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歴史その他

2010.05.08
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カテゴリ:歴史その他

 なんの本にあったのか忘れたので、違っているかもしれないが(したがって、実話かどうかは確認できない)、革命から間がない内戦中のある日のこと、当時、チェーカーの議長だったジェルジンスキーが会議中のレーニンに、「反革命」 分子として収監している囚人のリストを渡したという。

 会議に没頭していたレーニンはメモに目を通したあと、×印のようなものをつけて、ジェルジンスキーに返した。メモを受け取った彼は、そこにある×印を見て、「処刑」 の指示だと思いこみ、リストにあった全員を即刻銃殺した。

 ところが、あとで分かった話によると、実はレーニンには、日頃から目を通した書類にたんなる 「確認済み」 の意味で印をつける癖があったという。もっとも、いずれにしてもレーニンの指令で、多くの人間が 「反革命」 の罪により処刑されたことは、紛れもない事実ではある。

 チェーカーとはロシア国内の反革命を取り締まる非常委員会のことだが、後にGPUに改組され、その初代長官もジェルジンスキーが務めている。なので、これはその時代のことなのかもしれない。GPUはようするにロシアの秘密警察であり、途中、いろいろと名前は変わっているが、最後は今のロシアの隠れ大統領であるプーチンが、かつて属していたKGBにまでつながっている。

 ジェルジンスキーはもともと、ポーランドの貴族出身だそうだ。つまり、リトアニア出身のユダヤ人だったローザ・ルクセンブルグとは、一時は盟友関係にあったのだが、ローザはドイツに移住し、いっぽうジェルジンスキーのほうは、政治犯として収監されていたロシアでそのまま革命に参加し、やがてレーニンの重要な配下のひとりとなっていく。

 レーニンがチェーカーの仕事を彼に任せたのには、当然その 「真面目」 で 「高潔」 な人柄に対する信頼もあっただろう。だが、おそらくは彼がロシア人ではなく、おまけに党にとっても新参者であったため、ロシア国内のいろいろな政治勢力をめぐる、複雑な人脈だの関係だのにわずらわされずにすむだろうという計算も、あったのかもしれない。

 客観的に見るならば、ジェルジンスキーは党の新参者であるばかりに、「暴力」 の行使という、誰もがいやがる 「汚れ仕事」 を押し付けられたことになる。政治路線については、民族問題やドイツとの講和などで、レーニンと対立したこともあったが、党と革命への忠誠ということでは、ゆるぎなき 「良心」 の持ち主であり、野心や権力欲はもちろん、のちのベリヤのような暴力的な性癖とも無縁の人物であったとされている。

 貴族の家に生まれた彼が革命運動に跳びこんだのは、いうまでもなく、抑圧されている貧しい民衆に対する 「愛」 であり、「良心」 によるものだっただろう。そのような彼にとって、いくら 「革命」 のためとはいえ、処刑というような行為が決して心地よかったはずはない。任務を終えたあと、彼はしばしば苦痛にゆがんだ蒼ざめた顔をしていたという。

 つまるところ、彼もまた 「正義の人」 であったのであり、革命家としての 「良心」 に基づいた、「テロル」 の行使という任務の裏で、彼個人の良心もまた血を流し、うめき声をあげていたに違いない。そのせいかどうかは分からないが、彼は革命の九年後、レーニンのあとを追うように急死している。

 ちなみに、やはりポーランド出身のユダヤ人で、トロツキー派のコミュニストから歴史家へと転じたアイザック・ドイッチャーは、『武力なき預言者』 の中で、「ゲ・ペ・ウにはいって仕事ができるのは、聖者か、でなければならずものだけなのだが、今では聖者は僕から逃げ出してゆき、僕はならずものだけとあとに残されているしまつだ」 という、GPU長官時代の彼の言葉を紹介している。

 ところで、ナチス時代のドイツに、少数ながら残されていた、ナチへの協力に抵抗した人々について、やはりユダヤ人であるハンナ・アレントは、それはイデオロギーや思想などの問題ではなく、単に彼らには、友人を裏切ったり見捨てる、といった行為ができなかったのだというようなことを言っている。

 これらの人々は、たとえ政府が合法的なものと認めた場合にも、犯罪はあくまで犯罪であることを確信していました。そしていかなる状況にあれ、自分だけはこうした犯罪に手を染めたくないと考えていたのです。 (中略)

 この 「私にはできない」 という考え方には、道徳的な命題が自明なように、その本人にとっては自明なものであるという分かりやすさがありました。「二足す二は五である」 と言うことが<できない>のと同じように、「私には無辜の人々を殺すことはできない」 ことは自明なことだったわけです。 

 「汝、なすべし」 とか 「あなたはそうすべきである」 という命令に対しては、「私はどんな理由があろうとも、そんなことはしない、またはできない」 と言い返すことができるのです。いざ決断を迫られたときに信頼することのできた唯一の人々は、「私にはそんなことはできない」 と答えた人々なのです。

「できない」 という確信
ハンナ・アレント 『責任と判断』
 

 言うまでもないことだが、「良心」 はしばしば盲目であり、「善意」 はきわめてだまされやすい。「良心」 の命令には、「~~すべし」 という命令と 「~~すべからず」 という命令の二種類がある。前者が行為を促す積極的命令であるのにくらべ、後者は消極的な禁止命令にすぎない。

 だが、消極的であるだけに、間違いをしでかしにくいのは、どちらかといえば後者である。しかし、それはおのれが最後に守るべき拠り所でもあり、その意味では、頑強なる抵抗や反攻のためのもっとも堅固な砦でもある。「いざ決断を迫られたときに信頼することのできた唯一の人々」 という彼女の言葉は、ようするにそういう意味だろう。

 この 「できない」 という確信について、アレントは 「良心と呼ぶべきものだとして」 という留保をつけ、義務という性格は帯びていなかったと語っている。たしかにそれは、言語によって規範化された道徳というよりも、むしろ生理的な感覚といったものに近い。

 

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Last updated  2010.05.10 05:19:31
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2010.03.20
カテゴリ:歴史その他

鳥羽院のおんとき 北面に召し使はれし人はべりき。左兵衛尉藤原義清(のりきよ)、出家ののちは西行法師といふ。かの先祖は天児屋根命(あまつこやねのみこと)、十六代の後胤、鎮守府の将軍秀郷に九代の末孫、右衛門大夫秀清には孫、康清には一男なり。

 上の引用は、西行の死から五十年ほどのち、つまり鎌倉時代の中頃に成立したと推定されている 『西行物語』 の冒頭。ただし、俗名は憲清と書かれることもある。なお、藤原秀郷とはかの将門を討ち取った人物で、俵藤太の名前でも知られ、琵琶湖の近くで巨大ムカデを退治したとか、栃木のほうでは百目鬼という妖怪を退治したなんて話もある。

 ただし、秀郷についてのそのような伝説が生まれたのは、西行が生きた時代よりもあとらしい。たとえば、室町に成立した 『俵藤太物語』 では、将門と秀郷の壮絶な死闘が語られており、それによれば、将門はつねに六体の分身をしたがえていて、七人いるように見えるが、分身には影がない、影のあるのは本体だけだとか、全身鉄でできているが、こめかみが弱点で、秀郷はそこを射抜いて倒したとか。

 実在の人物からこれだけシュールな伝説が生じるには、さすがにかなりの時間を要するだろう。とはいえ、『今昔物語』 にもあるように、平安時代というのは鬼や妖怪、怨霊などの超自然的威力が跳梁跋扈していた時代である。であるから、ある人物に対する伝説化の欲求がありさえすれば、そこに摩訶不思議なる伝説を生じさせる素地は、いつでもあったということになる。

