1063190 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

遠方からの手紙

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

Comments

http://cialisvipsale.com/@ Re:あなたが思っているほど、人はあなたのことなど気にかけちゃいない(09/17) bijsluiter cialis 10mgpredaj viagra kam…
小林先生@ Re:恐妻家と愛妻家のはざまで(07/18) 失礼ながらよくまとまっているせいか たい…
akkun @ Re:岡崎次郎はどこへ消えたのか(10/01) 向坂逸郎(?)って悪いヤツだ! そういう欲…
大津 真作@ Re:岡崎次郎はどこへ消えたのか(10/01) 実は岡崎次郎さんには、岡崎三郎さんとい…
Jun_U@ Re:アイザック・ドイッチャー 『非ユダヤ的ユダヤ人』(06/13) ドイッチャーの著作は若い頃から読んで共…
ゴマ@ Re:関曠野 『歴史の学び方について』 マルクスが宣う「人間の本質」とは何ぞや…
さすらい日乗@ 映画で見ました はじめまして、さすらい日乗をやっている…

Freepage List

Category

Archives

2019.09
2019.08
2019.07
2019.06
2019.05
2019.04
2019.03
2019.02
2019.01
2018.12

全7件 (7件中 1-7件目)

1

科学・言語

2009.04.13
XML
カテゴリ:科学・言語

 前々回、スターリンの民族論に触れたが、民族に関する彼の定義は、「言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を特徴として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体」 というものだった。

 つまり、彼にとって 「民族」 の問題と 「言語」 の問題は、最初から切っても切れない関係があったということだ。その彼が晩年の1950年(当時すでに71歳!)、脳卒中で死亡する3年前に発表したのが、当時ソビエト言語学界を支配していたマール理論を批判した 「言語学におけるマルクス主義について」 という論文である(参照)

 この論文は、前々回にも触れた典型的な 「カテキズム」 形式で書かれている。たとえば、次のように。

 言語は土台のうえに立つ上部構造であるというのはただしいか? 
 いや、ただしくない。
 言語はいつでも階級的なものであったし、いまもそうであるということ、社会にとって共通かつ単一な、階級的でない、全人民的な言語は存在しないということは、ただしいか? 
 いや、ただしくない。


 つまり、ここでは彼は、自分より格下の弟子からの 「問い」 に対して、けっして疑ってはならないご託宣のごとき 「真理」 を与える教祖様として振舞っているわけだ。むろん、それは 「偉大なる指導者」 である 「偉大なる同志」 スターリンとしては、当然の振る舞いではあるだろう。

 この論文の意味は、上の二つの問いに対する回答に表れているように、言語の 「上部構造性」 と 「階級性」 の否定ということにつきる。田中克彦などの紹介(参照)によれば、彼が批判したマール理論というものには、たしかに荒唐無稽なところもあったようだが、この二つの否定が、マルクス主義の基本的な常識にまったく反したものであることは言うまでもない。

 もし、これが他の者の言葉であるなら、おそらく一顧だにされていなかっただろうが、なにしろ 「偉大なる同志」 のお言葉である。あだやおろそかにするわけにはいかない。そこで、この 「論文」 を読んだ当時の共産党系の学者や理論家らは、びっくり仰天しながら、それまでの 「定説」 の書き換えや、後付けでのもっともらしい説明に苦心し、阿諛追従に走り回らざるを得なかった。ご苦労なことである。

 さて、この論文での彼の言語観は、「言語は......生産用具、たとえば機械とはちがわない」 とか、「言語は手段であり用具であって、人々はこれによって、たがいに交通し、思想を交換し、相互の理解にたっするのである」 といった、その目的や効用のみに着目した典型的な 「言語=道具説」 である。

 しかし、どう考えても、言語は機械のように手で触れるものでも、目に見えるものでもなければ、人間の意識の外部に、人間の意識と無関係に存在するものでもない。発話し解釈する主体としての人間と切り離してしまえば、音声としての言語は、オシログラフ上で一定の波を描く、ただの空気の振動にすぎない。

 たしかに個々の人間にとっては、言語は規範としての 「外在性」 を有している。言語は、それを知らぬ人間にとっては、そこにあるものとしてまず学ばなければならないものである。だが、言語を学ぶということは、最初は自己の外部にわけの分からぬものとして存在していたものを、自己の内部へと取り込み 「主体化」 する過程にほかならない。

 その一点だけでも、言語は、人間の外部にあって、目的に応じ好き勝手に利用できるただの道具などとはまったく異なるはるかに複雑なものである。そもそも、言語が人間の意識や主観と不可分な 「観念的存在」 である以上、その 「上部構造性」 を否定することはとうていできない。

 スターリン時代には、しばしば科学や学問の 「階級性」 や、「ブルジョア科学」 に対する 「プロレタリア科学」 の優位ということが強調された。相対性理論や量子力学などの現代物理学が、唯物論に反する 「ブルジョア科学」 として否定された時期もあった。とりわけ、メンデルの遺伝法則を否定して獲得形質の遺伝を主張したルイセンコ学説の話などは、今も有名な語り草である。

 西欧言語学の定説と鋭く対立したマール理論が、一時期ソビエト内で支配的位置を占めたのも、おそらくそれと同様の理由によるものだろう。しかし、そういったきわめて政治的な 「国威発揚」 のためのプロパガンダに過ぎない 「プロレタリア科学」 なるものは、どれも結局は現実の前に敗北した。ルイセンコ学説の 「ニセ科学性」 は、農業の不作による飢饉の発生という現実によって明らかにならざるを得なかった。

