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陰謀論批判

2009.07.28
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カテゴリ:陰謀論批判

  先週、天上で行われた太陽と月との戦いは、一時間足らずでぶじに太陽の勝利に終わった。といっても、事前にきちんと時間を調べていたわけでもなく、たまたま入っていた大型スーパーから出たところ、なんとなくあたりが暗くなっており、おまけに外に立っている老若男女のみなさんが、そろいもそろって天の一ヵ所を見上げているのをみて、そういえば今日は日食の日であったなあ、と気づいた始末ではあったが。

 しかし、せっかくの日食もずっと観察できたわけではなく、ごく短時間だけ、あつい雲の合間から、ネズミにかじられたようなご尊顔が垣間見えるという程度にすぎなかった。そういうわけで、そのときからすでに予兆はあったわけだが、それから数日もたたぬうちに大雨となった。県内では数ヶ所で山崩れもおきていて、たいへんなことになっていた。

 雨がやんでから、近くの川まで行ってみたところ、すでに水かさこそ引いてはいたが、まだ濁った水がとうとうと流れていた。雨の激しかった時刻には、おそらく川に沿った遊歩道にまで水があふれていたのだろう。川原に繁茂する草の類もすっかり流れになぎたおされ、粘土のように細かな泥が一面にべっとりとこびりついていた。しばらく眺めていたが、残念ながら大きな桃は流れてこなかった。

 「司馬遷は生き恥さらした男である」 と書いたのは武田泰淳だが、その司馬遷が書いた『史記』 の西南夷列伝に、夜郎という名前の国の話がでてくる。場所はミャンマーやラオス、ベトナムと国境を接し、ミャオ族やイ族など多くの少数民族が住む、今の中国の貴州省や雲南省のあたり。時代は紀元前2世紀から1世紀、司馬遷を宮刑に処した当人である漢の武帝が統治していたころのこと。

 西南夷の酋長の数は十をもって数え、そのうち夜郎国が最大である。その西方の夷族はびばくの類で、その数も十ほどあり、そのうちてん国が最大である。てんから北にも、酋長の国は十ほどあり、そのうち、きょう都が最大である。これらはみな頭髪を椎の形に結び、田を耕し、村落をつくっている。...以上はすべて巴・蜀の西南の外辺に居住する蛮夷である。


 で、この夜郎国に漢の使いがはじめて到来したとき、夜郎国の王は 「漢とわが国とでは、どちらが大きいか」 と問うたという。司馬遷によれば、「道が通じていないので、てん王も夜郎候も、おのおのみずから一州の君主だと思いこみ、漢の広大さを知らなかったのである」 ということだ。ここから、広い世間のことをしらずに、自分がいちばん偉いと慢心している者の態度をさす、「夜郎自大」 という言葉が生まれたという。

 さて選挙が近くなってくると、ネット上もいろいろと大騒ぎである。あるブログでは、現在の自公政権を批判するついでに、「ソン・テジャクこと大作大先生率いる朝鮮カルト『創価学会』」 などというあきれたキャンペーンをやっている。

 公明党を批判するのなら、その政策と政治手法を問題にすべきである。創価学会を批判するのなら、その教義や社会的集団としての振る舞いを批判すればよい。「池田大作は在日朝鮮人出身だ」 などというネット上のあやしげな風説にのっかって、「創価=朝鮮カルトだ」 などと言い出すのは、おのれの排外的な差別思想をダダ漏れにしているにすぎまい。

 かのブログの主は、日頃から 「マスコミの嘘にはだまされないぞ!」 とか 「政治家や官僚にはだまされないぞ!」 などと、さかんに力みかえっているようだが、そのかわりに、9.11陰謀論からユダヤやフリーメーソンの陰謀論まで、ありとあらゆる陰謀論にどっぷりとはまり込んでいる。彼によれば、明治維新はフリーメーソンの陰謀であり、孝明天皇も皇女和宮の婿さんだった徳川家茂も、その陰謀によって殺された疑いがあるということらしい。

 それなりに長いはずの人生の中で、彼がどういう経験をし、その結果、今なにに腹をたて、なにに怒っているのかは知らぬ。だが、そうやって、世の中の様々な 「悪」 を体験し、その原因について考えているうちに、どうやら、あれやこれやの 「陰謀組織」 の存在に思い至ったらしい。だが、それでは、テレビで悪の組織 ショッカーと戦う、正義の味方 仮面ライダーや、黄色いマントをひるがえした月光仮面の姿に興奮していただろう、小学生の頃からぜんぜん進歩していないではないか。

 世の中に、邪悪な意思によって統率された、ただ悪意だけにみちた組織が存在しており、その隠れた意思によって、社会や世間の人々が操作されていると考えるのは、典型的なカルトの思考である。総選挙に出馬して、あえなく 「惨敗」 したオウムもまた、そのように考え、見えない強大な敵と戦うために、サリンだのVXだのという 「毒ガス兵器」 を開発し、銃の製造に手を出したのではなかったか。

 おのれを無垢で純粋な 「善」 とみなし、おのれの外部に純粋な 「悪」 が存在するというマニ教的二元論にもとづいた 「陰謀論」 的思考は、差別的で排外的な思考とも、きわめて親和的である。おのれがカルト的思考にどっぷりつかっておきながら、他人を 「カルト」 呼ばわりするとは、片腹どころか両方の腹が痛くなってくる(「片腹痛し」 の語源は、もちろん、「そばにいたくない」 という意味だが)。

 詐欺でも催眠術でも、自分は絶対に騙されないなどと思っている人間ほど、いざとなるところりと騙されるという。オレオレ詐欺にだまされるのが、世の中の動きに遅れた高齢者や、世間知らずの 「田舎者」 だけだなどと思っていたら大間違いだ。そんなにだまされたくないのならば、だまされないようにいろいろと学べばよろしい。「おれは絶対に騙されないぞ!」 などと力みかえったあげくに、最低最悪のがせねた(参照)にだまされ、踊らされていたのでは笑い話にもならない。

 「ものを知らぬ」 ことは恥ではない。ものを知らなければ、知るための努力をすればよい。恥ずかしいのは、「ものを知らぬこと」 を言訳として、「ものを知らぬこと」 に居直り、「ものを知る」 努力をしようともしないことだ。「論語」 には 「思いて学ばざればすなわちあやうし」 という言葉があるが、そこからただの 「夜郎自大」 までは一直線である。

 ヘロドトスの 『歴史』 には、現在のトルコ東部からイラン一帯を支配していたメディアと、トルコ西部にあったリディアの二つの王国の長年の争いが、日食をきっかけに和平に向かったという話がある。岩波文庫の注によれば、このときの日食は紀元前585年5月28日のものではないかということだ。

 「リュディア、メディア両軍とも、昼が夜にかわったのを見ると戦いをやめ、双方ともいやがうえに和平を急ぐ気持ちになった」 とヘロドトスは書いているが、それが事実であるならまことに喜ばしいことだ。

 先日の日食では、ガンジス川のほとりに集まった老若男女、善男善女のみなさんが、天を見上げて祈りを捧げている姿が映っていた。その姿は真剣そのものだったが、彼らとて、もはや日食ごときで、「世界の終わりだ!」 とまで思い込み、泣き叫びはすまい。

 暦もなく、天文学も発達していない時代であれば、いきなり太陽が暗くなり、昼が夜に変わったりすれば、それこそこの世の終わりかというような騒ぎになっても不思議はない。神の怒りを解くために、いけにえを捧げたりした時代もあったかもしれない。

 さいわいにして、日食は1時間もすれば元に戻るものではあるが、そのような不安が解消されたのも、いうまでもなく科学の発達と普及のおかげである。世の中には、「科学教」 などというものと戦っているらしき人もいるようだが、そういう勝手につくりあげた妄想に駆られて、風車に突っ込む前に、すこしはおのれの姿を省みてはどうだろうか。だまされないために必要なことは学ぶことであって、ただ力みかえることではない。







Last updated  2009.07.29 05:41:46
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2009.03.21
カテゴリ:陰謀論批判