 そのような武家の名門に生まれた西行が、二十三歳で突然出家した理由は、はっきりしない。親しかった友人が急死したからとか、高貴な年上の女性に振られたからとか、諸説あるようだが、どれもいささかできすぎている。むしろ、権謀術数うずまく宮中に嫌気がさしたというのが、平凡だがいちばんありそうな気がする。

 平安に限らず、その前の奈良にしても、宮廷内の権力闘争というものはすさまじい。様々な陰謀や政敵へのデマ中傷はもちろんのこと、僧侶や祈祷師を呼んでの呪詛合戦も珍しくはなかった。なにしろ、事件や事故が相次ぐと、誰々の呪いだ、祟りだといった噂がたちまち都中を駆け巡るといった時代なのである。雅な王朝文化なんてのは、しょせんただの表の顔にすぎない。

 それはなにも、非合理的な迷信とかのせいだけではない。同様のことは、権力が少数の閉じた集団に占有されている世界では、いつでも起こりうる。現代だって例外ではないのは、スターリンのような独裁者による政治の末路を見ればよく分かる。そういう世界では、自分にもっとも近い人間こそが、もっとも用心し警戒しなければならぬ相手なのだ。

 いわゆる浄土信仰の流行は、末法思想の広がりに伴うものだが、藤原氏のような上級貴族にとっては、それは現世の栄華を来世でも謳歌したいという、すこぶる利己的な欲求の表れでもあった。頼通が建てた壮麗な平等院鳳凰堂は、そのことをよく表している。道長は 「この世をばわがよとぞ思う」 と詠ったが、それも生きていればの話、死んでしまってはしょうがない。

 厭離穢土・欣求浄土とは、浄土信仰を一言で表したスローガンのようなものだが、信仰がしだいに下級武士や庶民へと広がるにつれて、重点はしだいに 「欣求浄土」 から 「厭離穢土」 のほうへと移動する。そこでは、阿弥陀経に謳われたような、迦陵頻伽が空に舞い、金銀財宝ざあくざくといった極楽浄土の華やかさなどは、もはや問題ではない。

 ただ、戦乱や天変地異に明け暮れ、人の命など無に等しい現世をいとわしいと感じる心だけが、浄土を求める根拠となる。実際、そういった人々は、なにもこの世ではとうてい味わえぬ豪奢な暮らしがしたいというような理由で、浄土を求めたわけではないだろう。

 しかし、そのような悲嘆が 「とく死なばや」 といった死の理念化へとひた走るなら、それは洋の東西を問わず、動乱期にはよくある宗教的急進化の一例にすぎない。そこへいたる心情がいかに純粋であろうと、そのような現世そのものを否定する思想は倒錯でしかない。そのような思想が無視できぬ広がりを持ったとすれば、それは時代のせいでしかあるまい。

 『西行物語』 では、西行は泣いてすがる4歳の娘を縁側から蹴落とし、心を鬼にして出家したなどと、無茶苦茶なことが書かれているが、これではただのよくできた抹香臭い 「聖人伝」 でしかない。実際の西行は、すでにきな臭くなっていた時代の中、奥州藤原氏のもとを訪れたり、その途中で鎌倉の頼朝に会ったりと、世の中の動きにもなかなか敏感な様を見せている。

 『吾妻鏡』 によれば、頼朝との会見を終えた西行は、土産にもらった銀の猫を屋敷の外で遊んでいた子供に与えて立ち去ったという。この話が本当かどうかはともかく、そういったことからうかがえるのは、権力などに関心はなくとも、現世そのもの、言い換えるなら、現世の中で生きる人間そのものは否定しないという思想のありようのように思える。


  願はくは 花の下にて 春死なん、そのきさらぎの 望月のころ

 この歌は、西行が50歳のころに詠んだものらしい。表現こそ直截だが、どこかにのんびりした感が漂っている。気がつくと、もう気の早い桜があちこちで花を咲かせている。







Last updated  2010.03.21 13:45:27
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2010.03.12
カテゴリ:歴史その他

 すでに卒業のシーズンだというのに、列島を襲った寒気と低気圧のおかげで、このところの天気は大荒れだった。こちらでも雪が降ったが、鎌倉の鶴岡八幡宮では、樹齢千年を超える銀杏の巨木がおりからの強風で倒壊したという。

 この巨樹には、鎌倉幕府の三代将軍実朝が兄頼家の子、つまり彼にとっては甥にあたる公暁に暗殺された事件で、犯人の公暁が身を隠していたという伝承があるそうだ。天下を揺るがしたこの事件について、比叡山の座主、慈円は次のように書いている。

夜ニ入テ奉幣終テ、寳前ノ石橋ヲクダリテ、扈従ノ公卿列立シタル前ヲ楫シテ、下襲尻引テ笏モチテユキケルヲ、法師ノケウサウ・トキント云物シタル、馳カゝリテ下ガサネノ尻ノ上ニノボリテ、カシラヲ一ノカタナニハ切テ、タフレケレバ、頸ヲウチヲトシテ取テケリ。ヲイザマニ三四人ヲナジヤウナル者ノ出キテ、供ノ者ヲイチラシテ、コノ仲章ガ前駆シテ火フリテアリケルヲ義時ゾト思テ、同ジク切フセテコロシテウセヌ。(中略)

此法師ハ、頼家ガ子ヲ其八幡ノ別当ニナシテオキタリケルガ日ゴロオモイモチテ、今日カヽル本意ヲトゲテケリ。一ノ刀ノ時、「ヲヤノ敵ハカクウツゾ」 ト云ケル。公卿ドモアザヤカニ皆聞ケリ。カクシチラシテ一ノ郎等トヲボシキ義村三浦左衛門ト云者ノモトヘ、「ワレカクシツ、今ハ我コソハ大将軍ヨ、ソレヘユカン」 ト云タリケレバ、コノ由ヲ義時ニ云テ、ヤガテ一人、コノ実朝ガ頸ヲ持タリケルニヤ。


 公暁に実朝のことを親の仇と吹き込んで、暗殺をそそのかしたのは、彼の乳母の夫である三浦義村だと思われるが、頼家が将軍引退後に修善寺で暗殺されたときには、実朝はまだわずか十二歳であるから、とても事件の黒幕であったはずはない。実際の黒幕はむろん北条氏、具体的には政子の親父であり、つまり頼家にとっては母方の祖父になる北条時政だろう。

 公暁は実朝よりさらに年下であるから、事件当時はほとんどなにも知らなかったはずだ。とはいえ、それから十年以上たった実朝襲撃の時点では、ある程度の真実は知っていただろう。実際、このとき公暁は、実朝に随行しているはずの北条義時の首もとるつもりで、源仲章という別人を殺害している。なお、『吾妻鏡』 によれば、このとき義時は事件現場のすぐ近くまで来ていながら、不意に気分が悪くなり、自分の役を仲章にゆずって引き返したという。

 おかげで、義時は事件に巻き込まれずにすみ、かわりに源仲章なる人物が間違って殺されることとなった。実朝の首を取った公暁は、次はおれが将軍だと豪語して、信頼していたらしき三浦義村に使者を送る。報を聞いた義村は、すぐに迎えをよこすと答えながら、裏では義時にその旨を通報し、義時の命を受けて、迎えではなく公暁を討つよう配下に命じて送り出す。

 結局、公暁は迎えを待たずに、実朝の首をかかえたまま義村の屋敷へ向かうが、途中で義村の討手と出会い、奮戦むなしく、中へ入ろうと義村の屋敷の塀によじ登ったところを討たれたという。慈円はことの顛末を、「頼朝は優れた将軍であったのに、その孫になるとこんなことをしでかすとは、武士の心構えもできていない愚か者よ」 というような、辛辣な言葉で締めくくっている。