 第二次大戦が終結し、ソビエトがアメリカと並ぶ 「大国」 としての地位を確立したこの時期に、スターリンがマール学説の批判に乗り出したのは、そのような旧来の独善的な 「プロレタリア科学」 なるものが、大国として世界の表舞台に登場することとなった、ソビエトの科学や学問の発展の足かせになっているという判断も、おそらくはあったのだろう。

 しかし、そのような悪弊の是正は、「偉大なる指導者」 スターリンの個人的権威の行使という、これまたきわめて政治的な方法によって行われた。これは、「粛清」 や 「弾圧」 の責任を、直接の担当者であったヤゴーダやエジョフといった部下に押し付けて、自分の無謬性を守りながら、かえってその神格性を高めたやりかたと同じ、ただのトカゲの尻尾切りにすぎない。

 ところで、このスターリン論文については、国語学者である時枝誠記が次のような疑問を呈している(参照)

言語は、たといスターリン氏が単一説を主張しても、歴史的事実として、そこに差異が現れ、対立が生じるのは、如何ともし難い。もしそれを階級といふならば、言語の階級性は言語の必然であつて、これを否定して単一説を主張するのは、希望と事実とを混同した一種の観念論にすぎない。

「スターリン『言語学におけるマルクス主義』に関して」


 言語の 「階級性」 という、本来ならマルクス主義者こそが強みを発揮しなければならない問題について、マルクス主義者ではない時枝のほうが正しく認識していたというのは、なんとも皮肉な話である。

 最近刊行された伝記によると、彼は国家の最高指導者という激務をこなしながら、なんと1日500ページもの読書をこなしていたそうだ。彼はたしかに、レーニンのような緻密な思考や、トロツキーのような輝かしい才気こそ持っていなかったが、人並みはずれた強靭な意思と能力を持った人物ではあった(参照)

 なにしろ、ブハーリンのように、若い頃からの付き合いがあって、彼を正面きって批判したことなど一度もない長年の 「友人」 ですら、でっちあげの罪を着せて 「銃殺」 することをためらわなかったような人物なのだから。

 いったい、彼はなぜ、あれほど多くの、それもすでにほとんどが政治的にはまったく無害であり無力であった、かつての 「同志」 や 「友人」 、有能な党幹部や赤軍将校らの血を欲したのか、それもナチによる脅威が目前に迫っている中で。これこそまさに20世紀における最大の謎というべきだろう。

 たしかに、この30年代末期の 「大粛清」 には、ナチとの衝突という予想される危機の中で、自己のライバルとなりかねない可能性を持った人材をあらかじめ一掃しておくという意味もあったのかもしれない。また、革命第一世代のほとんどを抹殺することで、その歴史と記憶を書き換えることにも成功した。その結果、彼は神のごとき全能の 「独裁者」 へと、また一歩近づいたわけではあるが。

 歌舞伎に出てくる河内山宗俊には、かどわかされた町娘を取り戻しに大名屋敷に乗り込んで言い放った、「悪に強きは善にもと」 という名台詞があるが、古今東西の歴史には、巨大な悪をなしとげた巨大な人物というのも、たしかに存在している。彼もまたその一例ということなのだろう。







Last updated  2009.04.13 12:54:18
コメント(4) | コメントを書く
2008.12.22
カテゴリ:科学・言語

 自動車業界を始めとする製造業での派遣社員解雇は、いよいよ大きな社会問題になりつつあるようだ。浜松では、解雇されたブラジル人労働者らがデモを行ったそうだが、年末のこの寒風の中に、多くの者を解雇だけでなく、解雇とほとんど同時に寮からも出て行けとは、随分な話である。

 当たり前のことだが、現場で働く労働者がいてこその企業というものだろう。島根県や大分県の知事など、各地の行政の長は、この問題に対して、職員の一時採用だとか他業種への採用の呼びかけなど、いろいろな策を練っているようだ。それはむろんないよりましだろうが、まず一番にすべきことは、寮や社宅からの即時退去というような暴挙に抗議し、撤回させることではないだろうか。

 民間アパートのように、今の居住者を退去させたら、すぐ次の入居者を募集するというのならともかく、大量解雇ではそのような予定があるはずもなかろう。それなのに、なにを急いで、今この時期に大量のホームレスの発生が確実に予想されるようなことをする必要があるのだろうか。政府も地方の行政も、まずはそのような企業の処置に抗議すべきだろう。抗議しないということは、そのような処置を良しとし、瑕疵のない前例として認めることでもある。

 前長野県知事で、今は 「新党日本」 とやらの党首と参院議員を務めている田中康夫は、党のHPで、「会社や組合という組織の都合ではなく、個人や地域という人間の未来に根ざした政治を求める、ユナイティッド・インディヴィジュアルズ=自律した個々人が連携するムーブメントなのです」 などとたいそうなことを言っているが、そんなものはただの自画自賛にすぎない。

 一部の既成の組合やこれまでの労働運動に、下請け企業や臨時社員、派遣社員らの利害を無視した、「企業組合主義」 と呼ばれるような閉鎖性があったことは否定できまい。しかし、現在行われているような 「派遣社員」 という名による人間の使い捨てが可能になったのは、そもそも労働運動が弱体化したことに一つの原因がある。

 そのような組織と運動の弱体化は、むろん歴代の指導者らや組織自体にも責任があるだろう。だが、田中のように、既成の組織を味噌とクソのように一緒くたにして、すべて 「既得権益者」 であるかのように一律に攻撃するのは、少なくともまだ存在しており、たとえ微力ではあっても、今なお社会的な抵抗の砦として役立ちうる組織の足元をさらに切り崩すものでしかない。

