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ネット論

2009.11.16
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カテゴリ:ネット論

 最近は不景気のせいか、めっきり仕事の量も減っている。とりわけ、夏以降は極端な低空飛行が続いており、このままでは墜落しかねない。昨年9月にアメリカで起きたリーマンショックに始まる世界的な不況は、まず輸出を主とする製造業を直撃したが、その後も立ち直る気配はなく、じわじわと社会や産業の末端のほうへと浸透しているのかもしれない(経済については疎いので断言はしない。あくまでもただの印象)。

 同業者らの話を聞くと、どうやら業界全体が不景気であり、仕事の絶対量そのものが減ってきているようだ。ということは、夏をすぎて仕事が減ってきたのは、とりあえずミスや不手際といった自己の責任によるものではないということになる。とはいえ、それは言い換えると、自分の力だけではどうにもならぬということだから、これはいったい喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。

 先日、ニャーニャー弁でおなじみの 地下に眠るM さんから、ユング心理学の入門書として、河合隼雄の 『影の現象学』 を薦められた。そのときは書名しか知らないと答えたのだが、二三日前に、なにげなく書棚を見たらちゃんと飾ってあった。おやおや、いったいいつの間に、これこそユングの言うシンクロニシティかな、などと思ったが、なんのことはない、自分で買っていたことを忘れていただけ。もはや自分の書棚になにがあり、なにがないのかも分からない状態なのだ。

 ぺらぺらっとめくってみると、たしかに 「ドッペルゲンガー」 についても、いろいろと触れられている。事前にこの本を読んでおけば、もうちょっとましなことが書けたかもしれない。ユングと、そして河合自身も言うように、たしかに影とは誰もが持っている自分の半身であり、また分身である。それは世界各地の多くの神話や伝承、民話や習俗、さらには子供の遊びなどからさえ確認できる。

 しかし、ユングの言う影とは、それだけに留まらない。同書から彼の言葉を孫引きすると、「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでもつねに、直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと ―― たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向 ―― を人格化したもの」 であり、河合の言葉によれば、「その人によって生きられることなく無意識界に存在している」「その人によって生きられなかった半面」 というのが、その人の影ということになる。

 同書では、シャミッソーの 『影をなくした男』 がとりあげられているが、この短編では、金に困っていた主人公のペーター・シュレミールが、ある金持ちの園遊会で見かけた、ドラえもんのように服のポケットから次々と物を出す不思議な 「灰色の服の男」 から、影と引き換えに、次から次にいくらでも金貨が出てくる 「幸運の金袋」 を授かる。

 しかし、影をなくした男は、たちまち世間による迫害の嵐にあう。しつけのなってない悪がきどもからはからかわれたり、馬糞を投げつけられたりと、行く先々で散々な目にあうことになる。それはそうだろう、影がないとは実体がないということであり、ようするにこの世の存在ではないということだから。

 結局、最初の約束どおり、一年後に再会した 「灰色の服の男」 に、シュレミールはもらった金袋と交換に自分の影を返してほしいと頼むのだが、かわりに 「灰色の服の男」 からは、影を返してほしけりゃこれにサインしろと、一枚の紙を突きつけられる。それにはこう書いてある。

ワガ魂ガ肉体ヨリ自然離脱セシ後ハ、本状所有者ニ遺贈ツカマツルコト、異議ナキモノナリ。

 つまり、この 「灰色の服の男」 とは、あの 『ファウスト』 にも出てくるメフィストフェレスと同じ悪魔だったのだ。あな、おそろしや。

 なんか、話がそれた。ユングの言う 「影」 とは、自己の気づかぬ半身のことであり、多くの場合、それは意識的な自己とは正反対のものである。ちょうど、鏡に映った姿が左右反対であるように。

 なので、厳格な禁欲的道徳を内面化した人は、それと正反対の放恣な性格を影として持っていることになるし、聖人君子のような利他愛を説く人は、その反対である利己性を影としていることになる。サドとマゾ、権威主義と反権威主義が相補的であることはフロムも指摘しているが、同性愛者をもっとも嫌悪し憎むものが、自身そのような傾向をかくしもっている者らであるということもよく言われる。

 つまり、ユングによれば、人は多かれ少なかれ、二重人格者だということになる。それはたぶんそうなのだろう。「人格」 というものは、みなけっして一枚岩ではないし、人間は実際そう単純ではない。もし、本当にそんな人がいるとしたら、それは平板で深みにかけた鋳型のごとき人間であるにすぎない。ちなみに、「きれいはきたない、きたないはきれい」 とは、かの 『マクベス』 の冒頭に出てくる魔女の台詞である。

 実際、明治の時代に内面的な道徳を説くキリスト教にもっとも惹かれたのは、おのれの欲望の強さに悩み苦しんだ青年らであった。それは実の姪に子を生ませた藤村の場合でも、他人の妻との 「不倫」 のすえに情死した有島武郎の場合でもそうである。もっとも、彼らのような悩みすら自覚せぬまま、たとえば聖人君子ぜんとした言動の下から、独善的な利己主義がすけて見えているような人がいれば、たしかに最悪だが。

 ネット上でよく見かける、「お前が言うなー」 とか 「それはあんただろ」 などと思わず突っ込みたくなるような非難を他人にぶつけている人は、自分の影を相手に投影して、その影に向かって非難を浴びせているにすぎない。だから、その非難が他人から見れば、その人自身にもっとも合致した言葉として、そのまま本人に跳ね返っているのにまったく気づいていない。

 おそらく、そのような人たちは、「自分はこうありたい」 とか 「あの人のようになりたい」 といったおのれの願望や理想を、そのまま自己の現実と取り違え、その結果、客観的な自己を見失い、無意識のうちに肥大したおのれの影を誰彼となく他人に投影して、人を非難しているのだろう。

 カントは、人間の経験的認識は先験的概念である 「純粋悟性概念」 とやらに基づくと主張したが、いずれにしろ、人はみな、多かれ少なかれ自己に固有の認識の枠組みというものを無意識のうちに持っている。ありもしないところにまで 「陰謀」 の影を見る人は、その人自身がそのような枠組みで世の中を見ているからにすぎないし、他人の言葉にやたらと 「悪意」 や 「嘲笑」 を嗅ぎ取る人は、たいていの場合、おのれがそのような観念にとりつかれているからにすぎない。

 なお、余談であるが、自意識過剰な 「独りよがり」 人間や、一知半解なことを知ったかした賢しら顔で言う人、あるいははったりや虚勢だけで中身のない者、物事を党派的にしか見れない者が、大きな顔で他人に大口叩いているのを見たりすると、正直言ってひじょうに 「むかつく」。その人がそういう特徴をいくつも備えていたりすると、最悪のうえに最悪である。

 ネット上の論争などで、よせばいいのに余計なことに首を突っ込むのは、だいたいにおいてそういう場合である。意見や判断、解釈などについてならば、それぞれに違いがあるのは当たり前のこと。だから、あまりのトンデモぶりとかにあきれることはあっても、それほど 「むかつき」 はしない。人間、愚かなのはそもそもの仕様なのだから。

 なので、それはなにも、敵だ、味方だ、というような話なのではない。ただ単純に、そういう勘違いをしている者とかを見ると、はなはだ 「むかつく」 ということなのであって、あくまで個人の好みと趣味の問題であるにすぎない。よけいな勘繰りなどはしないように。

 うーん、なんだか今日もえらそう。
 ひょっとすると、これは盛大なブーメランなのかもしれない(笑)


関連記事: 物言えば 唇寒し 秋の空







Last updated  2009.11.16 18:17:48
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2009.10.25
カテゴリ:ネット論

  以前、サルトルの 『嘔吐』 に出てくる 「独学者」 なる人物にふれて、「サルトルの 『嘔吐』 をちらちらと読み返してみた」 なる雑文を書いたことがある。そこで引用した 『嘔吐』 の箇所をもう一度ひいてみる。なお、引用文中の 「彼」 とは、この 「独学者」 を指している。

彼は目で私に問いかける。私はうなづいて賛意を評するのだが、彼がいくらか失望したということ、彼が欲したのは、もっと熱狂的な賛同だったということを感じる。私に何ができようか。彼が私に言ったことのすべての中に、人からの借り物や引用をふと認めたとしても、それは私が悪いのだろうか。

言葉を質問形にするのは癖なのである。じっさいには断定を下しているのだ。優しさと臆病の漆は剥げ落ちた。彼がいつもの独学者であるとは思われない。彼の顔つきは、鈍重な執拗性をあらわしている。それは自惚れの壁である。