 唐木順三は 「実朝の首」 という文の中で、義村が公暁をそそのかして実朝と義時を討たせようとしたものの、義時生存の報を聞いて、急遽寝返ったのではと推測している。しかし、北条にとっても、実朝の殺害は以前からの既定路線であったのだし、この義村という人物、その前の和田一族が討たれた事件でも、盟を結んでいた義盛を裏切って、義時に通報している。なので、公暁は最初からただ踊らされていたに過ぎないのでは、という推測も成り立ちそうである。

 翻ってみるなら、最初の武家政権である平氏政権が、清盛という卓越した個人を中心としながらも、一門としての基盤をもった権力であったのに対し、頼朝の権力は、平安以来の歴史を持つ関東武士団を軸にし、それを束ねることで成り立ったものであった。頼朝が伊豆に流されたのは十三のとき、以来二十年も関東で暮らしていた頼朝は、源氏の嫡流であり、父義朝ゆかりの縁はそこそこにあっても、ほとんどただの亡命者にすぎない。
 
 しかし、将門以来、離合集散がたえず、しかも遠く離れた京の政治などにはさして関心もないような関東武士団を、朝廷に対抗するひとつの権力にまとめあげるには、北条だの畠山だのという個々の豪族すべての上に立つ 「象徴」 としての人物が必要であった。それはむろん 「貴種」 の血を引くものでなければならなかった。

 しかしながら、いったん制度ができてしまえば、トップに立つのは本当にただの 「象徴」、つまりは 「傀儡」 でいいということになる。とりわけ、しだいに他の御家人を排除して、幕府内での独裁的地位を固めつつあった北条氏としてはそうだろう。北条氏から見れば、頼家は頼朝の息子というだけでのぼせ上がったわがまま小僧であるし、京に憧れる実朝は、独自の権力たる関東武士団の存在を危うくしかねない困り者ということになる。

 結局、この事件以降、将軍は京の摂関家や皇族から次々選ばれることになるが、いずれも右も左も分からぬ幼いころに将軍に任じられ、成長するや、ことごとく罷免されて京へ送り返されるということが繰り返されている(参照)。これは、平安時代の摂関政治や院政における幼帝の擁立とほとんど同じである。

 つまるところ、いったん権力が創設されると、そのトップの地位はしだいにただの 「象徴」 と化し、実権はナンバーツーに握られるというのは、どうやらこの国の政治の古きよき伝統なのらしい。そして、ナンバーツーも無能であるなら、権力はやがて下へ下へと移行し、権力装置そのものの拡散と解体にいたる。それは、戦前や戦中の政治過程でも見られたし、小泉退陣後の自民党政治にも、ある程度あてはまる。

 さて、宇宙人と称し、意味不明の宇宙語をしゃべるらしき現宰相のほうはどうなのか。基地移設をめぐる発言にしても、朝鮮高校に通う生徒への学費援助をめぐる発言にしても、あっちに引っ張られ、こっちに引っ張られでくるくると変わっており、一貫性にも合理的根拠にも欠けている。だいたい、拉致問題担当相とかが、どうしてこの話に首を突っ込むんだ?







Last updated  2010.03.12 22:19:35
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2010.02.18
カテゴリ:歴史その他

遊びをせんとや 生れけむ
戯れせんとや 生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ ゆるがるれ

 後白河天皇といえば、平安末期から鎌倉初期にかけての人で、父親は鳥羽天皇、もともとその四番目の皇子という気楽な立場だったので、若い頃は遊蕩三昧の日々を送っていたという。慈円という坊さんが鎌倉初期に書いた 『愚管抄』 にも、彼が父の鳥羽天皇から、あいつは遊んでばかりで、とても天皇になれる器ではないと思われていた、というような一節がある。

 この天皇が、当時、遊女や白拍子など一般庶民の間に流行っていた、「今様」 と呼ばれていた歌謡にこっていたというのは有名な話で、天皇の位をおり出家して法皇となっていた後年、ちょうど鎌倉幕府が成立するかしないかのころに、『梁塵秘抄』 という今様を集めた書物を自ら編纂している。

 Wikipediaによれば、今様とは今で言う 『現代流行歌』 といった意味だそうだ。吉本隆明は 『初期歌謡論』 の中で、「『新古今和歌集』 の歌は、とぼけた心酔者がいうほどけんらんたる和歌の世界などではない。いわゆる大衆曲謡に浸透されて俗化し崩壊寸前においこまれていた危機の詩集である」 と書いているが、そういった伝統が重んじられる上流社会にも浸透していった雑芸の代表が、後白河が熱中した今様ということになる。

 若い頃のその熱中ぶりときたら、とにかく朝から晩まで一日中歌いどおしで、声が出なくなったことも三度ある。おかげで喉が腫れて湯水を飲むのもつらかったとか、一晩中歌いっぱなしで、朝になったのも気付かず、日が高くなってもまだ歌っていたなどというのだから、尋常ではない。親父殿から、「即位ノ御器量ニハアラズ」 と呆れられたのももっともな話だ。

 そういう伝統や伝統的価値観の崩壊というのは、信仰の世界でも同様で、平家は清盛にはむかった奈良の東大寺や興福寺など、「南都」 の大寺院を軒並みに焼き払っている。さすがに、後に信長が比叡山でおこなった皆殺しほどではなかったろうが、これが王朝貴族らに与えた衝撃には、同じようなものがあっただろう。

 堀田善衛の 『定家名月記私抄』 によれば、藤原定家はその日記 「明月記」 で、この事件について 「官軍(平氏の軍のこと)南京ニ入リ、堂塔僧坊等ヲ焼クト云々。東大興福ノ両寺、己ニ煙ト化スト云々。弾指スベシ弾指スベシ」 と書きしるしたそうだし、藤原兼実の日記 「玉葉」 には、「世ノタメ民ノタメ 仏法王法滅尽シ了ルカ、凡ソ言語ノ及ブ所ニアラズ」 とあるという。

 現世の生を終えたら、次は極楽浄土に生まれたいという浄土信仰が、貴族の間に広がったのは末法思想によるものだが、やがてその教えは、とにかく 「南無阿弥陀仏」 とただ一心に唱えよという法然の教えとなり、中には 「とく死なばや」 などと、物騒なことをいう者も出てくる。一遍などは、身分の上下や男女の区別なく、大勢の信者を引き連れて、踊りながら各地で布教を行った。

 こういった状況は、天台座主であった慈円のような、頭コチコチの伝統主義者の目には、きわめて由々しき事態として映っていたのだろう。法然と彼の教団について、「ただ阿弥陀仏とだけ唱えていればよい、ほかに修行などいらぬなどといって、なにも分かっていない愚か者や無知な入道や尼に喜ばれて、大いに盛んとなり広がっている」 などと憤慨している。

 慈円は、安楽房という法然の弟子が 「女犯を好んでも、魚や鳥を食べても、阿弥陀仏はすこしも咎めたりはしない」 と説教していたとも書いている。実際、この安楽房という坊さんは、後鳥羽上皇が寵愛する女官との密通という嫌疑により斬首刑に処せられ、さらに法然や親鸞も京都から追放される憂き目にあった。ちなみに、後鳥羽上皇は後白河の孫にあたる。

 伝統に挑戦するような新しい教えとかが広まると、正統派を自認する伝統主義者の側から 「異端」 だの 「淫祠邪教」 といったレッテルが貼られるのは、世の東西を問わず、よくあることで、この事件もまた、伝統的勢力の側による誣告が影響した可能性が高い。だが、少なくとも、彼らの眼には、新興の念仏教団が現代の怪しげな 「新興宗教」 のように、なにやらいかがわしいものと映っていたのは事実だろう。

 そういったものが、最初から 「無知蒙昧」 な下々の民の間に広がるのはしかたないとしても、それが仏典なども読み、それなりに教養もあるはずの宮中にまで浸透してくるとなると、伝統や文化の守護者を自認していたであろう慈円のような人にとっては、たんに宮廷の保護を受けてきた既得権益者としての利害というだけでなく、まことに世も末というべき 「文化の乱れ」 であり、上流階級としての 「品格」 が問われる事態でもあったのだろう。