 「自律した個々人」 などというと、なんだか聞こえはいい。しかし、たとえば 「国籍法改正」 問題で田中が実際にやっていたことは、「偽装認知奨励法、人身売買促進法、小児性愛黙認法」 などと、おのれの無知のみを根拠にしたデマゴギーを振り撒いて、おのれと同じ程度に無知な 「大衆」 を扇動するという、正真正銘のデマゴーグに相応しいことでしかない。既成の組織が様々な動脈硬化を起こしていることも否定はできまいが、田中のようなやり方は、いつの時代にもよくあるただの扇動家の手法にすぎない。


 ところで、「科学」 というものが、あちこちで話題になっているようなので、一知半解の素人考えをちょっとだけ言ってみたくなった。

 近代科学というものの起源がどこにあり、誰を祖とするかは面倒な話だが、一般にガリレオやケプラー、ニュートンあたりをその画期をなした人とすることには、たぶんそう異論はないだろう。

 ガリレオにしろ、ニュートンにしろ、その時代の科学者のほとんどが、同時に神への信仰の篤い人であったことは言うまでもない。それは、むろん時代のせいでもある。しかし、彼らには、神と神が創りたもうた世界の秩序に対する信仰があり、同時に神によって、神に似せて造られた理性的存在である 「人間」 には、そのような秩序を知ることが可能なはずだという信念も所持していた(と思う)。

 たとえばラッセルのお師匠であったホワイトヘッドという人は、『科学と近代世界』 という著書の中で、「広く人々の間に、事物の秩序、とくに自然の秩序に対する本能的確信がなければ、生きた科学はありえない」 と書いている。初期の科学者らにとってのそのような 「自然の秩序に対する本能的確信」 とは、ようするに、神によって創造された世界には必ず美しい秩序が存在するはずだ、という確信のことであった。

 むろん、このような神とは、もはやギリシアの神々のようにお酒を飲んで酔って暴れるような神でも、イスラエルの神のように、些細なことで癇癪を起こして 「大洪水」 を引き起こすような神でもない。そのことを、ホワイトヘッドは 「エホバの人格的力とギリシャ哲学者の合理的精神とを併せ持つものと考えられた<神>の合理性を、中世の人々があくまで強調したことに由来する」 というように指摘している。

 現在の科学は、中世の 「哲学」 の中から生じ、そこから分化したものである。ニュートンは、自分の主著に 『自然哲学の数学的諸原理』 という題をつけている。そこに違いがあるとすれば、彼ら科学者は、もはや中世の哲学者や神学者のように、抽象的な思弁だけで世界を理解し、それによって一挙に 「絶対的真理」 を把握するといった野望は持っていないということだけだ。

 話はかわるが、星雲からの星の誕生を説いたことでも有名なカントは、『純粋理性批判』 の中で、神の存在を証明する論法として 「自然神学的証明」 「宇宙論的証明」、さらに 「存在論的証明」 の三つをあげている。

 「自然神学的証明」 というのは、ようするに宇宙を含めた自然の素晴らしさや美しさに感嘆するところから始まる。夜空に瞬く星や野原に咲き乱れる花、色彩豊かな動植物などを見て、ほほぉーと感嘆し、そこに偉大な力の存在を感じて、これこそ神が創りたもうたものなり、と感激するということである。

 次に 「宇宙論的証明」 とは、リンゴはちゃんと木から落ち、太陽は毎日ちゃんと東から昇り、決められたとおりに運行するというような世界の秩序正しさに感嘆するところから始まる。誰かが自分の作った設計図に従って、合目的的に世界を創造したのでないとすれば、なぜにこのように世界は秩序正しく進行し、存在しているのかということだ。

 最後の 「存在論的証明」 というのは、デカルトも用いたもので、「神とは完全な存在である。完全であるということは 「存在」 ということを含む。したがって、神は存在する」 という、ようするに一種の詭弁でありただのトートロジーにすぎない。

 ホワイトヘッドが指摘しているような、初期の科学者による自然探求の背後にあった 「確信」 とは、まさにカントが二番目にあげた 「神の宇宙論的証明」 に通じるものだろう。不可知論的な結論を引き出した量子力学に対して、アインシュタインが 「神はサイコロを振らない」 と言ったというのは有名な話である。もっとも、この場合はしゃれた言い回しという以上の意味はないだろうが。

 たとえば、惑星の公転法則で有名なケプラーは、宇宙は音階と同じ調和的法則によって支配されていると信じていたピタゴラス主義者であった。そして、宇宙を支配する秩序に対するそのような強い信念があったからこそ、今のような望遠鏡もない時代に、視力がどんどん衰えるのも気にせずに、毎夜観測とそこから得たデータの計算に励み、その結果、画期的な業績をあげたのである。

 しかし同時に彼は、星が人間の運命に影響を及ぼすことを信じて、占星術に凝るような魔術的人物でもあった。ニュートンもまた、晩年には交霊術にはまったことで有名である。だが、そもそも人間の活動というものは、すべてなんらかのそれ自体は非合理的な信念や情念に根拠を持つものである。それは、科学者の場合でも同じだろう。バルカン星人のようにつねに冷静であって、なんの情念も情熱も持たない者には、科学的真理を追究するというような面倒なこともできはしまい。

 ただし、そのような研究者の背後にあり、彼らを研究に駆り立てた、非合理的な 「信念」や 「信仰」、「情熱」 と、その結果や成果の妥当性とはまた別の問題なのである。もしも非合理的な 「信念」 だけで暴走すれば、たとえニュートンのように、どんなに過去に業績をあげた一流の科学者であっても蒙昧に陥る。そういう 「落とし穴」 の存在は、今も昔も変わりはしない。