 物事には、なんでも 「似ているところ」 と 「違うところ」 が存在する。したがって、どんなものでも抽象化のレベルしだいで、一つにまとめることもできれば、別々に分けることもできる。人間と馬は種としては異なるが、哺乳類という点では一緒だし、人間と石ころは全然似ていないけれど、物質的存在という点では同じである。

 ただ、一般的に言うと、一見して似ているもの同士の場合には、「似ているところ」 よりも 「違うところ」 のほうに気付くのが難しく、逆に一見して似ていないもの同士では、「違うところ」 よりも 「似ているところ」 に気付くほうが難しいということになるだろう。

 たとえば、イルカとマグロの場合、その外見は明らかに似ている。むろん、たいていの人は、知識としてイルカは哺乳類であり、マグロは魚類だということを知ってはいる。しかし、そういう知識を誰からも教えてもらわなかった場合、はたして実際に、どれだけの人がその違いに気付くかははなはだ疑問である。実際、クジラの場合であれば、漢字では魚偏に京と書くわけだし。

 多くの場合、「陰謀論」 にはまる人というのは、歴史上に存在した関東軍の満鉄爆破のような 「ありうる陰謀」 から始まって、しだいしだいに 「ユダヤ陰謀論」 などのような 「ありえない陰謀」 にまでエスカレートしてゆく。つまり、そういう人は、「ありうる陰謀」「ありえない陰謀」 の区別がついていないのだ。

 その逆に、「陰謀論」 という言葉と 「陰謀論」 批判なるものを知ったばかりの公式主義的な 「陰謀論」 批判者もまた、なにやらちょっとでも陰謀めいた話のあるところを嗅ぎつけると、「それは『陰謀論』だ!」 みたいな批判を躍起になって展開する。

 ようするに、そういう人もまた 「ありうる陰謀」 「ありえない陰謀」 の区別がついていないのであり、それは 「陰謀論者」 の誤りをただたんに裏返しているにすぎない。

 むろん、実際にはその区別を明確につけるのは難しいことではある。「概念」 というのは抽象の産物であり、具体的な事物というものは、「概念」 によって作られているわけではなく、したがって 「概念」 どおりに明確に区別されて存在してはいないのだから。

 民主党の小沢代表をめぐる今回の事件そのものについては、それほど興味もないし、情報を集めるのも面倒だから論じない。しかし、警察や検察の捜査の恣意性というのは今に始まったことではないのだから、一部の人のように、そのようなことに疑問を呈する程度の話まで 「陰謀論」 呼ばわりするのは、いささか行き過ぎというものだろう。もっとも、その背後に、なにやらきな臭い 「陰謀組織」 の暗躍とかを想定するというのなら、話は違ってくるが。

 「陰謀論」 というものは学問的概念とまでは言えないし、明確で確定された 「定義」 が存在するわけでもない。人によってその定義は様々であり、多少の違いも存在するかもしれない。しかし、たまたま外見が似ているからといって、全然違うようなものを一緒にしてしまうような 「定義」 というものは、事実上、役に立たない。「定義」 というものは、似てはいるが違うものを区別できてこそ、意味があり、役にも立つ。

 よく使われる言い回しに、 「味噌もクソも一緒にするな」 という言葉があるが、実際の話、もし鼻が詰まっていたりしたら、味噌とクソを分けるのは、味噌とクソを一緒にするよりも、はるかに難しいことであるに違いない(汚い話でごめんなさい)。

 そうは言っても、たしかに、味噌もクソも、色や形状が似ているという点では、一括りにできないわけではない。しかし、そのような味噌とクソを一緒にした 「概念」 をなんらかの定義によって作り上げたところで、実用性などないし、したがってその意味もないというものだ。

 こういうことは、「陰謀論」 の話だけでなく、いろいろなことにも当てはまる。学問的な検証に耐えうる史実の見直しと、探偵気取りの単なるディレッタントによる興味本位や、あからさまな政治的意図に基づいた 「歴史の見直し」 の関係もそうだが、似ているものどおしの微妙な差異を理解するのは、その「共通性」 だけに着目して一緒くたにするよりも、ずっと難しいことなのである。

 最後に、「ありうる陰謀」「ありえない陰謀」 とを区別する目安をいくつかあげるとすれば、想定される 「陰謀」 の規模と性質、費用対効果(経済的合理性)、それに問題となる社会の性格といったところになるだろう。

 一般的に言えば、あまりに規模が大きく、したがって、膨大な協力者を必要とする 「陰謀」 というものは、まずありえないし、あってもすぐに露見する。陰謀というものは、普通、お互いに信用できる少数の人間によって企まれるものであり、したがって社会全体を自由に操作するなんてことも、まずありえない。関係者が増えるほど、不確定要素が大きくなるし、意図したとおりの効果が生まれるということも難しくなる。

 また、その社会の一般的な感覚や通念から、あまりに乖離したような陰謀も、まずありえない。自国の実質的首都とも言っていいニューヨークの世界貿易センターに、その国の政府関係者が飛行機を突っ込ませたと主張している 「9.11陰謀論」 がありえないのは、そういう理由による。

 厄介なのは、社会の性格である。独裁者や特異なイデオロギーを掲げた集団によって、社会全体を統制する専制政治が行われている国では、一般に様々な 「陰謀」 が生じやすいが、そういう国では、そうでない国の者から見ると、経済的合理性すら無視したたような、とてもありえない 「陰謀」 が企まれ実行されることもある。

 具体的に言えば、1930年代に、スターリンが潜在的な政治的ライバルを一掃するためにでっち上げた 「モスクワ裁判」 や、ナチによる 「ユダヤ人絶滅政策」 が、そういう例になるだろう。

 金正日による 「拉致事件」 も、通常の感覚からすれば、まずありえないことだったのだが、実際にはありえたわけだ。実際、工作員に日本語を教えるとか、日本の書籍などの翻訳をして、情報収集をするというだけなら、自発的に協力を申し出る者などいくらでもいたはずであり、あんな馬鹿げたことをする必要など少しもなかったはずなのだが。







Last updated  2009.03.21 18:48:49
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2008.02.21
カテゴリ:陰謀論批判

 なんだか、つい最近の産経の 「『反基地』勢力が叫ぶいかがわしさ」 なる記事の題名に似てしまったが、あの記事とはなんの関係もない。あの記事について言えば、あのようなことを言う花岡某という記者と、それを載せた産経のほうがよっぽどいかがわしいという意見に全面的に同意する。

 この国の 「反権力」 を標榜する人たちがしばしば見落としがちなのは、イタリアのファシズムもドイツのナチズムも、既成の権力と支配体制に対する 「異議申し立て」 という、下から広がった大衆的な運動によって支えられることで、権力への階段を駆け上がっていったという歴史的な事実である。むろん、最終的な権力の掌握は、既成支配層から労働者や農民に対する反革命としての承認を得たことによるものではあるが。

 ムッソリーニはもともと親父の代からの筋金入りの社会主義者であったし、ナチスの正式名称がドイツ国民 (国家) 社会主義労働者党であり、反ユンカー、反資本主義を標榜していたことも忘れてはならない。彼らが一部の大衆から熱狂的な支持を得たのは、そこに 「擬似革命」 としての社会変革という夢が託されていたからでもある。

 戦前の日本の場合は、天皇制という牢固たる支配構造ゆえに、そのような大衆的支持に支えられた本格的なファシズム国家は成立しなかった*1。しかし、明治憲法解釈における定説として、少なくとも大多数の政府官僚や知識人らの間には定着していたかに見えていた美濃部達吉の 「天皇機関説」 *2 が、国体に反するとして右翼勢力から猛烈に攻撃されたことに現れているように、明治以降、それなりに定着しつつあった議会政治を麻痺させ、最終的に崩壊させたのも、やはり一種の 「反権威」 主義的な運動ではなかったのだろうか。