 若い頃は、「即位の器量にあらず」 と父親からも見放されていたような後白河が天皇になれたのは、先に即位した異母弟の近衛天皇がはやく死んだためだが、親父様からたいして期待されていなかったのは、このときも同様で、後白河をとばして、まだ小さいその息子(のちの二条天皇)を即位させるという案もあったらしい。

 しかし、それはあんまりだろうということで、とりあえず中継ぎとして即位することになったのだが、院政をしいて実権を握っていた鳥羽上皇がなくなると、とたんに宮中のいろんな対立が噴き出し、まずは兄の崇徳上皇との間で保元の乱が勃発する。その後、平治の乱から源氏の挙兵、さらに同じ源氏の義仲と頼朝の争い、次は義経と頼朝、頼朝による奥州藤原氏討伐と、次から次へと戦乱が続く。

 その中での後白河の行動は、つねにその場しのぎをやっていただけの無定見と見る人もいれば、武士の台頭という大きな歴史的変動の中で、なんとか諸勢力のバランスをとって、朝廷の力を保とうとできる限りの努力をしたと評価する人もいる。ちなみに、頼朝は後白河のことを 「日本国第一の大天狗」 と評したそうだ。

 とはいえ、「諸行無常」 という言葉のとおり、次々と諸勢力が勃興しては滅びていく中で、天皇退位後も、子や孫にあたる二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代に及んで院政をしき、後鳥羽をのぞく四人の夭折した天皇より永らえて、65歳まで生き続けたのは、当時としては十分に天寿をまっとうしたと言えるだろう。

舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり)
舞はぬものならば
馬の子や牛の子に蹴させてん
踏みわらせてん
まことに美しく舞うたらば
華の園まで遊ばせん







Last updated  2010.02.21 14:25:50
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2010.01.09
カテゴリ:歴史その他

 ここ数日は 「西高東低」 のみごとな冬型気圧配置で、北風がびゅーびゅー吹き付けている。北陸から山陰にかけては、連日大雪が降っているとか。昔はこちらも冬には軒先につららが下がったり、路傍に霜柱が立ったりもしたものだが、最近はそういう話はとんと聞かぬ。雪が積もることも年に数回あるかないかで、雪だるまとか雪合戦などのような遊びもほとんど見られない。

 清少納言は冬は早朝がよいとおっしゃったが、『枕草子』 にも年末から正月にかけて大雪が降り(旧暦だから今とはずれるが)、仕えていた中宮の命で役人や侍までかりだして、庭に雪山を作ったという話がある。それによれば、とちゅう雨が降ったりもしたけれど、一月以上、残っていたそうだ(第74段 「職の御曹司におはします頃」)。

 昔の知り合いに、島根から福岡教育大に来た人がいたのだが、九州だからあったかいはずと思って冬物は置いてきたところ、寒くて寒くて往生したという。そりゃそうだ。そもそも北部九州は地勢的に山陰とつながっているうえ、福教大は宗像の山のふもとにあるのだから、玄界灘からの北風がもろに吹きつける。九州だから暖かいというのは、ただの偏見というもの。山のほうに行けば雪だって積もる。なんであれ、先入観というものはまことにやっかいなものだ。

 報道によれば、奈良は桜井市にある桜井茶臼山古墳なるところで、81枚もの銅鏡が見つかったとか。桜井茶臼山古墳というのは、ひょっとして卑弥呼の墓ではないかとも言われている箸墓古墳とも近いが、箸墓のほうは宮内庁の指定により、孝霊天皇の娘である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓ということになっていて、立入が禁止されているそう。

 ところが、幸か不幸か、桜井茶臼山古墳のほうは昔はあまり目立たず、有名でもなかったため、誰の陵墓にも指定されることなく、放置されてきたらしい。おかげで発掘調査も可能だったということなのだろうが、これだけの副葬品が出てくれば、当然埋葬者は古代大王家につながる高貴なお方だと考えられる。規模だって、墳丘長が207mというからかなりでかいし。

 しかし、宮内庁によれば、大王家の人々の墓は、すでにほとんど存在していることになっている。もし今後の調査で、茶臼山古墳の被葬者がその中の誰かということが明らかになると、いままでその人の墓ということになっていたところの指定を取り消さなければならなくなる。そもそも、古代の陵墓の指定はほとんどが江戸時代の尊皇ブームに始まるもので、当然ながら学問的な根拠などないに等しいものが非常に多い。

 宮内庁が天皇やその一族の陵墓に指定しているもののなかには、怪しげなものが多いということは、以前から指摘されていることだが、そうやっていつまでも全然違う人の名前で祭祀を執り行っていたりしたら、いずれそのうちに 「おーい、おれはそこじゃないよ、ここにいるんだよ」 とか、「それは人違いだって、あたしゃその人とは違うよ」 みたいな声が、地の底から湧き出てくるのではあるまいか。

 古来より、怨霊というものは恐ろしいものである。菅原道真は雷神となって恨みある藤原氏や天皇の一族に害をなしたし、保元の乱で弟の後白河天皇に負けて讃岐に流された崇徳上皇は、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」 という誓いをたてて、平安末期の争乱を引き起こしたという。日本古来の信仰に忠実たらんと欲するならば、名を取り違えたままで祭祀を行なうのは、御霊(みたま)を恐れぬもっとも不敬な行為と言わざるを得ない。

 さて、御年77歳の藤井財務相が健康上の不安を理由に辞任し、後任が菅直人に決まった。高齢の大臣といえば、戦前に6回も大蔵大臣を務めた高橋是清の場合、最後の蔵相を務めたのが80歳、また先の小泉内閣での塩爺こと塩川正十郎の場合が79歳であった。是清さんは2.26事件で暗殺されてしまったのだが、高齢な方にいつまでも重責を担わせるわけにはいかないだろう。いっぽう菅直人としては、鳩山首相がいつこけてもいいように準備万端といったところだろうか。

 地元では、先の総選挙で落選した山崎拓前衆院議員が、夏の参院選への出馬をめざしているとか。しかし、自民党の谷垣総裁は、山崎氏がすでに70歳を越えていることを理由にそれを拒否する意向だという。これはまあ当然のことだろう。野党に転落した自民党は、ここで若返りをはかるとともに、それを世間にアピールすることが勢力回復のための第一歩なのだから。

 本人としては、まだまだ心残りのこともあるのかもしれない。おまけにたたき上げの政治家である彼としては、安倍や麻生をはじめとした若い連中ときたら、どうしようもない世間知らずのお坊ちゃんばかりという心配もあるのだろう。とはいえ、参院は衆院とちがって解散もない、そのうえ任期は6年もあるわけで、どう見ても最近の山崎氏の姿は、たとえ当選したとしても任期を無事にまっとうできるようには思えない。

 先日、今年初めての仕事が入ったのだが、たった2時間の仕事で2000円にもならなかった。今年も先行きは暗そう。前途多難な予感がする。景気の回復はなかなかむずかしそう。おまけに、正月早々、人混みの中に出かけたために風邪までひいてしまった。


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Last updated  2010.01.09 21:36:58
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2010.01.01
カテゴリ:歴史その他

 昨日はえらい寒く、予報ではこちらも雪といわれていたが、起きてみれば天気もよく比較的暖かだった。もっとも、一日家にこもっていてどこにも行かなかった。「初詣」 などというものには、とんと縁がない。別に「迷信」 だからというわけではなく、たんに人ごみが嫌いというだけのことだが。

 正月とは新しい年の始まりだが、時間は物理的な延長のように目に見えるものでも、手で触れるものでもない。人が時間を実感するのは変化によってであり、その時間を区切ることが可能なのは、時間が円環的に進行するからである。時間が直線的にしか進行しなければ、そこに区切りを持ち込むこと、言い換えるなら時間の進行を単位によって計測し、それによって時間の経過を明確に意識することも不可能だっただろう。

 つまり、われわれにとっての時間とは、生物の世代交代と同じように、死と再生を繰り返すということだ。日没とは太陽の死であり、日の出は太陽の再生である。そして、それは新たな一日の誕生でもある。同様に、大晦日とは古い年を埋葬する日であり、正月とは新しい年の誕生を祝う日のことである。これを神話的に言えば、「死」 と 「再生」 の物語ということになる。

 たとえば、ルーマニア出身の宗教学者であるエリアーデは、『聖と俗』 という著書の中でこんなことを言っている。

 これらのすべての事実がもつ意味を要約すれば次のようになると思われる。古代文化の宗教的人間にとって世界は年ごとに更新される。世界は新しい年がくるたびにその原初の神聖性を取り戻す。すなわち、再びかつて創造主の手を離れたときのようになるのである。...