 上で言ったように、科学的思考というものは、たとえ合理的であったとしても抽象的な思弁だけで一挙に 「絶対的真理」 なるものを獲得することを断念し、目前の経験から思考を始めることから始まる。そこで求められるものは、絶対的で普遍的な真理などではなく、あくまでも限定的な、しかしその限りにおいて確実な真理である。だから、科学的真理なるものが 「絶対的真理」 などではないことはそもそも自明のことなのだ。

 ただ、科学というものに 「限界」 がないとすれば、それはその研究者たちによって、つねにその 「限界」 が意識されている限りのことでもある。なんの問題であっても、「限界」 を意識するということは、その 「限界」 を超えていくための前提である。それは、いつの時代でも、おのれの 「無知」 と 「未熟さ」 を知っている者のみが、その先へ進むことを許されるというのと同じことだ。







Last updated  2008.12.23 16:54:06
コメント(8) | コメントを書く
2008.01.23
カテゴリ:科学・言語

娘: ねえねえ、リンゴってどうして木から落ちるの?

親: それはね、地球が引っ張ってるからだよ。

娘: ねえねえ、それじゃあどうして地球の裏側にいる人は、
    逆さになってるのに落っこちないの?

親: それはね、地球がその人たちを落っこちないように
    引っ張っていてくれるからなのだよ。

娘: ふーん、でもどうして地球はそんなにみんなを引っ張ってくれているの?

親: それはね、地球がみんなをとても愛しているからなのだよ。
    地球はね、みんなが宇宙に放り出されて迷子になったりしないように、
    みんなのことを優しく気遣っていてくれてるんだよ。

 冒頭から、いきなり 「いい話」 をしてしまった。ま、それはともかく、17世紀にニュートンが空間を超越して作用する 「万有引力」 という概念を発表したとき、機械的な世界観をよしとする、フランスなどの一部の合理主義者からは 「神秘主義」 の復活ではないのか、という批判を受けたそうである。

 実際、通常の力というものは、互いに接触することで相手に力を及ぼしている。紐で結ばれているわけでもないのに、互いに引っ張り合う力というのは、よく考えてみれば不思議なものである。それは、相手の体に触れることなしに相手をふっとばすという、気功師の発する 「気」 というようなものにどこか似ている。

 同じようにニュートンがまとめた 「慣性の法則」 にしても、物質を生命を持たない死んだものとみなす機械論的世界観の持ち主からは、やはり一種のアニミズム的で神秘主義的なものに見えたのかもしれない。空間の中を浮遊しながら互いに力を及ぼしあっているというニュートンの物質観には、たしかにドイツの神秘主義者であったベーメの 「物活論」 的な思想に通じるものがある。

 さて、この不思議な引力というものの正体が、現在どこまで解明されているのかは、専門家ではないからよく分からない。自然界に存在する様々な力の統一を目指した、かのアインシュタインは、重力波なるものの存在を予見していたそうだが、その存在を示す直接的な証拠は、残念ながらまだあがっていなようだ。

 ところで、ニュートンという人、今でいうこっくりさんのような降霊術に凝っていたらしい。エンゲルスの 『自然弁証法』 によれば、晩年のニュートンは予言書として知られる 「ヨハネ黙示録」 の解釈に懸命になっていたそうだ。まあ、それはともかく、そういった彼の傾向が、「万有引力」 という一種トンデモな発想を可能にしたということはあるのかもしれない。

 また、電気や磁気などの現象に関する初期の研究者の中には、錬金術師として有名なパラケルススのような神秘主義者の影響を受けた人たちも多かった。たとえば、18世紀オーストリアの医師であったメスメルが提唱し、当時一世を風靡した 「動物磁気」 治療というのも、今から思えば一種の 「疑似科学」 のようなものである。

 しかし、科学者というのも、われわれと同じごく普通の人間なのであるから、このような不思議な現象だとかについて研究しているうちに、いろいろと変な方向に想像力を刺激されたり、妙な名声欲などにかられたりして、結果的に道を踏み外してしまった人がいたとしても不思議ではない。

 そういうわけで、近代科学の歴史を見ると、一種 「トンデモ」 な発想や関心から画期的な理論や成果が生れたという例も珍しくはない。また、とりわけ不確定なことが多い、発展途上の分野などでは、しばしば科学的な思考と非科学的な思考とが混在したりもするものだ。

 いうまでもないことだが、想像力というものはどんな人間の活動にも欠かせないものである。だが、そのような発想や想像から生れたものが、科学として整備されていく過程は、同時に、その中から不純な夾雑物が除去され、合理的な理論として純化されるという過程でもあるだろう。

 近代化学が、「賢者の石」 を求めた中世の錬金術から発生したという話は有名だが、その意味では、近代以前の思想と近代の科学とは、確かにいろんなところで結びついている。だが、だからといって、現代に錬金術を蘇らせようなどという人は、たぶんいないだろう。

 まっとうな科学と、そうでない科学との間に明確な線を引くことは困難であり、現実的には不可能なことでもある。それは、ときには複雑に絡み合っていることもあるし、どんな科学だって、最初から完全な形で現れるわけはない。それに、サルトルを批判したさいにレヴィ=ストロースが言ったように、未開人の思考と近代人の思考の間に、決定的な差異や対立があるわけでもない。

 「水伝」 のような馬鹿話はともかくとして、ちゃんとした教育を受けた人であっても、ちょっとしたことで道を外れることはじゅうぶんにありうることだ。「科学」 を装ったオカルト話はそこらじゅうに転がっている。要するに、世の中というもの、いつの時代であれ、落とし穴はどこにでもあるのであり、そのような危険から免れている者などは一人もいやしない。

