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文学その他

2010.04.04
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カテゴリ:文学その他

 昨日今日と天気は回復したが、今年の春はずいぶんと気象の変化が激しかった。初夏なみの暑さになったかと思うと、いきなり冬に逆戻りして、ところによっては雪まで降った。それでも、いったん開花を迎えた桜は、誘爆式の仕掛け花火のように一気に花を咲かせた。名前は知らないが、まだ裸のままの落葉樹からも、天に向かって触手のような細い枝が無数に伸びている。

 『春の嵐』 といえばむろんヘッセであるが、ヘッセはどちらかと言えば苦手なので、これは読んでいない。叙情的なのはまだよいが、「芸術」 だの 「精神性」 だのとかを持ち出されると、いよいよかなわない。かわりにといってはなんだが、藤村には 『春』 という長編と、『嵐』 という中編がある。これを二つあわせると、「春の嵐」 となる。

 どちらも自伝的作品であるが、『春』 のほうは 『桜の実の熟する時』 に続く、藤村の青年時代、盟友であった北村透谷が自殺した頃の話。いっぽう 『嵐』 のほうは、それからほぼ二十年後、最初の奥さんに死なれ、手伝いに来ていた血のつながった姪を妊娠させてしまい、三年間フランスに逃げたあと、ようやく帰国して子供らと暮らしていた頃のことを描いた家庭小説である。

 『嵐』 は、彼が日本を逃げ出すきっかけとなった、この事件を描いた 『新生』 の七年後に書かれているが、藤村というのは煮えきらない男で、フランスから帰国してからも、兄に内緒で、また姪との関係は復活している。なので、この題名の 『嵐』 とは、たんに気象現象のことを指すというより、そういった彼の身の回りで起きた一連の事件のことをさすと見ていいだろう。

 三十年ほど前に亡くなった評論家の平野謙は、この 『新生』 執筆の動機について、姪とその父親である兄との間での 「秘密」 をめぐる関係の中で、にっちもさっちも行かなくなった藤村が、すべてを放り出してご破産にするためだったと論じている。

 もはや事態は明白である。藤村が 『新生』 を書いた最大のモティーフは、姪との宿命的な関係を明るみへ持ちだすことによって、絶ちがたいそのむすびつきを一挙に絶ちきるところにあったのだ。その自由要望の声はほかならぬ恋愛からの自由を意味している。

平野謙 「新生論」 より    


 実際、『新生』 という作品は、自分の子供を生ませた、ようやく二十歳を少しこえたばかりの姪に対する愛情も同情もほとんど感じられない、エゴイズム丸出しで自己弁護ばかりに終始している、酷い小説である。彼より二十年若い芥川が、 『或る阿呆の一生』 の中で、この主人公のことを 「老獪な偽善者」 と呼んだのも当然ではある。

 『春』 の最後には、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」 という主人公(つまりは藤村)の有名な台詞がある。この台詞は 『新生』 の中でも繰り返されているが、藤村はその後 『夜明け前』 を書き上げて、戦争が終わる二年前の1943年まで生き、71歳で亡くなったのだから、結果的には、そんなに心配することはなかったということになる。平野謙によれば、「かくて業ふかき人間島崎春樹はついに救われた」 のだそうだ。

 話は変わるが、昔々、左翼系の文学理論に 「典型理論」 なるものがあった。つまり、革命的な作家は、典型的な時代の、典型的な事件と典型的な人物を描かなければならないというものだが、よくある時代の、よくある事件とよくある人物を描いたところで、それだけではちっとも面白くはなかろう。

 戦後の中国では、魯迅の 『阿Q正伝』 の主人公、阿Qをめぐって、阿Qはいかなる階級の典型であったかを論じた、「典型論争」 なるものまであったという。たしかに、阿Qのような人間は、いつの時代にもいるだろう。そういう意味では、たしかに阿Qは人間のひとつの典型である。

 ただし、小説の登場人物が、人間のあるタイプを代表するという意味での典型でしかなければ、それはとうてい生きた人間とは言えない。ナポレオンのような非凡な人物を描こうが、阿Qのような卑小な人物を描こうが、あるいはリアリズムで描こうが、アレゴリカルに描こうが、小説というものは、なにかの 「一般論」 のような無味乾燥な公式に還元されるものではない。

 結局のところ、文学というものを支えているのは、たとえ表現形式としては 「虚構」 であろうとも、生きた人間である作者の 「実感」で あり 「感情」 ということになるだろう。世界中の物語をコンピュータにぶち込んで分析し、出てきたものにあれやこれやと脚色を付け加えたところで、それで 「はい、できあがり」 というわけにはいくまい。

 むろん、個人の実感や感情が、そのままでは一般性を有しないのは言うを待たない。人によって経験は違うし、経験の積み重ねの中からうまれた、ものの考え方や感じ方がひとりひとり違うのは、当然のことだ。だから、それをそのまますべてに当てはまるかのように一般化してしまえば、ただの実感主義や感情論にしかならない。

 しかし、それが人間の実感であり感情であるかぎり、そこにはなんらかの普遍性が存在するはず。であればこそ、そういった実感や感情は、たとえ完全な共感は不可能だとしても、一定の理解は可能なのであり、そこにコミュニケーションというものが成立しうる根拠もあるだろう。でなければ、個々の人間の個々の感情などを描き出した文学というものが、ときには時代や文化をもこえた普遍性を持ちうるはずがない。

 ようするに、「論理」 には還元されない、人間と人間のコミュニケーションにとって必要なのは、そういった具体的な人間の 「実感」 や 「感情」 の中から、そこに含まれている 「普遍性」、言い換えるなら普遍的な意味を引き出すことであり、そういう努力をすることだ。

 それは、世の中の人間のありとあらゆる 「実感」 やら 「感情」 やらを集めてデータ化したり、定量化して平均を出すようなこととは全然違う (かりにそれが可能だとして)。むろん、「実感主義」 だの 「感情論」 だのという、そのへんにいくらでも転がっているようなつまらぬ非難ともまったく関係ない。







Last updated  2010.04.04 16:48:35
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2009.12.18
カテゴリ:文学その他

 このところ急激に寒くなってきた。どうかすると一日中、鉛色の厚い雲が空をおおっており、たまに雲の合間から陽がさしても、低い位置から斜めに差し込む光には冷えた大気を暖める力はない。北風が嵐のようにびゅうびゅうと吹き、建物と建物の間で渦をまいて唸り声を上げる。

 昨日と言うべきか、今日と言うべきか、どちらが正しいのかよく分からないが、とにかく今朝まで仕事をし、それから床について昼過ぎに目を覚ました。起きようとしたら、なんだか腰が痛い。曲げても伸ばしても痛い。これはまずい。なにかの祟りなのか、それとも誰かの呪いなのか。気持ちは若いつもりでも歳はごまかせぬ。

 近くのスーパーまで食い物を調達しに外へ出たら、ちょうど陽がさし、少しばかり青空ものぞいているのに、白いものがひらひらと舞ってきた。おお、風花ではないか、これはまたロマンチックなと思ったが、冷たい外気は腰に良くない。腰をいたわりながら、早々に家へ戻った。

 平地に風花が舞うということは、山のほうはおそらく本格的な雪なのだろう。平野を囲む山のほうに目をやっても、かすんでよく見えない。それほど高い山ではないから、クマやシカのような獣はもとからいやしまいが、イタチぐらいならまだいるかもしれない。そういえば、母さん狐から白銅貨をもらって、町へ手袋を買いにいった子狐の童話を書いたのは新美南吉であったか。

 ところで、「風花」 なる言葉を知ったのは、高校時代に読んだ福永武彦の短編によってであった。「倫理社会」 のような受験にあまり関係のない授業は、多くの生徒が他の教科の宿題をやったりと、ほとんど公然たる内職の時間になっていたのだが、たまに読書の時間にもあてていた。先生方にはまことに申し訳ない。

 その息の向こうに、白い細かなものが宙に舞っていた。それはあるかないか分からない程かすかで、ひらひらと飛ぶように舞い下りた。その向こうには空があった。鉛色に曇った空がところどころに裂け目を生じて、その間から真蒼な冬の空を覗かせていた。その蒼空の部分は無限に遠く見えた。かすかな粉のようなものが、次第に広がりつつあるその裂け目から、静やかに下界に降って来た。
「ああ風花か。」
 彼は声に出してそう呟いた。そして呟くのと同時に、何かが彼の魂の上を羽ばたいて過ぎた。
福永武彦 「風花」 より   
新潮文庫 『廃市・飛ぶ男』 所収   


 『死の島』 をはじめ、福永の長編にはさまざまな実験的手法や技巧を凝らしたものが多いが、そのような余裕のない短編では、作者の資質である感傷性が生に表出される嫌いがある。ややもすると 「少女趣味」 っぽい感じがして、辟易してしまうところもあるのだが、ぼろぼろの文庫を引っ張り出してちらちら読み直してみると、この短編には明らかに作者自身の過去が影を落としている。

 年譜によれば、福永は終戦間際に急性肋膜炎にかかり、療養をかねて帯広に疎開している。その後、いったんは帯広中学の英語教師になるのだが、病気が再発してふたたび長い療養生活を余儀なくされる。その間に、離婚してまだ幼かった息子と別れることになる。その息子とは、いうまでもなくのちに芥川賞をとった作家の池澤夏樹のことである (参照)