 「国体論」 の名を借りて美濃部を攻撃した連中にとっては、美濃部もまた近代的=西欧的な知と学問を修めた帝大教授という 「権威」 だったのである。その彼に対する攻撃の根底にあったのは、明治以降の急速な 「西欧化」=「近代化」 によって様々な社会の歪みが蓄積してきた結果、明治政府の急激な方針転換によりいったんは抑え込まれていた幕末の復古思想が、「近代化」 そのものに対するイデオロギー的な反動として息を吹き返したということだろう*3

 既成の権力や権威に対する反抗であれば、なんでも賞賛しありがたがる者はただの愚か者である。それはときには、歴史を巻き戻そうとする 「反動」 と結びつくこともあることを見落とすべきではない。

 たとえば 「常識」 を捨てれば直感で真理が見えてくるなどという人がいるが、本当にそうであれば、誰も苦労はしない。コペルニクスやガリレオの 「地動説」 にしても、常識を疑うというような単純なことで成立したわけではない。彼らが乗り越えた困難をそのように単純化することは、彼らの業績を称揚するどころか、愚弄することにしかなっていない。

 9.11同時テロのような複雑な事件の真相が 「直感」 で分かるのなら、世の中、どんな事件も直感で犯人が分かるというものだろう。それは、複雑な法律も司法制度も、また科学的な捜査や証拠による立証も不要であり、したがって弁護人による反論も不要だというのと同じである。

 ただの無知に基づき、無知に居直っただけの安易な 「反権威」 主義や 「専門家」 たたきのいきつくところは、人間が困難を乗り越えて築いてきた歴史と文明の成果を破壊し、放り捨てることにしかならないだろう。

 馬鹿を言うのもいい加減にしろというところだ。


*1:戦前の日本に体制としてのファシズムが成立していたかどうかには、様々な議論がある。保守的な立場からの 「日本ファシズム」 否定論者には、しばしばそのことを、「戦前の日本はナチスほど酷い体制ではなかった」 というような弁護論と結びつける傾向があるのは事実である。しかし、これは、本来 「ファシズムとはなにか」 という優れて理論的な問題なのであって、政治的評価の議論と結び付けるべきではない。

*2:むろん、明治憲法は厳密な意味での近代憲法ではない。美濃部の 「天皇機関説」 は、復古性と近代性を兼ね備えていた折衷的な明治憲法を可能な限り近代的な方向で解釈しようとした学説であったということができる。

*3:そこには、欧米列強との対立の先鋭化による、ナショナリズムの高揚という背景があったことも、むろん無視はできない。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080131/1201781124 







Last updated  2008.03.01 21:15:04
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2008.01.20
カテゴリ:陰謀論批判
 新年早々、一部ブログ界をにぎわした 「水伝」 騒動について、批判を受けた側の中に、あの批判を行った連中は 「陰謀論」 批判を展開した者らと同一であり、その本当の狙いは 「9.11自作自演」 説を封殺することにあるといった声があるようだ。

 なかなか興味深い洞察である。「事実」 としては、たしかにまったくの間違いではない。だが、いつものことだが、彼らはその 「解釈」 を間違えている。つまり、事実と事実をつなぐ論理にまったく根拠がないため、ただの 「妄想」 にしかなっていないのだ。

 そもそも、「事実」 はそれだけではなにも語りはしない。「事実」 から 「意味」 を引き出すために必要なのは 「理性」 なのだから、「理性」 に欠けた者は、いくら 「事実」 を集めたところでなにも見ていないのと同じである。

 彼らの 「妄想」 とは異なり、そのような 「事実」 から明らかになることは、「疑似科学」 に対して批判的な立場、理性的な 「議論」 を重んじる立場、さらには 「陰謀論」 に対して批判的な立場には、互いに強い相関性があるということである。

 そして、その逆に、「疑似科学」 に対して没批判的な立場、理性的な 「議論」 を軽視する立場、さらに 「陰謀論」 を受容しやすい立場との間にも、同様の強い相関性があるということだ。

 たとえば、 「疑似科学」 的発想と 「陰謀論」 的発想が実際に結びついた例としては、「社会ダーウィニズム」 の影響を受けたイタリアの犯罪学者 ロンブローゾの 「生来的犯罪人説」 や 「優生学」、さらにはナチスのイデオローグであったローゼンベルクが提唱した 「人種理論」 などが 「ユダヤ陰謀論」 と融合した結果、ユダヤ人や男色者、障害者らへの迫害が行われたことなどがある。

 そのような 「疑似科学」 的発想と 「陰謀論」 的発想との相関関係には、ちゃんとした根拠がある。それはつまり、理性に基づいた批判精神の欠如であり、非合理的なイデオロギー的言説に対する根拠を問わぬ軽信的な心性と言えるだろう。

 「疑似科学」 が問題なのは、それが一見科学的な手法に基づいているかに見えるため (それは、意図的な場合もあれば、当人の過誤に基づく場合もある)、その専門性に通じていない一般の人々には、なかなか嘘を見抜くのが難しいからである。

 実際、「劣等」 な者と断定された人々に対する断種や不当な隔離のような 「優生政策」 といった誤った政策を裏付ける根拠として、そのような 「科学」 の成果が持ち出されると、人はなにかおかしい、とは思っていても、正面から批判することが困難になってしまう。

 そのような 「擬似科学」 の不当性を暴くには、場合によっては、たしかに専門的な科学者による詳細な批判が必要なこともある。「疑似科学」 批判に対する一部のアレルギーは、たぶんそこから来ているのだろう。だが、「疑似科学」 批判は、なにも科学の万能を主張しているわけではない。ましてや、「おとぎ話を信じるな !」 などとは、だれも言っていない。

 言うまでもないことだが、まっとうな科学者だって間違えることはある。当初は正しいと思われていた学説が、のちに誤りであったことが証明される例などはいくらでもある。そもそも、完全な科学などはありえないのだから、その意味では、まっとうな科学と 「疑似科学」 の間に、明確な線を引くことは不可能だろう。だが、だからこそ、必要なのは 「科学」 の権威を借り、「科学」 と結び付けて押し出される言説に対して、正当な懐疑の目を欠かさないということだろう。

 「9.11陰謀論」 の信奉者らに言わせれば、「陰謀論」 への批判が最近とみに高まっているのは、9.11の 「真実」 が暴かれるのを恐れている人々が、躍起になって 「真実」 を叫ぶ声をふさごうとしているからなのだそうだ。どうやら、批判が強まれば強まるほど、彼らは 「自信」 と自らの主張への 「確信」 をますます強めているらしい。

 だが、そういう論理は、うん十年前にもよく言われた、「権力による弾圧が厳しいのは、敵がわれわれを恐れているからだ ! 」 という、昔懐かしい論理の焼き直しにすぎない。そのような倒錯した論理は、せいぜい自己憐憫にしか役立たないものであり、政治的社会的な運動が最終的な袋小路に陥った場面では必ずと言っていいくらい出てくる、現実から目を背け逃避することを目的とした内閉的な論理である。

 いまや、彼らには自分らを除いた周りのすべてが敵に見え、あちらこちらに、自分たちを攻撃する 「陰謀」 が網の目のように張り巡らされている、といったふうに見えているようだ。






Last updated  2008.01.21 07:47:21
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2007.12.29
カテゴリ:陰謀論批判

 振り返ってみると、「陰謀論」 の誤りと、その危険性について、ずいぶんとごちゃごちゃ書きまくってしまった。なにしろ、クリスマスについて書き出した記事まで、最後は 「陰謀論」 批判という結論になってしまったくらいだ。

 「陰謀論」 にはまりやすいのは、ナイーブな人が多いと書いたけれど、もうひとつ付け加えることがある。それは、根は同じことだが、「陰謀論」 にはまりやすい人の多くは、世界を動かしているものは、人間の 「悪意」 であるといった発想に捉われているということだ。

 たしかに、世界は不条理であり、様々な 「暴力」 や 「不正」、「悪」 に満ちている。しかし、その多くは、誰かのことさらな 「悪意」 によって生じているわけではない。

 一昨日、パキスタンでブット元首相が爆弾テロによって暗殺された。帰国直後にも爆弾で狙われ、本人は無事だったものの、周囲に多数の死者を出していた。そのことから考えると、彼女の暗殺は、いわば時間の問題だったかのような感すらある。