 時間が再生し、新たに始まるゆえんは、新年のたびごとに世界が新しく創造されたからである。宇宙創造の神話があらゆる種類の創造、建築の典型としていかに大きな意味を持つかはすでに前章に見たとおりである。今やわれわれはそれにつけくわえて、宇宙創造の中には時間の創造もまた含まれている。

 つまるところ、正月が新たな年の再生であるとすれば、それを遡れば、宇宙の創造にまでたどりつく。だから、宇宙起源神話は同時に時間起源の神話でもある。時間を支配するものは宇宙を支配するものであり、その逆もいえる。実際、王や皇帝が人々を支配していた時代には、年はその治世をもって数えられた。洋の東西を問わず、それはどこの国をとってもかわらない。

 さらにまた、新たな暦の制定とは、時間そのものの創造であり、新たな歴史の誕生を意味する。西暦がイエスの誕生した年を紀元とし(実際には少しずれているが)、イスラム暦がその開祖たるムハンマドらのメッカ退去の年を紀元としているのは、そのような事件によって、まったく新たな歴史が開かれたということを意味している。それは、それまでの時間の流れとその後の時間を切断することであり、神によって祝福された時間の開始を告げることでもある。

 同様のことは、政治的な革命や建国の場合にもしばしば見られる。たとえば、フランス革命では、それまでのグレゴリオ暦にかわる革命暦が採用された。ジャコバン派の独裁が覆された事件は、「テルミドールの反動」 と呼ばれるが、テルミドールとは「熱月」という意味で、7月から8月にかけて。また、ナポレオンが権力を握ったのはブリュメール(霜月)で、10月から11月にあたる。

 むろん、グレゴリオ暦が嫌われたのには、それがローマ教会に起源を持つという理由もあっただろう。また、「理性」 を崇拝するロベスピエールらにとって、時間が不均一な暦は 「理性」 に反する不合理なものに見えたのかもしれない。実際、革命暦では一月を一律に30日とするだけでなく、週=10日、一日=10時間、一時間=100分、一分=100秒というきわめて 「合理的」 な10進法まで採用されたということだ。

 ところで、Wikipediaによれば、旧ソ連でも一時期ソビエト暦なる特殊な暦が使われていたらしい。恥ずかしながら、これは全然知らなかった。始まりは、レーニン死去から5年後の1929年。一月をすべて30日として、あまった五日間をすべて休日にするとか、7曜制を廃止するなど、フランス革命暦と非常に似ている。ただし、休日を年末にまとめていたフランス革命暦に対して、ソビエト暦では休日が月の合間に挟まっているのが少し違う。

 その前年の28年には、トロツキーは国外追放処分を受けていた。その直後、今度は農民を擁護したブハーリンが、「右翼的偏向」 の名の下に失脚する。いわゆる 「大粛清」 はまだ先の話だが、スターリンはこの時期、すでにほとんどの政敵を追い落とし、ほぼ独裁に近い権力を握っていた。

 その結果、スターリンは国家の工業化と近代化を旗印にした、強引な農業集団化と五ヵ年計画をスタートさせる。赤軍を動員して行なわれた集団化の実態がどのようなものだったかは、いまさら言うまでもないだろう。農地を採り上げられて自暴自棄になった農民は、土地の耕作を放棄し、数年後には大量の餓死者が発生することになる。

 そのような状況下での、ソビエトのみに通用する暦の採用は、ソビエトを世界の他の地域とは違う、特別な時間が支配する特別な地域、つまりは 「革命の聖地」、「地上の天国」 として聖別化することにほかならない。それは、トロツキーに対抗して、「一国社会主義」 をぶちあげたスターリンの政治路線とも合致する。ちなみに、現在の階段ピラミッドのような石造のレーニン廟が作られたのは、翌年の1930年なのだそうだ。

 一国での社会主義建設が可能かどうかという当時の論争には、いささかスコラ的な面もないわけではない。しかし、このような事実は、スターリンにとってこの論争がそもそもたんなる理論の問題ではなく、むしろ革命ロシアを、人類の新たな時代を切り開くという神聖なる使命を有する国として聖別化するという意味があったということを暗示している。そして、それはまた、政治的情熱と宗教的情熱とがときに持つ、強い親近性をも示している。

 もっとも、この暦は不便だという声が強く、月の長さを元の戻すとか、5曜制を6曜制に変更するなど、数回の修正によってしだいにもとのグレゴリオ暦に近づけられ、最終的には第二次大戦勃発後、独ソ戦がはじまる前の年である1940年に廃止され、曜日も万国共通の七曜制に戻されたということだ。







Last updated  2010.01.02 02:07:57
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2009.12.03
カテゴリ:歴史その他

 こちらでは、ここ二三日とても暖かい日が続いている。まさに 「小春日和」 という言葉がぴったりだ。澄みきった大気は暖かい光で満たされ、樹々の葉はすでに赤や黄に色づき、風が吹くと、「金色の小さき鳥の形」 した木の葉がはらはらと舞い散る。「落ち葉が舞い散る停車場に~」 と歌ったのは、昭和の御世の奥村ちよであったか。しかし、街頭で落ち葉をはいている人たちはたいへんである。

 「天高く馬肥ゆる秋」 とは、もとは北方民族の脅威にさらされていた中国の人々が、ああ、また北の方から獰猛な連中が丸々と太った馬に乗ってやってくる季節になったぞ、ということを表す言葉だったそうだが、英語のインディアンサマーについても、インディアンが襲ってくる季節という意味だという説がある。ただし、こちらのほうは異説もいろいろとあって、はっきりしたことは分からない。

 最近、暇つぶしに渡辺公三という人が書いた 『闘うレヴィ=ストロース』(平凡社新書)という本を読んだが、これはこんな一節で終わっていた。

 レヴィ=ストロースはインディアンたちが、多くの場合、到来した白人たちを神話に語られた祖先の礼が回帰したものとして腕を開いて迎え入れた、ということを強調している。到来すべき他者の場所をあらかじめ用意すること、他者を 「野蛮人」 とみなすばかりではなく、時には神として迎え入れる謙虚さを備えること、他者のもたらす聞きなれぬ物語をも自らの物語の中に吸収し見分けのつきにくいほどに組み入れること。

 しかし、その他者が究極的には、分岐し差異を極大化してゆく存在であることを許容すること。自らの世界の中に場所を提供しつつも、対になることは放棄せざるを得ない不可能な双子、アメリカ・インディアンにとって外部から到来した 「西欧」 の存在をそこに読み取ることができる。これが 『大山猫の物語』 でレヴィ=ストロースが引き出した結論だった。


