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思想・理論

2010.05.02
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カテゴリ:思想・理論

 自動車事故で死んだカミュに、『正義の人々』 という戯曲がある。このもとネタは、革命前のロシアで、社会革命党の秘密組織の指導者として、要人暗殺などのテロを行っていた、サヴィンコフという名のロシア人革命家が書いた、『テロリスト群像』 という回想録の中にある。

 サヴィンコフは、ロープシンという名で 『蒼ざめた馬』 などの小説も書いているが、革命後はボルシェビキ政権に対する武力闘争に加わり、最後は逮捕されて裁判にかけられた。そこで、いったんは死刑判決を受けたものの、「十年の禁固刑」 という特赦による減刑を受けたのち、なぜか刑務所で投身自殺をとげたとされている。

 この話については以前書いたが、要約すれば、爆弾投擲による暗殺実行の任務を与えられた、カリャーエフという青年が、目標とする人物が乗る馬車に爆弾を投げようとしたものの、その中に幼い子供らが同乗しているのを見て、投げるのを止めたという話。

 その多くが高い教育を受け、それなりの地位なども約束されていたでもあろう、ロシアの青年たちを、革命運動へと駆り立てたのは、むろん自由への憧れもあっただろう。だが、そこには、おそらくは貧しく抑圧されていた民衆に対する負い目という、「良心」 のうずきもあったに違いない。それは、たとえば有島武郎についても言えることだ。

 「良心」なるものを定義するとすれば、おそらくは善と悪を判別する心の中の装置といったことになるだろう。むろん、善とはなにか、悪とはなにか、などという話になると、またややこしくなる。ただ、とりあえず、完全な善や完全な悪など存在しないし、善も悪も、それ自体として存在しているわけではないということは言える。

 ようするに、世の中に存在しているのは、実体としての善や悪ではなく、せいぜいが 「善きこと」 「悪しきこと」 の相対的な区別であり、しかもそれは多くの場合、ややこしく入り組んだりもしている。ただ、その善と悪を区別する良心の基盤にあるのは、おそらくは、人間が持っている他者への 「共感」 能力というものだろう。

 たとえば、『国富論』 の著者として有名なアダム・スミスは、最初の著書であり、彼自身、もっとも重要な主著と考えていたという 『道徳感情論』 の冒頭で、こう言っている。

 人間がどんなに利己的なものと想定されるにしても、明らかに彼の本性の中には、いくつかの原理があり、そのおかげで、人間は他の人々の運不運に関心を持ち、彼らの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも得られないのに、自分にとって必要なものとする。
 この種類に属するものは、哀れみや同情であって、それはわれわれが他の人々の悲惨を見たり、生き生きと強く心に描き出されたりしたときに、それに対して感じる情動である。われわれがしばしば、他の人々の悲しみから、悲しみを引き出すということは、例をあげて証明する必要もないほど、明らかである。


 もっとも、人間の心の中には、そのような原理と対立し、それを打ち消す原理もある。それは、スミスも認めている。「悪」 は、たしかにしばしば魅惑的であるし、人間は 「善」 や 「正義」 などという観念によって、生きているわけではない。しかし、そのことは今はおいておく。

 われわれは、たしかに 「良心」 というような言葉を使うのは、あまりに気恥ずかしい時代に生きている。「良心」 という言葉は、たしかにあまりに濫用されすぎてもきた。いわく、信徒としての 「良心」、国民としての 「良心」、あるいは階級的 「良心」、革命的 「良心」 だのというように。

 そこでは、「良心」 という言葉が、宗教や政治的イデオロギーによって、大文字化されている。しかし、そのような 「良心」 は、むしろ個人を拘束する共同的な規範にすぎない。そのような大文字の 「良心」 は、個人が持っている素朴な良心の預け先として、ときにはその本来の良心を解除させもする。大義の名による血なまぐさいテロルは、しばしばそうやって正当化される。

 「良心」 というものは、おそらく心の中の知的な部分よりも、感情的な部分に属する。「良心」 への刺激が、しばしば怒りや悲しみをもたらすのはそのためだろう。それは感情的な部分であるがゆえに、たしかに統御が難しい。そのうえ、人間の情念は複雑であり、たがいに影響しあいもする。神ならぬ人間の 「良心」 は、そもそも完全でもなければ万能でもない。

 だから、目の前の怪我人を助けるというような単純な行為ならともかく、政治的行為のような複雑な行為では、「良心」 という単純な装置だけに頼るわけにはいかない。「地獄への道は善意で敷き詰められている」 という、有名な格言はそのことを表している。しかし、それはそのような行為において、「良心」 が無用だということではない。ただ、「良心」 は万能ではないということにすぎない。

 いうまでもなく、「良心」 は個人のものであり、人は他人の 「良心」 を代行できない。それは、精神が個人の精神としてしか存在しない以上、自明のことだ。とはいえ、それは、個々人の 「良心」 の間に共通性がまったく存在しないということは意味しない。「良心」 が善・悪を判別する心の中の装置だとして、それがたがいにまったく異なるのだとしたら、社会はそれこそ一瞬にして崩壊するだろう。

 そもそも、人間が人間になるのは、他者との関係を通じてだ。孤立した人間は、人間の人間としての様々な能力、たとえば言語すらも身につけられない。つまるところ、人間の精神は個別にしか存在しないものの、最初から 「間主観性」 を帯びており、その意味でも一定の共通性を有している。それは、なにも 「良心」 のみに限られたことではない。

