わりに操縦したとしても、無免許操縦で罪を問われることはないだろう。なんと言ったって、そのまま放置して落っこちてしまえば、元も子もないことだし。

 では、たとえば、気温が零下にも下がるような真冬の夜に、このままでは凍死しかねないと考えた者が、屋根があり外気を遮断することのできる駅の構内や公共施設に制止を無視して、あるいは壁を乗り越えたりして無断で立ち入ることは、法的に言っていかなる問題を惹起するだろうか。

 そのような行為は、やはり 「住居侵入」 などの罪に問われるのだろうか。むろん、そのような行為を行わずに戸外にいた場合、実際に凍死したかどうかは、そうなってみなければ分からない。しかし同時に、そうなってからでは手遅れという話でもある。

 少なくとも理念として言う限り、法は万人のためにある。つまり、法とは単にあれやこれやの禁止事項をお上が勝手に定めた掟ではなく、それを守ること、言い換えればそれが万人によって守られることが、たとえ直接的にではなくとも、万人にとってめぐりめぐって利益になるからこそ法なのであり、法としての意味がある。

 終戦直後の食糧難時代に、山口判事という人が闇米を食べることを拒否して餓死したという話がある。この話は、しばしばその遵法精神の高さを表す美談として語られる。それが妥当かどうかははともかくとして、判事として国民に対し法を強制する立場にあった人間としては、それは一つの責任の取り方だったのかもしれない。

 しかし、法を守ることが 「生きる」 ということと相反するなら、そのときに法を守るということにいったいいかなる意味があるだろうか。「法律で決まっているから」 とか 「規則でそうなっているから」 ということは、理屈を言う限りでは、そのような法律や規則に従うことを他人に要求する根拠にはならない。言うまでもないことだが、この世に完全な法などは存在しないのであり、だからこそ法は万能ではない。

 法や規則を守ることが、その人自身にとっても、なんらかの利益をもたらすものでなければ、少なくともその人にとっては法を守ることに意味はあるまい。むろん、現実には法律や規則を独断で無視すれば、様々な不利益を被ることも予想されることであり、それが人々がしばしば、内心では不合理だと思っているような法にも、文句を言わず従っている理由の一つでもあるわけだが。







Last updated  2010.02.03 13:01:01
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2008.12.24
カテゴリ:社会

 昨日は 「天皇誕生日」 だったらしい。われわれのような純然たる昭和世代にとっては、いまだに 「天皇誕生日」 というと、ついつい4月29日を連想してしまう。平成もすでに20年目に入っているものの、いったん脳裏に刷り込まれた人間の記憶というものは、コンピュータのメモリのように、簡単に上書きして書き換えるというわけにはいかないものだ。

 ついさっき、元タレントの飯島愛が、自宅で死亡していたのが発見されたというニュースがあった。死因はまだはっきりしないが、自殺の疑いもあるらしい。タレントとは、他人に見られること、つまりは不特定の多くの他人の視線に 「曝される」 ということを商売にした職業のことだ。

 そういうことが、人によってはどれだけのストレスをもたらすものなのか。彼女の死が 「自殺」 によるとはまだ断定はできないし、そうだとしても、その理由ももちろんまだ分からないが、そんなことを考えた。

 ところで、麻生首相が言っていた 「百年に一度」 の金融危機というのは、どうやらただの脅しではなかったようだ。かつての世界恐慌は、英仏のブロック経済による保護主義の台頭と通貨の切り下げ合戦、日独伊による 「三国同盟」 結成というように、強国どうしの利害対立の尖鋭化を招いて、最終的には世界戦争に突入することになった。「ニューディール政策」 を推進したアメリカの場合も、最終的にこの恐慌の痛手から立ち直ったのは、戦争参加にともなう軍需拡大のおかげである。

 現下の危機の中で、世界においていまだに 「鬼っ子」 的位置にあるロシアは、すでに保護主義的政策を打ち出しているようだ。しかし、日本はむろん、中国や韓国、インドなどのように、近来の成長は著しいものの、アメリカや欧州などの国外市場への輸出に大きく依存している諸国には、そのような政策は採りえない。どの国も、かつての英仏のように 「ブロック経済圏」 として囲い込むだけの専属的市場など持ち合わせてはいない。それだけに、アジア経済はこの危機によって最も大きな打撃を受けることになるだろう。