 ウェブにはこの種の人は珍しくない。なにしろ、ちょっとした手間と暇さえかければ、誰でも簡単にネット上にホームページやブログを作成して、そこになにやら 「独創的」 な研究成果を発表するぐらいのことはできるからだ。正直に言うと、昔、傾倒していた人を扱ったこの手の 「論文」 を見かけ、いささか感じたことがあったため、しばらくメールでやりとりしたこともある。

 最初から、表面上はていねいな言葉の中に、なにか傲慢さを感じさせる 「慇懃無礼」 な雰囲気があって、???という気もした。なので、そこでやめとけばよかったのだが、ついつい疑問点をいくつか並べて書き送ったところ、いきなり 「あなたはまだまだ勉強が足りないようですね」 といった類の傲岸不遜な返事が返ってきた。どうやら、その人の自尊心をいたく傷つけてしまったようであった。

 別に、「独学者」 一般を誹謗するつもりはないし、勉学や研究の環境が整わない中で 「独学」 を続けるということは、むろん賞賛さるべきことではある。しかし、サルトルも指摘しているように、「独学者」 にはしばしば 「夜郎自大」 という痼疾がついてまわる。いったい、それはなぜなのか。

 以前の記事では、「それは 「独学」 という行為が必然的に孤独な作業であることから来るものだろう」 と書いたが、どうもそれだけではなさそうだ。じっさい、すべての 「独学者」 がそのように夜郎自大というわけではない。むしろ、それは個々の 「独学者」 が 「独学」 を続けているモチーフ、それもおそらくはその人自身も気づいていない、もっと奥の秘められたところ、一言でいえば 「自尊心」 の満足ということにあるような気がする。

 「自尊心」 というものは、たしかにだれもが有するものであり、その満足は人間の本源的な欲求のひとつでもある。そして、「独学者」 にとって、もっともその 「自尊心」 を満足させることはなにかといえば、おそらく 「独創的」 であることだろう。たしかに、「独創的」 であることは 「独創的」 でないことよりも評価される。だが、いうまでもなく、「独創的」 な研究などというものは、そう簡単に生まれるものではない。

 極端な例を出せば、1+1の答は誰が計算しても2である(2進法の場合は除く)。少々難しい方程式だって、それを理解できる人が正しい解法を用いて、間違いを犯さずに計算すればみな答は同じになる。たしかに、ややこしい問題とかであれば、その過程で多少の独創性が発揮される場面もないわけではあるまいが、答は一緒なのだから、その意味では「独創性」 が発揮される場面などはない。

 だから、一般的に言うなら、「独創性」 が必要とされ、また 「独創性」 が発揮されるのは、「未知の領域」 ということになる。だが、「未知の領域」、すなわちいまだ解決されざる問題を見つけるには、その分野において、現時点でどこまでが既知であり、問題がどこまで解決されているかをまず知らなければならない。

 「独創性」 を発揮すべき 「未知の領域」 とは、いわば雲の上に突き出ている富士山の頂上のようなものだ。だが、そこまでたどりつくには、えっちらおっちらと麓から自分の足で登っていかなければならない。ヘリコプターでいきなり頂上に降り立ったところで、それは富士を征服したことにはならない。だから、それはそう簡単なことではない。

 「独学者」 の多くが、ときにはトンデモ学説ですらあるような、世間の 「常識」 から離れた説に引き付けられがちなのは、おそらくそのためだろう。それは、本当の 「独創性」 を発揮するための前提として必要な、自分が 「知らない」 ということを知るための努力を不要にしてくれるだけでなく、自分が世間の常識を超越しており、したがって世間の人々より上にいるかのごとき勘違いによって、自尊心の満足にも役立つという非常に便利なツールでもある。

 たとえば、「常識を疑え」 という人たちは、コペルニクスはプトレマイオスの天動説を疑った、ガリレオはアリストテレスの運動論を疑った、ラボアジェはフロジストン説をひっくり返した、ウェゲナーは大地は動かないという常識に挑戦した、などという例を持ち出す。たしかに、それまでの常識をひっくり返したこの種の 「大発見」 は、科学の歴史にはことかかない。科学の進歩とはそういうことだ。

 しかし、彼らにそれが可能だったのは、それまでの 「常識」 では説明できぬ未知の問題にぶつかったからであり、あるいは 「常識」 であり、解決済みであるとされていたことに、じつは未解決の問題が潜んでいるのに気づいたからだろう。どちらにしても、それにはそれまでの 「常識」 について、ふかく理解することがまずは前提になる。そこで必要なのは、「常識」 なるものを無批判に受け入れることでもなければ、頭ごなしに否認し、ただ投げ捨てることでもない。

 さて、興味深いのは、このように 「世の常識」 や 「学界の常識」 とかに挑戦している人らの多くが、じつは彼らなりの固有の 「神」 を持っているという事実である。それはたとえば、政治・社会関係であれば副島隆彦や宮台真司であったりするのだが、同じような 「神」 は、医療や看護関係にも、物理学や宇宙論といった分野にも、また史学や思想・哲学といった分野にもいるだろう。最近では、こういった神様もじつに多様である。

 むろん、それらはピンからキリまであり、十把一絡げに扱うわけにはいかない。「神様」 扱いされてるからには、それなりの力量や資格、実績を備えている人もむろんいるだろうし、馬鹿な弟子がいるからといって、それがすべて師匠の責任というわけでもない。どんなに偉いお師匠さんにも、師の教えを理解できずに誤解したり、ただの無意味な呪文にしてしまったりする不肖の弟子というのはいるものだ。それは、かの親鸞さんについてすら言える。

 ただ、このことからは、そのような人の多くが、じつはフロムの言う 「権威主義的性格」 を備えているのではという印象を強く受ける。一般に 「権威主義的性格」 は、権威への服従を好むマゾヒスティックな性格と、権威を振りかざすことを好むサディスティックな性格の統合というように理解されている。これがただの小物であれば、自己の服属する権威のもとで、その権威を振りかざしたがる、いわゆる 「虎の威を借るキツネ」 ということになる。しかし、その一方で、フロムは次のようなことも指摘している。


 権威主義的性格には、多くの観察者を誤らせるようなもう一つの特徴がある。権威に挑戦し、「上から」 のどのような権威にも反感をもつ傾向である。時にはこの挑戦がすみずみまでいきわたり、服従的傾向は背景に退くこともある。このタイプの人間はつねにどのような権威にも ―― じっさいにはかれの利益を助長し、抑圧の要素をもたない権威にも反逆する。ときには権威に対する態度が分裂する。すなわちある権威に ―― とくにその無力に失望した権威には抵抗するが、やがてより大きな力と約束によって、マゾヒズム的な憧憬をみたしてくれるように思われる、他の権威には服従する。......

 かれらは内的な強さと統一性によって、自由と独立を妨げる力と戦う人間であるかのように見える。しかし権威主義的性格の権威に対する戦いは、本質的に一種のいどみに過ぎない。それは権威と戦うことによって、かれ自身を肯定し、かれ自身の無力感を克服しようとしている。そして他面では意識的であれ、無意識的であれ、服従へのあこがれが残っているのである。権威主義的性格は 「革命的」 ではない。私は彼を 「反逆者」 とよびたい。

『自由からの逃走』  


 このフロムの著書はナチズムの分析を主題にしたものだが、この指摘は、たとえば反権力や反権威、超俗性などをかかげた組織や集団の中に、しばしば、彼らが挑戦しているはずの権威とそっくりの 「対抗的権威」 が形成されるのはなぜかも説明してくれる。







Last updated  2009.10.26 12:53:04
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2009.10.16
カテゴリ:ネット論

  鳩山内閣が誕生してはや一ヶ月である。長かった自公政権の後始末がたいへん、というのは分かるのだが、予算やら事業の見直しやらと、まだまだ前途は多難のようだ。鳩山由紀夫という人については、いまひとつよく分からないのだが、なんとなくやはり昔の細川護煕氏と同じ、育ちのよさからくる軽さが感じられる。いや、人の良さからくる能天気さのほうは、むしろ細川氏以上なのかもしれない。

 たしかに、内閣のメンバーを見れば、前の内閣などにくらべて、なかなかの論客と実力者ぞろいのようだ。だが、そのことがかえって内閣のアキレス腱になるおそれというのもなくはない。つまり、はたして今の鳩山氏に、論客であり野心もあるであろう人がおおぜいそろっている内閣をまとめるだけの力があるのだろうかという疑問だ。国民新党の静香ちゃんなどは、どう見ても首相より大きな顔をしている(物理的な意味だけじゃなく)。