 であるから、われわれ一般庶民としては、とりあえず、難しい話は専門家に任せるとしても、結局は 「科学」 とか 「科学的」 とかいう言葉を安易に持ち出したり、それらしく見せようとしている人々らを、軽率に信じ込まないということが一番必要なのだろう。そして、それこそが、本来の科学的な批判精神という言葉の意味にも適っているはずである。

 なんであれ、安易でお手軽な道ばかりを選ぶことは、素朴な善意のみを頼りとすることと同様に、 「地獄」 へ通じる近道なのでもある。


追記:
 「陰謀論」 的発想と 「疑似科学」 的言説が融合している最近の例としては、ネット上で流布している、米軍がさまざまな 「超兵器」 を開発して、一般市民を対象にひそかに実験しているというような話があげられる。







Last updated  2008.01.25 06:30:29
コメント(6) | コメントを書く
2008.01.05
カテゴリ:科学・言語

 つらつらと考えるに、現代の科学・技術は非常に発展していて、そのため一般の人間にはなかなか理解しにくいところがある。たとえば、相対性理論による 「浦島効果」 だとか、量子力学による測定結果に対する測定の影響だとかいう話になると、われわれ一般の人間にはまったくちんぷんかんぷんである。

 たとえば、私はいまこうやってキーボードをカシャカシャ叩いているわけだが、それがなぜ漢字だのひらがなだのといった文字となってモニター画面に現れ、さらにはブログ記事として表示され、多くの人々の目に留まることになるのか、正直言ってまったく分からない。

 技術というもののよいところは、そのように、技術の基盤となっている科学的な原理というものが全然分からなくても、とりあえず使い方さえ覚えれば、だれにでも同じように使えるというところにある。そういうわけで、一般大衆の皆さんは、「なんでだろー、なんでだろー」 などと、難しいことに頭を悩ませる必要もなしに、日々ケータイやパソコンを操作し、テレビやビデオのリモコンを操作しているわけである。

 これはむろん、ありがたい道具を発明し、難しい原理など分からない科学音痴の一般の人間にも使えるように工夫していただいた、科学者や技術者のおかげなのであるから、深く感謝しなければならないことである。

 このような現象には、だいぶ昔に女権拡張論者の顰蹙を買ったCMの言葉をちょっと借りれば、「あなた作る人・わたし使う人」 といった、非対称的な関係がある。極端な話をすれば、多少知能が発達し、おまけに手先が器用なチンパンジーとかであれば、テレビのリモコンを操作して、見たい番組に切り替えるぐらいのことはじゅうぶんに可能なのである。

 ところで、なんでも世の中には、「水からの伝言」 というお話があるそうである。この話を学校でとくとくと生徒にし、それってちょっと問題ありじゃねー、と父兄とかから指摘されると、「科学的に証明されてはいません」 という断りをつけて、謝罪をしたつもりの教師もいるという話である。

 おいおい、ちょっと待てよ。それってどこかおかしくないかい。科学って、いちいちそんなことまで実験して、ありうるかありえないか、証明しなくちゃいけないのかい。

 言うまでもないことだが、音声としての人間の言葉にしても、文字にしても、それ自体に意味なんかあるはずはない。水の結晶が人間の言葉の意味に反応するというのなら、少なくとも水には、人間が発した音声を単なる空気の振動としてではなく、日本語という言語規範にもとづいた表現として理解するという能力がなければならない。

 たとえば惑星ソラリスの海ならば、人間の思念を探り出し、それに合わせた形象を作り出すことができるのかもしれない。ソラリスの海がどのような化学的組成でできているのかは知らないが、それと同じようなことが、水素と酸素という単純な原子が2対1で結合したにすぎない、ただの水に可能なのだろうか。

 ようするに、こういう問題は、そもそも科学的に証明されているとか、いないとかいう以前の問題なのであり、それこそありえない話なのである。そこのところで、「科学的には証明されていません」 なんて断り書きをつけるのは、それこそ、問題のありかをぜんぜん理解していないことを示した、二度びっくりのおかしな話というべきだろう。

 なにも、科学が万能だのといったことが言いたいわけではない。だが、そういうことを言っている人を見ると、なんじゃらほいという感じがしてならない。そもそも、「水伝」 の話など、相対性理論だの量子力学だのといった超難解な話でもない。そんなことがありえるかどうかなんてことは、いちいち科学的な実験などする必要もないことだし、世の中の科学者の皆さんだって、そんな仮説の検証をするほどひまでもないだろう。

 思いっきり文系の人間が口を出すのもなんであるが、科学的な仮説というものは、いくら仮説だからといっても、なんでもありというわけではないだろう。世の中の2つの現象をテキトーに取り出して、その関係をいちいち実験で検証しなければ、ありうるか、ありえないか、なにも論じられないというのなら、そもそも人間の論理的で抽象的な思考能力など、いらないというのと同じである。

 近代科学の成立というと、たとえばベーコンによる 「帰納法論理」 であるとか、ガリレオによる実験の利用だとかいったことがあげられる。たしかに、そうだろうが、そのような 「科学的手法」 だとて、ある日突然に成立したわけではない。

 その基盤には、長い歴史の中で鍛えられてきた哲学や論理学というものがある。科学的方法論というのも、そのような思考を基盤にしているのだから、ただの思い付きではない、科学的仮説というならば、最低限の論理的な可能性ぐらいは、備えていなければなるまい。

 これはどうも、しばしば、科学の方法論というものが、2つの現象を比較して、その間の 「関数的関係」 を探るという、中身抜きの機能主義に切り縮められ、その結果、「仮説」 とその 「検証」 という形式的な手続き論のみが科学であるかのように矮小化されて、理解されていることにも原因があるように思える。