 いまのような特効薬のなかった時代には、胸の病というのは文字どおり命にかかわる病気であった。幕末の高杉晋作や沖田総司から、石川啄木や正岡子規、さらに戦後の堀辰雄にいたるまで、多くの人が命を失っている。戦前の文学青年にとって、肺を病んで蒼白い顔をすることは一種の憧れであったらしいが、とにかく栄養と休養をとって長期の療養をする以外に処置のしようがない不治の病であった。そういえば、中学や高校の先生の中にも、結核の手術で片方の肺がほとんどないというような人もいたりした。

 ところで政治的な前衛と芸術的な前衛を結びつけること、言い換えれば政治的社会的な革命と文化や芸術の革命を結びつけることは、戦後の花田清輝の活動の出発点にあったテーゼであるが、それはまたかつてのロシア・アバンギャルドの夢でもあった。

 エイゼンシュテインやメイエルホリド、マヤコフスキーなどによって進められた先鋭的な芸術運動が、最後には党の指導という名の下で政治への屈服を余儀なくされたのは、もちろん花田も知っていただろう。自殺した者、粛清された者、亡命や沈黙を余儀なくされた者は数知れない。フランスにおいても、党に忠誠を誓ったアラゴンはシュルレアリスムを捨て、シュルレアリスムを守ったブルトンらはトロツキーに接近する。

 そういった歴史的経緯について、花田が無知だったとはとうてい考えられない。むろん花田の活動がすべて無駄だったわけではあるまい。しかし、最後には新日本文学会を拠り所として党中央に抵抗するところにまで追い詰められた花田には、そもそもいったいいかなる計算があったのだろうか。疑問は尽きない。こんなことを考えたのは、最近、亀山郁夫の 『ロシア・アバンギャルド』 (岩波新書)なる本を読んだから。

 それにしても寒い。報道によれば、元F1レーサーの片山右京と一緒に富士に登った友人らが遭難したらしい。富士の頂上は零下をはるかに下回るらしいが、寒さに震えているのは、もちろん山の獣だけではあるまい。







Last updated  2009.12.18 23:36:35
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2009.12.13
カテゴリ:文学その他

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンと夏目漱石の因縁浅からざる関係については、以前にちょっとだけ触れたことがある。八雲が熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)を退職したのが1894年。漱石はその二年後に第五高等学校で、同じく英語の教師を務めている。

 五高を退職した八雲は、いったん神戸のジャパンクロニクルなる英字新聞社に務めるものの、外国人居留地の雰囲気にうんざりし、二年後の1896年には東京大学の英文学講師となる。この間、漱石のほうは文部省からイギリス留学を命じられる。留学中の漱石が、その極端な言動のゆえに、友人らから狂人扱いされたのは有名な話。

 漱石が帰国したのは1903年、ちょうど日露戦争の前年にあたる。その年、八雲は東大を退職し、イギリスから帰国した漱石が、すぐにそのあとを継ぐよう命じられる。八雲の東大退職は任期満了のためだそうで、大学を辞めること自体に不満はないものの、通知一本での解職というやり方にはいささか腹をたてたらしい。しかし、その翌年に狭心症を起こして亡くなっている。享年54歳である。

 漱石の作家としての処女作は、いうまでもなく 『吾輩は猫である』 だが、その中には、主人公の苦沙弥先生が 「僕のも大分神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しい事に先生は永眠されたから、」 と一ヶ所だけ、八雲について語ったところがある。八雲の奥さんだった小泉節子が書いた 『思い出の記』 によれば、八雲の家には、誰によっては分からぬが、俳誌の 「ホトトギス」 が毎号届けられていたとのこと。

 このとき東大の学生の中には、やめた八雲を慕うものが多く、漱石はいささか苦しい立場にあったようだ。漱石の死後に、夏目鏡子が書いた 『漱石の思い出』 には、この辺の事情がこんなふうに書かれている。

 狩野さん大塚さんなどの肝煎りで、望みどおり熊本に帰らないで、東京にいて一高で教鞭をとることになりましたが、それだけでは生活にも困ろうとあって、文科大学の講師ということになって、小泉八雲先生のちょうど後に入ることになりました。どうしてそういうことになったのか、その間の消息は私には分かりませんが、当人ははなはだ不服でして、狩野さんや大塚さんに抗議を持ち込んでいたようです。

 夏目の申しますのには、小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いた偉い方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものがその後釜にすわったところで、とうてい立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない。

 八雲は漱石より17も年上で、日本とその文化について紹介した著書はすでに世界的に有名となっていたから、漱石が困惑したのは分からないでもない。『猫』 で 「僕のも大分神秘的で」 と主人公が言ったのがなにを指すのかはわからないが、たしかに漱石の 『夢十夜』 などはりっぱな怪談であるし、『倫敦塔』 や 『幻影の盾』 なども気味の悪い怪奇小説である。なお、漱石の 『こころ』 に対して、八雲には 『心』(現題は"kokoro")という随筆集がある。

 年譜によれば、八雲はアイルランド人の父親とギリシア人の母親の間に生まれている。二人は父親が軍医として勤務していたイオニアの島で知り合い、そこで生まれたそうだ。思わず、ソフィア・ローレンが主演した映画 『島の女』 を連想しそうだが、こちらは土地の名士の娘なのだそう。そういえば、島尾敏雄も、戦争中に特攻隊の隊長として赴任した島の女と結ばれている。やっぱり、遠い海の向こうから来た人とかはもてるのだろうか。むろん、皆がみなそうというわけではあるまいが。

 話がすこしそれた。その後、八雲は父親の家があるアイルランドのダブリンに帰国しているが、父親は今度は西インドに赴任し、残された母親は精神を病みギリシャにひとりで帰国(このへんもやや島尾と似ている)。八雲は大叔母さんに育てられたとか。ところが17歳のときに父親は死亡、おまけに保護者であった大叔母は親類にだまされて破産したとか。これでは、こんどは 「小公女セーラ」 である。

 そこで仕事を探しにロンドンにで、さらに移民船で海を渡ってアメリカへ向かうことになる。ここまでは、ヨーロッパでは希望のみえぬ者がたどるよくある話。そこで20年をすごしたのち、1890年にようやく日本に来ることになる。それ以前に、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で、日本人の役人に会ったことがあり、そのつてで松江に行くことになったそうだ。

 八雲がヨーロッパやアメリカを嫌い、日本の文化に憧れたのには、おそらく彼個人のそれまでの体験が大きな影響を及ぼしているだろう。たまたま文才を認められて這い上がることができたものの、彼の一生はけっして順風満帆なものだったわけではない。そのことが、奴隷として連れてこられた黒人による独特な文化が残るアメリカ南部やカリブの島々に魅せられることになり、やがては海の向こうの日本へと向かわせることになる。

 それは、産業革命によってすべてが機械化され、天をも突くような高層ビルが建ち並ぶ大都会と、その中でが気ぜわしく動き回っている人々への嫌悪から来たものであり、それがおそらくはその対極にあるものへと引き付けられた理由なのだろう。そういう彼の気質が、そもそもの出自であるアイルランドと関係あるのかは、なんとも言えないのだが、まったく無関係ともいえなさそうな気はする。

 アイルランド出身者といっても、もとをたどればイングランドから来た植民者であり、支配者の側につながる者もいて、十把一絡げにはいかぬのだが、この地からは古くは哲学者のバークレーや 『ガリバー旅行記』 のスウィフト、『フランス革命についての省察』 を書いたエドマンド・バークから、ワイルドやバーナード・ショー、詩人のイェーツや作家のジョイス、劇作家のベケットと多士済々の人物が出ている。

 クロムウェルによる占領以来、イギリスの支配下に置かれていたアイルランドが、いかに困窮のきわみにあったかということは、そこから多数の移民(いまふうに言えば「経済難民」)が流出したことからも分かる。現在、本国に住むアイルランド人は、イギリス統治下の北アイルランドを含めても、わずか500万ほどにすぎぬのに対して、アメリカなど、海外に流出した移民の子孫はその十倍近い4,000万に上るのだそうだ。

 イングランドへの隷属に長く苦しんだアイルランドがようやく独立したのは、19世紀に始まる独立運動の末、第一次大戦後の1921年のこと。ちなみに、アイルランド問題について、マルクスは1869年に友人のクーゲルマンに宛てた手紙の中で、こう書いている。

 僕はますますつぎの確信をふかめるにいたったが、これをイギリスの労働者階級に徹底させることはきわめて重要である。すなわち、イギリス労働者階級がアイルランドにかんする彼らの政策を支配階級の政策からもっとも断固として分離させ、アイルランド人と共同歩調をとるばかりでなく、1801年に創設された同盟を解体して、そのかわりに自由な連合関係を樹立しないかぎり、彼らはこのイギリスではなにひとつ決定的なことはできないのだ。







Last updated  2009.12.20 13:20:17
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2009.11.24
カテゴリ:文学その他

 市谷で自決する6年前に三島由紀夫が書いた、『私の遍歴時代』 というタイトルのなかば自伝風のエッセーは、次のように始まっている。

 小説家として暮らしている今になってみると、むかし少年時代の私が、何が何でも小説家になりたいと思っていたのは、実に奇態な欲望だったと思い当たる。こんな欲望は、決して美しいものでもロマンチックなものでもなく、ようするに少年の心がおぼろげに予感し、かつ怖れていた、自分自身の存在の社会的不適応によるのであろう。今とちがって、小説家になれば金持ちになるから、などという空想はありえなかった。