 なるほど、「良心」 とか 「善」、「正義」 といった言葉は、たしかに手垢がつきやすい言葉である。そのような言葉を、政治の場で多用する者がいたなら、とりあえず疑っておいた方がよい。なぜなら、そのような場合、それらの言葉が指し示しているのは、実は規範化された大文字の 「良心」 や 「正義」 であり、その存在が暗黙のうちに前提とされているからだ。そのうえ、そのような言葉には、理性をマヒさせる魔力もたしかにある。

 しかしながら、世の中、手垢の付きえない言葉などというものは存在しない。どんなに立派な言葉だって、手垢はつきうる。「権威を疑え!」 というような言葉ですら、ときにはただの無知な夜郎自大の正当化に利用されもする。しかし、だからといって、次から次へと、ただただ新しい言葉や言い回しを作り出せばよいというものでもあるまい。

 「良心」 というような素朴で単純な言葉が、ときに手垢を帯びながらも、いまなお使い続けられているのには、それなりの根拠があるだろう。であるならば、その手垢の付いた言葉から、びっしりとこびりついた手垢をこそぎ落とすという作業も、ときには必要と言えるだろう。

 社会の中の抑圧や不正に対して、ときにその直接の当事者でもない者らまでが立ち上がるのは、それが彼らの 「良心」 を刺激するからだ。そのような問題について考えるということは、とりあえずそのために必要な 「良心」 という場を呼び起こすことでもある。ただし、そこから先へ進むには、それだけでは足りない。

 しかし、そこで呼び出された 「良心」 によって指し示された 「正義」 なるものが暴走を始めたなら、その暴走に歯止めをかけるのも、やはり同じその素朴な 「良心」 の役割と言えるだろう。カミュが言いたかったのは、おそらくはそういうことのように思える。


参照先: 意図や目的より手続きを重視するということ 

 

追記: 世界には 「完全なる善」 や 「完全なる悪」、あるいは 「善」 そのものや 「悪」 そのものは存在しないということは、言い換えるなら、世の中の物事は、「善」 と 「悪」 という言葉で考える限りにおいて、すべて多かれ少なかれ 「善なる性質」 と 「悪なる性質」 の両方を帯びているということを意味する。それは、「善」 と 「悪」 を厳しく対立させる正統的なキリスト教の倫理とは異なる、ユングの善悪観とも一致する。







Last updated  2010.05.05 21:30:21
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2010.04.25
カテゴリ:思想・理論

 いわゆる 「人権」 なるものはもちろん西欧起源であり、したがってキリスト教に由来する。中学の社会科では、ロック、ルソー、モンテスキューの三人を、代表的な啓蒙思想家として教えられるが、基本的人権といえば、ロックの 『市民政府二論』 ということになっている。

 明治の自由民権運動では、「天賦人権」 なんて言葉も流行ったが、ようするに人権なるものは、神から与えられたものだから、たとえ国王でも侵すことはできないよ、という話。ロックは、たとえばこんなふうに言っている。

 自然状態には、これを支配するひとつの自然法があり、何人もそれに従わねばならぬ。この法たる理性は、それに聞こうとしさえするならば、すべての人間に、いっさいは平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない、ということを教えるのである。人間はすべて、唯一人の全知全能なる創造主の作品であり、すべて、唯一人の主なる神の僕であって、その命により、またその事業のため、この世に送られたものである。


 ロックは17世紀後半のイギリスの人で、こういう彼の思想は、同時代の名誉革命や 「権利の章典」、さらには遠く離れた、海の向こうのアメリカの独立宣言とかにも、反映されている。

 イギリスが議会の発祥国であることは誰でも知っているが、ロックより前の世代の人で、渡辺淳一でないほうの 『失楽園』 で有名なミルトンは、クロムウェルの政府を支えた一人であり、『言論・出版の自由』 などの人民の権利を擁護する政治的パンフレットも数多く残している。彼もまた、自由という権利に対して大きな貢献をした人の一人である。

 しかし、人間の権利として 「自由」 なるものが与えられたからといって、それだけで人間は自由だ、ということにはならない。たとえ、奴隷のような拘束を受けていないとしても、それでもなお、本当に自分が 「自由」 かどうかは定かではない。そもそもロックやミルトンが 「人間は自由だ」 と言ったのは、人間は神の子であるという宗教的信念に基づいている。では、「自由」 とは、そもそもいったいなんのことなのか。

 やはり17世紀の啓蒙思想家で、オランダに住む在野のユダヤ人哲学者であったスピノザは、「自由」 について、こんなふうに言っている。

 自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ行動しようとするものである。だがこれに反して、必然的あるいはむしろ強制されていると言われるものは、一定の仕方で存在し作用するように、他のものによって決定されるもののことである。

『エティカ』 第一部より    
   
 

 スピノザがここで言っているのは、神の自由について。少なくとも一神教においては、神とは定義上、唯一にして最高の存在であるから、他のものから、ああせい、こうせいと命令されたりはしない。神の行為は、すべて神自身の内発的意思によるものであり、だからこそ、神は絶対的に自由なのである。

 だから、フォイエルバッハがいうように、人間の運命だとか幸不幸だとかを思い煩ったり、人間のお祈りだの呪文だのにほいほい呼び出されて、お願いされるままに、雨を降らせたり、風を吹かせたりするのは、人間様の下僕であって、本物の神様ではない。