 現代の技術には、 「原因」 と 「結果」 をつなぐ連鎖があまりに複雑になりすぎたためか、素人にとっては、中身の見えないブラックボックス化しているところがある。

 かつて、ナチの暴力を目の当たりにしたアドルノとホルクハイマーは、文明が野蛮に退行するという現象を 「啓蒙の弁証法」 という言葉で表現したが、いまや大部分の現代人にとって、科学技術というものは、なにやら昔の人が畏怖すると同時に、憧れもした、呪文を唱えさえすればなんでもかなうという、 「魔術」 と大差ないものに退行しているのかもしれない。







Last updated  2008.06.01 01:00:20
コメント(26) | コメントを書く
2007.02.21
カテゴリ:科学・言語

 マルクス主義の歴史でも、マルクスが使っていた 「生産関係」 や 「生産力」 をはじめとする様々な概念について、定義を明確にし理論を精緻化しようとする動きはあった。

 中でも 「土台」=「下部構造」 と 「上部構造」 の関係に関する論争は熾烈なもので、言語は 「土台」 か 「上部構造」 かとか、科学や技術はどっちに入るのかといった論争が、日本でもソ連でもはてしなく続けられたものだ。科学技術にしても、言語にしても、人間の精神的活動に関わるものだから、その意味では 「上部構造」 に属する。しかし、言語が存在しなければ社会は成立しないから 「土台」 のようにも思えるし、技術は明らかに生産力の範疇に属するようにも思える。

 そういうわけで、果てしない論争が続いたわけであるが、今となってはそういった煩瑣な論争に関心を持つ者もほとんどいないだろう。

 いずれにしても、マルクスがいう生産力というものは、鉄が何トン、石炭が何トンみたいなただの数字で表されるものではないし、労働主体である人間そのものや、先を見通して計画を立てたり、創意工夫を重ねたりといった人間の精神的な働きを抜きにして、なにやら実体的な「生産力」そのものが裸の形で存在するわけはない。力自慢の男がただやたらめったらに手足を振り回しても、なにも生産などされないのは自明のことだろう。

 ついでに言っておくと、マルクスの唯物論は単なる 「実体論」 などではない。唯物論といえば物質的存在という 「実体」 しか扱えないと思っている人がいるとすれば、そのような人はたぶん一度もマルクスをまともに読んだことがない人なのだろう。三浦つとむという人の偉さは、こういったくだらない果てしなき論争に対して、「土台」 とか 「上部構造」 とかいう言葉は 「概念」 ではなく、アナロジーに過ぎないと明確に断じたところにも現れている。

 どんな学問にも、独自の対象領域がある。そして、そのような独自の対象領域には、他の領域とは違う特殊な性格がある。たとえば、言語学は言語を対象とするものだし、心理学は人間の心理を対象とするものだ。言語には言語としての特殊性があり、心理には心理としての特殊性がある。自然現象には自然現象としての特殊性があり、社会現象には社会現象としての特殊性がある。

 だから、ある学問についての方法論や概念は、それ自体、その学問の対象領域についての探求のなかから作られなければならないというのも、三浦つとむがよく言っていたことだ。

 対象の特殊性を考慮せずに抽象的な一般的方法論をそのまま押し付けることや、どっか別の学問で上手くいき成果を挙げたらしい方法を、うらやましさのあまり、対象の異なる領域へこっそり密輸入することは、三浦という人がもっとも嫌ったことである。

 社会学に関する厳密な方法論議や概念定義は、ウェーバーあたりから始まったものだろうが、あらかじめ概念を厳密に定義してから社会という対象について論じようというのは逆立ちしている。概念は定義によって得られるのではなく、対象とする多様な現象の複雑さを抽象することで得られるのだ。また、そのようにして得た概念でなければ、単に多様であるだけでなく、つねに変化を続ける現実を説明し記述することなどとうていできはしない。

 「反デューリング論」 の中でエンゲルスは、やたらと「体系」を作りたがるドイツの学者先生たちのことを、「しばらく前からドイツでは、宇宙生成論、自然哲学一般、政治学、経済学等々の体系が、きのこのように一夜のうちに何ダースも生え出す有様である。今ではもう、どんなけちな哲学博士でも、それどころか大学生でさえ、完全な一『体系』にならないようなものには、かかわりあおうともしない」 と揶揄した。

 「デューリング氏の 『体系』 にもう一つ別の体系を対置する」 ことが目的ではないと、エンゲルス自身この中で断っていたにも関わらず、この書物が 「マルクス主義の体系」 を記述したものとして読まれてきたのは不幸なことだが、いずれにしても 「体系」 とか 「一般理論」 とか称するものについては、とりあえず眉につばをつけておくほうが、いつの時代でも無難だろうと思う。







Last updated  2008.11.11 04:28:19
コメント(0) | コメントを書く
2007.02.05
カテゴリ:科学・言語
 瀬戸智子さんの 「枕草子」 というブログに次のようなことが書いてあった。

 学校教育、とりわけ理科教育が偏向していったのは1998年改定「小学校学習指導要領」の「解説理科編」を見ると明らかです。(初等中等教育に関する提言を参照して下さい。)

 「自然の特性は人間と無関係に自然の中に存在するのではなく、人間がそれを見通して発想し、観察、実験などによって検討し承認したものであり、自然の特性は人間の創造の産物である。」と言うのです。

 このような考え方は、たぶん 『コペルニクス的転回』 とやらで有名な、かのカントさんの次のような言葉から始まっているのだと思う。

 それだからわれわれが自然と名づけている現象における秩序と規則正しさとは、われわれが自分で自然の中へ持ち込んだものなのである。もしわれわれがこれを自分のうちに持っていなかったなら、あるいはわれわれの心の自然を現象としての自然の中へもともと入れておかなかったなら、われわれは秩序も規則正しさも自然の中で再び見出すことができないだろう。
                      『純粋理性批判』岩波文庫下巻P.170