 ここには、おそらくなんの嘘もないだろう。肉体や現実よりも先に言葉を獲得し、遅れて肉体を持ったときには、「その肉体は言うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた」(太陽と鉄)と回想しているような早熟の少年にとって、自分がぎこちない肉体を持ち、言葉によっては支配できない現実の中に生き、現実に拘束されていることは、たぶんとても耐え難いことであったに違いない。

 だとすれば、彼が戦争末期を振り返って、「自分一個の終末観と、時代と社会全部の終末観とが、完全に適合一致した、まれに見る時代であった」 と言っているのも、じゅうぶんに理解できる。そこには、たしかに彼自身言っているように、いくらかの過去の美化が混じってはいるかもしれない。だが、なんといっても、「世界はわれとともに滅びるべし」というのは、今も昔も変わらぬ、ロマン主義者が夢見る最大の夢なのである。

 しかし、「世界の破滅」 という夢が未発におわったとき、この浪漫派かぶれの早熟な少年にとって、「不幸は、終戦とともに、突然私を襲ってきた」。少年はいっときの夢から覚めて、つらい現実の中で生きていかねばならない。

 幸運にも、この少年は感じやすい自我とともに、不釣合いなほどに強い意志を持っていた。だが不幸なことに、その意志にはかんじんなものが欠けていた。そのうえ、鈍重な現実によって鍛えられる前に、時代の寵児となってしまうほどの才能を持ち合わせていた。そのことも、おそらくは彼にとって不幸なことだったと言えるだろう。

 売れっ子となった三島は、驚異的な努力によって肉体を鍛え上げ、隆々たる筋肉をまとうこととなったが、筋肉を鍛え上げるのは容易でも、運動神経を鍛えるのは容易ではない。三島の剣道がへたくそだったことは、当時、盾の会にいた人の証言があるが、運動音痴がへたに筋肉をまとえば、動きはかえってぎこちなくなる。「運動音痴」 とは、ようするに世界に対する肉体の違和であり、おのれの肉体に対する違和の別名なのである。

 三島の葬儀で、武田泰淳は 「君はもう頑張らなくていいんだよ」 と語りかけたという。「頑張る」 とは、彼の場合、つねに他人の期待にこたえることであった。父親の期待にこたえるため勉学に頑張り、世間の期待にこたえるため 「流行作家」 として頑張り、マスコミの要求にこたえるため、「英雄」 という名の 「道化」 を演じることに頑張った。半世紀にも満たない、三島という人の一生は、そういうものであったように見える。

 筋肉をまとい、健康な肉体を手に入れたことで、三島はたぶん、ひ弱で孤独だった少年時代には遠くから羨望しながら眺めていた、「男の世界」 に入る資格がようやく得られたと思ったのだろう。彼の自衛隊への体験入隊とは、そういうものだ。だが、高名な作家を迎え入れた自衛隊の側の気苦労は、はたしていかなるものであったのか。『太陽と鉄』 で体験入隊について語る、その華麗な文章はほとんど滑稽でしかない。

 たかだか11メートルの高さからにすぎない落下傘の訓練程度で、「そのとき明らかに、私は、私の影、私の自意識から解き放たれていた」 などと語っていること自体が、彼が抱えていた自意識という病の深さを明るみに出している。普通の隊員は、そもそもそんなことなど考えもしまい。自意識という病は、結局のところ、彼が死ぬまで抱えていた狼疾であったのだ。

 たとえば、最初に冒頭部分を引用した『私の遍歴時代』 というエッセーは、こんなふうに締めくくられている。

 そこで生まれるのは、現在の、瞬時の、刻々の死の観念だ。これこそ私にとって真に生々しく、真にエロティックな唯一の観念かもしれない。その意味で、私は生来、どうしても根治しがたいところの、ロマンチックの病を病んでいるのかもしれない。26歳の私、古典主義者の私、もっとも生の近くにいると感じた私、あれはひょっとするとニセモノだったかもしれない。

 官僚一族に育った三島由紀夫は、ロマン主義者としてふるまうには明晰であり、律儀でありすぎた。また古典主義者であるには懐疑的でありすぎた。人はロマン主義者であるには、自己への懐疑を禁じなければならないし、古典主義者であるには世界への懐疑を捨てねばならない。なんの情熱も持ちえない者は、唯美主義者ではありえても、ロマン主義者にはなりえない。たとえ不毛なものであろうと、情熱を欠いたロマン主義者とは、一個の背理にすぎない。

 「われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり」 とか、「日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである」、「千万人といえども我往かん」、「民衆の罵詈讒謗、嘲弄、挑発をものともせず、かれらの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく」(反革命宣言 『文化防衛論』 所収)などと語る彼の言葉は、ほとんど愚劣でしかない。定型文句を並べ立てたその空疎さは、とても言葉を偏愛した三島のものとも思えない。

 福田和也は文庫版 『文化防衛論』 の解説で、「三島は不敵かつ不吉な扇動者となった」 と書いているが、冗談ではない。これは扇動としてはまったく馬鹿げており、同じ時期に、「前段階武装蜂起」 による首相官邸占拠を唱えて、大菩薩峠で大量逮捕された赤軍派にすら、遠く及ばない。この扇動文の空疎さは、むろん彼の現実認識の空疎さを反映したものと言えるだろう。

 認識は情熱を必要とする。情熱のないところには、いかなるまともな認識も生まれない。戦争中にはどこにでも溢れていたような、空疎な決まり文句をただ羅列した扇動も、彼が作り上げたわずかな人数のおもちゃの軍隊も、結局のところ、すべて彼にとっては、自己の死を飾り立てるための道具立てに過ぎなかったように見える。

 おそらく三島の悲劇は、彼が頑張りすぎる人だったことにある。社会的不適応という自覚があったのなら、無理してマスコミや文壇の寵児であり続ける必要などなかったはずだ。彼の強烈な克己心は、つねにただひ弱な自我を覆い隠し、他人の視線に応えるためにのみ充てられたように思える。それはすべて不必要な 「頑張り」 であり、ただ最後の悲劇を招きよせることに役立ったにすぎないように見える。

 マスコミに出続けたのも、鎧のごとき肉体を誇ったのも、同業者らの前でわざとらしい豪傑笑いをしてみせたのも、全共闘の学生らと対談をしてみせたのも、すべては自分は本当はニセモノではないのかという猜疑につねにさいなまれ、他人の視線と評価を気にせずにはいられなかったという、少年の頃と変わらぬひ弱な自我の表れでしかなかったように見える。

 彼の死は、個人としてはたしかに悲劇だったかもしれない。しかし、政治的な事件としては、まったくの喜劇でしかない。もちろん、毎年各地で行なわれている、「憂国忌」 などという事々しい名称の行事は、それ以上に愚劣な茶番でしかない。

 戦後17年を経たというのに、いまだに私にとって、現実が確固たるものに見えず、仮の、一時的な姿に見えがちなのも、私の持って生まれた性向だと言えばそれまでだが、明日にも空襲で壊滅するかもしれず、事実、空襲のおかげで昨日あったものは今日はないような時代の、強烈な印象は、17年ぐらいではなかなか消えないものらしい。
『私の遍歴時代』


 もしも、彼があと五年、遅く生まれていたなら、大衆化した戦後の文学を象徴する、時代の先頭を切った寵児としての役割を無理に演じ続けることもなければ、戦争中に流行したような、つまらぬ 「死の美学」 に回帰的に引き寄せられるようなこともなかったかもしれない。そのような仮定は、むろん無意味なものではあるが。


二年前の関連記事: 今年も 「憂国忌」 の季節がきた

追記: ふっと思い出して、橋本治の著書を探し出してみたら、タイトルが同じでありました。







Last updated  2009.11.24 23:48:46
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2009.08.05
カテゴリ:文学その他

 八月にはいっても天候はすぐれぬ。熱帯夜にはならぬから、寝苦しさに悩まされぬのはよいが、強い日差しや高温を必要とする作物を育てている農家や、海岸での 「海の家」 を経営しているような方々にとっては、いささか頭の痛い夏となりそうだ。

 冷夏といえば、今から16年前にもあったことで、その年には米が著しい不作となり、タイ米や米国のカリフォルニア米などが大量に輸入される騒ぎとなった(参照)。タイ米は日本の米と種類が違ってねばりがないため、世間ではあまり人気がなかったようだが、わが家のような貧乏家庭にとっては、ただ安いというだけでありがたかったものである。

 さて、夏といえば花火である。こちらでも先週末に恒例の花火大会があった。子供が小さかったときは、自転車の後ろに乗せて連れて行ったものだが、もはやそのような元気もない。というわけで、テレビ中継で我慢したのだが、テレビの画面でドンとなると、それから10数秒ほどおくれて同じドンという音が窓の外から聞こえてくる。ドドドン、パラパラパラという連発花火がテレビ画面であがると、同じドドドン、パラパラパラという音が、やはり少しおくれて窓外から聞こえてくる。

 先日、アポロが月に残してきた、着陸船の土台らしき姿を写した月面の画像が公表された。それでも、まだアポロは月に行っていないとか、あの映像は偽造だとか言い張る人も一部にはいるようだが、今回の花火大会に関しては、画面からの音と寸分たがわぬ同じ音が10秒遅れで外から聞こえてきたので、これが偽装や合成でないことは十分に明らかである。