 したがって、自由とは結局 「意思」 の自由に帰着する。神様ほどではないが、人間も、いちおう自分の意思を持っている。暗闇の中を飛ぶ虫や、夜の海を泳ぐ魚などは、明るい光を見つけると、思わず知らず引き寄せられるが、それでは磁石に引き付けられる鉄粉と変わらない。その結果、まんまと人間様の罠にはまって、火で焼かれたり網ですくいあげられて、身の破滅を嘆くことになる。

 しかし、人間ならば、たとえ少々腹が減っており、おいしそうなお菓子とかがテーブルの上にあるのを見つけても、待てよ、これは誰かの罠ではないかなとか、毒入りではないかな、腐ってないかな、黙って食べたらあとで怒られないかな、などと少しは考えるだろう。つまるところ、「意思」 の自由とは、この場合、即自的な直接の欲求に身を任せずに、抵抗する力のことを意味する。

 日本国憲法では、自由権として 「思想および良心の自由」 とか 「信教の自由」、「表現の自由」、「学問の自由」 などといった権利が保障されている。そのような国民の権利を国家が侵すことは、当然ながら憲法違反である。だから、国家は国民を、その思想や信仰などで差別してはならないし、本人の自発的意思によらずに、個人の内心の告白を迫ったり、「踏絵」 を踏ませるような行為を行ってはならない。

 たしかに、これによって、われわれの 「内心」 は、いちおう国家だの政治的権力だのによる、直接の介入は受けないことになっている。では、それによって、われわれの 「内心」 なるものは、本当に自由なのだろうか。

 たとえば、上役の命令によって、公園に住むホームレスのテントを破壊する県や市の職員とか、上官の命令によって、非武装の市民の上に爆弾を落としたり銃弾を浴びせたりする兵士とかは(これは今のところ日本の話ではないが)、はたしていかなる 「良心の自由」 を持っているのだろうか。

  「内心」 というものは、たしかに人間にとっての最後の抵抗の砦のようなものだ。たとえば、隠れキリシタンはその 「内心」 によって、「踏絵」 による詮議は受け入れながらも、250年もの間、キリストへの信仰を保つことができた(もっとも、もとの信仰からは、ずいぶんと変わってはしまったが)。

 全体主義国家でも、独裁者への 「面従腹背」 を貫くことで、おのれの 「内心の自由」 を守り続けることがまったく不可能なわけではない。軍国主義時代の日本にだって、みんなと一緒に 「天皇陛下ばんざーい」 と大きな声をあげていても、心の中では 「こんな馬鹿なこと、やってらんないよ」 などと思っていた人も、おそらくはいたことだろう。

 だが、それは口で言うほど簡単なことではない。街中には、独裁者のでっかい肖像や銅像が並び、扇情的な音楽が大音量で流され、みながみな独裁者を讃え、反対派を 「反革命」 だの 「非国民」 だのと罵っている中で、おのれの 「内心」 を保つことはけっして易しいことではない。そのためになにより必要なのは、おそらくは理性や良心に裏打ちされた、周囲に流されない強い意思であり、おのれの正しさに対する確信ということになるだろう。

 むろん、現代ではかつてのような 「欲しがりません、勝つまでは」 とか、「贅沢は敵だ!」 みたいな国家による宣伝は行われていない。しかしながら、どんな時代にも、国家や政治家らは、国民に対していろいろな宣伝を行っている。学校だって、ある意味、子供らに対する一種の 「洗脳装置」 である。

 現代社会には、その他にも様々な情報があふれている。政治的宣伝だけでなく、あれを買え、これを買え、というような情報もいっぱいある。そのすべてが無意味というわけではないが、われわれは少なくともそういう社会の中に生きている。そして、われわれの 「内心」 なるものは、そのような情報の洪水の中に曝されている。

 「内心」 なるものがどこに隠されているのか、頭の中なのか、胸の奥なのかは知らないが、いずれにしてもわれわれの 「内心」 なるものは、爆弾が落ちても大丈夫なような、頑丈な金庫の中に隠されているわけではない。憲法で 「内心の自由」 なるものが保障されているからといって、われわれの 「内心」 というものは、そもそもそんなに確固としたものではない。

 あれやこれやの情報に左右されて右往左往したり、空っぽの権威にすがったり、ただ大勢の意見や行動に付和雷同してくっついて行動するのは、自分の意思で動いているように見えるが、本当はそうではない。スピノザに言わせれば、そんなものは全然自由ではない、ということになるだろう。

 むろん、神ならぬ人間としては、自分の内心など完全に統御できはしない。欲望や気分、感情といったものを完全に統制することは、お釈迦様でもない限り、不可能だ。誰しも、突如として 「邪悪」 な欲望を抱いたり、どうにもならない怒りや悲しみの感情に襲われることはあるだろう。

 しかし、そういった欲望や感情の発生そのものは統御できぬからといって、そのようなものに支配され、その赴くままに流されてしまうかどうかは、全然別の話。人間はたしかに 「不自由」 であるが、そればかりをただ嘆いていたのでは、人間の 「自由」 などどこにも存在しないことになる。







Last updated  2010.04.26 14:59:50
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2009.11.10
カテゴリ:思想・理論

 最近というわけではないが、なんでも世間には 「フランクフルト学派」 による陰謀なるものが存在しているらしい。これを暴露し、世に警鐘を鳴らしているのは、京大の中西輝政教授や、ニーチェやショーペンハウエルの訳者でもある西尾幹二氏、さらには高崎経済大の八木秀次教授など、なかなかに錚々たる学者であり研究者たちである。