 どこに書いてあったかは忘れたが、かつてE.H.カーは、レーニン率いるボルシェビキ政権について、「ヨーロッパで最も知的水準が高い政府」 と評したことがある。当時のボリシェビキ政府には、レーニンとトロツキーをはじめとして、多士済々の人材がそろっていた。その多くが長い外国生活の経験があり(むろん、昨今のようなのんきな留学などではなく亡命を強いられたことによる)、何ヶ国語も自由にあやつることができる国際人であり、また科学から文学や歴史まで高い教養も有していた。

 そういう一言居士のようなうるさ型の船頭ばかりの政権が一つにまとめられたのは、内外からの脅威は別にすれば、むろん卓越した指導者としてのレーニンの権威によるものだが、そのレーニンですら、ドイツとの屈辱的な講和をめぐっては反対派の執拗な抵抗に悩まされ、「そんなこと言うなら、おれは辞めるぞー」 といって、党を脅さなければならないことがあったくらいだ(なんだか、小沢さんみたい)。

 それは維新直後の明治政府でも同じで、薩長のほかに土佐・肥前、旧公卿などからなる政府が、かつての主君であった島津久光のような頭の固いお殿様や、随所に残る頑迷な攘夷派などの抵抗を押し切って、その後の発展の基礎をすえた改革を進められたのには、なんといっても、維新後いったん帰郷しながらも、大久保らの説得を受けて政府に戻った西郷の存在が大きいだろう。

 さて、「男だったら流れ弾のひとつやふたつ 胸にいつでもささってる」 というのは、31歳で自殺した沖雅也が主演していたTVドラマの主題歌、「男たちのメロディ」 の一節であり、「男は誰もみな 無口な兵士」 とは、オーディションで合格したばかりの薬師丸ひろ子が14歳でデビューした映画、「野性の証明」 の主題歌 「戦士の休息」 の台詞である。また、沢田研二はヒット曲 「サムライ」 の中で、「男は誰でも不幸なサムライ」 と歌っている。

 とはいえ、それは別に男だけにいえる話ではない。なので、そこで 「男は~」、「男は~」と連呼されると、いささか鼻白むむきもいるかもしれない。たしかに 「男のロマン」 がどうしたとか、「どうせ女には~」 などとやたらと言いたがる人というのは、たいていはただの 「自己陶酔」 型の人間か、「自己慰謝」 の好きな甘ったれた人間である。それに、そもそもそういうことは、上の歌にもあるとおり、それまでよほど運が良く、また恵まれていた人でない限り、誰にでもあてはまることである。

 つまるところ、あえて口に出そうが出すまいが、何十年も生きていれば、たいていの人は脛とか背中とかに、触れるとまだ痛むような 「傷」 のひとつやふたつは負っているということだ。そして、そういう 「傷」 は良い悪いに関係なく、重ければ重いほど、その人にとっての不可欠な一部となる。それは、その人にとって肉体の一部であり、積み重ねられてきた経験の一部であり、長い間に堆積された時間の証でもある。

 ただし、えてしてそういう 「傷」 は、気づかないうちに社会や他者に対する認識、そしてむろん自己についての認識にも、なんらかの 「偏向」 をもたらすことが多い。それは普段はそれほどでなくとも、そのような 「傷」 にどこかで触れるような問題にぶつかった場合に、突如として発動されたりもする。

 たしかに、人間の認識に必要な意識とは、それ自体主観的な作用であり、ただの鏡やカメラの中のフィルム(古い!)ではないのだから、それもある程度はしかたない。だが、ただの借り物の言葉を振り回すような人はともかく、たとえばけっして愚かとは思えないような人とかが、自分の言葉がブーメランとなって、そのまま話者自身にはねかえっているのに気づかないのには、たぶんそういう理由があるからなのだろう。

 しかし、誰を相手にしているのか知らないが、「あなたたちとは違うんです!」 みたいな 「優越感」 ゲームをネット上でやっている人とかを見ると、「おいおい」 などと思ってしまう。どんな分野であれ、専門的な知識や経験とかは 「素人」 の皆さんに分け与えるものであって(むろん、すべて無償でとまでは言わないが)、「素人」 に対してふんぞり返る 「自己正当化」 のために持ち出すものではない。

 で、そういう「対立」 みたいなものをさらにややこしくしているのが、「敵の敵は味方だ!」 とか 「敵の味方は敵だ!」 というような単純かつ粗雑な論理で、勝手に 「敵」 認定や 「味方」 認定をしている人。

 勝手な 「敵」 認定が迷惑なのはもちろんだが、勘違いした勝手な 「味方」 認定というのも、たぶんそれにおとらず迷惑なものである。どこをどう読んだら、その人が自分の 「味方」 だと認定できるのか、はたで見ているとさっぱり分からない場合もあるのだが、そういう人は、そもそも根本的に理解力や読解力に難があるのだろう。

 なにを勘違いしたのか、自分が 「敵」 認定している人とほとんどかわらぬことを、ただし反対側からとか、ちょっとばかし異なる発想やレトリックを使って言っているにすぎないような人を、勝手に 「味方」 認定している人もいれば、どう考えても、あなたが考えているほど単純な人ではないよという人を、自分の 「味方」 だと思っているような人もいる。

 たぶん、そういう人は、勝手に 「味方」 認定して、すりすりと擦り寄った相手が、実は画面の向こうでしんそこ困った顔やうんざりした顔をしていたり、ときには腹の中で 「お前が言うなー」 とか 「それはお前のことだよ」 などと思っているかもしれないなんてことは考えもしないのだろう。もっとも、「敵の敵は味方だ!」 なんて粗雑な発想をする人は、そもそも頭の中が最初から粗雑なのだろうからこれまたしかたあるまいが。

 最後はまったくの余談だが、安保だの沖縄だのといった問題を全面展開したあげく、「君はどうするんだ? 許すのか、許さないのか」 みたいな論法でせまるのは、たしかに昔からよくあったオルグ作法のひとつである。このような論法が、ときとして 「詐術」 めいて聞こえるのは、たぶんある特定の問題へのコミット、つまり、そのような問題に対する責任の引き受けということが、いつの間にか○○同盟だの○○派だのといった、特定の政治的立場へのコミットということにすり替えられているからだろう。

 そういうすり替えというのも、多くの場合、オルグしている本人自身が気づいていない。つまり、そういう論法を使う人自身が、頭の中で上にあげた二つの問題の違いに気づかず、無意識に等置しているということだ。しかし、この二つを等置し混同することは、その意図がどうであれ、結局は自派の勢力拡大のために個別の問題を利用するという 「政治的利用主義」 の現れにすぎない。

 かりに、ある人がそのような責任を認めたとしても、それをどのような形で引き受けるかは、それぞれが自己の責任で判断すべきことである。ある問題について、自己の責任の存在を認めるか否かということと、その責任を個人がどのような形で引き受けるか、ということとはいちおう別の問題なのである。

私はだれか? めずらしく諺にたよるとしたら、これは結局、私がだれと 「つきあっているか」 を知りさえすればいいということになるはずではないか?

アンドレ・ブルトン 『ナジャ』 の冒頭より    







Last updated  2009.10.17 02:18:24
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2009.10.08
カテゴリ:ネット論

  台風18号は、古来の南海道の鼻先をかすめて愛知県南部に上陸した。その後、本州を縦断して、東北から太平洋に抜けたとのことだ。同じようなコースをたどり、大きな被害をもたらした台風といえば、誰もが伊勢湾台風を思い起こすだろう。報道でも、伊勢湾台風との比較がさかんに行われている。

 伊勢湾台風が襲来したのは1959年9月26日ということだから、その記憶はまったくない。なにしろまだ三歳にも満たぬころだから。ただ、伊勢湾台風は阪神大震災が起こるまでは、戦後最大の被害をもたらした自然災害だった。阪神大震災の死者は6,434人、行方不明者3人、負傷者43,792人ということだが、伊勢湾台風による死者は4,697人、行方不明者401人、負傷者38,921人にのぼっている。

 むろん、現代では、当時にくらべ河川の改修や河口付近の防潮堤の整備、それになによりも上陸のはるか前からの正確な進路予報のおかげで、台風のためにそのような甚大な被害が出ることはないだろう。とはいえ、すでに2名の死者と59名の負傷者が出たということだ。もちろん近親に死者を出した人にとっては、その数の大小など関係のない話ではある。

