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私事・昔のことなど

2009.06.27
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  一昨日のマイケル・ジャクソン死去のニュースには驚いた。まだ50歳、死因は心臓麻痺ということだが、これは前の世代のもう一人のスーパースター、エルヴィス・プレスリーの場合と同じである。プレスリーが死去したのは1977年、42歳だったそうだから、マイケルよりもまだ若い。プレスリーのデビューは50年代中頃であり、若い頃の画像をYoutueで探すと、ほとんどがまだ白黒であるというのには、時代を感じさせる。

 プレスリーが生まれたのはミシシッピ、育ったのはテネシーで、いずれも南部に属する。おそらくは、そのことが、彼の歌に大きな影響を与えたのだろう。家族と写っているプレスリーの少年時代の写真を見ると、戦後すぐの頃のアメリカ南部の白人の暮らしが、けっして豊かではなかったことがよく分かる。今はそうでもないかもしれないが、南部での黒人差別の厳しさは、たぶんそのこととも無関係ではないだろう。

 いっぽう、こちらでは、東国原宮崎県知事の例の発言をめぐって、なにやら大騒ぎのようだ。最初は出馬要請を断るための口実かと思っていたが、そうでもなく、結局、自分が自民党総裁選に出馬することを認めろという話らしい。現在の規約では、出馬には20人の推薦人が必要ということだが、そうすると、出馬に必要な推薦人を党の側で用意してくれということなのだろうか。これもまた、ずいぶんと筋の違うわけのわからぬ話である。

 そもそも、一政党が県民の頭越しに、現職の知事に出馬要請をするというのがおかしな話なのだ。そうであるなら、まずは宮崎県民の皆様に、お伺いを立てるというのが筋だろう。ようするに、この話でいちばんなめられているのは、あいもかわらず地方の住民だということになる。東国原知事がどうするかは知らないが、自民党の支持率が下がっている中、県民を足蹴にするようなことをすれば、選挙がどうなるかはわかったことではない。

 今頃になって、解散権がどうの改造がどうのと言っている、麻生首相や細田幹事長にしろ、なにがしたいのかさっぱり理解できない鳩山弟にしろ、自分の党の都合しか考えず、地方をなめきった古賀選対委員長にしろ、この国の政治家は、自分がとうに裸であることを知らぬ 「裸の王様」 ばかりである。こうも 「裸の王様」 が多くては、目のやり場にも困ってしまうではないか。

 前の記事に続けて、昔の話をもうひとつすると、学生時代の先輩にYという人がいた。神戸の灘高の出身で、話によれば、高校生のときの69年に大阪で行われ、糟谷孝幸という岡山大の学生が死亡した、70年安保の11月決戦デモが人生最初のデモだったというとんでもない人で、亡くなった作家の中島らもと、たぶん同学年ぐらいになるはずだ。

 その人は、おもに在日韓国人支援の運動に関わっており、小倉の大韓基督教会の牧師だった崔昌華さんを招いた講演会などを学内でやっていた。崔昌華という人は、かの金嬉老事件で、彼を説得するために現地静岡の旅館に駆けつけたという人でもあるが、当時はNHKを相手に、自分の名前はサイ・ショウカではない、チョエ・チャンファである、勝手に日本語読みをするな、という訴訟を起こしていた。その後、外国人登録証への指紋押捺拒否の運動なども展開していた。

 当時の日本では、韓国の朴正煕政権は、左派やリベラル派によって軍事独裁とかファシズムなどと呼ばれて強く批判されており、投獄されていた詩人の金芝河に対する支援などの運動もさかんだったのだが、彼は自分が行っている運動に対して、そのようなスローガンが持ち込まれることをいっさい認めなかった。それは、在日韓国人支援の運動にそのような政治的スローガンが持ち込まれ、運動が特定の政治性を帯びてしまうことが、支援していた人たちとその運動に対して不利益となることを、じゅうぶんに理解していたからだろう。

 とはいえ、自分が左翼であることを隠していたわけではない。それは、彼が付き合っていた向こうの人たちも、十分に知っていたことである。彼の下宿に行くと、トロツキーからローザや毛沢東まで、ありとあらゆる著作が壁一面に並んでいるという、とてもただの学生とは思えない人でもあった。とにかく、この人にはとてもかなわないと思わされた人でもある。

 彼には、大学を出たばかりの 「できちゃった婚」 で途方にくれていたところに、自分が勤めていた塾に紹介してもらったりと大恩があるのだが、その後、そこがつぶれてそれぞれ別のところに移り、付き合いが途切れてしまった。風の噂では、その後、弁護士となり、在韓被爆者や在日コリアンの年金などの問題でも活躍しているらしいから、その筋の人なら、誰のことだかたぶん分かるだろう。