 ところで花火というものは洋の東西を問わず、おめでたいときに打ち上げられるものらしい。花火の場面を写した映画にもいろいろあるだろうが、有名なのは半世紀も前にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダが撮った 「灰とダイヤモンド」 の一場面であろう。

 ときは、1945年5月、すでにポーランドはソビエトの手によってナチスの占領から解放されていたのだが、ナチと入れ替わるようにして進軍してきたソビエト軍による実質的な占領下で、共産党による支配が着々と強化され、それに対し、大戦中にロンドンに避難していた亡命政府を支持するグループによって、共産党支持派へのテロが頻発していた時期である。

 原作であるアンジェイエフスキという人の小説とは少し違うのだが(ただし、映画の脚本には原作者も参加している)、映画での主人公であるマーチェクという青年は、自分の息子が反革命グループのメンバーとして逮捕されたという報を聞いて警察署へ向かうシュツーカという党地区委員長の先回りをし、後ろから足早に近づいてくる男に対して、振り向きざまにピストルを数発発射する。

 撃たれた男はよろめきながらマーチェク(youtubeで久しぶりに見たのだが、この俳優はなんだか若い頃の加藤茶に似ている)のほうへ歩み寄り、そのまま彼によりかかる。よりかかられたマーチェクは、思わず両手を出して彼を抱きとめてしまう。そこへちょうど、連合国に対するドイツの全面降伏を祝った祝勝花火が打ち上げられるという場面である。ただし、向こうの花火は日本と違って、空で丸く破裂はしない。地上から火花が宙へ打ち上げられ、そのまま柳の枝のようにゆっくりとたれ落ちてくる。

 さて、ずいぶんと昔のことだが、この映画について、30年以上前に亡くなった評論家の花田清輝はこんなことを書いている。


 本来、わたしは、ワイダの熱っぽく描いているような青春に特有のナルシズムに対しては、きっぱりと対立しなければならないと、とうの昔からおもいこんでいるのである。にもかかわらず、わたしは、事、志に反して、昨年度の 『キネマ旬報』 のベスト・テンの第一位に、つい、うっかり、ワイダの監督した 『地下水道』 をえらんでしまったのだ。...

 政治は、燃え上がり、燃え朽ち、すでにひとにぎりの灰と化しさっているにもかかわらず、なお、自分を一個のダイヤモンドと思い込まないではいられないような人間の手にかかると、すこぶるメロドラマチックな様相をおびてくる。しかし、現実の政治は、革命や抵抗の場合であってもひどく散文的なものではなかろうか。
「無邪気な絶望者たちへ」 より   
  

 上に引用した文からもわかるとおり、花田という人は、深刻ぶった顔つきやナルシズム、センチメンタリズムが大嫌いだった人である。花田もいうとおり、たしかに 「現実の政治は、革命や抵抗の場合であってもひどく散文的なもの」 であろう。にもかかわらず、ついつい同じワイダのワルシャワ蜂起を描いた 『地下水道』 を第一位に選んでしまったというのは、そういう花田の奥底にあった心情というものが、思わずぽろりと出てしまったということなのかもしれない。

 花田といえば、吉本との論争でも有名である。どちらの肩を持つかは、とりあえず人それぞれである。花田の肩を持つ人の中には、同郷のよしみで中野正剛率いる東方会と関係のあった花田を、吉本が 「転向ファシスト」 と呼んだことを問題視する人もいるようだが、花田だって戦中世代である吉本をファシスト呼ばわりしたのだから、それはお互い様というものだ。

 ただ、すでに 「前衛党」 神話や、世界を 「社会主義」 圏と資本主義圏による東西対立として捉える認識から抜け出ていた吉本のほうが、いまだそのような認識を軸としていた花田よりも、一日の長があったということは言えるだろう。もっとも、頭のいい花田であるから、ひょっとするとそういう認識も、本人としてはただの戦略のつもりだったのかもしれない。

 たとえば、「わたしは、スターリン批判を、スターリン流の一国社会主義に終止符を打ち、ソ連における世界戦争に対する抵抗態勢を、世界革命に対する推進態勢にきりかえるためにおこなわれたものとして受け取った」 などという花田の言葉は、どうみても、当時の党の路線とはまったくちがう、当時はまだ悪魔扱いされていたトロツキストの言葉である。

 また、「前近代的なものを否定的媒介にして近代的なものをこえる」 という彼の有名なテーゼも、読みようによっては、「後進国」 における二段階革命論を否定した、トロツキーの永続革命論の密輸入のように読めないこともない。

 しかし、スターリン批判後に党を批判して、党から除名された若者らが主導する全学連を公然と支援した吉本と、どこか歯切れの悪かった花田との姿勢の差が、その後の二人の人気を分けたということは言えるだろう。60年代に吉本が多くの学生らに読まれ、「教祖」 とまで呼ばれるようになったのは、なによりもそういう吉本のどことも妥協せぬ姿勢が支持されたからであり、論争でどっちが勝ったとか負けたとかいうこととは、たぶんあまり関係ない。

 花田という人が頭のいい人であったことは言うまでもない。ただ、その頭の良さのために、彼にはしばしば、自分だけ大所高所に立ったがごとき、机上の戦略を語りたがるという癖があったようだ。なにかといえば、「前近代的なものを否定的媒介にして近代的なものをこえる」 とか、「大衆的芸術を否定的媒介にした芸術の総合化」 といったスローガンをぶち上げたがるのもそうだろう。

 戦中世代である吉本をもっとも怒らせたのは、「戦争中、戦争の革命へ転化する決定的瞬間を、心ひそかに持ち続けてきたわたしは、あまりにも早過ぎた平和の到来に、すっかり、暗澹たる気持ちにならないわけにはいかなかった」 という、「戦後文学大批判」 の中での言葉だろうが、花田にすればこれもただのイロニーに過ぎなかったのかもしれない。

 しかし、沖縄の壊滅から特攻隊の召集、二発の原爆投下からソビエトの参戦にまで至り、日ごとに膨大な死者が出ていた当時の状況を考えてみれば、これはやはり無責任な放言といわざるを得まい。同世代に多くの死者をもつ吉本が怒ったのは、当然すぎるほど当然な話である。

 党に対して面従腹背の気味もあった花田が、60年安保闘争を全力で戦った当時の全学連を指導した共産主義者同盟の解体をまるで待っていたかのように、構造改革派(小泉の構造改革とは全然関係ない)と呼ばれた、社会主義革命を主張する当時の共産党内の左派グループとともに集団で除名されたのには、なにやら 「策士、策におぼれる」 とか 「巧兎死して走狗煮らる」 といった感がしないわけでもない。

 つまるところ、頭の良すぎた花田に欠けていたのは、良くも悪くも鈍牛のようにしつこい吉本の粘り強さということになるだろう。福岡生まれの花田はいかにも九州人らしい旗振りが好きないっぽうで、典型的な都会的モダニストでもあったが、天草生まれの船大工だったという祖父をもつ吉本のほうは、東京生まれでありながら、いくつになってもどこか田舎臭さの抜けない人でもある。







Last updated  2009.08.06 05:34:24
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2009.07.18
カテゴリ:文学その他

  世界の三大恐妻家といえば、一番はなんといってもクサンチッペを妻としていたかのソクラテスだろう。ディオゲネス・ラエルティオネスの 『ギリシア哲学者列伝』 によれば、家業をほったらかしては、人を集めて分けの分からぬ議論ばかりやっていたために、彼は腹を立てたクサンチッペから街頭で水をぶっかけられたり、着ているものをむりやり剥ぎ取られたりしたという。

 二番目はというと、ロシアの文豪トルストイということになるだろう。人道主義者として知られるトルストイは、全財産を慈善のために放棄しようとして妻と争いになり、家出の途中に汽車の中で熱を出し、おりた駅でそのまま亡くなったという。もっとも、享年は82歳というのだから、すでに十分に生きたといっていいだろう。彼が亡くなった駅は、その後その名前をとってレフ・トルストイ駅と改名されたそうだ。

 クサンチッペもトルストイの奥さんも、世間では夫の仕事や才能を理解できなかった 「悪妻」 の典型のようにいわれている。しかし、富士だって優美なのは遠くから眺めている限りのことであり、近くによってみればごみや石ころが散乱したただの山である。夏目漱石も、小宮豊隆などの弟子からは 「則天去私」 を絵に描いた偉人のように言われているが、一緒に暮らしていた奥さんに言わせれば、ただの癇癪もちである。

 こういうことには、キリスト様も頭を痛めたらしく、マルコの福音書によれば、故郷のナザレに帰って説教をしたさい、昔からの知り合いとかに 「あいつは大工ではないか、マリヤの息子ではないか」 と嘲られたあげく、いつものような奇跡をおこなうこともできず、結局 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」 というすて台詞をはいて立ち去ったという。

 トルストイの家出をめぐっては、戦前に当時まだ気鋭の評論家であった小林秀雄と、彼より20歳以上年長の明治の小説家 正宗白鳥との間で有名な論争がおきている。ことの発端は、正宗白鳥が 「トルストイについて」(岩波文庫 『作家論』 に所収)という短文の末尾で、次のように書いたことにある。

 二十五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わったとき、人生に対する抽象的煩悶に堪えず、救済を求めるために旅に上がったという表面的事実を、日本の文壇人はそのままに信じて、甘ったれた感動を起こしたりしたのだが、実際は細君を怖がって逃げたのであった。
 人生救済の本家のように世界の識者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、世を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤往独遇の旅に出て、ついに野垂れ死にした径路を日記で熟読すると、悲愴でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけてみるごとくである。ああ、我らが敬愛するトルストイ翁!