 ところで、洪水神話といえば当然 『創世記』 にある 「ノアの箱舟」 の話が連想される。ノアの箱舟は、トルコと旧ソ連との国境に近いカフカス山中の山、アララト山に漂着したとされているが、あんな巨大な箱舟が実際に作られたとはとうてい思えないので、これは眉唾な話だろう。おそらくは、「伝説」 を作った人々にとって、アララト山が彼らの知る最も高い山だったということにすぎまい。

 この洪水説話そのものは、それよりはるかに古いメソポタミアの神話が原型だそうだが、そのひとつ、最古の文明であるシュメールの伝説的な王にして英雄ギルガメシュを歌った 「ギルガメシュ叙事詩」 では、洪水の場面がこんなふうに描かれている。

六日七夜、風と洪水が大地を襲った。嵐は大地を平らにした。
七日目になると、嵐は去り、
洪水は苦悶する女のように自らと格闘した。
大洋は静まり、悪風は治まり、洪水は退いた。
私は一日中あたりを見回した。沈黙があたりを支配していた。
すべての人間が粘土に戻っていた。
大地は屋根のように平らだった。(中略)

七日目になって、私はハトを放した。
ハトは飛んでいったが、戻ってきた。
休み場所が見つからなかったので、戻ってきたのだ。
私はツバメを放した。ツバメは飛んでいったが、戻ってきた。
休み場所が見つからなかったので、戻ってきたのだ。
私はカラスを放した。カラスは飛んでゆき、水が退いたのを見た。
カラスはついばみ、身繕いし、頭を動かしたが、戻ってこなかった。
そこですべての鳥を四方に放ち、犠牲をささげた。
「11枚目の粘土板」 より     


 これを読むと、アメリカに多いらしいID(インテリジェント・デザイン)論者のような 「聖書」 原理主義者には悪いが、たしかに 『旧約聖書』 の物語のほうはただのパクリだとしか思えなくなってくる。

 さて話は全然かわるが、ネットなどの公共の場での議論では、しばしば 「中学生にも分かる話」 「中学生には分からない話」 が対立することがある。言い換えると、これは基本だけを教える 「初級編」 と、それを前提にし、さらにその上のことを学ぶ「上級編」の対立ということだ。

 「上級編」 では、「初級編」 で一般的に教えられたにすぎない原則がより厳密に定義されたり、原則を制限する条件や状況について教えられたりする。その結果、それまでの原則に反するかのごとき 「例外」 が教えられることもある。初級者にとって 「原則」 は唯一にして絶対だが、上級者にとっては必ずしもそうではない。

 また、たいていの分野では原則はひとつではなく、互いに対立することもある。その結果、「初級編」 での教えと 「上級編」 の教えとは、しばしば対立し相反するかのように見えることになる(ただし、カルト教団などでしばしば見られる、教祖に絶対忠誠を誓った特定の信徒のみに内密で伝授される 「高度の教え」 なるものは、これとは別の話である)。

 たとえば、小学生の算数では 「引く数」 は 「引かれる数」 より小さくなければならない。そうでなければ、引き算そのものが成立しない。しかし、中学生になると、この原則が簡単にひっくり返される。それは、言うまでもなく、負の数が導入されるからだが、ここで 「なんでやー」 と躓くと、その先には進めないことになる。

 当然のことだが、「中学生には分からない話」 を理解できる人の数は、「中学生にも分かる話」 を理解できる人よりも少ない。ただし、そこの段差がさほど大きくなければ、「中学生には分からない話」 を理解できる人もそれなりにおり、「中学生にも分かる話」 しか理解できないという人はそれほど多くはないだろうから、さして問題とはならないだろう。

 困るのは、この差がいささか大きく、そのため、「中学生には分からない話」 も理解できるという人の数があまり多くなく、結果的に 「中学生にも分かる話」 しか理解できない人のほうが多数を占めるといった場合である。

 実際の中学生ならば、「自分はまだ中学生だから、これはまだ理解できないんだ。もっと勉強して理解できるようになろう!」 ですむのだが、あいにくと 「公共」 の議論に参加する人たちは、みな自分は立派な大人だと思っていて、本当はまだ中学生にすぎないということを自覚していなかったりする。

 なので、そのような場では、しばしばただの 「基本編」 にすぎない 「中学生にも分かる話」 のほうが正しく、「中学生には分からない話」 は間違っているかのように見え、結果として多数を制してしまうという、へんてこりんなことが起きてしまう。

 「科学」 や 「学問」 のように、それなりの知識を必要とし、参加資格が実質的に制限されていたり、暗黙のうちに序列化(それがつねに適切だとは限らないが)されているような場なら、そういうことはあまり起きない。しかし、建前上、すべての人に開かれている 「公共」 の議論では、こういうことがあちこちでけっこう起きる。

 「公共」 の議論に参加する者の資格を制限するわけにはいかないので、これはしょうがないのだが、そういうところを実際に目にしたりすると、いささか脱力してしまう。勝ち誇ったような身振りで、「原則論」 をとうとうとのたまう人がいたりすると、「そんなことは分かってるよ」 とか、「いや、そういうことを最初から言ってるのだけど」 などと言いたくもなるという話である。

 ところで、今日は10月8日、つまり、今から42年前に、戦争下にあった南ベトナムの首都サイゴンを訪れようとした当時の佐藤栄作首相に対し、「三派全学連」 と呼ばれたグループの学生らが空港近くでデモを行い、機動隊と衝突した結果、山崎博昭という京大の学生が死亡した日である。

 彼は1948年生まれだったそうだから、生きていれば来月で61歳ということになる。評論家の橋本治や糸井重里、作家の立松和平らと同じ世代。とくに糸井とは、誕生日がわずか2日しか違わないらしい。


注: 念のために、付け加えておきますが、文中で 「中学生」 という言葉を使ったのはあくまで比喩なので、もしそれが不愉快だという方がいれば、適当に 「高校生」 とか 「大学生」 などの言葉に置きかえてください。

 また、だから 「公共」 の場の議論への参加には、資格制限をつけるべきだなどということを言っているわけでもありません。







Last updated  2009.10.09 02:38:05
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2009.06.15
カテゴリ:ネット論

 世の中には、自分にとって 「分かる議論」 をする人と、「分からない議論」 をする人がいる。「分かる議論」 とは、ようするにその人がなにを言っているかが分かるということである。厳密に言うと、それは正しいということが 「分かる議論」 と、間違っているということが 「分かる議論」 の二つに分かれるが、ここではとりあえず、その 「正しさ」 が分かる議論のほうを主に指すとする。

 いっぽう、「分からない議論」 とは、そもそもその人がなにを言っているのかも、なにを言いたいのかも分からない議論のことである。であるから、この場合、それが正しいのか間違っているのかも、分からないということになる。

 ネット上の論争とかを見ていると、いっぽうの人の言うことはよく分かり、もういっぽうの人の言うことは全然分からないということがよくある。そういう場合、人はだいたいにおいて、自分が理解できる人のほうを支持しがちである。なにしろ、いっぽうはいちおうなにを言っているか理解できるのだが、相手の方はなにを言っているのかが全然分からないというのだから、これはまあ無理からぬことである。

 しかし、よく考えると、これにはおかしなところがある。なぜなら、事実についてであれ、観念についてであれ、「論争」 とはある主題をめぐって行われるものであり、自分にとって理解できるいっぽうの議論は、それ自体としては正しいとしても、その 「正しさ」 というのが、じつは論争の主題や相手の主張とは全然関係のない、たんなる一般的な 「正しさ」 であったり、まったく頓珍漢な明後日のほうを向いた 「正しさ」 にすぎないという可能性もあるからだ。

 当たり前のことだが、一般に自分にとってよく 「分かる議論」 とは、それが今の自分の知識とか理解力とかにぴったり一致しているか、またはその範囲内にあるから、よく分かるわけだ。それは、たとえば、高校レベルの数学を十分に理解した者にとって、中学レベルの数学の問題など、ちょちょいのちょいで解けるのと同じである。

 人は、「分からないもの」 と 「分かるもの」 とが並んでいると、どうしても 「分かるもの」 の方を選びがちなものだ。しかし、「分かるもの」 ばかり選び、好んでいたのでは、「進歩」 も 「向上」 もない。足し算でも掛け算でもなんでもよいが、人間誰しも 「公式」 のようなものを覚えると、それをどこでもここでも振り回したくなる。

 「公式」 というのは便利なもので、使い方さえ間違えなければ、誰がやろうと必ず正解が出る。なので、世の中には、間違えてバツをもらうのが嫌なばかりに、間違える心配のない同じような問題ばかりいつまでも解いている小学生のような人もいる。なるほど、新しい問題などには挑戦せず、自分の能力の範囲内の問題ばかりしていれば、間違える心配は永遠にない。いつもいつも百点がもらえる。それはたしかに気持ちのいいことではある。