 そのような状況の中でも、大衆の前に姿を現し続け、公然とした政治活動をやめようとしなかった勇気は、彼女の政治信念などに対する評価を超えて、強く賞賛されるべきものだろう。もっとも、彼女の支持者でもないのに事件の巻き添えになった人にとっては、そんな言葉は慰めにもならないだろうが。

 事件の直接の実行犯が、巷間言われているような 「イスラム過激派」 であることは、たぶん間違いないだろう。ただ、ひょっとしたら彼女の政敵である、現在のムシャラフ政権がなんらかの形で関与している可能性というのはあるかもしれない。

 言うまでもないことだが、「自爆テロ」 というような、自らの命を顧みない方法で暗殺を決行した犯人が、ただの 「悪意」 や 「計算」 だけで動いていたわけはない。彼には彼なりの、強い 「使命感」 と 「正義感」 があったのだろう。むろん、それはけっして手放しで肯定されるべきものではないだろうが。

 「悪」 は必ずしも 「悪意」 から生れるものではない。それは、たとえば 「この国を今の混乱から救える者、この国の政治を担える者は、自分しかいない」 というような、愛国心に基づいた、強い使命感から生れたりもする。

 そのような使命感にかられた人間にとっては、自分に対する批判者は、すべて国家の混乱を意図している 「悪者」 であり、方法を問わず、排除すべき対象であるというように見えても不思議はない。

 劉少奇ら多くの古参幹部を、党に巣くい資本主義の復活をもくろむ 「走資派」 と呼んで 「文化大革命」 を発動し、その打倒を若者らに呼びかけた、晩年の毛沢東がそうだったし、おそらくは、独裁志向を強めている現在のプーチンの胸のうちも、それと似たようなものなのだろう。

 多数の 「異教徒」 や 「異端派」 を弾圧し殺害した、ヨーロッパ中世の 「十字軍」 にしても、その行為は多くの場合、「純粋」 な宗教的動機から発している。むろん、なかには、そこに便乗して、自分の名前を挙げようとか、一旗上げてやろうとかいう、いささか 「不純」 な人間もいはしただろうが。

 ブッシュにしても、また彼を支えている支持者らにしても、「世界を野蛮なテロから守らなければならない」 とか、「キリスト教文明を世界に広めなければならない」 というような 「使命感」 に駆られているのだろう。

 「正義」 と 「正義」 がぶつかるなかで、この世に 「正義」 は1つしかないと考え、自分の 「正しさ」 を疑わない人間は、当然のことながら、自分の敵を動かしているものは、なんらかの 「悪意」 であると決め付けることになる。いや、そのような人間には、そういうふうにしか考えられないのだ。そこから 「陰謀論」 へは、ほんの一歩である。

 その点では、世界中に 「文明世界の破壊を狙うイスラム原理主義者の陰謀」 が存在すると考えているブッシュ政権も、9.11同時多発テロは、「世界の支配と利権を狙うブッシュ政権による自作自演の陰謀だ」 と考えている人々も、同じなのである。

  むろん、人間を動かしているものはけっして 「正義感」 や 「使命感」 などの 「善意」 ばかりではない。そこには、個人的な利益や名誉、他人を支配することに対する欲望なども存在はするだろう。

 しかし、これは良くも悪くもまさに人間の 「煩悩」 のようなものであるから、「悪意」 とばかりは言えない。ただ、人間は自分の行為を正当化し、合理化するなんらかの 「根拠」 を持っているときほど、かえってそういう 「煩悩」 の誘いにものりがちなのである。

 たとえば、 「オレオレ詐欺」 とか 「訪問販売詐欺」 だとかをはたらいて、高齢者を騙している若者らにとって、そのような行為は、おそらく立派な  「ビジネス」  なのだろう。だから、彼らもそのような 「ビジネス」 を離れた日常では、ごく普通のどこにでもいる青年であり、ひょっとしたら親切で優しい青年である可能性すらある。むろん、みんなそうだとは言わないが。

 あの 「ユダヤ人虐殺」 を遂行したアイヒマンのような人間も、家庭に帰れば妻や娘を愛するよきパパであったり、芸術を好む、洗練された 「高尚」 な趣味を持つ人間であったりもする。人間はけっして自分が思っているほど、終始一貫した存在でもないし、ただひとつの 「人格」 しか持っていないわけでもない。

 なにしろ、世の中には、バイクにまたがったり、車のハンドルやカラオケのマイクを握っただけで、人格が変わる、 というような人種も存在しているそうだから。

  世界を支配している者が 「悪意」 によって動かされていると考える者は、「対立者」 のあらゆる行為に 「悪意」 をかぎつけ、ススキが揺れるのを見ても幽霊と勘違いし、結局のところ、相手が持っているものと即断した 「悪意」 を自らが抱え込むことにもなるだろう。

 世界は 「悪意」 によって動かされているわけではない。だが、本当の困難は、むしろそのことに気付くことから始まるというべきだ。


追記: 一部訂正と削除あり

ムバラク ⇒ ムシャラフ

ムバラクはエジプトの大統領、パキスタンの現大統領はムシャラフ
なんとも紛らわしい (←ただの言い訳)

http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080504/1209918455

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080505/p1 







Last updated  2008.05.08 11:08:27
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2007.12.24
カテゴリ:陰謀論批判

 気がつくと、いつの間にか今年も残り少なくなっている。今夜はこの国のほとんどの皆さんが、1日だけのにわかキリシタンになるという日である。

 昨日、いつものように夕方の買い物に、近くにある大型スーパーに出かけたところ、子供連れの家族客などで店内は熱気むんむんの大賑わいであった。ふと、気がついたのが、4, 5歳くらいの男の子。広い店内を、なにやら泣きそうな顔をしてバタバタと駆け回っている。

 どうやら迷子になったようである。店内は大人の背よりも高い商品陳列棚がいっぱいに並んでいるから、見通しが悪い。目の位置の低い小さな子供にとっては、なおさらである。すでに半べそ状態であった。

 店員も誰も気付かない (気付かないふりなのかもしれない)。声かけようかな、どうしようかな、でも変なおじさんに間違われてもなんだしなー、などと思いながらしばらく見守っていたら、お兄ちゃんを見つけたらしく、いっぺんで笑顔になってかけよっていった。一件落着のめでたしめでたしであった。

 さて、プラトンの弟子であり、したがってソクラテスの孫弟子であり、かのアレクサンダー大王の家庭教師でもあったアリストテレスは、『形而上学』 の中で、世界を動かしている原因として、「形相因」、「質料因」、「始動因」、「目的因」 の4つを上げている。

 このうち、「形相因」 と 「質料因」 というのは、ややこしくてよく分からないし、今は関係ないのでおいとくとして、「始動因」 と 「目的因」 というのは、次のようなものである。

第三は、物事の運動がそれから始まるその始まり (始動因としての原理)  であり、第四の原因とは反対の端にある原因で、物事が 「それのためにであるそれ」 すなわち 「善」 である。というのは、善は物事の生成や運動の全てが目指すところの終わり (すなわち目的) だからである。


 こういう、世界を動かす原理としての 「目的因」 という考えでなりたっている世界観は、一般に 「目的論的世界観」 と呼ばれているが、そのような世界観が、世界を支配する 「神」 という存在を必要とすることは明らかだろう。近代の科学というものは、そういう 「目的論的世界観」 を否定するところから始まっている。

 たとえば、「進化論」 では、よく 「キリンは高いところの葉を食べるために首が長くなった」 みたいな説明がされる。しかし、これは便宜的な説明であって、正確に言うと間違いである。進化とは、けっして一定の 「目的」 を目指して進むものではない。ランダムに発生する変化の中で、最も環境に適したものが生き残るため、結果的に、進化は環境への適応を目指して進んでいるかのように見えるだけである。

 「目的」 というものは、いうまでもなくなんらかの 「意思」 を前提とする。自然界の中に、そのような進化を起こす 「意思」 は存在しない (存在するという人もいるかもしれないが、そういうことにしておく)。そのことを考えれば、目的論的な進化の説明が、結果から振り返った、便宜的なものでしかないことは明らかだろう。