 むろん、世界経済の収縮と危機の拡大を防ぐには、各国の協調は欠かせない。しかしながら、どの国にとっても、かつてのように不況による国内危機を大規模な対外危機へと転化することが不可能なだけに、その危機は必然的に各国の内部へ内向せざるをえなくなるだろう。もはや、事態は麻生政権の動向だの命運だのという、チンケな問題ではすまなくなっているようだ。

 というわけで、仕事の合間をぬって、書棚に陳列してあった経済学関係の本を、まずはシュンペータあたりから覘いてみようと思ったのだが、なかなか先に進まない。やはり読書にも体力は必要なようで、やっぱり若いときにもうちょっとちゃんと勉強しておけば良かったかなとも思う。とにかく、根気が続かないのだ。少し読むと、すぐに飽きがきて、ついつい別の本に手を出してしまう。

 そういうわけで、あれを齧りこれを齧りで、中途半端な読みかけや、途中で読むのを放棄した本ばかり溜まっていく。しかも、その合間にも、あちこちの古本屋などで面白そうな本を見つけると、読む当てもないのに、ついつい買ってしまうのだからしょうがない。

 しかし、とりあえず、シュンペータの 『資本主義・社会主義・民主主義』 だけは最後まで読み通してみようと思う。いわゆる 「近代経済学」 というのは、まったく勉強したことがないし。もっとも、今頃半世紀以上も前のシュンペータの著書など読んで、それで今の世界経済が分かるようになるかと言われれば、それはなんとも言えない。


 つい先日、Book Off で現代詩文庫の 『黒田三郎詩集』 を300円で購入した。その中から、「九月の風」 という詩の最後の一節を引用する。

 悔恨のようなものが僕の心をくじく
 人家にははや電灯がともり
 魚を焼く匂いが路地に流れる
 小さな小さなユリに
 僕は大きな声で話しかける
 新宿で御飯たべて帰ろうね ユリ
      「九月の風」 より


 黒田の詩は、観念的な言葉やメタファを多用した、難解と言われる現代詩の中では平易で分かりやすい詩であり、そこが今なお人気のある由縁だろう。昔、「赤い鳥」 というフォークグループが、彼の 「紙風船」 という詩に曲をつけて歌ったこともある。上の詩が所収されている詩集 『小さなユリと』 は、黒田の奥さんが入院していた間の、黒田とまだ幼かった娘との生活を詠ったものだそうだ。

 一読すると、その詩には幼い娘と、その娘を愛おしむ父親との、どこにでもあるさりげない小市民的な日常が描かれているにすぎないように見える。しかし、そこに詩人の優しさや、まるで家族のお手本のような優しい父親の姿だけを読み取るのは、たぶん間違っている。

 「小心で無能な月給取りの僕」
(月給取り奴) と自嘲し、「小さなユリが寝入るのを待って / 夜毎夜更けの町を居酒屋へ走るのは / 誰なのか」 「深夜に酔っぱらって帰って来ては / 大声でユリを呼んで泣かすのは / 誰なのか」僕を責めるものは) と書き付ける黒田の姿は、ほとんど性格破綻者と言ってもいいような、どうしようもない酔っ払いのダメ親父である。







Last updated  2008.12.25 22:54:13
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2008.12.16
カテゴリ:社会

 報道によれば、師走恒例となったその年の世相を漢字1字で表す 「今年の漢字」 で、今年は 「変」 が選ばれたそうだ。そのニュースを聞いて、思わずそうだ、そうだ、今年は 「変」 な事件が多かったし、「変」 な人も多かった、なによりもまず、現在の総理大臣が 「変」 な人である、と思って膝をたたいだのが、話をよく聞いてみると、どうもそういうことではなかった。

 この 「変」 という字は、アメリカの次期大統領に選ばれたバラク・オバマ氏がスローガンに掲げた 「チェンジ」 を漢字1字で表したものなのだそうだ。そう言われればそうかもしれないが、それって海の向こうの話でしょ。だいいち、「変」 と一文字で言われたら、普通の人は、「変化」 の 「へん」 より、「変な人」 とか 「変な話」 とかの 「へん」 のほうを連想するのじゃないのかな。

 昨年の 「今年の漢字」 は 「偽装」 の 「偽」 であったから、今年はもうちょっと希望の持てる字を選びたいという気持ちは分からないでもない。しかし、であれば、海の向こうの話じゃなくて、ノーベル賞の 「賞」 とかを選んだらどうだったのだろう。