 関係ない話だが、70年代には、サルトルファノンも、左翼学生にとっては必読文献のひとつであった。なにしろ、三上寛はあの野太い声で、「サルトル、マルクス並べても 明日の天気はわからねえ」(参照)と歌い、サングラスをかけた野坂昭如は、ウィスキーのテレビCMで、「ニ、ニ、ニーチェか、サルトルか、みーんな悩んで大きくなった」(参照) と下手な歌を歌っていた時代でもある。若い人がサルトルを復権させようというのはかまわないが、そのくらいのことは常識として踏まえておくべきだろう。

 もうひとつ、宗教団体(?)である幸福の科学が、選挙に参加するために幸福実現党なる組織をつくり、あちらこちらで運動している。こちらでも青いTシャツを着て、のぼりを掲げた運動員を街頭で見かけたのだが、幸福を実現するという言葉を掲げれば、幸福が実現できるのなら誰も苦労しない。運動にとって、スローガンというのはたしかに重要だが、看板だけの中身のないスローガンや、理解しがたいスローガンでは意味がない。







Last updated  2009.06.29 01:37:42
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2009.06.19

 イラン情勢がたいへんのようだ。先週に行われた大統領選挙では、保守派とされる現職のアフマディネジャド大統領が約65%、改革派と言われるムサビ元首相が約32%というほぼ2対1の大差で、現職大統領の再選ということになったのだが、敗れたムサビ支持派が選挙の不正を訴えて各地で抗議行動を広げている。

 首都テヘランでは、ムサビ支持派による数万規模の無許可デモが行われている。すでに死者も出ているらしいが、これは、ちょうど30年前に起きた、パーレビ王朝が倒された革命以来、最大の反政府運動ということになる。30年というのは、出生率の高い国なら、国民の半分以上が入れ替わるぐらいの長さになるだろう。フランス革命後の混乱が、ナポレオンの敗北で終息したのも、蜂起からほぼ30年後のことである。

 振り返ってみると、イラン革命が起きた1979年というのは、国際的な大事件の相次いだ年であった。1月には、カンボジアのポルポトを支援する中国が、ベトナムに対し懲罰と称して戦争をしかけ、7月には中米のニカラグアで独裁者のソモサ政権が倒れた。10月には韓国の朴正煕大統領が側近の部下に射殺され、12月にはソビエトによるアフガニスタン侵攻が始まった。

 朴正煕暗殺事件のときは、たしかある障害者団体がやっていた街頭カンパの支援に引っ張り出されていたような記憶がある(違うかもしれない)。ただし、その知らせを聞いたのがどういう経緯だったのか、詳しいことは思い出せない。ひょっとすると、号外でも出たのかもしれない。

 その年というのは、本来なら大学を卒業する予定だったのだが、諸般の事情により翌年までお預けになってしまった。早い話、ろくに講義に出ていなかったから、卒業のための単位が足りなかったというだけのことなのだが。

 前年に、京都大学の同学会が主催した集会があって、そこでの集会後のデモでお巡りさんになぐられて、気がついたらどこかの病院に寝かされていた。そのときは一週間で退院したのだが、帰ってきてもどうも目の調子がおかしい。左右の視線がきちんとあわない。それで、地元の病院で見てもらったところ、右目の眼球の下の骨が折れているという話だった。

 結局、手術をして、まあよくはなったのだが、病院から出てきてみると、今度はまわりの連中と話があわない。中越戦争で、中国を支持しベトナムを非難するビラを出したり、ソ連を「白くま」と呼んで非難するビラを出したりと、まるでいっぱしの政治党派のような活動を始めていて、およよと思ってしまった。

 そのへんのことには、いろいろと裏があったのだが、こんなバカな連中と一緒にやれるか、ということで足を洗った。ぼこりあいにこそならなかったけれど、気まずい別れであった。当時すでに、カンボジアの虐殺のニュースもちらほらと流れていたのだが、そういった現地の事情も知らずに、ようもまあそんなことが気軽に言えるよな、と感心したのを覚えている。

 その連中が、今どこでなにをしているのかは、ほとんど知らない。学生時代には、青やら赤やら、あちこちにいろいろと知り合いもいたのだけれど、その連中ともほとんど付き合いはない。ただ、一度だけ、地元のニュースで、行政相手のつまらぬ事件の容疑者として、ちょっと知っていた者の名前が出てきたことがあって、おいおい、お前、まだそんなことをやっているのかよ、と呆れてしまった。