 こういう 「結果」 として生じたことを、あたかも誰かの意思によって最初から目指されていた 「目的」 であるかのように勘違いすることは、世界を合理的な必然性をもって進行するものとみなし、そのような論理だけで説明しようという傾向の強い人らが、とくに陥りやすい落とし穴である。

 これが極端にまで進行すると、自分がいつも不運な目にばかり遭い、なにをやってもうまくいかないのは、周りの皆が私をねたみ、結託して陰謀をたくらんでいるからだ、みたいな 「妄想」 にまで発展する。しかし、それが 「妄想」 であることに、当人はなかなか気付かないものだ。

 そのうえ、こういう 「妄想」 を抱いている人も、そのことを除けば、普通に社会生活を送っていたりするものだから、周りの人も最初はそれが 「妄想」 であることに気付かず、当人の 「妄想」 に巻き込まれてえらい目にあったりする。

 宗教でいうと、古代キリスト教の一派であったグノーシス派には、これと同じような傾向が強く表れている。グノーシス思想の特徴は、われわれ人間は神によって欺かれているのだという教義にある。グノーシスとはそのような暴かれた 「真理」 のことであり、つまり、これは巨大にして壮大な 「陰謀論」 なのである。

 『カラマーゾフの兄弟』 の中に、次兄イワンがアリョーシャに親に虐待されながら 「神ちゃま」 に祈る幼い女の子のことを語る場面がある。そこで、イワンが提出している問題は、全知全能で、悪などこれっぽちも含んでいない、善の巨塊であるはずの神によって造られたのに、「いったいなぜ世界は不条理なのか」、「いったい世界にはなぜ悪が存在するのか」 ということだ。

 この問題 (弁神論) は、昔から多くの神学者たちを悩ませてきた問題であるが、彼らグノーシス主義者に言わせると、その答えはこうである。

 物質的なこの世界を作った造物主は、実は本当の神ではない。自分を神と勘違いし思い上がった、偽物のあんぽんたんの神である。この世界はそのような不完全な神によって、物質という穢れた質料から作られている。だから、この世界は不完全なのであり、悪に満ちているのだ。
 キリストとは、そのような偽の神の偽りを暴き、われわれ人間に真の福音と知恵 (グノーシス) を伝え、完全にして真なる世界への道筋を示すために、隠れている本物の神からひそかに遣わされた使者なのだ。
(適当な要約 

 なんだか、M78星雲から人類を救いにやってきたウルトラマンみたいな話ではあるが、なかなかよくできた、奥が深い話である。

 論理的にいう限り、たしかにこのような説明は筋がとおっている。ただし、もちろん証明は不可能であるし、また反駁することも不可能である。 グノーシス派の影響が強いと言われている 『ユダの福音書』 では、一般に 「裏切り者」 の代名詞のように言われているユダが、実はキリストの一番弟子であり、その秘密を知っていた者として描かれている。

 それによると、ユダは、「キリストの復活」 という最大の奇跡を実現するために、あえて 「裏切り者」 の汚名を覚悟して、キリストをローマに売り渡したのだそうだ。これも、確かに形式論理的にはいちおう筋がとおっている。なぜなら、ユダの裏切りがなければ、キリストの復活もなかっただろうから。

 それはそうかもしれないし、そうではないかもしれない。本当のことは分からない。ただ、こういう思考の根底には、「世界のすべてを合理的に説明したい」 という欲求があり、単なる偶然や様々な意思・行為の重なりによって生じた 「結果」 をも、「単一の意思」 によって意図的に追求されたものとして、一元的に説明しようという傾向があることは明らかだ。

 こういう論理は、たしかにすべてを説明できる。しかし、証明も不可能であれば、したがって反証も不可能である。そもそも、すべてを一元的に説明する論理、なんでも説明できる論理とは、言い換えればそれだけで完結している論理なのであり、したがって 「具体的な事実」 による証明など、必要としない論理なのである。

 ある原因によって、なにかの結果が生じたとしても、その結果が、誰かによって当初から目指されていた目的であるとは即断できない。ある事件によって、ある人が大きな利益を得たからといって、その事件はその利益を得た者によって、故意に起こされたのだと推論するのは、一見合理的であるかのように見えるが、それほど根拠があるわけではない。

 昨日、クリスマス前のにぎわう店の中で迷子になった子供は、たぶんはしゃぎまわっているうちに親とはぐれてしまったのだろう。不注意の責任が親にあったのか子供にあったのかは分からない。だが、「迷子事件」 の原因はそういうことであり、そのために子供は 「迷子」 になったのだろう。

 むろん、むかし、映画 『鬼畜』 で岩下志麻と緒形拳が演じたような親も、世の中にはいないわけではない(「ヘンゼルとグレーテル」 もそうだった)。だが、ふつう 「迷子事件」 はただの偶然で起こるものである。少なくとも、「迷子」 になりたくて 「迷子」 になる子供などはいない。







Last updated  2009.02.12 00:51:42
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2007.12.21
カテゴリ:陰謀論批判

 世の中、なにがいちばん気楽かというと、「素人」 の立場からあれこれと文句を言うことである。野球の試合であれば、ピッチャーがファーボールを連発すれば 「へぼピッチャー、さっさと引っ込めー」 と罵声を浴びせ、バッターが凡退を繰り返せば 「お前なんか、さっさと引退しろー」 などと野次をとばしていればいいのだから。

 むろん、こういう野次をとばすのも野球観戦の楽しみの一つだろうし、言っている本人だって、自分が代わりに投げたり打ったりできるわけではないことは、じゅうぶん承知のうえだろう。監督の選手起用のまずさを、屋台で一杯飲みながら批判していても、自分が代わりに監督をやるわけにはいかないことも分かっているはずだ。

 スポーツの世界というものは、素人と玄人との違いというものが、誰の目にもはっきりとしている世界である。どんなに偉そうなことを言っている人でも、プロの選手に対して、「バットはこうやって振るもんだ」 とか、「ボールはこういうふうに蹴るんだよ」 みたいに、フィールドに下りてって手取り足取り指導してやろうなんて気を起こす者は、まずいまい。

 なにしろ、スポーツの場合、素人と玄人とでは、体力も技量もまったく比較にならないのであり、そのことはお互いじゅうぶんに分かっている。そこでの比較=評価の基準は単純明快であり、そこに 「トンデモ」 学説など、入り込む余地はない。だからこそ、ある意味、そういう世界では、素人が無責任なことを言っていても、よほどのことでない限り許されるのだ。

 先般、香川県で起きた、祖母と幼い孫二人が夜間に行方不明になった事件で、自分のブログに気軽なのりで 「犯人は X X だ」 などと書いた若い女性タレントがいた。彼女はけっきょく1年間の 「謹慎処分」 をくらうということになってしまったが、同様のことを匿名のブログや掲示板で書いていた者は、おそらく他にも大勢いたことだろう。

 なにか世間を驚かすような事件が起こると、あちらこちらでいっせいに 「犯人当てクイズ」 のような騒ぎが始まる。これは、推理ものの 「二時間ドラマ」 の世界と現実の世界を混同しているようなもので、大宅壮一の言葉をもじれば 「一億総探偵化」 とでも言うべき現象である。

 いうまでもなく、このような探偵とは、お湯をかけて5分でできたような 素人探偵 のことである。

 こういったことも、テレビを見ながら夫婦や親子であれこれ言っている分には、そう実害はないだろうし、人間というものは自分には直接関係のないことでも、興味をもってあれこれ言いたがるものであるから、仕方がないことでもある。

 だが、そうはいっても、やっぱり世の中には、素人が気軽にあれこれと口を出すべきではない領域もある。

 どでかい飛行機が高速でビルに突っ込んだらどうなるのか、なんて話がまさにそうである。

 そもそも、野球やサッカーの解説ですら素人には務まらないのに、なんでただの素人が、ニュース映像を見たぐらいで、「あのビルの崩れ方はおかしい」、「あの煙の出方はおかしい、やっぱり爆破されたのだ」、「陰謀だ!」 なんてことを言えるのだろうか。そこんとこが、私にはさっぱり分からない。