 これに対し、小林は 「作家の顔」 の中で、「偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔をみつけて喜ぶ趣味が僕にはわからない。リアリズムの仮面をかぶった感傷癖に過ぎないのである」 と書いて、激しく噛み付いた。

 「あらゆる思想は実生活から生まれる。しかし生まれて育った思想がついに実生活に決別するときが来なかったならば、およそ思想というものになんの力があるか」 と書いた、若き小林の啖呵はなかなかのものである。小林がいうとおり、生活から生まれぬ思想はただの空疎な借り物にすぎぬが、生活べったりの思想には意味がない。

 思想は生活から生まれるものだが、それが思想となったとき、必然的に生活からは乖離せざるをえない。そのような乖離に気づいてない者がいるとすれば、それはその人の思想がただの借り物にすぎないからだ。乖離自体が問題なのではない。乖離しているからこそ、そこに現実との緊張感も生まれる。問題なのは、そのような生活からの乖離という自覚もなしに借り物の思想を振り回すことだ。今も昔も、あっちからこっちへと、ただ軸を変えただけで、なかみの変わっていない 「転向」 は、そこから生まれる。

 ただし、白鳥の言いたかったことはそういうことではない。白鳥の文章を読めば分かるが、白鳥が嘲笑したのは、偉人の行いとあれば、たとえ屁をここうが、立小便をしようが、どんなことでもありがたがる者らの俗物性なのである。なので、この論争はまったくかみ合っていない。白鳥は小林が言うように、なにもトルストイを 「月並みなる」 俗物のレベルに落とし込んで喜んでいるわけではない。

 ただ、それはそれとして、小林の書いていることには、まったく意味がないわけでもない。論争というものの評価が難しいのは、今も昔も変わらない。当事者の一方のみが後世に伝えられたりした場合などは、とくにそうだ。この論争でも、小林がのちに 「批評の神様」 と偶像化されるようになり、その文章が今も読まれているのにくらべると、白鳥のほうは分が悪い。白鳥に言わせれば、大見得をきった小林の啖呵など、「当たり前じゃないか」、「意味のない空言になるのではあるまいか」 ということになる。

 さて、三番目の恐妻家はだれかというと、いくつか説があるようだ。ぜいたくで有名なジョゼフィーヌを妻とするナポレオンだという説もあるし、ねねを正室とした秀吉だという説も一部にはあるようだ。ただし、秀吉の場合、日本の恐妻家としては文句ないが、やはり世界的にはさほど有名でないというのが難点だろう。

 むしろ、ここではマルクスを有力な候補としてあげたい。マルクスの妻はイェニー・フォン・ヴェストファーレンといって、彼より4歳年上の貴族の家の娘である。ドイツ人で名前に 「フォン」 がつくのはそれだけで偉いのだが、イェニーの兄はドイツ統一前のプロイセンで大臣を務めてもいるのだから、なかなかの 「家柄」 である。

 マルクスは、イェニーが嫁入りのときについてきたお手伝いさんに、フレデリックという息子を生ませている。これはむろん妻であるイェニーの目を盗んだ行為であろうが、生まれた子はエンゲルスの子ということにされ、エンゲルスは死ぬ間際になって、ようやく周囲に真相を打ち明けたという。これなどは、まさにマルクスの恐妻家ぶりをあらわすエピソードといっていいだろう。白鳥がこれを知ったならば、なんと言っただろうか。

 さて、先週の都議選をうけて、いよいよ麻生首相が解散を決断したらしい。あの結果では、地盤の弱い議員らが浮き足立つのも無理はない。とりわけ、都を地盤にする議員としては顔面蒼白・驚天動地の思い、まさしく生きた心地もしないといったところだろう。

 その意向をうけて、自民党内では大騒ぎのようだったが、結局不発に終わったようだ。実際、衆院の任期切れはもう目の前に迫っているのだから、解散をいつにしようがたいして違いはあるまい。その直前に党の顔を変えたところで、みっともないだけである。だいいち、それで総裁を選びなおし、国会でむりやり首班指名をやったところで、総選挙で負けたのでは目も当てられぬ。

 史上最短の内閣は、ポツダム宣言受諾後の敗戦処理にあたり、54日間続いた東久邇宮内閣だそうだが、たとえいま麻生にかわって総理になったとしても、選挙で負ければそれでおわりである。そうなれば、2ヶ月続いた宇野内閣羽田内閣どころか、「宮様内閣」 をも上回る、史上最短記録ということになる。いくら総理・総裁のいすが魅力あるものだとしても、そのような後世に恥を残すことになりかねない危険な賭けを、今この時期にあえてしようという酔狂者もいないだろう。

 ようするに、中川・武部の両元幹事長や、そのしたにいる有象無象の議員らも、あえて自分で火中の栗をひろおうという度胸も覚悟もないままに、だれかをあてにした策謀ばかりやっているように見える。そもそも大将のいない戦など、戦にすらならない。これでは、へなへなの麻生や細田・河村といった面々にすら勝てるはずがあるまい。

 巷間に伝わる予定では、21日解散で8月31日投票ということらしいが、とするとまさに夏休みの最中、夏のいちばん暑い盛りの中での選挙運動ということになる。こちらでは山崎拓などがそうだが、現職議員を含めて、立候補を予定している方々の中には高齢の人も多いようだから、ここはけっして無理をせず、くれぐれも自分の体調を考えて選挙戦に臨んでもらいたい。

 実生活とはなれて飛行しようとするのが思想本来の性格であり、力であるからだ。こういう力の所有者であることが、人間を他の生き物から区別する一番大事な理由なのである。抽象の作業がもっとも不完全となり、その計量的性質がもっとも曖昧になると、思想は実生活の中に解消され、これに屈従するよりほかになすところを知らないようになる。これをぼくらは通常思想とは呼ばず、風俗習慣と呼んでいる。

小林秀雄 「文学者の思想と実生活」 






Last updated  2009.07.18 17:19:26
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2009.02.26
カテゴリ:文学その他

 朝目を覚ましても、バイロンのように有名になっていたわけでもなく、むろんザムザのように虫になっていたわけでもないが、カレンダーを見たら、2月26日であった。つまり、今日は2.26事件の72回目の記念日なのであった。

 さて、毎年この時期になると、自営業者にとっては面倒な確定申告をしなければならない。そういうわけで、先日、半日かけて書き上げた書類をもって申告会場まで行ってきた。小雨が降る天気の悪い日だったのだが、昨年は期限ぎりぎりに行ってめちゃくちゃ待たされたので、今年は早めに行くことにした。

 会場は、湾岸の埋め立て地に建てられた福岡タワーの中にあるということで、ちょいとばかりダイエットもかねてカサをさしていった。とりあえず、仕事で忙しいときをのぞいて、一日一万歩歩くことを目標にしているのだ。行ってみたら、さいわいなことに、あのスペースゴジラとゴジラの大決戦でめちゃくちゃに破壊されたタワーも、すっかり元通りに修復されていた。よかった、よかった。

 時間もそれほど遅くなかったし、おまけに雨が降っていたせいもあるのだろう。そんなに待たされることもなく、書き上げてきた書類のチェックだけ受けて提出した。昨年は間違いがあって、あとで修正書が送られてきたのだが、今年はたぶん大丈夫だと思う。天引きされていた所得税の還付が今から楽しみである。

 帰りがけに、Book Offによって100円コーナーを眺めていたら、女優の加藤治子が久世光彦からいろいろとインタビューを受けている本があった。今はなき福武文庫で出ていた 『ひとりのおんな』 という題である。加藤治子といえば、ドラマのお母さん役などでなじみの人だが、戦後に 「なよたけ」 という戯曲を残して自殺した加藤道夫の妻でもあった人だ。

 少し興味をひかれて、中を覗いてみたら、加藤のことも書かれていた。たとえば、こんなふうに。(インタビュアーは久世である)

― そのときの気持ち、覚えていますか?

治子: そのときはなにも……。でも、はっきりと死んだと思わなければならなくなったときは、腹が立ちました。

― なんに、腹が立ったんでしょう。

治子: 突然、一方的に断ち切られたことにです。

― なにが断ち切られたんですか?

治子: 全部です。今までのことも、これからのことも、芝居のことも、生活のことも。だって、それは全部を断ち切るってことじゃないですか。

― じゃ、泣きませんでしたか?