 その当時、それから10年後にソビエトが解体し、鉄のカーテンで仕切られた 「社会主義圏」 なるものがいっせいに崩壊してしまうとは、いったい誰が予想していただろうか。まことに、十年先は闇である。今から考えれば、当時のアフガンやアンゴラでの無理な膨張政策と、アメリカとの軍拡競争が、彼ら自身の首を絞めたということなのだろうが。

 話は変わるが、社会において不利な立場にある少数者や、いろいろな理由で自らは声をあげにくい人らを支援し擁護することは、むろん否定されるべきことではない。しかし、その場合に真っ先に考えられねばならないのは、なによりも当事者であるその人たちの立場であり、利益でなければならない。

 「日の丸」 反対だの、天皇制反対、ファシズムがどうのという主張がしたければ、そういう運動とは切り離して、自らの責任ですればよい。たとえ、その主張に一定の正当性があろうと、それとこれとは別の問題だ。それを混同するのは、少数者の権利擁護という社会運動に、政治的な主張を持ち込むことであり、そういう人たちを、自らの政治的主張のために利用していることにすぎない。それが分からぬというのであれば、君らは、自分らが支援しているつもりの人たちの利益を本当に考えているのか、という話になる。

 ベスト電器の不正ダイレクトメール事件から始まった、自称 「障害者団体」 の認可をめぐる問題は、郵便会社職員の逮捕から、とうとう厚労省の官僚逮捕というところにまで発展した。事件の背後には、政治家の関与もささやかれているが、この事件というのもよく分からない。そもそも、地検の特捜がわざわざ出張るほどの問題なのだろうか。

 問題の 「第三種郵便物」 というのは、障害者団体向けの郵便物割引制度のことだが、連れ合いが持っている古いパンフ類を内緒で引っ掻き回していたら、「社会福祉事業団体 日本脳性マヒ者協会 全国青い芝の会総連合会」 という団体が発行していた、ぺらぺらの機関誌がでてきた。これには、ちゃんと裏側に 「第三種郵便物認可」 と印刷してあるから、不正ではない。

 くしくも、これも1979年の発行で、「故横塚晃一会長追悼号」 と題されていた。横塚さんというのは、青い芝の会の指導者で、その世界では伝説的人物といってもいい人だが、生前に会ったことはない。ただし、副会長だった横田弘という人は、全国大会で一度だけ顔を見たことがある。当時、福岡の会長を務めていたN氏に、お前ついて来いと言われて、しかたなくついていったのだが、そのときの大会がどこで行われたのかは、とんと思い出せぬ。なにしろ、30年も前のことであるから。

 そういえば、先日、地元のニュースでこのN氏の姿が流れたのだが、顔は変わらぬが、頭のほうはすっかり悲惨なことになっていた。やっぱり、昔の仲間だとか友人などというものには、あまり会わないほうがよさそうである。お前、誰だよ、とかいう話になりそうだし。紅顔の美少年もいまいずこ、というのでは、笑い話にもならない。

 若いということは、多かれ少なかれ、愚かさや未熟さと同義である。思い返すなら、自分も、いろいろと愚かなことをしたものである。とても人様のことをあれこれと言えた義理ではない。ただ、自分の愚かさが自分に返ってくるのはしかたないとしても、関係のない人様の足を引っ張ったり、迷惑をかけぬぐらいの注意は必要だろう。







Last updated  2009.06.20 00:46:26
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2007.09.08
 二年ほど前のことだが、なんだか胸の辺りが少し痛むなと思っていたら、ある日突然急に高熱が出て、息をするのも苦しくなったということがあった。たしか、正月を少し過ぎたばかりのことだったのだが、粉雪が舞い散る寒い中を、ひいひい言いながら近所の病院までたどりつき、レントゲンを撮ってもらったけど、原因が良く分からない。このお医者さん、人柄はいいのだけれど、残念ながら腕はいまひとつなのである。

 そこで、少し離れた大きな病院を紹介してもらって、そこで改めて診察して貰ったら、肺に水が溜まる胸膜炎であるということが判明し、今度は別の病院を紹介されて、そのままそこに入院ということにあいなった。

 胸膜炎には、肺がんなどの悪性腫瘍によるものと、結核菌などの細菌感染によるものに大別されるそうで、血液検査などをいろいろやったあげく、ガンではないということでひとまず安心。詳しい名前はすでに忘れたが、感染した細菌も結核菌ではないということで、結核ならば、堀辰雄や梶井基次郎の仲間になれたのにと、こっちはちょっぴり残念であった。