 これは、こんなところこんなところで見ることができるが、これを簡単にまとめると、戦後の急速な核家族化の進行と、それによる 「家」 制度や伝統的価値観の崩壊、「行き過ぎた」 男女平等や同じく 「行き過ぎた」 性教育、ジェンダーフリー思想の蔓延や 「性道徳」 の崩壊、そして離婚の増加や少子化といった現象も、どうやら日本の社会と国家の破壊と革命をもくろんだ、恐るべき 「フランクフルト学派」 の陰謀なのらしい。

 「フランクフルト学派」 とは、もとはむろんワイマール時代のドイツでフランクフルト大学に設立された社会科学研究所に集まった、アドルノとホルクハイマーを中心とした一群の研究者らのことを指す。研究所が設立されたのは1923年だが、穏健左派の初代所長にかわって、当時は 「戦闘的唯物論者」 だったホルクハイマーが二代目所長に就任したのが1930年のこと。

 時代は短命に終わったワイマール共和国、シュトレーゼマンのもとで経済の安定や周辺諸国との関係正常化に成功し、国連加盟もはたした 「相対的安定期」 であった。その一方、ローザの流れをくむ急進左派の側には、いったんは共産党に参加したものの、ソビエトの内情やコミンテルンの気まぐれな指導に嫌気がさして、離党する者や、新たな党を作って分離する者らもいた。

 フランクフルト学派が、マルクスの強い影響のもと、「批判的理論」 を掲げて既存の社会秩序にたいする根源的批判という立場に立ちながらも、ソビエトや国内の共産党とは一線を画した立場に一貫してこだわり続けたのには、そういう背景がある。その思想に影響を与えたのには、マルクス以外にもルカーチやフッサール、さらにはウェーバーに始まるドイツの社会学や哲学も無視できないだろう。むろん、フロイトの名前も欠かすことはできない。

 一般には、この二人以外に 『一次元的人間』 を書いたマルクーゼや、『自由からの逃走』 などで知られるフロム、ナチズムを主題とする 『ビヒモス』 を書いたノイマン、さらにレーヴェンタール、ポロックなども入るようだが、別に会員制のクラブというわけではないから、人によって多少の解釈の違いがあるのはしかたがない。それに、ハーバーマス以降の世代になると、もはやアドルノらの威光も相当に薄れてきているようだし。

 また、御大であるホルクハイマーとアドルノにしても、時代によってその思想は変わってきている。ジャズもハリウッドも大嫌いという 「古典的知識人」 だったアドルノと違い、マルクーゼとフロムは戦後もアメリカに留まったが、そこには 「古き良き伝統」 ともいうべきヨーロッパの中産階級文化と、アメリカの社会やその大衆文化に対する感覚の違いもあるだろう。また、ナチズムの興隆と没落という、20世紀のドイツとヨーロッパ全域を襲った最大の悲劇に対する責任の取り方の違いということもあるのかもしれない。

 アメリカに留まったマルクーゼが、60年代のベトナム反戦運動にたいして、きわめて好意的だったのに対し、ドイツに帰ったアドルノらは、同時期のドイツ国内の急進的運動にたいし、むしろ嫌悪感を表明している。なので、この時代、「フランクフルト学派」 といえば、むしろマルクーゼが代表格のようであり、当時の急進主義者の間でのアドルノの評判はあまりよろしくない。

 おそらく 「フランクフルト学派陰謀論」 者に対して、最も強い印象を与えているのは、「ラブ・アンド・ピース」 の神様であった、この時期のマルクーゼなのだろう。彼らとは関係のない、心理学者で性科学者であったライヒが、しばしばその仲間に間違っていれられているのはたぶんそのせいなのだろう。それに、まともな時期のライヒの著作には、彼らと重なるような部分もないわけではない。

 ところで、日本の場合で有名な社会科学研究所といえば、今は法政大学に置かれている 「大原社会問題研究所」 ということになるだろうか。大原社研はもとは大阪にあり、倉敷紡績の二代目であった大原孫三郎という人によって創設されている。倉敷にある大原美術館を開館したのも彼であり、そのほかにも病院や学校を建てるなど、地元のために様々な貢献をしている。

 こういう活動には、産業革命の進展とともに浮かび上がってきた、都市と農村における様々な 「社会問題」 という背景もあるだろうが、事業でえた富は私的蓄財とすべきではなく、社会に還元すべきだという明治の経済人の心意気もあったのではないだろうか。とくに彼の場合、若い頃はぼんぼんとして放蕩を重ね、その後、石井十次なる人物を知り(救世軍の山室軍平らとともに、地元では「岡山四聖人」と呼ばれているそうだ)、キリスト教の教えに触れたということもあるようだ。

 当然のことながら、「資本家」 だって個人としてみるならば、ただの資本が目に見える形に顕現した 「人格」 にすぎないのではなく、具体的な特性を有した個人なのだから、その活動には個人の思想が反映されることになる。なお、前首相の麻生氏の出自である麻生一族も、地元では本業の鉱業以外にも、病院や学校など様々な社会事業の経営も行なっている。ただし、これが事業利益の社会への還元と言えるのかどうかまでは、分からない。

 ここで、山口昌男の 『本の神話学』 に収められた 「ユダヤ人の知的熱情」 というエッセーの中から、オーストリア系ユダヤ人であり、伝記作家として知られているツヴァイクの 『昨日の世界』 にあるという一文を引用してみる。


ユダヤ人にあっては富の追求が、家庭内部の二代、せいぜい三代で終わってしまい、まさに最も強大な代において、父祖の銀行、工場、できあがった居心地のよい商売を引き継ぐことを悦ばない弟たちを生むのである。ロスチャイルド卿が鳥類学者となり、ワールブルクが芸術史家、カッシーラーが哲学者、サスーンが詩人となったことは、偶然ではない。