 この本は今年の11月13日に出たばかり、つまりレヴィ先生が亡くなってから半月して出たことになる。まさか、レヴィ先生死去の報を聞いて急遽書き上げ、出版したわけではあるまいにと思ったら、本来は昨年の100歳のお祝いにあわせてということであったらしい。ところが、それが間に合わず、一年遅れになって、たまたま彼の死去の直後に出版されることになったということだ。これもまた、偶然のなせる業ということか。

 この本では、彼が二十歳前後の学生で、フランス社会党の中心的な学生活動家だった時期の活動にも触れらていて興味深かった。彼が最初に出版した文書は、なんと18歳のときに書いた 『グラックス・バブーフと共産主義』 なる小冊子だったという。バブーフとは、フランス革命の末期、ロベスピエールらが処刑されたあとに、政府打倒の 「陰謀」 を企てたとして処刑された人だが、そこから後世のブランキや季節社にもつながる。

 偉大なるナポレオンの甥っ子であるナポレオン三世は、若い頃、兄貴とともにイタリアの秘密結社カルボナリ党(「炭焼党」 と訳されることもある。関係は全然ないが、倉橋由美子の 『スミヤキストQの冒険』 はこれから名前を借りてる?)に参加していたそうだが、これもバブーフと関係がある。

 レヴィ=ストロースの 『悲しき熱帯』 には、十代のころに、ある若いベルギー人の社会主義者によって、マルクスについてはじめて教えられたと書いてあって、そういやベルギーといえばアンリ・ド・マンという人がいたなあ、とか以前から思っていたのだが、渡辺によると、ド・マンがパリで講演会をしたときも、レヴィ=ストロースはその準備に当たったらしい。

 アンリ・ド・マンという人は、当時ベルギー労働党で注目されていた新進理論家だが、ナチによるベルギー占領に協力したために、戦後はほとんど忘れられた。その甥っ子が、イェール学派の総帥で 「脱構築」 とかいう言葉を流行らせたポール・ド・マンであり、彼が当時、ナチを支持するような文章を書いていたことが暴露されて、一時期スキャンダルになったことは、彼の弟子(?)である柄谷行人なども触れている。

 ちなみに、柄谷によれば、ポール・ド・マンと親しかったデリダに、アンリ・ド・マンのことを聞いてみたら、「だれ、それ?」 みたいな返事が返ってきたそうだ。アンリ・ド・マンには 『労働の喜び』 なる著書があり、ソレルの 『暴力論』 の新訳を残して亡くなった今村仁司が 『近代の労働観』 なる著書の中で、それについて触れているそうだが、そっちは全然知らない。

 なお、ナチスの強制収容所の入口には、「Arbeit macht frei, 労働は(人間を)自由にする」 と書いてあったというのは有名な話。また、イタリアのドーポラヴォーロを真似してナチスが作った、労働者の福利や余暇についての組織の名称は、「Kraft durch Freude, 喜びをつうじて力を」「歓喜力行団」 などとも訳される)という。

 ところで、「来年のことをいうと鬼が笑う」 とよく言われるが、それはなぜなんだと思って調べてみたら、これもまた諸説あるらしかった(参照)

 仕事がない、仕事がない、とぶつぶつ言っていたら、いきなり仕事が入って忙しくなった。でも、それもあと何日かでおしまいであり、その先どうなるかはまったく分からない。鬼に笑われてもいいから、来年のことが心配である。昨年にくらべて、今年は三割近い減収になることはほぼ確定しているもので。







Last updated  2009.12.03 18:45:27
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2009.05.15
カテゴリ:歴史その他

 気がつくと、すでに五月半ばである。五月は古来 「さつき」 といい、五月晴れと書いて 「さつきばれ」、五月雨と書いて 「さみだれ」 と読む。もっとも、これはもともと旧暦での呼称であるから、現在の暦ではむしろ六月にあたる。なので、五月雨とは今の六月のだらだらとした長雨のことであり、五月晴れも、本来は今の五月のからりとした青空ではなく、梅雨の合間にたまに見られる晴天のことをさしたということだ。

 デモのあとの集会などで、「それじゃまた」、「また今度」 などと言いながら、一人減り二人減りして、いつの間にか誰もいなくなった、というような解散のしかたを 「さみだれ式解散」 と言ったりもするが、ようするにだらだらとしていて、はっきりした区切りがついていないところが、梅雨の降りかたに似ているということなのだろう。

 もう過ぎてしまったが、5月11日は関東軍指揮下にある満州国軍とモンゴル軍の衝突により、ノモンハン事件が始まった日であった。このときも、関東軍は明確な戦略を欠いたまま、ときの内閣や大本営の方針すらも無視した独走によって、戦力の逐次投入を繰り返し、あげくの果てに多大の損害を出すことになった。これなどは、いわば 「五月雨式」 戦力投入といえなくもない。

 ベトナムにおける、かのホー・チ・ミンと並ぶ 「建国の英雄」 であるボー・グエン・ザップ将軍は、第二次大戦後のフランスとの独立戦争におけるディエンビエンフーの戦いで、それまでのゲリラ戦術から一転した大量の武器・弾薬と兵員を集中させた包囲戦により、フランス軍に壊滅的な打撃を与えて独立を達成した。むろん、広々としたモンゴルの草原での戦いと、ベトナムの山奥の要害地での戦いを同列に並べるわけにはいかないが。

 戦力におとる側は、つね日頃は無謀な正面戦は避けながらも、ここぞというとき、ここぞという場面で、戦力を集中させて決定的な勝利を勝ち取ることを尻込みしてはならない。でなければ、ただ展望のないだらだらした消耗戦のみが、いつまでも続くことになるだろう。これは、毛沢東の人民戦争戦略についても言えることである。
 
 もっとも、ノモンハンの場合は、革命からすでに20年を経過し、公開されたラッパロ条約の裏で結ばれた、ソ連とドイツというベルサイユ体制からつまはじきされていた国家どうしによるお互いの協力を約束した秘密協定によって、ドイツ国防軍から援助を受けていた結果、近代化され訓練も行き届いていたソビエト軍の戦力を侮るという致命的なミスを最初から犯していたのだが。

 なお、クラウゼヴィッツはかの 「戦争論」 の中で、次のようなことを言っている。

 これに較べれば兵力の相対的優勢、すなわち決定的な地点に優勢な戦闘力を巧みに投入することは、もっと頻繁に用いられた手段である。そして兵力のかかる相対的優勢を可能ならしめる根拠は、将帥がかかる決定的地点を正しく判定すること、またこれによって軍に最初から与えられているところの適切な方向を選ぶこと、さらにまた重要なものと重要でないものとを取捨選択するために、換言すれば彼の指揮する兵力を集結してつねに優勢を保持するために必要な決断等である。とりわけフリードリヒ大王とナポレオンは、この点できわめて傑出した将帥であった。


 兵器の進歩が著しく、しかも国力や科学技術の水準によるその差も無視できないほど広がっている現代では、こういうクラウゼヴィッツの思想は、彼が意図した本来の戦争よりも、むしろ政治や企業経営といった非戦争分野のほうによくあてはまるようだ。それが、たぶん現代のビジネスマンによって、この本の縮刷版とか解説書の類が好んで読まれる理由でもあるのだろう。

 報道によると、民主党の小沢代表がついに党代表の辞職を決意したとのことである。後任は、鳩山由紀夫幹事長と岡田克也副代表という、いずれも代表経験者による決戦により、16日の投票で決まるということだ。

 漢字が読めないという学力不足や、傲慢不遜な物言いなどで、一時は支持率2割台にまで落ち込みながらも、脅威の粘り腰で政権を維持し続けた麻生首相は、小沢氏の献金問題で一定の支持率回復の兆しを見せて、一息ついていたところだろうが、すでに衆院任期切れまであと数ヶ月という時点で、民主党の党代表交代という局面を迎えることは予想していたのか、していなかったのか。