 自分はあの事件以来、その真相解明に全精力をかけてきた、みたいなことをおっしゃっている方々がいる。なかなかの心意気である。見上げたものである。その心意気を、こちらにも少しは分けて欲しいぐらいである。

 しかし、そのようなことを言っている人々は、そのことに必要な専門的な教育を、いったいどのくらい受けているのだろうか。たしかに、そのなかには、それなりの教育を受けた人もいるだろう。だが、あのような前代未聞で複雑な事件の 「真相」 を暴くというのなら、1つや2つの分野の専門教育を受けたぐらいでできることではない。

 あんな重くてでっかい飛行機がなんで空を飛ぶのかを理解するには、航空力学や流体力学を修める必要があるだろう。ビルの崩壊を論じるならば建築力学や金属工学が、爆破かどうかを論じるならば、爆破工学だとかの理解も必要になるだろう (テキトーに言ってるので、違うかもしれない)。

 それだけではない。教わったことを本当に身に着けるには、そこそこの実務経験というのも必要なはずだ。

 で、「9.11事件の謎 !」 などと仰っている方々は、そのへんのことをいったいどのように考えていらっしゃるのだろう。ただの気分や戯言で言っているのではなく、本当に本気なのであれば、大学の理学部だか工学部に入りなおして、力学だとか工学だとかの基礎から学ぶべきである。

 それだけの覚悟があるのならば、10年でも20年でもかけて、本当に事件の検証に必要な力を身に付けてから、検証を始めても遅くはあるまい。ほんらい 「覚悟」 というものは、そういうものである(ちょっとえらそー)。

 むろん、「事件」 の経過とか、発表とかに疑問を持つこと自体は構わない。疑問を持った人が、自分のできる範囲で、いろいろと情報を集めて調べてみることもいいだろう。

 しかしながら、生半可な知識で、「あの事件についての 『公式発表』 はでっち上げだー !」 などと触れてまわるのは、滑稽千万であり愚の骨頂であり、百害あって一利なしである。本当の覚悟がないのであれば、そういうことは 「専門家」 の先生に任せておけばよろしい。

 むろん、ときには 「専門家」 でも意見が一致しないような問題もあるだろう。そういうときは、われわれ素人としては、いったいどっちを信用すればいいのか分からないのだから、確かに困ったことではある。だが、だからといって、「素人」 が気軽に口を出してもよいということにはなるまい。

 「生兵法は怪我のもと」 ということわざもあるが、「素人」 がそういう問題に口を出すときは、少なくとも、自分はただの 「素人」 だということぐらい意識しておくべきである。「無知の知」 ではないが、「素人」 であることを自覚した素人は、すでに単なる無責任な素人ではない。

 ある特定の問題について、その解決にはいったいどれだけのどのような能力が必要なのかを判断もせずに、また、いま現に自分が持っている能力はどの程度なのか、といったことを客観的に理解もできないままで、生半可なことを言い、

 そのあげくに、太田龍ごときが垂れ流すようなお手軽な 「陰謀説」 などに引っかかるような人は、もしもいま、ヒトラーのような悪魔的デマゴーグが現れたなら、「うん、そうだ、そうだ、そのとおりだ」 と、簡単に騙され、その熱烈な支持者になってしまうことだろう。

 いささか大仰ではあるが、オルテガの言葉を借りれば、そのような無責任な言動をなし、専門的能力もなく、またその自覚もないままに、「専門家」 と対等の口を利きたがる 「大衆」 こそが、ファシズムの登場を支えたのではなかったのだろうか。 

 そこに、決定的な違いなどはなにもない。自分は、善意にあふれ正義を信じる真面目な人間だから、そんな 「悪の道」 に迷い込むはずはない、などと思っている者がいるとすれば、そいつはただのお馬鹿さんであり、人間というものを知らない無知なあほうである。

 とはいえ、だからこそ今のところ、そういった 「陰謀論」 に引っかかるようなトンマさんたちが、この国ではごくごく少数にすぎないことは、まことに慶賀すべきことなのである。

 社会にとって最も危険な 「勢力」 は、しばしば 「既成権力」 「支配体制」 に対する 「急進的な批判」 という形をとって現れてくる。そして、そのような勢力の登場を支え、そのような流れに掉さすのは、どんな時代でも、真面目で行動力と正義感にあふれ、ただし自己を疑うことだけは知らない 「善意の人々」 らである。

 5.15事件や2.26事件、様々な暗殺事件などを起こして、昭和の軍部独裁への道を開いた民間右翼や青年将校らも、農村の疲弊に無策な政党や政府の腐敗、金権体質などに憤った、自分は正しいと信じていた 「正義の人々」 ではなかったのか。

 起きたことを後から振り返って、道を間違えてしまった者を非難するのは簡単だ。しかし、現にいま進行しつつある歴史においては、こっちが 「正しい道」、こっちは 「間違った道」 などという明確な 「方向表示」 などがあるわけではない。

 それは、かつて 「連合赤軍事件」 を起こした永田洋子や坂口弘、あるいは 「オウム事件」 を起こした者らを見ても分かることだろう。 いったん抱いた自己の信念にどこまでも忠実であろうとする 「誠実」 な人間こそ、そういった迷路に迷い込みやすいものなのだ。


追記: いささか刺激的な題をつけてしまいましたが、なにも 「素人は黙っとれ」 とか 「素人は口を出すな」 というわけではありません。

そのへんの自覚がなく、なんでもかんでも安易に口をはさみたがる傾向がいろんなところに見られるのでは、ということがこの記事の趣旨です。 







Last updated  2007.12.23 10:58:19
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2007.12.19
カテゴリ:陰謀論批判

 「陰謀論」 のお話はもうおしまいって、いったん宣言したのだが、どうもいまひとつ気分がすっきりしないので、また取り上げることにする。

 前回の件は、こちらがいらぬちょっかいを出したために起きたことで、「無敵のコメンター」 氏のトンデモさは誰の目にも明らかだろうから、そのことをいつまでも根に持っているわけではない。

 それよりも、憂鬱というか、なんだこれは、という気になってしまったのは、明らかな 「トンデモ」 氏ではなく、それなりに真面目で誠実な人と思われる中に、「9.11陰謀説」 を信奉している人が結構多いことを見てしまったからである。

 その人たちは、「ブッシュはんたーい」 とか 「平和憲法を守ろうー」、「イラク戦争はんたーい」、「グローバル化はんたーい」 なんてことを、一生懸命に叫んでいらっしゃるのだ。

 まあ、それは構わないのだけど、その一方で 「9.11はブッシュの陰謀だー!」 などと真剣な顔で言っているのを見ると、思いっきり滅入ってしまうのである。いったい、これはなんなのだろう。

 なかには、そんな話ありえねーて批判されると、「自作自演説」 に 「陰謀論」 などとレッテル付けて批判しているのは日本だけだ、日本は世界から遅れているなんて言い出す人もいる。

 その人が言うのには、「9.11陰謀説」 は世界の多くの人に支持されているのであり、「陰謀説」 に批判的な人が多い日本は、まだまだ遅れているのだそうだ。

 たしかに、結構 「陰謀説」 は地元のアメリカを含めて、世界中に広まっているらしい。

 で、それがどうしたの? なんで、まともな日本人まで、わざわざそんな世界のお馬鹿な連中の真似をしないといけないの?