 上に書いた大原孫三郎もそうだが、これを読んでちょっと連想したのは、かつて三菱重工業の社長を務め、三菱自動車工業を設立するなど、三菱グループで 「天皇」 と呼ばれるほどの力を持っていたという牧田与一郎の息子である牧田吉明という人物。彼は70年代に爆弾闘争を展開した男だが、爆弾事件で起訴されていた人の裁判で真犯人として名乗り出たという経歴がある。いわゆる 「過激派有名人」 の一人であるが、最近ではむしろ右翼人とのつきあいのほうが多いらしい。

 また、麻生一族には、平野謙や本多秋五らの 『近代文学』 に近い人で、大井広介という筆名で評論を書いていた人もいる。そうそう、西武グループの総帥だった堤義明の異母兄で、辻井喬の名前で詩や小説を書いてもいる、西武セゾングループの代表だった堤清二の存在も忘れてはいけない。

 話を戻すが、戦後、ドイツに帰国したアドルノのもとに留学したことがある徳永恂(『啓蒙の弁証法』 の訳者でもある)は、ウェーバーやルカーチ、アドルノについて論じた 『社会哲学の復権』 の中で、問題の 「フランクフルト学派」 という名称について、1950年代末頃から使われるようになったと書いている。

 ということは、「歴史哲学テーゼ」 などで知られるベンヤミンの場合、1940年にフランスからスペインへ脱出しようとして失敗し、ピレネー山中で死を選んだのだから、少なくとも本人には 「フランクフルト学派」 などという意識はなかったことになる。とはいえ、その死後に本人の意思とは関わりなく、そのように呼ばれることになったことについてどう思うかは、もはや確認のしようがない。

 彼がドイツからアメリカにまるごと移転した研究所に協力したことは事実であるが、彼を 「フランクフルト学派」 に入れることは、彼をアドルノとホルクハイマーより格下とすることに等しいように思うのだが、どんなものだろうか。そうだとすると、アドルノを信用せず、ベンヤミンに対する彼らの扱いに怒っていたというアレントは、絶対に承知しないのではないだろうか。もっとも、これはまあ、絶対に認められないというような話ではないのだが。

 この書では、この名称の始まりについて、「主としてドイツ社会学会を舞台につねに共同歩調をとって活動するアドルノの弟子たちの結束ぶりに辟易したダーレンドルフが、いささかの皮肉と、時代錯誤性への揶揄をこめて、「最後の学派」 と言ったのが事の起こりであり、それがやがてそういうニュアンスを拭い去って一般化していったように思われる」 と書かれている。

 こういう最初の揶揄的な他称がやがて一般化し、当初の 「そういうニュアンス」 を失っていくという例は、日本で言えば 「丸山学派」 とか 「大塚史学」 などという場合でも、似たようなものだろう。だいたい、こういう呼び方は、論敵の側からつけられるほうが多いものであるから。

 もうひとつ、つけくわえておくと、フランクフルト学派が陰謀論の主体としてたびたび言及されるのには、その創始者であるアドルノとホルクハイマーをはじめ、彼らにもっとも大きな影響を与えた人物や周辺の人物に、多くのユダヤ系の人がいることも無縁ではないだろう。したがって、そこには 「ユダヤ陰謀論」 との関連もあるように思われる。

 なお、やはりユダヤ系ドイツ人であり、アメリカに亡命したハンナ・アレントは、ベンヤミンについて 『暗い時代の人々』 の中で、次のように書いている。

それによっていちばん利益を受けるはずの人はすでに世を去っており、もはやそれは売り物ではない。こうした商業的ではなく、実利的ではない死後の名声が、今日ドイツではヴァルター・ベンヤミン自身の亡命に先行する10年たらずの間、このドイツ系ユダヤ人はそれほど有名ではなかったが、雑誌や新聞の文芸欄への寄稿者としては知られていた。その同胞と同世代人の多くにとり、戦争中で最も暗い時期とされていた1940年の初秋に彼が死を選んだとき、その名前を記憶していたものはごくわずかであった。

ヴァルター・ベンヤミン 1892―1940     

 ところで、戦後のいわゆる 「進歩的文化人」 の代表ともいうべき丸山真男は、多くの官僚や政治家を輩出している東大法学部の教授を長年にわたって勤め、多くの官僚の卵たちの 「洗脳」 に尽力したわけだが、「丸山学派陰謀論」 というのはどこかにないのだろうか。

 海の向こうに由来する荒唐無稽な 「フランクフルト学派陰謀論」 などよりは、官庁街に潜り込んだ丸山の弟子たちによる日本破壊の陰謀という 「丸山学派陰謀論」 のほうが、よっぽど信憑性もあり、世間にも受け入れられやすいように思うのだが。


追記: 牧田吉明氏は楽天ブログを開いておられるようですね。
     ちょっと驚きました。もっとも今は更新を停止しているようですが。
     牧田吉明 こと 山猫666







Last updated  2009.11.11 14:33:27
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2009.11.05
カテゴリ:思想・理論

 報道によると、フランスの人類学者レヴィ=ストロース大先生が10月30日に亡くなったそうだ。生まれたのが1908年の11月28日だそうだから、あと4週間頑張っていれば101歳というところだったのに、残念なことである。

 彼については、以前にあんなことこんなことを書いたが、いずれもただの雑文の域を出ない。それはそうだろう。こちらはただの手当たり次第の雑読家であって、人類学はもちろん、レヴィ=ストロースの構造人類学に大きな影響を与えた言語学についても、ちゃんとした勉強をしたことなどないのだから。