 「災い転じて福となす」 という諺もあり、また 「人間万事、塞翁が馬」 という故事成語もあって、なにごとも最終的な結果が出るまでは、なにが禍であり、なにが福であるかなど、簡単には分からぬことである。長い人生、誰しも 「失敗」 はあるものだが、展望がなければ、今の道から 「撤退」 して別の道を探すのも悪いことではない。

 「撤退」 を 「転進」 と言い換えて、大陸奥地や太平洋の島々での敗北を隠蔽・糊塗したのは旧日本軍のお家芸であったが、人生において本当に別の道を探すのなら、そのような言い換えも許されないわけではないだろう。もっとも、無計画、無展望、無方針という 「三無主義」 を信条にしているような人間が言っても、まったく説得力のない話ではあるのだが。







Last updated  2010.04.14 16:10:27
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2009.04.27
カテゴリ:歴史その他

 阿弥陀様弥勒様がどう違うかというと、まずは阿弥陀様は如来であり、弥勒様は菩薩であるということになる。如来とはすでに悟りを開いた仏のことであり、お釈迦様のほかにも、大日如来や薬師如来などがいる。ようするに、数ある仏様の中でも最高に偉い仏様のことである。

 いっぽう、菩薩のほうは、本来まだ悟りに達していない修行中の行者を指す言葉であったのが、やがてすでに悟りの境地に達しているにもかかわらず、われわれ悩める大衆を救済するために、仏陀となることを自らの意思で停止し、この世に留まることを選んだ仏をも意味するようになった。

 つまり、菩薩とはおのれ一人の成仏よりも、現世の中で悩み苦しむ多くの庶民を救済することを優先させたという、たいへんに責任感が強く、また慈愛に満ちた方々なのである。なので、まだ成仏していない菩薩様は、すでに成仏した如来様よりほんらい一ランク下であるにもかかわらず、昔から下々の民にたいへん親しまれてきた。

 道端に立つ、かわいらしい姿の地蔵様もそうである。なにしろ地蔵様ときたら、子供たちに縄で縛られて引きずりまわされても、けっして怒らない。それどころか、地蔵様になにをするかと子供を叱った人の夢枕に立って、「せっかく遊んでいたのに、なんで邪魔をした」 と叱り飛ばしたという話もあるくらいだ。

 阿弥陀様は、念仏で 「南無阿弥陀仏」 と唱えるくらいだから、浄土真宗などの浄土系仏教では、最もありがたい仏ということになっている。ようするに、「一切の衆生救済」 という願いをたてた、無限の慈悲を持つ阿弥陀様のお力にすがることで、われわれ愚かなる人間も救われるということだろう。「無量寿経」 や 「観無量寿経」 とともに、「浄土三部経」 と呼ばれている 「阿弥陀経」 では、お釈迦様が大勢の弟子を集めて、こう説いたとされている。

そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく。「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。

舎利弗、かの土をなんがゆゑぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく。」


 いっぽう、弥勒様は、なんと56億7000万年後にこの世に現れて、大衆を救済するのだそうだ。もっとも、このとてつもない数字というのは、弥勒様は 「兜率天」 で4000年を過ごし、しかもそこの一日は地上での400年にあたるなどという、いろいろとややこしい計算によるもので、経典自体にそう書いてあるわけではないらしい。

 社会が乱れ 「末法思想」 が流行した平安末頃には、この遠い未来に現れて大衆を救済するという、弥勒菩薩に対する信仰も盛んだったが、やがて 「西方浄土」 に現におわしますライバルの阿弥陀様に押されて、正規の仏教信仰としては衰退してゆく。

 たしかに、56億7000万年は待つにはちと長すぎる。とはいえ、それ以降も、弥勒信仰は民間宗教化しながら、いろいろな形で生きながらえ、ときには 「世直し一揆」 などにも影響を与えたりもしたという。実際に、中国では、弥勒を信仰した白蓮教徒による大規模な反乱も、元の末期や清の時代などに起きている。

 ただし、いずれも、いわゆる 「大乗仏教」 に属する経典にでてくる話であり、実際にシャカが説いた教えとは直接の関係はない。阿弥陀様も弥勒様も、広大無限なる 「慈悲」 によって、悩み苦しむ現世の大衆を救済するという点ではよく似ており、どちらについても、イランで生まれたゾロアスター教やミトラ教などの、「一神教」 的性格の強い 「救済宗教」 の影響が指摘されている。

 いつの時代でも、貧病苦などの現実の苦しみから逃れられない人間が求める 「救済」 とは、なによりもこの世における 「救済」 なのであって、ただの 「魂の平安」 やわけの分からぬ 「来世の救済」 などではない。ユダヤの神ヤーヴェがノアに約束したのは、地上を彼の子孫で満たすことだし、アブラハムに約束したのは、カナンという 「乳と蜜の流れる約束の地」 であって、いずれも 「来世」 や 「天上」 における救済などという空手形ではない。

 池田信夫という人は、「古代ユダヤ教が故郷をもたないユダヤ人に信じられたのも、ウェーバーが指摘したように「救いは地上ではなく天上にある」という徹底した現世否定的な性格のゆえだった」 と書いているが、世界の終末を経て現れる 「神の国」 とは、「天上」 ではなくこの 「地上」 に現れるものとされたからこそ、信者に対して強烈な力を及ぼしたのではあるまいか。

 たしかに、その救いは天上の神によってもたらされるものだが、それがもたらされるのは、つねに 「現世」 であるこの 「地上」 においてであって、どこにあるやともしれぬ 「来世」 や 「天上」 においてではない。

 むろん、それは原始キリスト教でも同じであり、「ヨハネ黙示録」 に描かれた 「世界の終末」 とは、地上の帝国たるローマが滅びて、彼らの待ち望む 「神の国」 がまもなく現実のものとなることへの期待を託したものである。そのような、遠くない未来への期待があったればこそ、彼らは様々な弾圧を耐え忍ぶこともできたのだろう。

 だが、キリスト教が世俗的な権力と一体化し、あるいは自ら世俗的権力となったとき、そのような 「ユートピア」 的思想は異端視され、救済は 「現世」 ではなく、「来世」 におけるものとされることとなった。「世界の終わり」 によって現れるとされた 「神の国」 もまた、すでに教会という形で地上に存在しているものとされ、原始キリスト教が帯びていた 「終末論」 的色彩は危険なものとして否定され、拭い去られることとなった。

 洋の東西を問わず、宗教的な 「終末論」 に含まれた 「現世否定」 とは、いまこの地上に存在する現実に対する徹底的な否定のことであり、それは 「天上」 における救済と同じではない。たしかに、しばしばそこには不老不死などのような、現実離れした空想が含まれることもあるが、それもまた始皇帝らがとりつかれたような、昔からある世俗的な人間の夢のひとつにすぎない。

 「ユートピア」 とは、いうまでもなくトマス・モアの同名の著書に発する、「どこにもない場所」 という意味の造語である。しかし、歴史においてしばしば 「ユートピア」 思想が大きな影響力を持ったのは、それが、たんなる暇人の空想ではなく、そのような今はまだ 「どこにもない場所」 がすぐそこに迫っていると夢想され、あるいは、ときには神の意思など待たずに、自らの力で 「今・ここ」 において現実化させようという強烈な希求力を人々に与えたからでもある。

 モアの 『ユートピア』 と並ぶユートピアの書である 『太陽の都』 を書いたイタリアの人カンパネッラは、地動説を説いて破門されかけたガリレオや、宇宙の無限を説いて焼き殺されたブルーノと同時代の人だが、70年の生涯のうち半分に近い30年近くを獄中で過ごしたという。それは、かの 「陰謀の人」 ブランキに優るとも劣らぬ大記録である。