 とはいえ、それでは、カゴの中の輪の中で、輪をぐるぐる回しているハムスターと同じだ。一生懸命手足を動かしていて、自分では走っているつもりなのかもしれないが、じつは一歩も前には進んでいない。というわけで、論争において 「分かる議論」 をする人と 「分からない議論」 をする人がいたならば、「分かる議論」 をする人よりも、「分からない議論」 をする人の言い分のほうをよく考えてみたほうがいい。

 なにより一番駄目なのは、「分からない議論」 をする人に対して、適当に選んだ自分の手持ちのレッテルを貼っておしまいにし、「分かる議論」 をする人の肩をそそくさと持ってしまうことだ。「教科書」 に書いてないことを言う人の中にも、「教科書」 についてまったく無知な人間もいれば、「教科書」 に書かれていることなど、言わずもがなの前提にしている人もいる。

 「教科書にはそんなことは書いてない」
と指摘するのは簡単だが、とりあえず、そういう違いぐらいは考えておいたほうがよい。たしかに、1+1 は誰が計算しようと2になる。だが、それだって、2進法ということになれば違ってくる。そもそも、世の中、教科書に書かれてあることしか言わぬ人ばかりでは、ちっとも面白くもない。

 ただし、残念ながら 「分からない議論」 がすべて意味のあるものとは限らない。それが分かったことで、必ずなにかが得られるとも保証できない。とはいえ、それでも頭の体操ぐらいにはなるだろうから、まったく無駄というわけでもあるまい。むろん、それも時間があれば、の話ではあるのだが。

 さて、政局のほうは、鳩山総務大臣の辞任で、麻生内閣の支持率がまたがくんと下がったそうだ。安倍内閣以来、あれやこれやの迷言でおなじみの、あの鳩山邦夫氏がそんなに人気があったのだとはちっとも知らなかった。これもまた、よく 「分からない」 ことである。

 関が原の合戦のとき、信濃の山奥の真田家は、兄の信之が東の家康につき、弟の幸村は西の三成についた。これには、東軍・西軍のどちらが勝っても、真田家が生き残れるようにという父、昌幸の深謀遠慮が隠されていたという説がある(真偽のほどは知らない)。

 民主党結成時には手を組んだ鳩山兄弟が、その後、路線の違いとかで二手に分かれたのには、ひょっとすると同じような思惑があったのかもしれない。ただし、これは根拠などなにもない、ただの思いつきである。







Last updated  2009.06.15 22:44:07
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2009.03.31
カテゴリ:ネット論

 仕事がちょっと途切れているので、久しぶりに書棚の整理をしてみた。なにしろ、文庫本などは書棚に二重三重に詰め込んでいるので、さすがにどれがどこにあるのか分からない。小さな本一冊探し出すために、書棚の本を全部ひっくり返さねばならない始末である。いちおう出版社別、分野別、年代別、作者順とかに並べてはいるのだが。

 整理をしてみたら、田中克彦の 『言語学とは何か』 やら、山口昌男の 『文化人類学への招待』 やら、同じ本が何組も出てくるわ、出てくるわで、われながら呆れてしまった。そのほとんどは、買っても積んで置いたままできちんと目を通してはいない分だ。きっとそのために、書店で見かけると、家にあるのを忘れてまた買ってしまったということなのだろう。

 人生、半世紀を過ぎると、さすがに短期記憶力は落ちているようだ。同居人からは、毎日のように厳しい指摘も受けているし。すでに積読状態の本は膨大な量に上っており、新しい本など買わずとも、残りの人生に消化できる量は十分に超えている。それでも、立ち寄った古書店などで面白そうな本を見つけると、ついつい買い込んでしまう。

 毎月毎月、読める量をはるかに超える数の本を買い込んでいるから、どう考えても積読解消は不可能である(そのほとんどは100円本であるから、財政的にはたいしたことない)。これでは、「目標」 自体が遠くの銀河のように、そこへ向かうロケットよりはるかに速いスピードで遠ざかっているようなものだ。なので、「積読解消」 という目標の達成は、かの測量技師 K が城にたどり着くよりもはるかに困難なことである。

 さて、前回の記事で触れた 「怪人」 とまではいかずとも、「知ったかぶり」 やはったりをしたり、やたらと虚勢をはりたがる人というのも、ネットではよく見かける。ネットとは便利なもので、少しばかり手間隙かければ、たいていのことは調べられる。なので、多少のことなら 「知ったかぶり」 をしてもすぐにはばれない。それに、そのことについて知らない人なら、なおのこと騙すのも簡単だ。

 そもそも人間は、若いうちは誰しも 「背伸び」 をしたがるものだ。それは若さゆえのただの見栄でもあるが、一面では 「向上欲」 の現れでもあり、一種の 「目標設定」 のようなものであるから、必ずしも一概に否定すべきものではない。

 実際、よく分かりもしないのに、世間で名が売れている難解な小説だとか評論、哲学書などに手を出したがるのは、覚えがないわけではない。おかげで、ニーチェの 『ツァラトストラかく語りき』 などは、高校時代に買ってからそのまま放りっぱなしである。ちょこちょこ開いたことはあるのだが、いまさら全巻を通読しようという気にはちょっとならない。

 最近は 「不言実行」 ならぬ 「有言実行」 なる言葉がよく使われるが、スポーツ選手などが 「タイトル取ります」 とか 「メダル取ります」 などと公言するのは、そのような宣言によって自らを背水の陣に追い込むことで、自己の意欲をさらに高めるものであるから、それはそれで十分な意味がある。

 ただ、そういう、ときに背伸びをも伴う 「有限実行」 的な 「宣言」 と、ただの 「知ったか」 的な背伸びとの違いは、実際の自己の状況と目標とのギャップをちゃんと自覚しているか、そして、そのギャップを埋めるための地道な努力をするかどうか、ということになるだろう。

 というわけで、いったん誰かの前で 「知ったかぶり」 をしたならば、そのあとで、「知ったか」 がばれないように、ギャップを埋めるための努力を必死でやればよい。ところが、残念ながら 「知ったか」 が癖になっている人というのは、往々にして 「実際の自分」 と 「こうありたい自分」 という願望とを混同していて、その区別がついてないように見える。つまり、肝心の本人に、自分は 「知ったかぶり」 をしているという自覚が、あんまりないようなのだ。

 昔は、吉本隆明や埴谷雄高の本を小脇に抱えて、生協の食堂などでうぶな新入生を捕まえては、「対幻想」 と 「共同幻想」 がああしてこうしてなどと、わけの分からぬ議論で煙に巻いていた連中がいたものだが(たぶん、自分でもなんのことか分かってなかったのだろう)、最近はどうやらそれが、柄谷行人だの蓮見重彦だのに代わっているらしい。つまり、引き合いに出す名前は変わっていても、やってることは大差ないということだ。

 人間は個別にみれば、みな同じような成長過程をたどるものだ。いくら社会や文明が進んだところで、おぎゃあと生まれてくる赤ん坊は、奈良時代でも今の時代でも変わりはしない。なので、時代がかわっても、ひとりひとりは飽きもせずに同じことを繰り返さざるをえない。

 だから、若いうちは 「背伸び」 をしたがるのもしかたないのだが、そういう 「知ったか」 的な 「背伸び」 による大言壮語は、せいぜい学生までに卒業すべきだろう。大の大人なら、分からないことは分からない、知らないことは知らないと、最初にちゃんと認めたほうがいい。あとで恥をかくのは自分なのだから。

 野球やサッカーなどでもそうだが、テレビの前に座っているただの素人ほど、「あの選手はどうだ、あの監督はこうだ」 などと、評論家気取りのいっぱしの口を利きたがるものだ。多少とも、その世界のことを知り、選手や監督の苦労も知っている人間ならば、そう簡単に偉そうな口を利けるものではない、と偉そうなことを言っておく。 

 というわけで、ショーペンハウエルの 「読書について」 からの引用で終わることにする。

 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読むわれわれは、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書のさいには、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。

 だから読書にいそしむかぎり、実はわれわれの頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。


 ショーペンハウエルの主著は 『意志と表象としての世界』 だが、これは大作であるし、全然読んだことはない(調べたら、なんと西尾幹二訳で出ていた)。彼には当時一世を風靡していたヘーゲルの講義に、わざと自分の講義の時間をぶつけたとか(結局、彼の講義を受けようという学生はほとんどいなかったらしい)、「一家に偉人は一人しか出るはずがない」 といって息子の才能を認めようとしなかった、作家のお母さんに悩まされたとかいう逸話が残っている。