 ところで、彼は1977年、もうすぐ69歳になろうかというときに日本に来て、何回か講演をしている。その中の一つ、京都で行われた、日本語で 「構造主義再考」 と題された講演では、こんなことを話している。

 かりに、どこかの辞書のために、私たちが用いている意味での 「構造」 という語の定義を求められたとすれば、次のように言いたい。すなわち、「構造」 とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変形過程を通じて普遍の特性を保持する。
 この定義には、注目すべき三つの点というか、三つの側面があります。第一は、この定義が要素と要素間の関係とを同一平面に置いている点です。別の言い方をすると、ある観点からは形式と見えるものが、別の観点では内容として表れるし、内容と見えるものもやはり形式として表れうる。すべてはどのレベルに立つかによるわけでしょう。......

 第二は 「不変」 の概念で、これがすこぶる重要な概念なのです。というのも、わたしたちが探求しているのは、他のいっさいが変化するときに、なお変化せずにあるものだからです。

 第三は 「変形(変換)」 の概念であり、これによって、「構造」 と呼ばれるものと 「体系」 と呼ばれるものの違いが理解できるように思います。というのは、体系もやはり、要素と要素間の関係とからなる全体と定義できるのですが、体系には変形が可能でない。体系に手が加わると、ばらばらになり崩壊してしまう。これに対し、構造の特性は、その均衡状態になんらかの変化が加わった場合に、変形されて別の体系になる、そのような体系であることなのです。
レヴィ=ストロース日本講演集 『構造・神話・労働』 より 


 「構造」 という概念自体は、むろん古くからある。また、「全体」 は単なる個々の要素の集合ではなく、そのような要素には還元できないといった、「構造」 としての全体のほうをその個々の要素より重視する発想というのも古くからある。これは、アトミズムまたは還元主義とホーリズム(日本語だと全体論)の対立などと呼ばれる。

 たとえば、20世紀初めにドイツで生まれたゲシュタルト心理学では、「ゲシュタルト」 の説明として、楽曲のメロディがよく引き合いに出される。メロディは個々の音の絶対的な高低ではなく、それぞれの音の高低の関係、つまりはその差異という相対的な高低によって構成されている。だから、ハ長調で歌おうとヘ長調で歌おうと、「やぎさんゆうびん」 はやっぱり 「やぎさんゆうびん」 である。

 これは、平面や空間の内部をあちこち移動させても、図形の形は変わらないのと同じことだ。レヴィ先生は上記の講演で、座標平面に人間の横顔を書き込み、座標のパラメータをいろいろと変化させて、最初の横顔を様々に変形させていくという、16世紀の画家兼版画家であったデューラーの方法を例にあげて説明している。

 そのような 「変形」 が可能であり、またそのような 「変形」 を通じても保持されていくのが、つまりレヴィ=ストロースのいう、たんなる 「体系」 とは異なった、特別な意味を持つ 「構造」 ということなのだろう。だから、それはしばしば批判されたような静態的なものではない(らしい)。

 しかし、同時にそのことは、彼のいう構造主義なるものは、いかなる問題、いかなる分野にも適用でき、利用できるといったものではないということも意味する。それは、彼自身の言葉を借りれば、「哲学を自称するものでもなく、なんらかの主義を自称するもの」 でもない。

 それは、「ひとつの認識論的態度」、「問題に注目し、接近し、これを取り扱うさいの、特定の仕方」 なのであり、それが有効であるためには、「研究する現象のタイプが、普遍的とはゆかずとも、少なくとも一般に認められる現象であって、そのほかの現象から比較的分離しやすく、そこから検出できるすべての例が均質の方法で処理できる、そのような現象でなければならない」 ということだそうだ。

 たとえば、現代思想の解説書などでは、「実存主義から構造主義へ」 みたいなことがよく言われる。レヴィ=ストロースが、『野生の思考』 の最終章でサルトルを厳しく批判したのは1962年のことだが、彼自身はこの講演の中で、その前の 『構造人類学』 が刊行された1958年から、いわゆる 「五月革命」 が起きた1968年までの十年間を、本場フランスにおいて構造主義が流行した期間としている。

 「五月革命」について、彼は「その時点で判然としたのは、フランスにおける青年知識層のひそかにとりつづけてきた姿勢が、20年も前、第二次大戦末期に生まれたサルトル流実存主義のそれと、ほとんどかわらぬままであったということであります」 と言っており、これが、彼によればフランスでの構造主義の短い流行の終焉なのだそうだ。

 人間の自由を基調とするサルトルの哲学そのものについても、彼はおそらく批判的であったと思われるが、『野性の思考』 での批判が対象としていたのは、サルトルの 『弁証法的理性批判』 にひそかに隠されていた西欧中心主義であり、近代的な理性中心主義であって、その批判は自分の学問に関係する限りでのことと言うべきだ。

 したがって、それはサルトルにかわる新たな哲学の提出などを意図したものなどではない。その意味では、「実存主義から構造主義へ」 というよくあるまとめ方は、いささか乱暴で的外れなものであり、レヴィさんにとってはむしろ心外なものであるのかもしれない。

 サルトルの事実上の伴侶であったボーヴォワールはレヴィ=ストロースと同い年であり(亡くなったのはサルトルの死から6年後の1986年)、その主著である 『第二の性』 を書くに当たって、彼の最初の主著であった 『親族の基本構造』 を、出版前の原稿段階で読ませてもらったという。

