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仕事・翻訳

2007.12.11
XML
カテゴリ:仕事・翻訳

 英語の単語で日本語に訳しにくいものに、public という言葉がある。一般には 「公」 とか 「公共」 とか訳されるのだが、どうもしっくりしない。辞書をひくと、「社会」 とか 「世間」 といった訳語ものっていて、たぶんこっちのほうが本来の語感に近いのだろう。

 たとえば、public domain という言葉がある。例をあげれば、著作権や特許権で保護されていない、誰もが自由に利用できる技術や情報などを、public domain に属するという。また public knowledge は、普通 「公知」 などと訳されているが、これも同じように、特定の個人や団体が独占しているのではない、広く一般に知られた知識のことを意味する。

 ところで、public の反対は private である。一方、「公」 の反対は 「私」 である。であるから、public は 「公」 に対応し、private は 「私」 に対応する。ここまでは、たぶん誰からも異議は出ないだろう。

 ところが、日本語には 「公」 と 「私」 という対語のほかに、「官」 と 「民」 という区別もある。むろん、英語の public も、「民」 に対する 「官」 という意味で使われることもある。だが、一般的な語感としては、むしろ 「社会一般に開かれた」 という意味のほうが強く、そのように使われる場合のほうが多い。

 たとえば、public company とは公営企業のことではなく、純然たる民間企業、ただし、株主を広く一般から募集する 「株式公開会社」 のことを指す。つまり、「公」 とは けっして 「官」 のみに限定されないのであり、それだけでなく、ときには 「官」 をも規制する、「官」 よりもはば広い概念として理解されている。

 しかし、日本語で 「公」 といった場合、どうも単純に 「官」 と等置されやすいようだ。必ずしもそうではないと頭では理解している人であっても、「公」 という言葉には、なにかそのような響きがあることは否定できないだろう。こういう言葉のずれの背景には、「公」 という言葉がもともと朝廷を指す言葉であったという語源的な事情もあるのだろうが、おそらくそれだけではない。

 ここで話はいささか飛躍するが、そもそも近代国家というものには、「公」 を 「官」 すなわち 「国家」 が独占するという傾向がある。そのような傾向は、とりわけ「近代社会」 がそれまでの歴史の中から自生的に発達してきたのではないこの国では、特に強いようだ。

 そのそもそもの始まりは、明治国家によって、社会に対し強引に上から一元的な統制がかけられたことにあるのだろう。そこでは、官とはつまり 「お上」 のことであり、「公」 の問題というものは、すべてそのような 「官」 に任せるべきことなのである。

 そしてそのような 「官」=「公」 という意識は、戦後社会の否応なしの近代化によって、それまで存在していた様々な自生的秩序の崩壊が進行してきたことで、下からも支えられ、かえって強化されてきたようにすら思える。

 そこでの意識の違いはせいぜい、かつては 「官」 とは 「ははーっ」 と無条件でひれ伏す対象であったのに、現代では逆に、お客様としてあれこれと文句をつけ要求する対象であるということの違いにすぎない。どちらにしても欠けているのは、「民」としての 「社会」 そのものが、ほんらい public としての 「公」 なのだという意識である。

 そもそも、社会全体から切り離されて、自立化した 「官」 とは、実際にはそれ自体一つの 「私」 にすぎない。政治家や官僚の腐敗とは、そういうものである。同時に 「公」 としての意識を持たない 「民」 とは、たんなる無責任な 「私」 の集合でしかない。

 とはいえ、もともと英語での public に当たるような概念が、けっして日本に存在しなかったわけではない。「世間」 という言葉がそうだ。本来、「世間に顔向けができない」 というような言い回しは、自分や自分の家族、仲間内だけでない、広い社会一般に対する責任意識のようなものを表していたはずだ。

 しかし、昨今の 「世間」 とは、むしろ愚にもつかぬ 「正論」 と匿名の 「正しさ」 によって、気に障る個人を押しつぶしたり、たまたま明るみに出たつまらぬ 「事件」 で大騒ぎしているだけの、裸の 「私」 の集まりでしかないように思える。そこでは、叩かれている者と叩いている者のどちらをとっても、public という意識が欠けていることでは大差ないように見える。







Last updated  2009.06.12 13:58:14
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2007.11.27
カテゴリ:仕事・翻訳

  ヨーロッパ系の人名というものは、聖書などの古い書物に由来するものが多い。したがって、一見違うように見える名前も、元をたどれば同じということが多く、同じ人の名前が、その国の言葉によって様々に変化して呼ばれていたりする。