 昔は胸膜炎も長期の安静と療養が必要だったらしいが、現代ではいろいろな抗生物質が発見されたおかげで、毎日ただじっと点滴を受けているだけで1週間ほどで熱も下がり、2週間後にはめでたく退院ということになった。その間、家人に頼んで家から積読状態で溜まっていた書物を持ってこさせ、食事と診察、睡眠の時間以外は、日がな一日読書に励んだのであった。

 入院している間はもちろん仕事はなにもしなかったし、なにからなにまで看護師さんたちが面倒をみてくれる。食事の準備もする必要がない。それに大部屋であったから、日頃触れることのない、一般庶民の生活に触れることもできたし(うそです)。

 というわけで、まことに至福にして優雅な時間を過ごすことができたのであった。ただし、仕事をすべてキャンセルしたおかげで、その次の月の収入は激減したのだが。

 たまには、入院もしてみるものである。最近またまた買っただけで、読んでいない本が山のように溜まっているので、もう一度、なにか命にかかわらずに1、2週間ほど入院できる程度の病気にでもならないかと、いささかわがままなことを考えているのだが、こういうことはなかなか自分の思いどおりにはいかないものだ。

 しかし、医療保険料や医療費の負担とかが、このままどんどん上がっていくと、そういう贅沢も言ってられなくなるかもしれない。

 ところで、洪水で多摩川の河川敷に取り残された人のニュースを聞いたとき、はじめは台風の来襲が分かっているのに河原でバーベキューでもしていたお馬鹿さんかと思っていたが、そういうことではなかった。天災の被害というものも、けっして万人に平等ではないのである。






Last updated  2007.09.08 12:38:18
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2007.01.13

 父と子の相克というのは、ツルゲーネフの 『父と子』 とか志賀直哉の 『和解』 など、多くの近代文学のテーマになっている。青森の大地主の家に生まれた太宰治もまた、父親が亡くなってからも、父という存在に反抗し続けた人だと言っていい。しかし、その一方でそのような反抗が、しばしば 「甘え」 の一つの形態であることも否定できないだろう。

 いささか奇矯な比喩かもしれないが、親に死なれるということは時間という見えない敵、しかも人間にはけっして勝ち目のない敵との戦いの中で、始めは隊列の後方にいたはずなのに、気がつくといつの間にか前方の部隊がすべて倒され、戦いの最前線に立たされているといった感覚で表されるような気がする。

 もちろん若くして親に死なれた人にとっては、それ以上に現実的な困難が存在するのだろうが、そのような感覚は、たぶん親の死をいくつで迎えても変わりないだろう。

 私の父は旧制高等学校といわゆる帝国大学をでた人で、困った意味での 「エリート意識」 が終生抜けない人だった。そのまた父はもともと田舎の神官の家の出で、旧制中学校の教師となり、校長まで務めた人だったそうだ (小学生のころに亡くなったので、いくらかの記憶はある)。

 祖母のほうは小学校の教師だったそうだから、丸山の定義で言えば、インテリと亜インテリの境目あたりに位置するということになるのだろうか。だが、ほんとうはそんなことはどうだっていいのだ。

 何事も自分が一番という意識が強烈な人で、人付き合いはけっしてうまいほうではなかったから、学歴こそ高くても、現実社会では必ずしも上手く立ち回れるほうではなかったろう。

 「寮歌祭」 などという回顧趣味のじいさんたちの集まりには、はかまに下駄、破れ帽子という時代遅れの格好で必ず参加し、晩年はなぜかベートーベンの 「第九」 合唱に凝りだして日本中はおろかウィーンまで遠征し、さらには右翼イデオローグを自認して、南京虐殺や朝鮮人の強制連行、慰安婦の存在に異を唱える活動を始めたりと、まあ一言で言えば、「天下国家」 を論じるのが三度の飯より好きだという困った人だったのだ。

 当たり前のことだが、子どもは親の人生のせいぜい半分しか知らないものだ。私は父が38歳のときの子で、しかも大学卒業と同時に勘当同然で家を出たので、たぶん三分の一ぐらいしか知ってはいない。

 父親への反感のようなものが芽生えだしたのは、たぶん高校のころからだったように思う。高校時代は勉強をほとんど放棄して文学にのめりこみ、大学に入ってからはいっぱしの活動家を気取って九州くんだりから狭山だ三里塚だと、東京や成田の集会までわざわざ出かけたものだ。

 年老いた父が私のことを、こいつは学生時代ノンセクトラジカルで大学の玄関のガラスドアを割ったことがあるなどとなにやら自慢げに人に紹介しているのを横で聞いて、あきれてしまったものだが、俗気と反俗気が奇妙に入り混じった人だったのだなと思う。