 カントさんがいったいなにを言いたかったのかということは、ややこしくて頭が痛くなる話なので置いておこう。

 問題は、「客観的法則」 とはなにか、ということだ。

 よく考えると分かることだが、自然にも社会にも、「客観的法則」 というものはそれ自体としては存在しない。実際に存在するのは、それぞれ勝手に運動している粒子や、また社会であれば人間のような実体だけである。そのような運動する実体の外に、あるいは運動する実体とは別に、人間社会の掟のように、「~しろ」 とか 「~するな」 などと命令する「規則」 としての 「法則」 が存在するわけではない(「規則」 としての 「法則」 なんてややこしい言い方をしましたが、英語やフランス語やドイツ語で言うとどっちも同じですね)。

 しかし、そのような運動を巨視的に全体として眺めれば、一定の条件の下では一定の規則的な運動をしていることが分かる。これは 「客観的に存在する法則性」 であり、これを人間が認識して一定の数式などに定式化したものが 「客観的な法則」 である。

 だから 「客観的な法則性」 は自然や社会に存在する 「事実」 だが、「客観的法則」 とは、そのような現象の研究によって、人間の頭の中に成立した 「認識」 だということになる(ああ、ややこしい)。

 こういう事実としての 「客観的法則性」 と認識としての 「客観的法則」 の違いを明確に指摘した唯物論者というのは、日本ではたぶん三浦つとむが最初ではないかと思う。

 そんなややこしい区別になにか意味があるの、みたいな声が聞こえてきそうだ。確かに普段は別にそこまで区別する必要はないし、そんなことを意識する必要もないと思う。

 しかし、人間の主体性というものを無視してただの機械のようにしか見ない客観主義的な 「俗流唯物論」(「俗流反映論」 などとも呼ばれます)を批判して、人間の実践や観念的な行為を唯物理論的に解明する 「主体的唯物論」 を提唱した三浦つとむという人の本当の凄さは、それまでの唯物論哲学者が見落としていた、こういう一見些細な違いを明確に指摘して、それまで観念論によって展開されてきた 「認識」 や 「行為」 における人間の主体性という問題をも唯物論の枠内に取り込もうとしたところにあるのだ。

 だから三浦によれば、自然法則であれ歴史法則であれ、「客観的法則」 がまるで 「モーゼの十戒」 かなにかのように、それ自体として存在すると主張するのは、実は唯物論ではなくて観念論だということになる。

 これまでのすべての唯物論(フォイエルバッハも含めて)の主要な欠陥は、対象、現実性、感性が、ただ客体あるいは直観の形式でのみ把握されていて、人間的・感性的な活動、実践として把握されず、主体的に捉えられていないことである。そのため、この活動する側面は、唯物論からではなくかえって反対に観念論のほうから展開されるというようなことになった。
                     『フォイエルバッハ・テーゼ』

 ここでマルクスが指摘している 「活動する側面」 を展開した 「観念論」 というのは、要するにカントからヘーゲルまでの 「ドイツ観念論」 のことである。マルクスが唯物論者であることは誰でも知っていることだが、これを読むと、彼がそのような観念論の成果も高く評価していることがよく分かるだろう。

 さて、最初の話に戻ろう。

 自然の特性は人間と無関係に自然の中に存在するのではなく、人間がそれを見通して発想し、観察、実験などによって検討し承認したものであり、自然の特性は人間の創造の産物である。
                 1998年改定「小学校学習指導要領」の「解説理科編」


 問題は、ここで言われている 「自然の特性」 という言葉がなにを意味しているのか不明確だということだ。

 ここまで説明してきたように、「自然の法則」 というものは、確かに 「人間がそれを見通して発想し、観察、実験などによって検討し承認したもの」 である。かりに、上の文章がそういうことを言いたいのだとしたら、それはまったくの間違いというわけでもない。

 しかし、「自然の特性」 とは普通の日本語として読む限り、「人間と無関係に」 自然の中に事実として客観的に存在する事象のことだろう。

 だとすれば、この 「1998年改定『小学校学習指導要領』の『解説理科編』」 はやっぱり変なのだ。 つまり、ここでは事実としての 「客観的法則性」 と認識の成果としての 「客観的法則」 を混同する 「機械的反映論」 と同じ誤りが、ただし反対の形で表現されているのだ。






Last updated  2008.11.11 04:47:51
コメント(5) | コメントを書く
2007.01.10
カテゴリ:科学・言語

 ずいぶん古い話だが、物理学者の武谷三男が 「武谷三段階論」 というのを提唱したことがある(もちろん、私の生まれる前のことです)。これは自然科学における理論の発展を現象論-実体論-本質論の三段階で捉えるもので、たとえば次のように説明されている。

 以上のことから自然認識が三つの段階をもっていることがわかる。すなわち第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行われる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。これは判断ということからすれば、ヘーゲルがその概念論で述べているように個別的判断に当たるものであって、(中略) これを現象論的段階と名づける。

 第二に現象が起こるべき実態的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こるということを記するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬということにはならない。すなわちこれはpost hocという言葉で特徴付けられるもので、これは概念論の言葉でいえば特殊的判断といえるものである。(中略)fur sichの段階でその法則は実体との対応に形において実体の属性としての意味をもつのである。これを実体論的段階と名づける。

 第三の段階においては、認識はこの実体的段階を媒介として本質に深まる。これはさきにニュートンの例において示したように、諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。(中略)an und fur sichの段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり概念の判断である。すなわち任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにするものである。これを本質論的段階と名づける。 
 武谷三男著作集 「弁証法の諸問題」 より 