 たとえば、カフカの 『審判』 の主人公であり、最後は理由も分からず二人の男に 「犬のように殺された」 ヨーゼフ・K のヨーゼフとは、英語ではジョゼフ、スペイン語ではホセ、イタリア語ではジュゼッペ (つまりピノキオを作ったおじいさん)、ロシア語ではヨシフ (スターリン!) となる。

 この名前は、もとは聖書に出てくるアブラハムの子イサク (あやうく親父どのによって、神への生贄にされそうになった人) の子ヤコブのそのまた子であるヨセフや、イエス様の血のつながらない父親である大工のヨセフからきている。

 またジョンやジャン、ヨハン、イワンは、もとはヨハネであり、つまりはわがままなお姫様サロメの願いで首をはねられた洗礼者ヨハネ (ヨカナーン) や、福音書や黙示録にその名前が残されている、イエスの12使徒の一人と同じ名前である。

 こういった呼び方の違いは、ピーターかペーターかとか、デビッドかダヴィッドかぐらいならまだいいが、チャールズか、シャルルか、カールか、カルロスかとか、キャサリンか、カザリンか、エカテリーナか、カタリナかとかになってくると、いささか厄介である。

 実際、歴史上の同じ人物が、本によってはカール大帝やチャールズ大帝、シャルルマーニュなどと、いろいろな名前で呼ばれていたりする。アメリカを発見したということになっているコロンブスも、日本以外の国ではコロンとかコロンボなどと呼ばれるほうが多い。であるから、ピーター・フォーク演じるかの 「刑事コロンボ」 も、実はコロンブスの末裔だったのかもしれない (うそです)。

 日本では、最近は原則としてその人のもともとの国での呼び方にあわせるということになっているようだが、これもそう簡単ではない。というのも、国境を越えた人の移動が珍しくない欧米では、ドイツ系やロシア系、イタリア系のフランス人やアメリカ人などのように、本来の出身地と活躍した国とが食い違う例が少なくないからである。

 たとえば、フランス啓蒙思想家の一人で 『自然の体系』 という本を書いたドルバック (d'Holbach) という人がいるが、この人はもともとドイツ人であって、ドイツ時代の名前はホルバッハである。運動会で必ず流れる 「天国と地獄」 の作曲者であるオッフェンバックも元はドイツ人であるため、ドイツ語読みでオッフェンバッハと呼ばれることもある (ただし、これは本名ではなく、父親の出身地から採ったのだそうだ)。

 今はどうだか知らないが、以前塾で教えていたころの中学生の英語の教科書 (たしか開隆堂が出していたものだったと思う) に、ジーンズの考案者であるリーヴァイ・ストラウスの話が出ていた。彼が創設したリーヴァイスといえば、言うまでもなくいまや世界的なジーンズの大ブランドである。

 リーヴァイ・ストラウスとは Levi Strauss と書く。この綴りを見たときは、正直にいって思わずいすから転げ落ちそうになった。むろんリーヴァイスもリーヴァイ・ストラウスも、名前ぐらいは前から知っていたのだが、ジーンズのブランドなどに興味はなかったので、その綴りまでは気にしていなかったのだ。

 いうまでもなく、Levi Strauss とは、かの人類学の泰斗レヴィ=ストロースのことである。この事実に気づいたときはずいぶんと興奮したのであるが、なにぶん相手は中学生である。レヴィ=ストロースなどと言っても、知っているはずはないし、受験に役立たぬことを教えてもしょうがない。

 そういうわけで、このことは長年ひっそりと自分の胸の中にだけしまっていたのだが、先日 Wikipedia のリーヴァイ・ストラウスの項を覘いたら、「構造主義人類学者クロード・レヴィ=ストロースとは遠縁に当たる」 と書かれていた。

 つまり、この二人が同名であることは、知っている人はちゃんと知っていたのであった。いささか、残念な気がしたが、考えてみれば当たり前のことであった。

 こういう欧米人の名前の読み方には、明治の人もずいぶんと苦労したらしく、こんな川柳も残っている。


 ギョェテとはおれのことかとゲーテいい


 この作者である斎藤緑雨という人は、若くして亡くなった樋口一葉を生前に高く評価し、いちはやく世に紹介した人なのだそうだ。

 ちなみに、この記事のタイトルは、翻訳家である青山南という人の、『ピーターとペーターの狭間で』 という著書の題名からのパクリです。







Last updated  2009.11.05 05:02:43
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