 朝鮮戦争を契機に決別していたとはいえ、かつては親友であり盟友でもあったメルロによる批判に続いて、今度はそのレヴィさんによって、サルトルが批判されたというのだから、ボーヴォワールの驚きははたしていかなるものであったのか。

 うえに述べたように、彼はサルトルの実存主義に代わる全体的な哲学として、いわんや 「変革」 のための理論として構造主義を提唱したわけではない。だから、「五月革命」 という変革の季節に、いったんは死んだかと思われたサルトルが復活したとしても、おかしくはないということになる。

 日本の場合、構造主義の流行はフランスより10年以上遅れてやってきたが、その後のサルトルの急激な凋落には、舶来の新思想をいつもありがたがってきたこの国の特殊性ももちろんだが、レヴィ=ストロースらによる批判を受けた 「思想的事件」 というより、むしろ当時の急進左翼の衰退に伴った 「政治的事件」 という側面のほうが強いのかもしれない。

 レヴィ先生は、この講演でこうも言っている。


 わたしたちにとって、構造主義とは、極端に慎ましい手仕事のようなものであって、おそらくや、今日的な関心とは無縁の問題を対象としています。そして、今日的な関心と無縁であればこそ、わたしたちが対象としている問題は、その他の諸問題、特定の階級なり環境なりの成員としての、歴史の特定時点に帰属する個人としての、わたしたちの関心と予断がかかわってこざるをえないような諸問題にくらべるとき、いささかなりとも、より厳密なやり方で研究されうるのであります。


 なお、日本人で同様に長寿だった人ということで連想したのが荒畑寒村。寒村は1887年に生まれ、1981年に亡くなっている。享年94歳で、100歳まで生きたレヴィ=ストロースにはちょっと及ばない。彼の最初の著作は足尾銅山の鉱害と、県と政府による谷中村住民への弾圧について描いた 『谷中村滅亡史』 であり、これは天皇への直訴事件などで知られる田中正造から託されたものだという。

 荒畑はそのような時代から、宇宙ロケットや核搭載も可能な長距離ミサイル、ジャンボジェットなどがびゅんびゅんと空を飛び回る時代まで行き続けたわけだ(核ミサイルはさすがにびゅんびゅんとまでは飛んでいないが)。

 また、江戸時代の浮世絵師である葛飾北斎は1760年に生まれ、1849年に死んでいる。享年89歳ということだが、彼の場合は、生まれたのは八代将軍吉宗が死去した9年後、亡くなったのがペリーが黒船に乗ってやってくる4年前、明治維新のほぼ20年前であり、そのときにはすでに長州の桂(のちの木戸孝允)は15歳、西郷などはなんと21歳に達していた。

 ヨーロッパの歴史で100年といっても、今ひとつぴんと来ないのだが、こうやって自分の国の歴史に置き換えてみると、それがどれだけ長い期間であり、また一人の人間が100年を生きるということが、どれだけすごいことなのかがよく分かるだろう。


参照: レヴィ=ストロース追悼 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
  
   こちらは専門的研究者による立派な記事です。







Last updated  2009.11.06 05:22:43
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2009.10.21
カテゴリ:思想・理論

  気象学にバタフライ効果という言葉がある。Wikipediaによると、これはエドワード・ローレンツという人が1972年にアメリカ科学振興協会でおこなった講演のタイトル、『予測可能性-ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』 に由来するということだ。

 これはむろん一種の比喩であり思考実験なのであって、どこかでの蝶のはばたきが、実際につねにどこかに竜巻を引き起こすというわけではあるまい。だいいち、そんなことがあちこちでしょっちゅう起きていては、たまったものではない。

 難しい数学はちんぷんかんぷんだが、ようするにカオス理論なるものによれば、「カオスな系では、初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす。そしてそれは予測不可能」 ということらしい。いや、そういうふうに言われても、やっぱりよく分からない。

 昔の人は、「風が吹けば桶屋が儲かる」 と、なかなか洒落たことを言った。これは、「大風で土ぼこりが立つ → 土ぼこりが目に入って盲人が増える → 盲人は三味線を買う → 三味線に使う猫皮が必要になりネコが殺される → ネコが減ればネズミが増える → ネズミは桶を囓る → 桶の需要が増え桶屋が儲かる」 ということらしい(ネコさん、ごめんなさい)。

 世界は様々な事象で満ちている。無から有はけっして生じないのだから、いかなる事象も、必ずどこかに原因を有する。上の命題は 「風が吹く」 で始まっているが、その風だって、吹いたのには、誰かが大きな口をあけてふーと吹いたか、吸い込んだか、あるいは台風の接近だとか、なんらかの原因によって気圧の差が生じたことによる。

 そういう因果の連鎖をたどっていけば、それこそ宇宙がドカンと誕生したというビッグバンにまで遡るだろう。それに、風が吹いた結果のほうも、「桶屋が儲かる」 で終わるわけではない。たとえば、「桶屋が儲かると、近在にその噂が広まる → 噂を聞いて盗人が押し込みにくる」 などというように、その結果はさらに未来に向かって続いていくだろう。

 いや、それだけではない。あるひとつの事象を決定する原因はたったひとつではない。ボールが窓に当たったとしても、それで実際に窓が割れるかどうかは、ガラスの厚さや強度、当たったボールの硬さや速度にも左右される。