 うちの同居人に言わせると、最近私は父に似てきたそうだ。そう言われると、父に比べると一見おとなしそうで協調性がありそうに見えるが、腹の中ではやはり自分が一番だと思っている。

 それに、知識をひけらかすことや大言壮語が好きなところ、やたらと人に論争を吹っかけたがるところなどは、やはり父に似ているのかもしれないと思うようになった。いや、そのようなところを父のように表面には出さずに、腹の中に隠している分だけ、私のほうが厄介なのかもしれない。

 戦争で父が送られたのは、激戦地のビルマだったそうだ。そこで最後はマラリアに罹り、イギリス軍の野戦病院に入れられて九死に一生を得たというような話を、自費出版した本に書いている。そこでの生と死は文字どおり紙一重の差しかなかったのだろう。

 だが戦後一サラリーマンとして生きてきたはずの父が、なぜ七十を過ぎてから、年賀状では西暦の代わりに皇紀を記し、憲法改正や 「自虐」 史観批判の運動に携わるようになったのかは、今でも謎のままだ。







Last updated  2010.01.29 15:07:21
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2006.12.16

 「男たちの帝国」(星乃治彦著:岩波書店刊)という本を読んだ。題はちょっと変わっているが、著者はドイツ近現代史の専門家で、副題は 「ヴィルヘルム2世からナチスへ」 となっており、宣伝用の帯には 「セクシュアリティから歴史を問い直すクィア・ヒストリー」 と書かれている。

 本の冒頭では、第二次大戦中にドイツの暗号解読などで成果をあげ、コンピュータ開発にも貢献したイギリスの天才的数学者、チューリングが、「同性愛」 という 「犯罪行為」 で逮捕され、(イングランドでは、1998年まで同性愛は刑罰の対象だったという)、最終的に自殺に追い込まれたことや、アップルのリンゴのロゴが、自殺した彼に対するオマージュではないかといった話が紹介されている。

 本論にはいると、まずビスマルクを失脚させて対英仏強硬路線をひた走り、第一次大戦を引き起こして、ついにはドイツ帝国そのものを崩壊に追い込んだウィルヘルム二世を巡る男性同性愛という 「スキャンダル」(皇帝とその寵愛を受けた男性の側近の同性愛的関係)について論じられている。

 さらに、ワイマール共和国時代の同性愛者による解放運動、また突撃隊長レームに象徴されるミソジニー(女嫌い)を軸にしたナチス内部の戦士共同体的な男性同性愛、そして、レーム粛清後、ナチス政権によって進められたいわゆる 「強制的同質化」 の中で行われた、隔離や去勢・断種といった、彼らに対する様々な 「処置」 について紹介されている。

 ただし、著者によれば、ナチスによる同性愛者への弾圧は、ユダヤ人に対する弾圧ほどの組織性には欠けていたということだ。それは、ナチスにとっても 「同性愛」 という問題が明確に定式化されることがなかったからだと、著者は指摘している。もっとも、そのことは、運悪く弾圧の対象となって、強制収容所に送られた同性愛者を待ち受けていた運命の過酷さを減じるものではもちろんない。

 フェミニズムや同性愛者の解放運動を、政治的な課題と直結させているかに見える著者の方法には、やや疑問が残るが、様々な興味深い史的事実を、歴史の暗部から拾い上げてきた筆者の努力は諒としたい。

 最後に、やや個人的なことを述べると、著者は私の大学時代に、「政治史」 に関する同じゼミで学んだ人である。彼が、自分自身が同性愛者であることを明らかにした部分を読んだところでは、正直に言って軽い眩暈のようなショックを覚えた。

 著者と私とは同じゼミに二年間在籍したとはいえ、必ずしも親しかったわけではない。当時、彼は国内最大の左翼政党の支持者であり、こちらはそれに対して批判的な立場にあったからだ。

 ただし、当時の印象としては、彼は党の主張を丸呑みにして、批判者を頭から敵視するゴリゴリの活動家ではなく、われわれの批判にも静かに耳を傾けてくれる、穏やかな人であったように思う。ただ、当時、彼がそのような悩みを抱えているということは、まったく思いも及ばぬことであった。

 それは、彼とそれほど親しい仲ではなかったことを考えれば仕方ないことかもしれないが、それでもなにか消化しきれないものが残る。当時の自分は、他人の苦しみに対して鈍感な傲慢な人間ではなかったのか。それは、今なお考える価値のあることのように思える。







Last updated  2009.03.24 06:22:05
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