Last updated  2009.04.01 05:22:47
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2009.03.28
カテゴリ:ネット論

 映画やミュージカルでもおなじみのフランスの作家ガストン・ルルーによると、パリのオペラ座の地下には 「怪人」 が棲んでいるそうだが、ネットという仮想空間にも、様々な 「怪人」 が棲んでいる。

 だいたいにおいて、この種の 「怪人」 というのは、自分ではブログを持っていないか、あるいは持っていてもたいしたことを書くわけでもなく、他人のところに押しかけては、頼まれてもいないのに批評したり説教したり、また議論を吹っかけたりするのが好きな人たちである。

 その特徴はといえば、一番はなんといっても自己評価が異常に高いことである。そのような自己評価の過大さと、そこから垣間見えるきわめて強い自信とがいったいなにに根ざしているのかは、本人ではないから分からない。

 その中には、いわゆる 「一流大学」 を出たり、高い 「学歴」 を持っているということがその根拠であるという人もいるかもしれないし、そうでない人もいるかもしれない。これはまあ分からないことだし、あまり本質的なことではない。

 いずれにしろ、そのような人たちは自己への評価がきわめて高いため、おそらくは無意識なのだろうが、他人の言動に対する基準と、自分自身の言動に対する基準とが完全に分裂しており、大きく乖離している。

 はたから見ると、それは 「自分には甘く他人には厳しい」 という、典型的な 「二重基準」 のように見えるのだが、たぶん本人にはその自覚がないのだろう。当人としてみれば、自分はこの世で一番偉いのだから、自分と他人とでは適用する基準など違っていて当然ということなのかもしれない。

 なので、この種の人が、たとえば 「自分をよく見つめることです」 とか 「もっと自分に厳しくしなさい」 などと、人に説教しているのを見かけると、思わず 「おいおい、それはあんたのことだろう」 などと突っ込みたくなるのだが、これもまた、本人にはそういう自覚が全然ないらしい。

 この種の人の特徴をもうひとつあげると、それまでは自分を受け入れてくれていた人とかから反論されたり批判を受けたりすると、とたんに 「あなたを見損なっていた」 とか、「せっかく、あなたを買っていたのに」 などと言い出して、態度がころっと変わることである。

 相手が自分の「味方」 や 「理解者」 であるか、そうでないかで態度が違うというのは、人間誰しものことではある。しかし、豹もびっくりするような、その変化の大きさにはいささか驚かされる。

 普通、ある人をそれまで 「高く評価していた」 というのなら、多少のことで意見が食い違っても、いきなり相手に対して居丈高な態度を取ったり、罵倒を始めたりはしないものだ。ある問題で意見が対立したからといって、掌を返したように相手を 「最低」 呼ばわりしたり、悪しざまな罵倒を始めるような人は、そもそもそれまで、その人のどこを評価していたのだろうか。これはまったく理解できない。

 察するところ、この種の人が求めているのは、たんに自分に対する他人の 「評価」 でしかないのだろう。だから、ひとたび相手から否定され、もはやそのような 「評価」 が得られないとなると、態度がころっと変わるということなのかもしれない。

 そもそも、そんなに他人に指図したり説教するほど自分に自信があるのであれば、人にあれやこれや説教する前に、自分が手本を示せばいいのだし、そうすれば 「他人の評価」 というのも自然に得られるはずなのだ。だが、その種の人というのは、なぜか自分で手間隙かけた仕事をやろうとはしない。これはとても不思議なことだ。

 また中には、あっちでは誰かのことを、こっちでは誰かのことを、というように、陰謀家めいた策動が好きな人というのもいる。あるところで、ネットに 「ゴキブリホイホイ」 を仕掛けたと自慢していた人がいたが、そんなもの仕掛けたところで、引っかかるのはせいぜいゴキブリなわけで、いったいなにがしたいのか理解できない。

 そういうおかしな言動を、誰もが見ているネットでやることは、たとえどこの誰だかばれないにしても、自分の信用を落とし、自分の首を絞めることにしかならないのだが、その種の人は、どうもそういうようには考えないらしい。福田前首相が辞職会見で言ったように、「自分を客観的に見る」 ということは、やはり大切なことのようだ。

 さて、三月も終わりに近づいて、こちらはすでに桜が満開だが、ここ数日は天気こそ悪くないが、全国的な寒の戻りでやや冷え込んでいる。俳句の季語でいうと、「花冷え」 というところだろう。

 昨年は、桜の季節ということで、坂口安吾の 『桜の森の満開の下』 を引用したが、また同じものでは芸がないので、今年は三島由紀夫の 『仮面の告白』 から。

 花は不思議と媚めかしく見えた。花にとっての衣装ともいうべき紅白の幕や茶店の賑わいや花見の群集や風船屋や風車売りがどこにもいないので、常盤木のあいだにほしいままに咲いている桜などは、花の裸体を見る思いをさせた。自然の無償の奉仕、自然の無益な贅沢、それがこの春ほど妖しいまでに美しく見えたためしはなかった。

 私は自然が地上を再び征服してゆくのではないかという不快な疑惑を持った。だってこの春の花の花やかさはただごとではないのであった。菜の花の黄も、若草のみどりも、桜の幹のみずみずしい黒さも、その梢にのしかかる鬱陶しい花の天蓋も、なにか私の目には悪意を帯びた色彩のあざやかさと映った。それはいわば色彩の火事だった。


 この作品は、三島が24歳のときに 「書き下ろし長編」 として発表した出世作であり、自決によって自ら終止符を打った、20年をわずかに超えるだけの、決して長いとはいえない作家としての生涯に発表された膨大な作品の中でも、珍しく自伝的性格の強い小説でもある。

 舞台は戦争末期、空襲下の東京。引用箇所の直前に 「大学のかえりに......S池のほとりをそぞろ歩いた」 と書いてあるので、たぶん東大の近くにある不忍池の桜がモデルなのだろう (上野の動物園や博物館には行ったことあるが、不忍池の記憶はない。小さい頃なので、訪れたのかもしれないが覚えてない)。

  描写の華麗さはさすがに早熟の才人、三島の面目躍如というところだが、ところどころに虚無感と、さらに 「自然」 に対する敵意のようなものが漂っているのは、やはりこの人の根本的な資質のなせる業だろう。三島の邸宅がキッチュな西洋様式であったのは有名な話だが、三島由紀夫という人は、「東洋思想」 だの 「日本精神」 だのというものとは、本来もっとも無縁な場所にいた人なのである。

 

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Last updated  2010.01.27 07:30:07
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2008.12.20
カテゴリ:ネット論

 早いもので、今年もあと10日あまりということになってしまった。一年が経てば、当然誰もが一年分、また年齢を重ねることになるわけだが、はたしてそれだけの時間に相当する積み重ねがこの一年でできたのかというと、残念ながら、はなはだ覚束ないと言わざるをえない。ようするに、あまり変わってないなということだ。

 先日のことだが、近所の大型スーパーの階段で、乳飲み子を抱えた母親が目を放したすきに、2,3歳ぐらいの子を乗せたショッピングカートが、ごろごろと踊り場まで落ちていく騒ぎがあった。そこはちょうどトイレの前で、ひょっとすると母親は上の子をカートに乗せたままトイレの外に待たせておいて、中で下の子の世話をしていたのかもしれない。

 カートに取り残された子がむずがりだして、その反動でカートが動き出したのか、それとも何かが触れたのか、あるいは床にわずかな傾斜でもあったせいなのか、そのへんは見ていないから分からない。

 ただ、がたがたと音がし、おまけにぎゃあっという声までするので何事かと思って覘いたら、すでに一番下までカートが転がり落ち、横倒しになったカートで女の子が泣いていたのだった。すぐに母親と店員も駆けつけてきたが、階段にはリノリウムも敷いてあり、季節も冬で厚着をしていたからか、幸いたいした怪我はなかったようだった。

 さて、ネット上では、つねにいろいろと騒動や議論のネタが尽きないものだが、そこでいろいろと感じたことを少々。

 なんでもよいが、なにかしら微妙な問題について、いささか不用意なことを書いた文を公開したりすれば、批判的な意見を含めて、多くの人から即座に様々な反応が返ってくることはしかたのないことである。とりわけ、その発言者がそれなりに名のある有名ブロガーだったりすれば、そういうことが起こる可能性はそれだけ高くなる。