 日本は世界に遅れているって、あんた、それじゃ、あんたが一生懸命批判しているつもりの、グローバリストとかが言ってることおんなじじゃないの。

 彼らも言ってるよ。日本は世界に遅れている、日本人は世界を知らない、日本の常識は世界の非常識だとかね。それといったいどこが違うのさ。あんた、馬鹿じゃねーの。すこしは、自分がなにを言っているのか、考えてみたらどうなのさ。

 おまけに、「陰謀論」 なんて呼ばれるようになったのも、「9.11自作自演説」 を貶めるために、誰かが始めた 「陰謀」 の疑いがあるそうだ。 なんじゃ、そりゃ。

 それって、ひとつの嘘のほころびを隠すために、次から次へと嘘を重ねて 「無実」 の人を犯人に仕立て上げた、どっかの警察がやったこととどこが違うの。 

 まあ、昔から、自分は世間一般の大衆よりも政治とか社会問題に関心があって、「意識」 が高いと思い込んでいる人間が、実はただの世間知らずの 「お坊ちゃん・お嬢ちゃん」 にすぎないってことはよくあることで、いまさらのことじゃない。

 でもね、そんな荒唐無稽な馬鹿話を信じてる人たちよりも、長屋の八つぁん、熊さんのほうが、よっぽど世間のことを知っていて、ちゃんとした常識も持っているものだよ。だから、「9.11陰謀説」 なんて馬鹿話が、一部業界の狭い中ではやろうと、社会全体から見れば大きな問題ではもちろんないだろうさ。

 言っとくけどね、普通に生きてる大衆の皆さんを、本当のことを知らずに騙されている 「意識の低い人間」 だ、みたいに思ってたら大間違いだよ。世間のみなさんのほうが、あんたらなんかより、よっぽどちゃんとしてるよ。

 そんな世間様に向かって、「9.11はブッシュの陰謀だー  !」 なんて真顔で叫んでるのは、ようするに、「私はこんな荒唐無稽な話を信じている、ただのおばかさんなのでーす」 て言ってるのと同じなんだよ。

 結局、この人たちは、権力を握っている者らは、思いどおりになんでもできると思っているんだろう。

 でも、まさかいくらなんでも、ブッシュがいくら大統領だからといったって、軍だかCIAだかに、今からペンタゴンにトマホークを打ち込めとか、WTCビルに爆薬仕掛けてこいとか、公然と命令できるはずはないよね。

 じゃあ、いったいどうやって、ブッシュは 「陰謀」 を実行したの?

 「権力」ってのは、ぶっそうな爆弾とかミサイルみたいに、好き勝手に扱える 「もの」 じゃないんだよ。スイッチを押せばウィーンと自動的に動くような、ただの機械とは違うんだから。

 どんな 「権力者」 の命令だって、「はい、分かりました。仰せのとおりに致します」って人間がいなきゃ、意味ないんだよ。 

 それは法律どおりのちゃんとした活動だろうと、CIAとかがこそこそやってるような 「非合法活動」 だろうと同じことだよ。 

 それとも、なにかい。
ブッシュ政権の中に、なにか妙な 「秘密結社」 みたいなものがあるの? 

 だけど、ブッシュやチェイニーみたいなお偉いさんが、自分でビルに夜中にこっそり忍び込んでって、爆弾仕掛けたりはしないよね。 

 なら、実際に手を下した実行メンバーは、どこからどうやって選抜したの? 

 いくら大統領だって、そんな汚い仕事、誰にでも頼めることじゃないよね。

 これは、キューバだとかイランだとかに潜入して、爆弾を仕掛けてくることとは訳が違うよね。いくらなんでも、そんくらいのことは分かるよね。

 それから、まだ倒れていないビルを倒れてしまったって報道した例の女性レポーターとか、ビルの廃墟からひそかに 「爆破装置」 だかミサイルだかの残骸を回収した、土建屋のおじさんとかも、実はその 「秘密結社」 のメンバーだったってわけ?

 その連中は、麻原から 「地下鉄でサリンまいてこい」 って言われて、そのとおりにした林郁夫たちみたいに、みんなブッシュに洗脳でもされてたの? どう見ても、ブッシュってそんな 「カリスマ性」 のある人間には見えないけどね。

 そういう 「陰謀論」 ってさ、なにかといえば 「日本の少子化はフェミニストの陰謀だ!」 とか 「教育の荒廃は日教組の陰謀だ!」 とか言ってる一部右翼の皆さんと、どこが違うわけ?

 そりゃあ、確かに世の中にはいろんな陰謀があるよ。でも、だからって、どんな陰謀でもありってわけじゃないだろ。そこんとこの区別がつかなくて、どうすんのさ。あんたの頭はいったいなんのためにあるの? 

 ちょっとは自分の顔を鏡でよく見てごらんよ。あんたが批判してるつもりの相手と、そっくりの顔をしてるよ。世間は騙されてても、自分だけは騙されてない、本当のことを知ってるって、ふんぞり返った得意げな顔になってるのも一緒だよ。 

 そんな、すかすか頭で、よくもまあ 「政治評論」 なんて看板かかげて、「自民党を倒せ!」 とか 「新自由主義反対 !」 とか、ブログで言ってられるよね。恥ずかしくないのかね。 まあ、あんたらが、自分で自分の首を絞めるのは勝手だけどさ。

 というわけで、 なんとも胸糞の悪いいやな気分が続いているのであります。







Last updated  2007.12.20 20:55:37
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2007.12.17
カテゴリ:陰謀論批判

 そもそも、どうにでも解釈できる、あやふやな 「事実」から一足飛びに 「結論」 を導き出すという点では、このような 「陰謀論」 は、同じようにあやふやで雑多な 「事実」 をかき集めて「超古代文明」 とやらの存在を主張する、かのグラハム・ハンコックの 「トンデモ歴史学」 とよく似ている。

 あやふやな 「事実」をいくら集めたところで、そこから浮かび上がってくると主張される 「結論」 など、しょせん 「砂上の楼閣」にすぎない。あやふやな事実でも、大量に集めれば互いに補強しあうことで 「真実味」が増すかのように思わせるのは、本人たちも自覚していないのだろうが、ただの論理的詐術である。ハンコックの本などは、ただの面白いお話にすぎないから、別に害はないだろうが、「陰謀論」 はそうではない。

 さらに言うならば、このような論法は、物証も証言もなしに、あやふやな 「状況証拠」 とやらで 「犯人」 を名指しして、「冤罪」 を作り出す論理とも同じである。


本文より長い追記:

 どうやら、ツインタワーの近くに建っていたビルの崩壊を、レポーターが中継で実際より20分ほど早く伝えたということが、「陰謀」 の証拠なのらしい。なんで、そんなことがおきたのかというと、それは、そのレポーターは事前にそうなることを知っていたのか、事前にそう言うようにどこかから指示されていたからなのだそうだ。

 こんな馬鹿を言いふらしている人たちは、自分があの現場に居合わせたら、どんな気持ちになるかすら想像できないらしい。あのような前代未聞の大混乱の 「現場」 の中で、事前に手渡された 「でっち上げメモ」 だとかを伝えることができるような、なんの感情も持たない冷徹・非情な人間が、実際にこの世に存在するとでも思っているのだろうか。

 現場にいたレポーターが、興奮のあまり、ビルの名前を間違えたとか、言いまわしを間違えたなどと考えるのが、常識というものだろう。それとも、レポーターというものは、どんな場合にも、言い間違いなどせずに、冷静かつ客観的に 「事実」 を伝えうると信じているのだろうか。あほらしくて、つきあいきれない。

 こんな馬鹿話を簡単に信じ込むことができる人間は、結局は、どんな馬鹿げた話だって信じ込むようになる。「アポロ陰謀論」 だろうと 「9.11陰謀論」 だろうと、あるいは 「ユダヤ陰謀論」 だろうと 「バチカン陰謀論」 だろうと、そこに違いなどありはしない。ホロコーストに道を開いた 「ユダヤ陰謀論」 者らだって、自分たちは、世界を裏で支配している 「巨大な悪」 と戦っている 「正義の人」 のつもりでいたのだ。

 世の中の 「悪いこと」 は、すべて 「悪い人」 らのせいで起きているのだと信じていいのは、「ヒーロー物」 の主人公に憧れる小学生までである。いい年をして、そんなことを信じられるのは、よほどの世間知らずか、いつまでたっても大人になりきれないただの未熟者だ。