治子: 泣きません。その夜も、お通夜のときも、お葬式のときも、一度も泣きませんでした。

 加藤道夫が自殺した原因については、加藤治子もこの本の中で、「そうなる予感みたいなものは?」 という久世の質問に対し、「ありませんでした」 と答えていて、よく分からない。

 ただ、加藤は 自筆年譜 の中でこう書いている。

昭和十九年(一九四四)二十六歳
 「なよたけ」(五幕)脱稿。川口一郎氏を知る。南方へ赴任。濠洲作戦なりしか(?)、マニラ、ハルマヘラ島を経て、東部ニューギニアのソロンなる部落へたどり着く。以後終戦まで、全く無爲にして記すべきことなし。人間喪失。マラリアと榮養失調にて死に瀕す。


 この年譜はたまたまネットで見つけたものだが、加藤が自殺したその年まで続いている。つまり、加藤はこれを作成した何ヶ月かのちに自殺したわけだ。ただし、この年譜作成の経緯については、今のところ分からない。

 これもBook Offで100円で買ったのだが、上野千鶴子の 『発情装置』 という本の中に、「『恋愛』の誕生と挫折 ― 北村透谷をめぐって」 という小論がある。 北村透谷とは、若いころの島崎藤村の盟友でもあった明治の詩人兼評論家であり、藤村の 『桜の実の熟する時』 や 『春』 などの作品には青木という名前で出てくる。

 北村透谷もまた26歳という若さで自殺しているが、上野はこの中で彼のことを 「透谷という若者の、過剰に傷つきやすいナルシシズムや独善的なおもいあがりを好きになることはできなかった」 とか、「わたしは26歳の男の未成熟さを許すほど寛大にはなれないし、自分の過去とかさねてそれに涙をそそぐほど、感傷的にもなれない」 などと、ぼろくそに言っている。

 たしかに、「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛をぬき去りたらむには人生なんの色味かあらむ」 という文で始まる 『厭世詩家と女性』 という評論などは、上野ならずとも、とても恥ずかしくて読めたものではない。

 しかし、山路愛山を批判した 『人生に相渉るとは何の謂ぞ』 などは、仰々しいところもあるものの、文学の実利性のみを重んじた愛山に対して、「文学は敵を目掛けて撃ちかかること、(頼)山陽の勤王論のごとくなるを必須とせざるなり」 と論じて、直接の効用を超越した文学の自立性を主張したものであるから、日本の近代評論の先駆者としての地位ぐらいは、認めてあげてもよいのではと思う。

 なお上野によると、透谷の自殺でのこされた妻である北村ミナは、七歳になる娘を親にあずけて渡米し、勉学の後に帰国してからは女学校の英語教師として教鞭をとり、再婚しないまま生涯を終えたそうである。上野は、彼女のことを 「自立した明治の女性」 と評している。

 『邪宗門』 を書いた高橋和巳の場合は自殺ではなく病死だが、彼の死後、奥さんであった高橋たか子は、その後本格的に作家としての活動を始め、今はたしか、カトリックの洗礼を受け、フランスにある 「カルメル会」 という修道院と日本との間で行ったり来たりの生活をしているはずだ。

 いっぽう、評論家の江藤淳は、奥さんが病死したあと、まるでそのあとを追うかのように自殺してしまった。

 むろん、高橋たか子と江藤淳とでは、相手に死なれたときの年齢も違うし、性格や気質というものは、男女にかかわらず人それぞれである。これだけの事例で、男と女の違いについてなど、どうこう言うわけにはいかないのはもちろんなのだが、なんとなく気になってしまった。

 

追記:アップしてから気がついたのだが、これはめでたくも畏くも300本目という区切りの記事であった。
これも、開設以来2年2ヶ月という日々の精進の賜物である。
最近は、めっきり更新ペースが落ちているけど。







Last updated  2009.02.27 14:55:24
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2009.02.15
カテゴリ:文学その他

 二葉亭四迷、本名長谷川辰之助といえば、いうまでもなく 『浮雲』 を書き 「言文一致体」 を創始した人である。二葉亭四迷という落語家のような筆名については、父親に文学をやりたいと打ち明けたところ、「おまえなんかくたばってしまえ!」 と怒鳴られたという話があるが、四迷自身によるとこれは 「苦悶の極、おのずから放った声が、くたばってしめえ!」 という自嘲に由来するものであって、親父殿に言われたということではないらしい。

 しかし、若くしてこの 『浮雲』 を書いた後、彼は海軍に勤めたり、ロシア語の教師になったり、はてはハルビンや北京に行ったりと、創作を放擲して変転と遍歴を重ね、最後は朝日新聞から派遣されていったロシアでの無理のせいで肺炎にかかり、船で帰国する途中、ベンガル湾上で病死している。享年は45歳である。

 上のエピソードが出てくる 『予が半生の懺悔』 という死の前年に発表された短文によれば、彼がもともとロシア語を学ぶようになったきっかけは、日本とロシアの間に樺太千島交換条約が結ばれたことだという。二葉亭は1864年生まれであるからこのときはまだ11歳だが、ロシアは他の列強と違って唯一日本と国境を接する 「大国」 であり、維新からまだ日の浅い日本にとって非常な脅威として受け取られていたことは想像に難くない。のちに最後の皇帝となったニコライが来日中、巡査に襲われた大津事件が起きたのは1891年のことである。

 この文の中で、二葉亭は自分の中の 「維新の志士肌」 による 「慷慨熱」 と 「文学熱」 という二つの魂について語っている。その 「慷慨熱」 とは、半分は 「維新」 という革命の時代に遅れてきた早熟な青年が過去に対して持つ憧憬であり、また残りの半分は西欧に追いつき追い越せという急激な近代化の時代の中で、多くの青年が分かち持ったものでもあるだろう。その熱はいったんはロシア語を学ぶ中で知った文学によって収まったものの、やがてふたたび頭をもたげてくることになる。

 それが、おそらくは彼を終生悩ませた 「文芸は男子一生の事業とするに足るか」 という疑問なのだろう。同じような 「慷慨熱」 は、たとえば与謝野鉄幹や正岡子規らにもあるし、年代は下るが 「時代閉塞の現状」 を書いた石川啄木にもある。それは外部へ向かうならば、西欧の圧迫に対する反発によるアジアの 「同胞」 への共感や対外伸張の意識となり、内部へ向かうならば強権的な国家に対する批判や抵抗ともなる。

 この彼に一生とりついて離れなかった悩みについて、宮本百合子は 「生活者としての成長―二葉亭四迷の悲劇にもふれて」 という1940年に発表した評論の中でこう書いている。

 二葉亭の苦悩は、文学というものがもし現在自分のぐるりに流行しているような低俗なものであっていいのならば、文学は男子一生の業たるに足りないものであるというところにあった。二葉亭自身は、人生と社会とになにものかをもたらし、人々になにかを考えさせ感じさせる 「人生の味わい」 をふくんだ文学を文学として考え自分の作品にそれだけのものを求めていた。しかし、日本の当時の文学をつくる人たちはそのような文学の使命を一向に感じず、求めようともせず、遊廓文学めいた作品をつくっている。……

 二葉亭の悲劇は決して旅の半ば船中でその生涯を終ったことではない。彼の悲劇は、あれだけ日本のために文学をもって働きかける力をもっていたのに、周囲のおくれていたことに本質的には敗けて文学の理想は大きく高く懐きながら、その道から逸れて行った心理のうちにある。通俗の目にすぐ肯ける男子一生の業にうつったところに悲劇があるのである。


 この短文で彼女がことさらに二葉亭を引き合いに出したのには、欧州での戦争勃発と対米危機の拡大によって、国民全体の意識が雪崩を打つように変化し、熱に浮かされたように軍国主義化が進行していく中、やがてアメリカとの全面戦争へと突き進んでいくことになる時代への警告という意図がある。

 この後に続く 「現実に面してひるまない精神ということと、なにが出ようともなんとも感じず常にそこから自分にとって一番好都合の部分をかすめとって来る機敏さというものとは、全然別様のものである。歴史に働きかける力としての存在ということも、いつも立役者として舞台の真中に華々しく登場しているということとまるでちがう」 という彼女の言葉はまったく正しいが、その意図を差し引いても、彼女の言葉は四迷の悩みの半分にしか届いていない。

 実際、かりに彼がもう少し遅く生まれていて、尾崎紅葉らのかわりに漱石や鴎外といった作家による近代的な文学がすでに存在していたとしても、彼の中に巣くう 「二つの魂」 という分裂はおそらく解消されはしなかっただろう。二葉亭という人は自ら 「志士肌の慷慨熱」 と書いているとおり、山っ気の強い人ではあったかもしれないが、それは必ずしも百合子が言うような 「立役者として舞台の真中に華々しく登場しているということ」 を意味するものではあるまい。

 そもそも繊細な感受性を持つ文学者というものは、時代に対しても敏感なものである。バイロンはギリシアの独立戦争に参加しようとして、熱病にかかって死んでしまった。ヘミングウェイはスペイン内戦に参加したし、マルローもまた中国の革命運動や対独レジスタンスに関与している。医学の勉強のために来日しながら、日露戦争の一場面を写した一枚の幻燈をきっかけに 「心の医師」 になることを決意した魯迅も、中国の自立と近代化を目指した革命運動と最後まで密接な関係を保っていた。

 いや、そういう百合子自身、17歳で登場して以来、新進作家として盛名をはせていたにもかかわらず、「プロレタリア文学」 運動に参加し、しかも多くのかつての 「同志」 が一時の熱病が覚めたかのごとくに次々と 「転向」 し、戦争への協力姿勢に転じていった中でも、時代への粘り強い抵抗と警告をやめはしなかった。つまり、彼女の中にも 「政治」 と 「文学」 という二つの魂は存在したはずである。

 ただ、百合子が四迷ほどの相克に悩まされなかったのは、一面では彼女が文学の力と文学者の使命を彼以上に信頼していたからだろうし、他面ではその 「政治」 と 「文学」 という 「二つの魂」 が、ともに当時の 「共産主義」 という思想と運動が掲げていた 「人道」 的理想に対する信頼によって統一されていたからでもあるだろう。

 その二つの信頼は、良家に生まれ、当時の女性としては珍しい高い教育と教養の裏打ちがあったればこそだろうが、また現実の 「社会主義国家」 がいかなる裏面を有していたかがさほど知られていなかった、時代の幸運というものもあったとは言えるかもしれない。