 なんといっても、今年は南部陽一郎氏と小林誠氏、それに益川敏英氏と、一挙に三人ものノーベル物理学賞者が誕生したのだから。そういう投稿をした人は、あまりいなかったのだろうか。 (もっとも正確に言うと、南部博士は40年近く前に、アメリカ国籍を取っているので、法律的には米国人ということになるらしいが)

 しかし、師走だというのに、巷はさんざんな不景気らしい。麻生首相は、内閣で出しているメールマガジンの中で、「今 世界は、「百年に一度」 とも呼ばれる金融危機の中にあります。」 と言ったそうだが、「百年に一度」 というと、あの世界恐慌からもまだ80年しか経っていないわけで、ということは、今回の不況はそれを上回るか、でなくとも少なくとも同程度という話になる。

 1929年のニューヨークはウォール街での株暴落から始まった、世界恐慌がいったいどうなったかというと、言うまでもなくヨーロッパではヒトラー政権の誕生、アジアでは日本の大陸侵略、そして最後には世界のほとんどの国を巻き込み、膨大な死者を生んだ世界大戦ということに終わったのである。

 たしかに、国内の低所得層を対象にしたサブプライム問題から発生したアメリカの経済不安は、保険会社の破綻から公的資金投入といった金融危機へと拡大し、その結果、世界的な不況が現実化しつつある。日本でも雇用不安が発生しており、実際に、自動車業界などでは派遣社員の大量解雇や、新規卒業者の内定取り消しなども報道されている。

 このような現在の経済危機が深刻なことは、疑いようがない。しかし、「危機」 を煽るというのは、かつては左翼の常套的なアジテーションであったのだが、どうやら現代では、こういう論法は、政権を担っている保守政治家が用いる武器庫の中にも入っているらしい。

 もっとも皮肉を言えば、これは単純に 「危機」 の大きさを宣伝することで、おのれの無為無策ぶりを糊塗しようということなのかもしれない。「百年に一度」 というのを誰が言い出したのかは知らないが、どうも麻生首相は、例によって例のごとく、その言葉が持つ重さというのが分かっていないのではないのかという気もする。ただし、ときの政権や与党の政治家とかが本気で 「危機」 をアジるようになり出したら、とりあえずはむしろ警戒したほうがいいだろう。

 さて、そういう経済危機というのは、いろいろなところへと波及するものであり、企業の接待費などの経費削減のあおりで、タクシー業界や料亭、飲食業などの風俗営業関係もたいへんのようだ。そういう影響というのは、わが家が飯の種としている実務翻訳業界にもどうやら押し寄せてきているようであり、最近ちょっと仕事が減ってきているような気がする。

 もっとも、暇ができれば、長年書棚に備蓄・保存してきた活字の山を少しは減らすこともできるのだが、次の仕事の依頼はいったいいつ来るのだろうとか、このままどこからも仕事の声が掛からなかったらどうしようか、などと考えていると、読書にも身が入らず、ぜんぜんページが先に進まない。小人というものは、これだから困るのである。

 ところで、昔 現代思潮社から出ていたオレンジ色の表紙の選集に収められていた、ローザ・ルクセンブルクの 『社会改良か革命か』 の中にこんな一節がある。この論文は、マルクスの弟子であったベルンシュタインという人が発表した著書 『社会主義の諸前提』 を批判したものであり、ベルンシュタインというと、かつては正統マルクス主義に対する 「修正主義者」 の代表のように言われた人であるが、その話をしだすと面倒なので、そこは割愛する。

 まず信用についてのべると、信用は資本主義経済において多様な機能を持っているが、その最も重要なものは、周知のように生産の拡大能力を増大させ、交換を媒介し容易にすることにある。無制限に拡大しようとする資本主義生産に内在する傾向が、私的所有の限界や私的資本の限度に突き当たったとき、信用は、資本主義的な方法でこの限界を克服するための手段としての意味を持つ。  (中略)

 周知のように生産の拡大能力、拡大傾向と、限られた消費能力との間の矛盾から恐慌が発生するとき、上述したところにしたがえば、信用こそまさにこの矛盾を機会あるごとにしばしば爆発へともっていく特別の媒介をなす。なによりもまず、信用は生産の拡大能力を巨大なものへと高め、それをたえず市場の限界をこえるまでにかりたてるような内的成長力を作り出す。