 そういう反応の中には、当然ただの早とちりや感情的で教条的な反発、あるいはただ便乗しようという者もいるかもしれない。しかし、そのような多くの反応が返ってくるということは、基本的にはその問題に対して関心を持っている人がそれだけ多いということであるにすぎない。そこで、本人が対応を間違えれば、それこそ 「炎上」 といったことにもなりかねないが、多くの反応が返ってくること自体は、別になにも問題視すべきことではあるまい。

 騒ぎが大きくなれば、自分もちょっと一言なにか言ってみたくなるというのも、人間の悲しい性というものである。しかし、反応の瞬時性と、その燎原の火のごとき拡大の早さというのは、ネットの特徴であり、これだけネットが普及した現在にあっては、しかたのないものだろう。良くも悪くも、それがネットというものだ。もともとの発言者が、そこそこの有名人であったりすれば、良し悪しは別として、それもまた本人が負わざるをえないリスクのようなものである。

 そこで、集中的な批判を浴びた本人がびびり上がるのは分からないでもない。しかし、その人がネット上に、なにか自分に対する巨大な 「敵意」 や 「悪意」、ましてや一枚岩に組織された 「敵の陣営」 なるものが存在するかのように思い込んでいるとしたら、それは被害者意識の昂進によるただの妄想に過ぎまい。それに、そんな騒動など、しょせんは 「コップの中の嵐」 というものである。

 多くの場合、一人一人は、それぞれ自分の関心に応じて、各自の意見を述べているにすぎないのであり、たまたま同じようなことを言う人がいたとしても、それはもともとの考え方が近いからにすぎない。なにも、特定の綱領だか方針だかに基づいて一致団結した、「反××同盟」 だとか 「打倒××連合」 みたいなものがネット上に存在しているわけでもあるまい。証明はできないが、それはたぶんただの思い過ごしである (ただし、ネットが持つ 「匿名性」 というものには、たしかにそういう一種の 「妄想」 を育むところがあるのかもしれない)。

 それに、たとえ考え方が近いからといって、一から十までまったく同じはずはなく、そこにも多少の差異はあるはずだ。ところが、いっせいに批判を受けたりすると、相手がみな同じに見えてくる。相手の数があまりに多いと、その言葉や主張を混同してしまうのはしかたないにしても、そこで 「お前らは~」 などと、味噌もクソも一緒にするようなことを言い出しては、もはや理性的な対応など望めるものではない。

 そうなると、見かねた善意の第三者が、「ちょっとちょっと」 というように声をかけても、「どうせ同類」 だと頭から決め付けて、またまた 「お前らは~」 などと言い出すのが関の山である。とりあえず、そういう人は、いっぺん頭を冷やして出直したほうが良い。

 また議論の過程で、おかしなことを言ったり、的外れなことを言ったりして、相手から揶揄されたり笑われたりするのは、それこそ 「自己責任」 というものである。あまりに的外れな回答が返ってきたりすれば、誰しも揶揄の一つぐらい言いたくなるものである。そうでもしなけりゃ、たとえばちょっと合意ができたと思ったら、すぐにそれを引っくり返して元に戻ってしまうような人だとか、いつまでもぐだぐだと管を巻き続けるような人など、相手にしてはいられまい。

 そういう揶揄というのは、別に相手を怒らせるためにやっているのではないだろう。揶揄されれば、誰しもむっとはするだろうが、揶揄というのも一つの反応なのだから、なんで自分が揶揄されるのか、とりあえずは考えてみたほうがよい。ただ、自分を怒らせることだけが、相手の目的なのだと思ってしまえば、そこですべては止まってしまう。

 もちろん、そういうことをやる人間も、世の中にいないとは言わない。しかし、本当にそうだと思うのなら、それ以上、自分が相手にしなければいいだけのことである。そう決め付けておきながら、自分が逆切れしてしまっては、それこそしょうがあるまい。それなのに、まだぐだぐだと訳の分からぬことを言い続け、しょうもない罵倒返しをやり続ける人というのは、いったい何がしたいのか、さっぱり分からない。

 風の噂によれば、東工大の東浩紀という人の講義で、なにやら一騒ぎが起きたらしい。しかし、自分でブログに 「文句があるなら来いよ」 というのに近いことを書いておきながら、それに応じた人らが来ると、今度はヒステリックに対応して排除にかかるとは、なんだかずいぶんとお尻の穴の小さな人のようである。

 昔から、名のある先生の講義に、他校の学生や偽学生が潜り込むというようなことは珍しくなかったはずで、そういう潜りがいることは、先生にとってはむしろ名誉なことだろう。むろん、潜りが多すぎて、肝心の正規の学生が教室に入れないとか、講義に支障が生じるといったことになってしまっては困るだろうが。

 別に、東氏に限らないが、実名と勤務先を公表してブログを書いているような大学の先生であれば、自分が教えている学生たちに自分の文章が読まれており、あっちやこっちでの言動も筒抜けになっていることぐらいは、覚悟しておくべきだろう。その覚悟がないのなら、最初から余計なことなど書かなければよい。

 おかしなことを言って、学生たちに内心で馬鹿にされるようなことになっても (単位をくれる有り難い先生であれば、口に出して言ったりはしないだろうが)、これまた 「自己責任」 というものである。まあ、もっとも大学の先生だからといっても、しょせんは普通の人間なのだろうし、この世に完全な人間などいないのは、これまた自明の真理というものだが。







Last updated  2008.12.20 23:46:59
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2008.12.03
カテゴリ:ネット論

 早いものでもう12月である。今年も余すところ、あと一月ということになってしまった。太陽は日々その高度を下げながら、敵の前に敗走を続ける戦線のように南へ南へと後退を続けている。日の出は日々遅く、日の入りは日一日と早まり、昼は日を追って短くなりながら、それとは反対に長くなる夜に押しつぶされていく。

 12月の太陽は、天空の端を夏の陽の半分にもならぬ高さで移動する。その高さは最も高い南中時にあってすら、夏の西空の太陽よりわずかに高いに過ぎず、影は一日中長いままで、光も弱まる一方、空気も日々冷たさを増している。

 視線を窓外に転じれば、こないだまで青々としていた団地の中のイチョウ並木も、いつのまにかすっかり鮮やかな黄色に変じている。あともう少しすれば、今度はいっせいに葉を落とし始めるだろう。以前は塾に勤めていたので、年末の数日を除いて12月はたいへん忙しかったのだが、今は先生を辞めたおかげで、走り回らなくともよくなった。まことにありがたいことだ。

 古代の人々らにとって、このような一年の周期は、まさに 「死と再生」 の連鎖として受け取られたことだろう。彼らにとって、今日と同じように、また明日も日が昇るという保証など存在しないように、これまで冬のあとには必ず春が来たからといって、またこの冬のあとも春が訪れるという保証もどこにもない。だからこそ、彼らは太陽が沈むたびに明日も昇ってくれることを念じ、また太陽の力が弱まる冬には、太陽が再びその勢いを盛り返し復活することを強く願ったに違いない。

 そのような天体の規則的な運行を保証するために必要なのは、なによりも彼ら自身の神々に対する感謝であり、また強い願いであると彼らは考えていたのだろう。だから、神々に願うことと感謝を怠り忘れたならば、太陽はその規則的な運行を停止し、世界は崩壊するかもしれないという恐れすら、そこには存在したのかもしれない。

 そういう日々衰えゆく太陽に向かって、再び力を取り戻してくれることを念じ、また感謝する人々によって生み出されたのが、世界各地に残された冬至に関する様々な神話や伝承であり、冬至に関する種々の祭儀であるということになるだろう。

 古事記にある、須佐之男の粗暴な振る舞いに怒って天照が洞窟に閉じこもったという 「天岩戸」 説話は、日食とその後の太陽の復活を意味するという説もあるが、一方では、このような冬の太陽とその復活を意味するという説もある。

 ギリシア神話には、豊穣の女神デメテルが愛する娘を冥界の支配者ハーデスに奪われた悲しみのために老婆に変身し、神としての仕事を忘れて大地を放浪しながら嘆き悲しんだという話がある。このときに彼女を慰めたのも、ある王の侍女による、あの天照を笑わせたアメノウズメと同じような踊りなのだそうだ。

 巷のニュースによれば、麻生首相への支持率は就任からわずか3ヶ月でとうとう30%を切ったそうだ。これでは、どう見ても正月を越すのが精一杯だろう。もともと、党内基盤が弱く、「選挙の顔」 という一点でのみ総裁に選ばれたのに、その人気すら実はただの上げ底であり、回収不能な空手形であることが露呈したのだから、党内からの反発が噴出するのは必至である。