 以上は戦争中の1942年に発表された 「ニュートン力学の形成について」 という武谷の論文から引用したものだが、ここで彼はニュートン力学の成立にいたる理論発展の歴史を、天動説の支持者ではあったが正確で膨大な天体観測の資料を残したティコ・ブラーエを 「現象論的段階」 に、彼の資料を整理して惑星運行の法則を発見したケプラーを 「実体論的段階」 に、そして万有引力の法則という形で惑星運動の根拠を解明したニュートンの理論を 「本質論的段階」 と呼んだのである。

 武谷によれば、この三段階という発展は一回限りのものではなく、「この三つの段階を繰り返して進む」 すなわち一つの環の本質論は次の環から見れば一つの現象論として次の環が進むというぐあいである」 ということだ。

 高校時代、物理はまったく苦手だったので、力学の発達について論じる資格などはまったくないのだが、科学的 (学問的) な認識は、現象の記述からその背後に隠れている一般的な構造や法則の認識に向かうという意味では、以上の武谷の主張は理解しうると思う。

 この武谷の主張は観念論者ヘーゲルの概念論を参照したためもあってか、戦後復活した旧唯研系の党主流の理論家から、同じ武谷の技術論 (技術とは客観的法則性の意識的適用である) とともに観念論であるとして、いっせいに攻撃を受けた。

 だが、その一方で三浦つとむや田中吉六 (岩波文庫版 『経哲手稿』 の翻訳者)、黒田寛一 (トロツキストに移行する前) らによって支持され、哲学者の梅本克己の問題提起によって始まったいわゆる 「主体性論争」 の論題の一つとしても取り上げられた。ただし、この武谷三段階論が現在どのような評価を受けているのかは、専門的な研究者ではないので分からない。

 ただ、秀さんによる 「抽象化」 についての主張を読んでいるうちにこのことを思い出したのだ。社会的事象であれ、自然的事象であれ、個々の事象は他の事象による様々な影響等を受けているから、当該の事象についての認識を進めるためには、とりあえず他の事象による影響のような非本質的な部分を除去しなければならない (たとえば、落下法則の認識における空気抵抗の除去など)。

 この場合は、対象の認識の障害になる特殊性を除去することであり、たんに捨象することだ (このような特殊性は、とりあえず 「特殊なものの特殊性」 と呼ぶことにする。言語で言えば、たとえば日本語や英語などでの品詞の分類がそうだろう。英語の前置詞や冠詞は日本語にはないし、日本語の助詞は英語にはない。そのかわり、そのような語の役割は、それぞれ別の語や形式で担われる)。

 現実に存在するのは、いうまでもなく個々の特殊な事物である。簡単にいえば柿やリンゴは存在するが、果物一般なるものは存在しない。同じように、実際に存在するのは日本語や英語といった個別の特殊な言語であって、抽象的な言語一般なるものは存在しない。

 しかし、現実に裸のままでは存在しないものの、言語一般の 「本質」 というものを考えることはできるだろう。実際、英語にも日本語にも一般的に共通するなにかが存在していなければ、翻訳も通訳も不可能だということになる。つまり、日本語とか英語とかの特殊な言語にも、当然のことながら言語としての一般性が存在するはずだ。

 これを、上で言った 「特殊なものの特殊性」 に対比して、「特殊なものの一般性」 と呼ぼうと思う。ようするに、特殊性と一般性は外的に対立しているのではなく、特殊性の中に一般性が潜み、また一般性は特殊性を貫くという形で存在しているということだ。ヘーゲルの言う 「特殊性」 と 「一般性」 とは、一般にそういう意味である。

 このように、個々に存在する特殊なものからその中に潜む 「一般性」 を抽出することが、論理的な抽象という働きなのではないだろうか。これは、「特殊なものの特殊性」 を捨象することとは違う。捨象とは余分なものを切り捨てることだが、論理的な抽象とは個々の特殊な対象の中に潜む 「一般性」 を抽出することであって、一定の問題意識に合わない部分を、余計なものだとして、そのかぎりで恣意的に切り捨てることとはまったく違う別のことだ。

 ヘーゲルが 「止揚(揚棄)」 と呼んだのは、このような思惟の働きのことなのではないだろうか (ここで 『小論理学』 を引用したいところですが、ややこしいのでやめておく)。

 自然科学と社会科学とでは、法則性の認識などでは当然大きな違いが出てくるだろう(このへんも、新カント派のリッケルトの 『文化科学と自然科学』 以来、いろいろ論争があるのでしょうが、よう知らんのでおいときます)。しかし、たとえ科学ではなくとも学問と名がつく以上、個別事物の認識で終わるはずがない。いや、そもそも人間の認識はつねに一定の論理的抽象を経なければ可能ではないだろう。もちろん表現についても、同じことだ。

 人間の頭脳は鏡ではないのだから、対象をそのまま映すなんてことはありえない。つねに何らかのレベルで、対象に潜む 「一般性」 を抽出するということをやっているはずである。もちろん、一定の問題意識に合わせて対象の一定の側面に焦点を合わせ、他の側面についてはとりあえず (     ) に入れておくということは、認識を進めていくうえでの手順としてはありうるだろう。

 ただし、そのようにして得られた認識は、そもそも一面的な限定されたものだ。たとえば、宗教というものをその社会的機能に着目して解明するというやり方は、別に否定しない。しかし、そのようにして得られた認識は、「宗教とは何か」 という一番の問いを (     ) に入れとりあえず棚上げにすることで得られた認識であって、本来の問いにはちっとも答えていないような気がする。







Last updated  2009.09.27 16:35:49
コメント(0) | コメントを書く

全7件 (7件中 1-7件目)

1


Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.