 しかし信用は二つの側面で打撃を与える。生産過程の要因としての信用がひとたび過剰生産を引き起こすと、それは恐慌の中で、商品交換の媒介者としての資格で、自分自身がよびさました生産諸力をそれだけ徹底的に破壊する。不景気の兆候が少しでも現れると信用は収縮し、交換が必要な場合でも交換を捨てて顧みず、信用がまだ現れるような場合でも、それは無能力、無目的なものとして現れる。そして恐慌のとき消費能力を最低のところまで減退させる。

 むろん、恐慌における信用の役割を指摘しているのは彼女だけではないだろうし、これがとりたてて独創的な見解というわけでもないだろう。100年も前にローザが言ったことのすべてが、現代社会にそのまま当てはまるわけがないことも当然である。だが、こういうところを読むと、資本主義経済というものの本質的な部分は、今も昔もやっぱりたいして変わっていないのだなと、あらためて感じさせられる。

 最近、たまたまテレビの地元ニュースを見ていたら、昔知っていた人が映っていた (別に悪いことをしたわけではない。ある団体の代表を務めている人である)。30年ぶりに顔を見たのだが、頭の上のほうが筆舌に尽くしがたいほど悲惨なことになっていた。あまりのことに、思わず心の中で、おいたわしや、と呟いたのだった。







Last updated  2008.12.22 22:08:28
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2008.11.12
カテゴリ:社会

 一昨日(11日)、オウムの麻原の家族が、再審請求を行ったというニュースがあった。

オウム真理教:松本死刑囚の家族が再審請求

 オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(53)の家族が、東京地裁に再審請求したことが分かった。請求は10日付。一連のオウム事件では5人の死刑が確定しているが、再審請求は元幹部の岡崎(宮前に改姓)一明死刑囚(48)に次いで2人目。

 再審請求中の死刑囚に関しては、刑の執行が避けられる傾向にある。刑事訴訟法では、家族による再審請求は、有罪判決を受けた者が死亡した場合か心神喪失の状態にある場合とされている。

 松本死刑囚は04年2月、東京地裁で死刑判決を受け控訴したが、弁護団は「意思疎通できない」と期限内に控訴趣意書を提出しなかったため、東京高裁が06年3月に控訴を棄却。最高裁が同9月に弁護側の特別抗告を退け、死刑が確定した。【北村和巳】


 麻原の精神鑑定については、2年前に東京高裁から依頼を受けた精神科医から、「訴訟能力はある」 との鑑定意見書が提出されている。その詳細は不明だが、麻原の行動に異常があるのは、軽度の拘禁反応か詐病によるものであり、訴訟能力までは失われていないということらしい。

 しかし弁護人によると、麻原は面会の際、質問に反応せず、意思表示もなかったという。結局、麻原という人物がなぜあのような行為を行ったのか、そしてなぜ彼と彼の教義が、なぜあれほど多くの者を引き付けたのかという最大の謎は、いまなお完全に明らかになっているとは言い難い。

 国王や貴族だけでなく貧民や子供など、西欧の社会全体を捉えた十字軍の熱狂から16世紀の 「宗教改革」 にいたるまでの、中世における様々な異端派について描いた、ノーマン・コーンという人の 『千年王国の追求』 という著書にこんな一節がある。

 自由心霊派異端の核心は、信者達の自分自身に対する態度にあった。彼らは自分が罪を犯すこともできないほど完全な人間になりきっていると信じたのである。この信仰の実際の結果はさまざまあっただろうが、一つ考えられることはまぎれもなく、道徳不要論すなわち道徳律の拒否であった。
 この<完全な人間>は、一般には禁じられていることでも自分はそれを行うことが許されており、また行うことが義務づけられているという結論をつねに導き出す傾向があった。貞潔に特別な価値を置き、婚外の性交をとくに罪深いものとみなしたキリスト教文明の中で、そのような道徳不要論は原則として男女雑交の形態を取るのがごく一般的であった。        (同書 P.150)

 この 「自由心霊派」 というのは、著者によれば13,14世紀頃にドイツを中心に広まった 「神秘主義的」 な異端の一派なのだそうだが、「神との融合」 という神秘体験を経て「真理」を得た者は、それによって人間が原罪により堕落する前の無垢な状態に戻るだけでなく、神と同じ高みに昇ることができると主張したという。