 ただし、そのような 「社会的関心」 がただの神経過敏による、一時の熱にうなされ時代や流行に流されるがままのもので終わるのか、それともより長期的で確実な展望を持つことで、ときには時代に対する抵抗を支えるものともなりうるかどうかは、文学者である個人を支える思想や社会に対する目の確かさによって分かれるということになるだろう。それは文学そのものの価値とはいちおう別ではあるが、人間としての文学者の見識と行動にはおおいに関連する。

 ちなみに、直接二葉亭の名前をあげてはいないものの、漱石はこの二葉亭を苦しめた悩みについて、「文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎」 という文章を書いている。発表されたのは、二葉亭のものより半年ほど遅れているが、この問題はどうやら当時の文壇やその周辺での一種の論題となっていたらしい。

 自分の文芸に対する考えに基づいて文芸というその職業を判断してみると、世間に存在しているいかなる立派なる職業を持ってきて比較してみても、それに劣るとは言えない。まさるとは言えないかもしれないが、劣るとは言えない。文芸も一種の職業であってみれば、文芸が男子一生の事業とするに足らなくて、政治が男子の事業であるとか、宗教が男子一生の事業でなくて、豆腐屋が男子一生の事業であるとか、第一職業の優劣ということがどういう標準を以てつけられるか、はなはだ漠然たるもので、その標準を一つに限らない以上は、お互いにある標準を打ち立てた上でなくては優劣はつくものでない。……

 そういう意味で言えば、車夫も大工も同じく優劣はない訳である。そのごとく大工と文学者にもまた同じく優劣はない。また文学者も政治家も優劣はない。だから、もし文学者の職業が男子の一生の事業とするに足らぬというならば、政治家の職業もまた男子一生の事業とするに足らないとも言えるし、軍人の職業も男子の一生の事業とするに足らぬとも言える。それをまた逆にして、もし、文学者の職業を男子一生の事業とするに足るというならば、大工も豆腐屋も下駄の歯入れ屋も男子一生の事業とするに足ると言ってもさしつかえない。

 二葉亭は1904年に、漱石はその三年後の1907年に朝日新聞に入社しており、新聞に交互に作品を連載するなど、一種のライバル的関係にあったようだが、二人の間に具体的にどのような関係があったのかまでは分からない。なお、二葉亭の 「予が半生の懺悔」 という短文は、次のような言葉で締められている。

 明治三十六年の七月、日露戦争が始まるというので私は日本に帰って、今の朝日新聞社に入社した。そして奉公として 「其面影」 や 「平凡」 なぞを書いて、大分また文壇に近付いては来たが、さりとて文学者に成り済ました気ではない。やっぱり例の大活動、大奮闘の野心はある――今でもある。

 
 この文章は、二葉亭がロシアに赴く直前の談話に基づいているそうで、彼の言う「例の大活動」とは、別の談話によれば 「国際問題の解決といったやうな事」 なのだそうだ。

 だが、それをたんなる一時的な 「社会的野心」 の表れとのみ見るのは、いささか早計に過ぎるだろう。つまるところ、彼にとりついていた悩みとは、「ライフ、ライフというが、ライフた一体なんだ」 という悩みなのである。







Last updated  2009.02.15 17:33:50
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2009.02.06
カテゴリ:文学その他

 仕事やなんやで忙しくて、日々の細かな報道にまで目を通す暇がなかったのだが、たまたまウェブをあちこちふらついているうちに、評論家の内村剛介がつい先日死去したということを知った。きっかけは戦前の中野と蔵原の論争についてちょっと調べてみようと思ったからで、先月の30日、今からちょうど1週間前の死去の知らせに気づいたのはまったくの偶然である。

 内村は、詩人の石原吉郎や画家の香月泰男、小説家の長谷川四郎などと同じく、シベリア抑留体験者である。「こんにちは こんにちは」 の三波春夫もそうだが、俳優の三橋達也、さらには松方弘樹の父である近衛十四郎や、吉本新喜劇にいた平参平もそうだったというのにはいささか驚いた。しかし、帰国した抑留者は50万近かったというのを知れば、それも納得いくことではある。(参照)

 今手元にある内村の著書 『生き急ぐ』 についている年譜によれば、彼は1920年に栃木に生まれ、14歳で満州の親戚のもとに行き、満州国が作ったハルビン学院でロシア語を学んだとある。その後関東軍に勤務し、ポツダム宣言受諾後に平壌まで退却してきたところを満州から追撃してきたソビエト軍に逮捕され、11年間の抑留生活を送っている。

 1956年の帰国ということは、膨大な抑留者の中でも、最も長い期間をシベリアで過ごした一人だということだ。おそらくは、ロシア語に堪能なうえに、関東軍参謀部に勤務していたという経歴が災いしたのだろう。ちなみに、戦後に自殺した近衛文麿の長男である文隆とも同房で、彼の死にも立ち会ったそうだ。

 「ソビエト脅威論」 をぶちまくった後年の言動はともかく、トロツキーの 『文学と革命』(今は岩波から別の訳者の版が出ているが)の紹介や、『呪縛の構造』 をはじめとする著作に収められた、満州時代から数えて足掛け20年ぶりの帰国で目にした 「戦後社会」 への怒りすらこめられた評論は、今でも十分に読むだけの価値があるといっていいだろう。

 その後の内村のナショナリズムへの傾斜は、同年代の鮎川信夫や、やや年少の江藤淳とも共通するところで、それは昔からよくある年齢とともに進む 「故郷回帰」 のようにも見えるが、その根底には、過去に何もなかったかのように急速に変貌していく戦後社会に対する、戦争と政治によって最も翻弄された者としての怒りがあったことは間違いあるまい。

 その昔、詩人で小説家でもある中野重治は、プロレタリア文学運動内部の論争で、「芸術に政治的価値なんてものはない、芸術にあるのは芸術的価値だけだ、....芸術評価の軸は芸術的価値だけだ」1 と言ったことがある。

 また別の文章では、「芸術にとってその面白さは芸術的価値そのままの中にある。それ以外のものは付け焼刃でテズマに過ぎない。芸術的価値は、その芸術の人間生活への真への食い込みの深浅(生活の真は階級関係から離れてはいない)、それの表現の素朴さとこちたさによって決定される。」2 とも書いている。

 中野が言ったことは、しごく当然のことなのだが、結局、彼はその主張を引っ込めざるを得なかった。そこには、論争相手が 「労働者の祖国」 であるソビエトとコミンテルン、さらに党中央の権威を振りかざしていたという背景があるのだが、今はそれは関係ない。

 ただ、中野自身は明言していないが、「大衆の求めているのは芸術の芸術、諸王の王なのだ」3 という言葉に集約される彼の主張が、内村が紹介した、トロツキーの文学論と根底において共通するものであることは間違いない。推測すれば、それもまた、中野がこの論争において沈黙せざるを得なかった理由のひとつなのかもしれない。

 だが 「芸術にあるのは芸術的価値だけだ」 という、まっとう過ぎるほどまっとうなことを言った中野が沈黙せざるを得なかったという事実そのものが、「芸術」 と 「政治」 は別のことでありながらも、けっして無縁ではありえないということを示している。それは 「地動説」 を主張したガリレオが、教会の権威の前に自らの主張を否認せざるを得なかったのと同じことだ。

 とはいえ 「芸術」 と 「政治」 が別のことであることは、近代国家においては、ある意味すでに十分に認められている。親に捨てられ感化院で成長したあと、泥棒と逮捕を繰り返し、終身懲役刑の宣告を受けていたジュネは、その才能を惜しんだたコクトーらの嘆願によって、大統領から特赦を受け釈放された。

 しかし、それは 「芸術」 と 「政治」 が別だからではない。そうではなく、「芸術」 と 「政治」 が別だからこそ、彼は法によって裁かれ、いったんは終身懲役の宣告を受けたのだ。「芸術」 と、「政治」 を含めた社会的責任の問題は別だということを裏から言えば、そういうことになる。

 森鴎外は作家であると同時に軍医でもあった。斉藤茂吉は歌人であると同時に、精神科医でもあった。鴎外も茂吉も 「文学者」 であるのは、小説や短歌についてうんうんうなりながら創作し、発表している限りのことである。診療室で患者を診察し、医学関係の書籍を読んでいるときは医師なのであって、文学者ではない。

 別に彼らのように二つの仕事を持っていなくとも、同じことはすべての芸術家について言える。「芸術家」 とはむろん人格的な存在であり、二十面相の仮面のように好き勝手に付け替えられるものではないにしても、それはあくまでも一人の人間が持つ、芸術に関する限りでの顔にすぎない。

 ある人が芸術家であることは、他の問題についてのその人の責任を解除するものではない。だからこそ、作家であれ音楽家であれ、法に反したときは一般市民と同じように裁かれるのである、その場合、そこで裁かれるのは、芸術家ではなく一人の市民に過ぎない。

 先月報道された、村上春樹のエルサレム賞受賞に対しては、いろいろな声がある。彼に対して、ガザ問題へのなんらかの意思表示を求める人もあれば、「彼は作家なのだから、ありがとうと言って貰ってくればいい。あとは作家としての仕事をすればよい」 という人もいる。むろん、最終的にどうするかは彼自身が決めることだ。それによって、ある者は失望し、ある者は安堵することになるだろうが、それは世界が様々な対立によって引き裂かれている以上、避けがたいことである。