 彼もまた、そのような 「ユートピア」 がすぐそこに迫っており、現実化が可能だと考えたからこそ、激しい拷問と長い幽閉に耐え、ときには狂人のふりをするといった手練手管をも使いながら、ソクラテスのように従容として死を受け入れるのではなく、恥も外聞も気にせずに、ただひたすら生き延びるということを優先させたのだろう。

 最後は、またまた出だしとはえらくかけ離れた話になってしまったが、タイトルはそのままにしておく。そうそう、草なぎ君の例の 「事件」 については、何人かが非難めいたことを言っていたが、そのほとんどは 「お前が言うなー」 という類のものであった。鳩山大臣もテリー伊藤も、いったいどの口で言うとしか言いようがない。







Last updated  2009.04.27 23:37:01
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2009.03.15
カテゴリ:歴史その他

 「会えば別れがこんなにつらい 会わなきゃ夜がやるせない」 とは、数年前に亡くなった青江三奈の歌だが、ことわざにも 「会うは別れの始まり」 という。というわけで、はや 「桜三月散歩道」 の歌が似合う卒業の季節である。ちなみに、作家の井伏鱒二が、漢詩の 「人生足別離(人生別離足る)」 という一節を、「さよならだけが人生だ」 と訳したのも有名な話である。

 前の記事の続きになるが、日本といえば 「サムライ」 と連想する発想の根拠は、おそらく幕末の攘夷運動が盛んな時期にやってきた、オールコックだのパークスだのといった外国人が、街角で刀を振り回したり、なにかといえば腹を切ったり切らせたりというサムライの姿に強い印象を受けたことにあるだろう。実際、彼らの中には、刀を抜いたサムライに追いかけられるという、おっかない経験をした者もいただろうし。

 しかし、ここ最近をのぞいて、日本人の大多数はつねに農民だったのだし、本来のサムライというものも、もとをたどれば農民とそんなに違わない。武士の発生については諸説あるが、そのひとつが秩序の乱れた平安末期に、自衛のために武装をはじめた地方の豊かな有力農民層にあったことは間違いない。

 源氏だの平氏だのといった連中は、彼らによって 「貴種」 として迎えられ、また教育を受け、武芸にも優れた指導者として乗っかっていただけで、兵の大半は、農繁期には農耕生活に戻る 「半農半武」 的生活を送っていたというのが実情だろう。一生懸命の語源である 「一所懸命」 という言葉に表されるような彼らの土地への強い執着も、もとはそういう農民的意識から発したものだったとすれば理解しやすい。

 谷川健一の 『日本の地名』 には、天竜川流域にある坂部(さかんべ)という集落の話がでてくるが、それによると、そこでは 「平家物語」 にも出てくる、かの熊谷直実が祖とされているそうだ。ただし、実際は、農民といわゆる落武者らとが一緒になって開拓を行ったらしい。平安末期から秀吉による統一まで、長く続いた戦乱の時代に、滅亡した家の一族郎党が山に入って帰農し、開墾を進めたというような例は、おそらく日本中にあるだろう。

 その逆に、二宮尊徳のように才能と能力を認められて、士分に取り立てられた者もいる。ようするに、殿様や大藩の有力家臣らを除けば、武士と農民の身分の差というものは、昔学校で習った 「士農工商」 という身分制度から想像するほど、大きくはなかったということだ。新撰組の近藤勇が農民の出であったことも有名だが、彼の場合には、武士への強い憧れが、生まれつきの武士ら以上に武士的な行動を取らせることになったのだろう。

 『資本論』 には、日本に関する言及が何ヶ所かあるが、マルクス自身の手で編集され、生前に唯一出版された第一巻に収められた、「第7編 資本の蓄積過程」 の中の本源的蓄積に関する章(24章)には、次のような注がある。

日本は、その土地所有の純封建的な組織とその発達した小農民経営とをもって、多くはブルジョア的偏見によって書かれたわれわれのすべての歴史書よりも、はるかに忠実なヨーロッパ中世の像を示す。中世の犠牲において 「自由主義的」 であることは、あまりにも便宜的でありすぎる。


 『資本論』 の刊行は1867年、つまり慶喜による 「大政奉還」 と同じ年である。日本についての彼の知識は、おそらく 「鎖国」 期にオランダ人がもたらした情報や(シーボルトもむろん含まれる)、開国後に日本を訪れたイギリス人やフランス人が書いた記録などに基づいているのだろう。

 もちろん、彼ら外国人には日本中を調査することなど不可能だった。なので、その知識がいささか表面的で不十分であったことは否めない。そのため、上のマルクスの見解も、やや的外れな感はある。とくに、江戸時代の日本について 「純封建的」 と見ているのは一面的な感が強い。

 江戸時代の正式の武士のほとんどは、土地を持たず城下に集住して、殿様から禄を与えられて食っていたサラリーマンのようなものである。したがって、彼らはもはや本来の意味での 「封建的土地所有者」 ではない。本来の 「封建的土地所有者」 というものは、君主や領主から土地を分け与えられ、そこに居住して農民らを直接支配する者のことである。

 また、幕府の力が絶大であった時期には、赤穂藩のように、殿様自身もしばしば改易や減封、転封の憂き目にあっている。なので、このこともまた、ヨーロッパ中世と同様の 「封建制社会」 という概念には馴染まない。実際、中央権力としての幕府の強さや、全国的な商工業や貨幣経済の発展程度から、当時の幕藩体制を 「絶対主義」 とか 「早期絶対主義」 のように見る学説もある。

 ただ、幕末になり幕府の力が衰えてくると、またもとの有力諸藩の割拠状態に戻ってしまう。その状態を目撃した西欧人にとっては、当時の日本が、国王の権力が弱かった 「ヨーロッパ中世の像」 と似たものに見えたのかもしれない。攘夷意識によって急進化することで、かえって武士本来の 「戦士集団」 という姿に立ち戻った、一部 「サムライ」 の行動もまた、そういう印象を強めさせたのだろう。

 話はかわるが、フィリピンから来て日本に 「不法滞在」 していた一家は、入国管理局の命令を受け入れて、長女だけを残して帰国することに決めたそうだ。結局、一家が望んでいた家族全員に対する特別在留許可は、ついに下りなかった。

 しかし、昨年の1月には、今回とほとんど同じ事例で、入国管理局は東京高裁による 「在留特別許可などの措置を検討されたい」 という意見を受け入れ、やはりフィリピン人である一家全員に対して、特別在留許可を出している。ちなみに、当時の福田内閣で法務大臣を務めていたのは、現総務大臣の鳩山邦夫である。(参照)

 大臣の裁量権とはむろん自由な裁量によるものだから、その行使が、権限者の胸先三寸になるのはしかたあるまい。しかし、たった一年で、こうも反対の結果がでるのはどういうことなのだろうか。一年前に、当時の鳩山法相が善処を求める高裁の意見を受け入れたのなら、どうして森法相は、今回の件で同じような措置が執れなかったのだろうか。

 長女の日本在留を認めたというのは、一見、温情のようにも見えるが、結局は親子を引き離したにすぎない。今回のケースで、森法相が一家全員の在留を認めなかったのは、彼個人の信条によるものかもしれないし、あるいは、官僚の意向や与党内の 「党内世論」 とかに遠慮した結果だったのかもしれない。それは分からないが、特別在留許可に関する裁量権を有しているのは、言うまでもなく、官僚ではなくトップの法務大臣個人である。 (出入国管理法第50条を参照)

 「不法入国」 や 「不法滞在」 という罪には時効が存在しないのもしかたないが、世の中には生まれつきの日本人であり、生まれたときから 「日本国籍」 を持ちながらも、詐欺や汚職、暴行傷害、殺人だのと、ろくでもない犯罪に手を染める者は、いくらでもいる。そういう連中に比べれば、彼ら一家は、国から表彰されてもいいほどの立派な 「市民」 ではなかったのだろうか。







Last updated  2009.03.15 19:11:39
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