 普通に考えれば、神と同じ高みに昇ったとなれば、「貪欲」 だの 「性欲」 だのといった、通常の人間の抱える 「煩悩」 は消えてなくなりそうなものだが、彼らはそうは考えなかった。それを支えているものは、「いきとし生けるものは皆神なれば、万物はひとつ」 であるという一種の汎神論である。

 世界のすべてに神が宿るというこのような汎神論から、彼らはさらに人間の自然ともいうべき種々の 「欲望」 もまた、そのまま 「神性」 を持ったものとして肯定し、「すべてが許される」 という結論を導き出した。神と同じ高みに昇った者は、もはや善と悪の区別を超越しているがゆえに、なにをやっても罪とはならない。その欲望もまた 「神的」 なものであるがゆえに、むしろそのような欲望を抑圧することこそが罪なのだと、彼らは主張した。

 彼らの 「神秘体験」 なるものがドーパミンかなにかの作用によるものか、というようなことは、このさいどうでもよい。どんな体験も、その意味はそれを体験した者によって付与されるものであり、「神秘体験」 によって、神との融合をはたし神性を得たと考えるのも、「凡人」 をはるかに凌駕する高みに到達したと妄想するのも、とりあえずはその人の勝手である。
 
 だが、ある人が 「神」 とするものは、彼らが 「神的」 なもの、すなわち至高のものとしている理念であり、ある人々がその 「神」 のものとする性質は、その人らがつねひごろ最も憧れていた性質である。だから、神とは善・悪の区別を超えた存在であると思念する者は、ただたんに自分自身がそのようにありたいと望んでおり、そのような存在に憧れているというにすぎない。

 体力はホメロスの神々の特性である。ゼウスは神々のうちで一番力が強い神である。それはなぜであるか?なぜかといえば体力がそれ自身においてある光輝あるもの・ある神的なものと認められていたからである。戦士の徳は昔のドイツ人にとっては最高の徳であった。そのためにまた、昔のドイツ人の最高の神は軍神オーディンであり、彼らにとっては戦争が 「根本法律または最高の法律」 であった。 

       フォイエルバッハ『キリスト教の本質』 

 麻原がそのような 「神秘体験」 の持ち主であったのかどうかは分からない。彼には、もともと虚言癖や誇大妄想といった性癖があったことは間違いないだろう。しかし、彼をたんなる詐欺師と断じるわけにもいくまい。金銭などの物質的利益に対する欲望もむろんあっただろうが、彼の行為のすべてがそれだけによるとは思えない。

 そもそも、世間によくいる宗教家を装ったただ計算高いだけの詐欺師であれば、銃や毒ガスの密造、はてはサリンの散布といった、国家と正面からぶつかるような無謀な行為になど走るはずがない。また、もとは優秀な外科医であったという林郁夫のように、けっして無知でも愚かでもなかったはずの者らが彼に魅せられたという事実も、それでは説明できないだろう。

 なんらかの 「体験」 によるのか、あるいは精神的・人格的な障害などによる妄想の進行のせいなのかは分からないが、麻原はおそらくいつからか、自己を普通の人間をはるかに超える存在とみなすようになったのだろう。その結果、それまで永く抱えていた 「劣等感」 や 「怨恨」 のようなものが、逆に社会一般に対する 「優越感」 と手段を問わない攻撃へと反転するにいたったのだろう。

 それは、彼をただの詐欺師とか卑劣漢などと非難するだけでは説明できない。彼自身がおそらくは、そのような妄想の一番の虜であったのだろうし、だからこそ、遠くから見ればただ図体がでかいだけのヒゲオヤジにすぎない男が、一部の者らにとっては、「現世」 を超えた神のような存在であり、「救世主」 であるとして見えたのだろう。

 今回の再審請求が受理される可能性は、おそらくあるまい。死刑判決が確定した今となっては、麻原は拘置所内でただ 「処刑」 を待つだけの身となっている。また、彼自身からなんらかの事情を聴取することも、もはや不可能な状況のようである。

 だが、このまま刑が執行されても、なにか釈然としないものが残る。そういう気分は、今もなお彼を 「尊師」 として崇めている現役の信者だけでなく、おそらくは今は教団を離れ、彼を否定しているかつての信者らの中にも確実に存在しているだろう。







Last updated  2008.11.14 04:13:30
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