 一般的な話で言えば、「くれるものは貰っておけばいい」 というのは別に悪くない。それこそ、相手があとくされも何もない通りすがりの人であれば、それですむだろう。また、受賞が彼の文学的成果を高く評価したものだというのは、確かにそうかもしれない。そもそもこの問題で、村上に対しなんらかの意思表示を求めている人の中に、作家としての彼の評価自体にけちをつけている人などは一人もいない。

 だが、賞というものは、むろん天から降ってくるわけではない。くれる人がそこにはちゃんといるのである。それをただ黙って受け取るということは、相手による評価を受け入れ、その権威を自己より上位のものとして認めるということでもある。一般的に言って、「贈与」とはそういうものである。そもそも問題は、エルサレム賞というものが、芥川賞・直木賞のような純然たる民間の賞とはいえないということだ。

 1963年の第一回受賞者であるラッセル以下の、ほとんどノーベル賞級と言っていい錚々たる面々を見れば、この賞が単なる優れた作家・思想家に対する顕彰だけでなく、イスラエルによる国際的な宣伝と、国家としての名誉と権威の発揚という目的も持っていると見ることは、そう不当ではあるまい。(参照)

 たしかに、作家は小説を書くのが仕事である。人はおのれの最も得意とすることで、社会に貢献すればよいというのも、一般的に言う限りでは間違っていない。だが、「作家はその作品において社会に役立てばいい」 という素朴な論理は、たとえば 「党員は党員として、役人は役人として、兵士は兵士として、粛々とおのれの職務を果たしさえすればよい」 といった論理とどこか似ている。

 スターリンの暴政を支えたのも、ナチのユダヤ人弾圧を支えたのも、そしていつの時代にでも様々な不正と不正義を容認し、あるいはときには加担さえしてきたのも、まさにそういう 「人はただおのれに与えられた任務をこなしてさえいればよい」 として、自己の職域以外のことには目を背け、また見て見ぬふりをすることを正当化する 「職域奉公論」 ではなかっただろうか。

 かりに目の前に大怪我をしている人がいるとして、自分の詩は永遠の価値を持つ、自分の詩は多くの人の魂を救う、だから詩作のほうが大事だ、と言う詩人がいれば、それは当然のことながら非難に値する。「文学は飢えた子供の前で有効か」 とサルトルは問うたが、飢えた子にとって必要なのはむろんパンであって、一編の詩ではない。

 日中戦争が勃発した直後、小林秀雄は 「戦争について」 という短文の中でこんなことを書いた。

 戦争に対する文学者としての覚悟を、ある雑誌から問われた。僕には戦争に対する文学者としての覚悟というような特別な覚悟を考えることはできない。銃をとらねばならぬときがきたら、喜んで国のために死ぬであろう。僕にはこれ以上の覚悟が考えられないし、また必要だとも思わない。いったい文学者として銃をとるなどということがそもそも意味をなさない。誰だって戦うときは兵の身分で戦うのである。


 「喜んで国のために死ぬであろう」 という言葉はともかくとして、小林は少なくとも 「文学者」 なるものが、社会において特権的な存在などではないということは十分に理解していた。


1. 中野重治  『芸術に政治的価値なんてない』 昭和四年
2. 3.  同  『いわゆる芸術の大衆化論の誤りについて』 昭和三年







Last updated  2009.02.09 13:15:54
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2008.12.09
カテゴリ:文学その他

 先日、加藤周一の死去が報道された。最近の氏の活動や言論についてはあまり知らないのだが、この世代でまだ存命なのは鶴見俊輔と大西巨人、やや下って吉本隆明やいいだももぐらいということになるだろうか。

 加藤の名前を知ったのはたぶん高校の頃で、筑摩書房から出ていた、「マチネ・ポエティック」 以来の盟友であった中村真一郎・福永武彦と一緒にあわせた黄色い表紙の叢書の一巻だったと思う。その中に、加藤の作品としては、たしか戦後すぐに三人で発表した 『1946・文学的考察』 や、一休禅師らを題材にした 「三題噺」 が納められていたような記憶がある。

 『1946・文学的考察』 の最初に置かれている加藤の 「新しき星菫派について」 は、こんなふうに始まる。

 戦争の世代は、星菫派である。詳しく言えば、1930年代、満州事変以後に、さらに詳しく言えば、南京陥落の旗行列と人民戦線大検挙とによって戦争の影響があらゆる方面に決定的となったのちに、二十歳に達した知識階級は、その情操を星菫派と呼ぶに相応しい精神と教養との特徴をそなえている。

 加藤の言葉を借りれば、この星菫派とは 「かなりの本を読み、相当洗練された感覚と論理を持ちながら、およそ重大な歴史的社会的現象に対し新聞記事を繰り返す以外一片の批判もなし得ない青年」 たちなのだそうだ。

 政党政治が崩壊して軍国主義が跋扈し、左翼だけでなく自由主義的な学問や運動までが徹底的に弾圧される中で、奇妙にも 「文芸復興」 と称される一種平穏な時代が訪れ、ヘッセやリルケ、カロッサが読まれ、また保田與重郎を中心とした 「日本浪漫派」 や西田哲学の流れをくむ京都学派などが 「近代の超克」 というテーマを掲げた、そういう時代である。

 自伝である 『羊の歌』 のなかに、一高生だった加藤らが作家の横光利一を講演に呼び、その後の座談会でつるし上げたという話がある。当時、横光は 「西洋の物質文明と東洋の精神文明」 の相克をテーマにしたという長編 『旅愁』 を書き上げた直後だった。

 『羊の歌』 には、このときの横光の言葉がこんなふうに書かれている。

 「物質文明というのはだね……近代の物質偏重のことを、ぼくはいっているのだ。日本もこの 《近代の毒》 におかされてきたのです。だからこの厳しい時代を生き抜くために、われわれ文学者が召されているとぼくは思っている。その毒から日本を清める。これが 《みそぎ》 ということのほんとうの意味ですよ、《みそぎ》 の精神は、民族の心だ。今のこの時代ほど、偉大な時代はない。今こそわれわれは日本文学の伝統に還る……」

 横光利一は、もともと西洋文学の影響を強く受けた翻訳調の新しい文体や表現、心理描写を特徴とした斬新な作品で登場した人である。その横光が、時代の圧力もあったとはいえ、このようなほとんど 「蒙昧」 といっていい状態にまで退化していたのは、悲惨としか言いようがない。

 若い頃に欧米に憧れていた者が、年を経るに従い、日本の伝統なるものに回帰していくのは別に珍しいことではない。それは、明治の徳富蘇峰以来の伝統のようなものだ。むろん、日本の伝統がすべて無意味であり劣っているわけではない。だが、彼らが過剰に 「民族」 や 「伝統」 に回帰していくのは、もともと抱えていた西欧への劣等感の裏返しでしかないだろう。奇怪なのは、西欧を否定する 「近代の超克」 といった概念そのものが、ハイデガーだのシェストフだのといった西欧の思想家からの借り物でしかないということだ。

 「雑種文化」 という言葉を一躍有名にした(たぶん)「日本文化の雑種性」 の中で、フランス留学から帰国した加藤はこんなことを書いている。

 日本の文化は根本から雑種である、という事実を直視して、それを踏まえることを避け、観念的にそれを純粋化しようとする運動は、近代主義にせよ国家主義にせよいずれ枝葉の刈り込み作業以上のものではない。いずれにしてもその動機は純粋種に対する劣等感であり、およそ何事に付けても劣等感から出発して本当の問題を捉えることはできないのである。本当の問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味を認め、それをそのまま生かしてゆくときにどういう可能性があるかということであろう。

 また、同じ 『雑種文化』 に所収された 「雑種的日本文化の希望」 には、こんな一節もある。

 西洋伝来のイデオロギーは、長い間、多くの日本人から、ものを考える習慣と能力を奪ってきた。海外の新思潮は相継いで輸入され、流行し、忘れられ、あとになんらの影響も残さなかったばかりでなく、右往左往する人々にあたかもそこに思想問題があるかのような錯覚を与えた。

 加藤がこれを書いたのは、サルトルの実存主義が盛んに喧伝されていた時代だが、サルトルが終わればフーコー、実存主義が終われば構造主義、そしてその次は××主義だとか、××イズム、ポスト××イズムだというように、最新の流行思想が次々と紹介され、もてはやされるといった状況は、たぶんそんなに変わっていない。

 西洋伝来の概念と論理で、近代と西欧を否定するという曲芸を披露している者らも同様である。たとえば、西尾幹二のような男がやっていることは、ドイツ・ロマン派とニーチェから借りてきた言葉と論理で西洋を否定し、「日本」 なるものを称揚してみせているにすぎまい。もっとも、西尾の著書など、それほど読んでいるわけではないので、これはただのヤマ勘だが。

 われわれは、今や、安全な哲学が哲学でないことを知っている。危険思想でない思想は御用学者の妄想のうちにしか存在せず、論理を操縦して矛盾を総合し、東亜共栄と日本の神国説、または民主主義と絶対王政のごとき絶対矛盾を同時に肯定する精神的サーカスは、断じて思想ではないことを知っている。

 「方法序説」 の著者が言ったように、危険な 「人生を確実に歩むために真を偽から区別する」 ことを教えるのが哲学である、「ドイッチェ・イデオロギー」 の著者が言ったように、「解釈するのではなく、改造する」 ことを目的とするものが思想であることを知っている。

加藤周一 「新しき星菫派について」 より    







Last updated  2008.12.10 05:32:38
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