 「金枝篇」 を書いたフレイザーによれば、未開人の作った原始的な王国では、そのように無能さをさらけ出すことで、もはや神々の恩寵と世界を支配する呪術的な能力を失っていることが暴露された王は、怒った民によって即座にその座から引きずりおろされ、みじめにも打ち殺されたそうである。麻生首相はいくら支持率が低くなっても、そのような恐れはないのだから、なによりも現代に生まれたことをまずは神に感謝せねばなるまい。

 ところで、某所での議論を見ていて思ったことを少々。

 そこでは、5月に起きたネット上のある 「騒動」 についての議論が延々と続いているのだが、話がまったくかみ合っていない。なぜかというと、一方は具体的な話をしているのに、もう一方はそれとはまったく関係のない、「教科書」 から引き写したようなことしか言わないからなのだ。

 そもそも 「教科書」 や 「辞書」 の世界から一歩も出ない限りでは、人は間違ったことを言う恐れはない。むろん、それはその 「教科書」 や 「辞書」 の記述が正しいことを前提とはする。だが、論争において必要なのは、相手がなにを言わんとしているかを正確に理解することではあるまいか。そのような理解を怠って、全然関係のない 「教科書」 に書いてあるとおりのことを一方的にただ繰り返していても、議論がかみ合うはずもない。

 そのあまりの勘違いぶりを相手から揶揄されると、今度は反射的に稚拙な罵倒を返すこととなり、最後は頭に血が上って、「お前らはみな、~~を理解していない」 などと言い出すのだが、そもそも肝心の論点はそんなところにないのだから、おいおいと言わざるをえない。

 早い話、誰も争ってなどいないところで、術語の定義のような 「教科書」 から引き写したようなことを言っても、なんの意味もないのだが、議論に熱中して、自説を主張し、相手を圧倒することに没頭するあまり、そういうまわりを見渡す余裕というものがなくなっているらしい。どうにも困った人である。

 結局、議論において最低限必要なのは、相手がどのような問題意識を持っているかを察知し、そのうえで相手の論点と主張を理解することなのだが、「相手の言っていることはそもそも理解するにも値しない無意味なことだ」 というはなからの独断と偏見だけで、相手の言うことに最初から耳を貸そうとしない人というのは、まことにしょうがないものである。それでは、最初から議論になるはずがないというものだ。

 「教科書」 に書いてあることを書き写すだけでは、議論にならないし、そんなところからは何も生まれないのだが。 おいおい、だから、論点はそこじゃないのだってば。







Last updated  2008.12.03 08:07:44
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2008.10.08
カテゴリ:ネット論

  物言えば 唇寒し 秋の空

 これは、芭蕉の有名な句であるが、一般には 「人の悪口など、言わずもがなの余計な事を言ったりすると、思いがけない災いを招くことになるから、なるべく口を慎めということ」 というような意味で使われているようだ。

 これは、この句に 「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」 という前書きがついているせいだそうだが、この前書き自体は元禄9年に上梓された 『芭蕉庵小文庫』 において追加されたものなのだそうだ。

 芭蕉が亡くなったのは元禄7年だが、この 『芭蕉庵小文庫』 は史邦(本名は中村荒右衛門)という芭蕉の門人が師の死後に編纂したものである。芭蕉自身は、「わが草庵の座右に書き付けることを思ひ出でて」 と前書きをしているそうだ。

 しかし、漂泊の詩人たる芭蕉に、いささか道学者じみた訓戒の句などは似合うまい。この句には、むしろなにげないことを口にしただけで、周りから浮いてしまったり、ときには白眼視されたりして疎外感を味わったというような、「属せない人」 としての経験がこもっているとしたほうが解釈としては素直なような気がする。

 ちなみに、詩人の清水哲男は、この句についてこんなことを言っている。

(前略) 普通には 「口」 や 「口元」 だった。キスでも 「口吸ふ」 と言い、「唇吸ふ」 という表現の一般性は明治大正期以降のものである。そんななかで、芭蕉はあえて 「唇」 と言ったのだ。むろん口や口元でも意味は通じるけれど、唇という部位を限定した器官名のほうが、露わにひりひりと寒さを感じさせる効果があがると考えたに違いない。「目をこする」 と 「眼球をこする」 では、後者の方がより刺激的で生々しいように、である。
 したがって、ご丁寧な前書は句の中身の駄目押しとしてつけたのではなくて、あえて器官名を持ち出した生々しさをいくぶんか和らげようとする企みなのではなかったろうか。内容的に押し詰めれば人生訓的かもしれないが、文芸的には大冒険の一句であり、元禄期の読者は人生訓と読むよりも、まずは口元に刺激的な寒さを強く感じて驚愕したに違いない。


 さて、いよいよ秋も深まっており、深夜になると空にはオリオン座が姿を現す。神話では、オリオンの傲慢に怒った女神が遣わしたサソリに刺されて命を落としたため、オリオンはサソリが浮かんでいる間は出てこられず、地平線の下にサソリが沈んでからやっと姿を現すのだそうだ。とはいえ、見方によっては、オリオンは憎き敵のサソリを、空の上で延々と追いかけているように見えなくもない。

 太い柱とかの周りで二人で追いかけっこをしているうちに、どっちが逃げており、どっちが追いかけているのか分からなくなるというのは、昔からある古典的なギャグであるが、オリンピックでも、トラックを大勢の選手が何週も走る長距離走では、集団で走っている選手がしだいにばらけてくると、誰が先頭で誰がビリやら、一瞬分からなくなることもある。

 平面であれ空間であれ、1点を通る線は無数に引ける。2点の場合、直線ならばたしかに1本しか存在しえない。しかし、2次関数のような曲線ならばやはり無数に引ける。

 それと同じように、ある事象についての 「説明仮説」 は、それ1つのみを取り出せば、いくらでも立てられる。今日の天気がよいのは、どこかでチョウが羽ばたいたせいかもしれないし、大気中の二酸化炭素が増えているせいなのかもしれない。その原因も、ひょっとすると、どこかで放牧された牛がげっぷをしたせいなのかもしれない。

 桶屋が繁盛し儲かって儲かってしょうがないのは、風が吹いたせいかもしれないが、誰かの陰謀のせいなのかもしれない。あるいは桶屋自身が、陰でこそこそとなんらかの工作をし、自分でよい噂だとかを振りまいたせいなのかもしれない。

 とくに、ただの自然現象とは異なり、人間の意思、それも複数の意思が介在する社会的事象の場合、「陰謀」 だとか誰かの 「悪意」 や 「敵意」、他人を 「嘲笑したい」 という欲望だとか 「自己顕示欲」 によるだとか、はるかに多数の 「仮説」 が成立しうるだろう。

 だが、多くの場合、ある社会的事象について、人がどのような 「説明図式」 を好み、採用するかということに示されているのは、その人自身のイデオロギー的な立場と思考の特性である。どこにでも 「陰謀」 をかぎつける人は、その人自身が 「陰謀論」 的な思考を好んでいるからにすぎない。実際、「陰謀論」 の教祖は、たいていが 「陰謀」 好きな人でもある。

 同様に、たいした根拠もなしに、なにかといえば 「悪意」 だの 「嫉妬」 だのというような言葉で物事を説明しようとする者は、その人自身がそういった観念に強く捉われていることを意味するだろうし、どのような対立をも、ただの 「党派的」 な争いというふうにしか見られない者は、その人自身がそういう発想しか持ち得ない、視野の狭い人間であるということを意味しているにすぎない。

 人がある事象について好んで持ち出す 「説明図式」 は、多くの場合、「事実」 についての説明というより、むしろその人自身が無自覚に持っている思考傾向の表明であり、また人間観や社会観の反映である。ある人が様々な事象を説明するさいに、どのような 「説明図式」 に最も惹かれるかには、その人自身の物の見方と思考の特性が現れている。

 人はある仮説を立てると、おうおうにしてその仮説にあった 「事実」 しか見ようとしなくなる。それに、おのれを疑うということは誰にとっても非常に困難なことであるから、たとえ 「事実」 を目にしても、その事実をあらかじめ立てておいた 「仮説」 にあうように解釈することはそれほど難しいことでもない。

 だが、どのような仮説が事象の説明として最も蓋然性が高いかは、仮説そのものの説得力はもちろんだが、結局は可能な限り公正な目で、可能な限り多くの事実を集めるという努力に依存するというほかはないだろう。とはいえ、それはむろん、たんなる願望のみによって可能なことではない。


2009.11.15  一部加筆







Last updated  2009.11.16 06:55:34
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