 「9.11陰謀論」 と 「ユダヤ陰謀論」 とは別の話だなどという言い訳は通用しない。根っことなる発想が同じなのであり、彼らだって、自分たちは確かな 「証拠」 を握っていると信じこんでいたのだから。現に、すでにあちこちで結びつき始めているではないか。

 「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」 という川柳もあるが、「陰謀論」 に取り付かれた人にとっては、そのような些細な 「言い間違い」 や、単なる偶然の一致なども、すべて 「陰謀」 の証拠になるのだろう。なにごとも、いったん迷路に入り込んだら、すべてがその結論にあうように、解釈されてしまうものである。

 こういう 「妄想」 の当否は、饅頭の味のように食べてみればすぐ分かる、というものではないだけに、まったく始末におえない。理屈などというものは、いくらでもつけられるものだ。なにしろ、人間の頭というのは、そういうふうにできているのだから。

 歴史を振り返れば、かのスターリン大元帥も、あちらこちらに 「陰謀」 の影を見つける大名人であった。その結果、多数の罪もないかつての同志や一般の市民が処刑され、あるいは、シベリアに送られることになった。ありもしない 「陰謀」 のにおいを、どこにでもかぎつける心性というのは、そういうものなのだ。 

 そういう心性の本質とくだらなさ、危険性は、いま現に 「権力」 を握っているのか、それとも 「権力」 や 「体制」 に対して、「批判的立場」 なるものをとっているつもりなのか、なんてことには、まったく関係ない。

 くだらぬ 「陰謀論」 などに、すぐにかぶれるような人間が、いったん権力を握ったらなにをやるか。それこそ、スターリンがいい手本である。 むろん、そんな心配は無用ではあろうが、まったくもって、歴史の教訓ぐらいは、ちゃんと学ぶべきだろう。

 ヒトラーが合法的に権力を握ることができたのも、荒唐無稽な 「ユダヤ陰謀論」 などにいかれた、多数の 「善良」 で 「素朴」 な、自分は正しいと信じこんでいた市民のおかげなのである。

 「地獄への道は善意で敷き詰められている」 という有名な言葉は、こういうときのためにある。マルクスが言ったように、「無知がものの役に立ったためしなどない!」 のだから。  


追記の追記:

「陰謀論」 の話はこれでおしまいにします。
まあ、言いたいことはほぼ全部言ってすっきりしたので。

それにしても 「無知の知」 という名言を残したソクラテスの時代から、
人間というものはちっとも変わっていないのだなと思う、今日この頃であります。
人間の本質なんていつの時代も一緒だよ、と言ってしまえば、それまでのことですが。







Last updated  2007.12.18 03:46:42
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2007.12.15
カテゴリ:陰謀論批判

 「9.11陰謀論」 の信奉者と、「アポロ謀略論」 の信奉者とは、かなりの部分で重なっているようだ。たしかに、どちらもアメリカ政府による 「謀略」 を主張するという点では、同じ構造をしている。

 だが、ほんらい、9.11のような航空機衝突によるビル崩壊という事象にしても、アポロの月への着陸と探査という活動にしても、その検証は、高度の専門的知識と能力、さらには加工された二次資料ではない、大量の一次資料の検討という、気の遠くなるような作業を必要とする (むろん、私はそんな面倒なことはごめんです。それに、そんな能力もありません)。

 ところが、このような 「陰謀論」 の信奉者たちは、簡単に手に入る二次資料についての単純素朴な印象と、中途半端な知識に基づいて、「月着陸は捏造だ!」 とか、「9.11はアメリカの自作自演だ!」 などと主張しているように見える。

 そこにあるのは、「相対性理論は間違っている」 といった類の、様々な 「疑似科学」 と同様の、生半可な科学知識に基づいた 「専門家」 への不信と批判であり、その底には、5年間の 「小泉政治」 を支えた 「ポピュリズム」 とも共通する心性が見え隠れしている。

 そもそも、「専門性」 の否定とは、かつて毛沢東によって主導された 「大躍進」 政策や 「文化大革命」、さらにはカンボジアのクメールルージュ (ポルポト政権) によって進められた 「知識人」 敵視政策の根拠となっていた論理である。

 たとえば、50年代の中国の 「大躍進」 では、近代的な製鉄法が否定され、原始的な溶鉱炉 (土法炉) による製鉄が全国民に強要された結果、大量の貴重な鉄製品が溶かされて、なんの役にも立たないただのおしゃかばかりが、山のように生れることになってしまった。

 60年代末の 「文化大革命」 を収拾するために取られた 「下放政策」 が、 当時の学生の教育水準を大きく低下させ、社会が必要とする専門家の不足を招いたこと、また70年代のポルポトによる 「知識人」 敵視が、大量虐殺と国民の困窮、さらには長期の内戦という悲劇的な結果を招いたことは、いまさら指摘するまでもないだろう。

 世の中には、「専門バカ」 という言葉もあり、たしかにそれに値するような 「学者」 とかもいるかもしれない。しかし、この言葉は、ほんらい自己の狭い 「専門性」 にのみ閉じこもっていて、社会的な常識や責任感が欠如しているような 「専門家」 を揶揄する言葉である。したがって、その 「専門性」 や 「専門的能力」 自体は、否定されるべきではない。

 また、たしかに世間には、自己の 「専門性」 をひけらかして素人を小馬鹿にしたり、わざと難解な言葉遣いで、煙にまいて喜んでいるような、品性下劣な 「専門家」 もいるかもしれない。さらに、ときの権力者だとかにすりよっては、彼らに都合のいいことばかりを言っている、「御用学者」 といった者もいるかもしれない。

 しかし、いうまでもないことだが、そのようなことは 「専門的問題」 の 「専門性」 そのものを否定する根拠にはならない。それとこれとは、別の話である。 「専門家」 や 「知識人」 を、さしたる根拠もなしに疑ったり、ただこきおろすことで溜飲を下げるのは、ニーチェの言葉を借りるならば、疎外された心情としてのただの 「ルサンチマン」 であり、大西巨人ふうに言えば、たんなる 「俗情」 にすぎない。

 ようするに、高度に 「専門的」 な問題に口出しする者には、当然のことながら、それ相応の能力と努力、そして覚悟が要求されるものである。むろん、その程度のことは、自分自身の問題として、「薬害」 や 「食品公害」 といった問題に、真面目に取り組んでいる人々や、そういった経験が少しでもある人たちにとっては、いまさら言う必要もないことだろう。

 しかし、昨今の 「謀略論・陰謀論」 の流行を見ていると、どうもそのような 「誠実さ」 が感じられない。むろん、そのような 「陰謀論」 を信じている人の大半は 「善意」 なのかもしれない。しかし、世の中、なにごとも善意だけではかたづかないものである。

 ぶっちゃけて言えば、「親ブッシュ・親小泉」 か 「反ブッシュ・反小泉」 かというような、表面的な違いはあっても、非合理的で情緒的、しかも安直だという点では、このような 「陰謀論」 の流行も、「小泉政治」 を支えたのと同じ 「ポピュリズム」 現象にすぎないように見える。

 つまるところ、その根底に流れている心性も、多少の差はあっても、同じものにすぎないように思える。「批判」 とは、なによりもまず、自らが持つ偏見や思い込み、独断に対して向けられるべきものである。おのれ自身を疑うことなしに、ただ他人に対してのみ向けられる安直な 「疑い」 の視線など、本来の批判精神や懐疑といったこととはなんの関係もないものだ。

 昨今、はやりの 「メディア・リテラシー」 なるものも、まず必要なことは、おのれ自身の知性を磨くことのはずだ。自分を磨くことなしに、多種多様で、しばしば相反するような情報の中から 「真実」 を見抜くことなどできるはずあるまい。自分の趣味や偏見だけで、情報の正邪を見分けることができるならば、誰も苦労しないのだ。

 愚にもつかぬ 「猜疑心」 ばかりやたらと発達させて、ただただ、「おれは絶対に騙されないぞー」 とか 「みんな騙されるなよー」 などと、力みかえっていてもしょうがあるまい。「落とし穴」 は、自分の前のほうや自分の外にばかりあるとは限らないのだ。







Last updated  2007.12.18 01:14:05
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