 それに、ひとつの事象から、枝分かれするようにいろいろな結果が同時に生まれることもあるだろう。世界の中では、いまここで風が吹いているだけでなく、その横ではカラスがカーと鳴き、ネコがニャーと鳴いているかもしれない。田中さんの家では夫婦喧嘩の真っ最中だが、公園では若いカップルがいちゃいちゃしているかもしれない。

 世界の中では、つねに複数の事象がたがいに関連しながら、あるいは独立しながら、同時多発的に発生している。そして、そのような事象は、場合によってはたがいに影響を及ぼしながら、時系列にそって発生し、変化し、あるいは消滅する。これはまさに混沌とした世界である。

 たとえば、17世紀にオランダにいた哲学者のスピノザはこんなことを言っている。

定理28  あらゆる個物、あるいは有限でかぎられた存在を持つあらゆるものは、自分と同じように有限でかぎられた存在を持つ他の原因から、存在や作用へと決定されることによって、はじめて存在することができるし、また作用へと決定されることができる。
さらにこの原因も同じように有限でかぎられた存在を持つ他の原因から、存在や作用へと決定されることなしには、存在することもできないし、また作用へと決定されることもできない。このようにして無限に進む。

『エティカ』 第一部 「神について」 より  


 だが、このようにすべての事象が因果関係の連鎖でつながっているとしても、そのことはただちに、すべての事象が必然性によってつながれた必然的に発生したものであるということは意味しない。長い因果の連鎖をへて、いまここで発生した事象のすべてが、いかなる偶然性も含まない完全な必然性によって生じたというには、すべての因果の連鎖が、最初のドカンという宇宙誕生(スピノザなら 「神」 というだろうが)の時点において、すでに決定されていたと言わなければならない。

 そのような長大で、しかも相互に絡み合っている複雑な連鎖の計算は、どんなに巨大な計算機をもってしても不可能だという技術的理由はともかくとして、すべての事象の連鎖が世界が誕生した時点で決定されていたと考えるのは、どう考えても無理だろう。結果から原因を探ることは可能だとしても、因果によって生じる結果なるものは、つねに一義的とは限らない。そこにはつねにいくらかの幅や揺らぎが存在する。もっとも、全能の神様ならば、そのすべてを予見していたかもしれないが。

 それに、いったん成立した個々の事象や存在は、ただ外的要因によって左右されるだけでなく、程度の差はあれ、自律的な自らの 「本性」 も持っている。煌々とともる電灯に集まってくる蛾や蚊のみなさんには、光の誘惑に抵抗するだけの自由はないのかもしれないが、彼らとて、たんなる刺激に対する反応によってのみ生きているわけではないだろう。

 話はがらっと変わるが、のちにスターリンによって 「右翼的偏向」 と批判され、最後には 「裏切者」 の汚名を着せられて処刑されたブハーリンは、『過渡期経済論』 の中でこんなことを書いている。


恐慌は拡大し、波のごとく伝わるが、これは、体制内の一部分における均衡破壊が、ちょうど電信線によって伝わるみたいに、その各部分へと不可避的に拡がるからである。世界経済の諸条件のもとでの戦争が ― 一か所における均衡破壊を意味したものが ― 不可避的に、体制全体の大動揺に、世界戦争に転化した。


 これが書かれたのは、ニューヨークはウォール街での株暴落を原因とする世界恐慌が勃発した9年前のこと。彼がのちのような 「右派」 ではなく、レーニンの主張する屈辱的な対ドイツ講和に反対していた 「左派」 だった頃の著作である。なので、その主張には極左的な単純化傾向がいささか強い。

 世界経済のネットワーク化とは、つまり世界中の地域経済の相互依存が極大に達することだ。その結果、ブハーリンが指摘した、ネットワークを通じた危機の伝播と増幅という傾向もたしかに生じはするが、それと同時に、リスクの拡散と危機の局所的爆発の回避というそれとは反対の傾向も存在する。ある時点においてどちらの傾向が強いかは、一概には言えない。

 しかし、たとえば、いまここで1000円を支出してなにかを購入した場合、その1000円はどこへどのように流通し、どのように分割され、最終的にどこにどのような影響を与えるか、それは市場の専門家などでない限り、ほとんど誰にも分からない。

 むろん、たとえその結果がわからぬとしても、たった一人によるたった一回きりの行為であるなら、たいした影響はないかもしれない。しかし、それと同じ行為を1000人、10000人、いや10万人の人が毎日繰り返したなら、いったいどこにどのような結果が生じるのか。

 その結果、たしかに誰かは儲かるだろうが、その反対に、どこかの店が倒産し、誰かが職を失うといったことが絶対に生じないとは、たぶん誰にも断言できぬだろう。これもまた、冒頭で引用したバタフライ効果のようなものである。われわれは、まことに混沌とした世界に生きている。

 それはまるで、次の一歩を右脚から踏み出すか、左脚から踏み出すかに、世界の存亡がかかっているといった妄想に突然とりつかれた結果、その場に立ち尽くし、ついに一歩も動けなくなったという狂人が住んでいる世界のようなものである。

 だが、それでも人は生きていかなければならないとしたら、そのようにただ立ち尽くしているというわけにはいかない。結果がどうなるか分からないからといって、次の一歩を右脚から踏み出すのか、それとも左脚から踏み出すのかの決断を、永遠に回避し続けるわけにはいかない。できることは、せいぜい可能な限り、自己の行為が及ぼす結果について事前に考え、予測しておくといったことにすぎないだろうが。

 ところで、スピノザというと、「空中に投げられた石にもし意識があれば、自分の自由意志で飛んでいると思うだろう」 と言ったとかいう話があり、これは人間の意志の自由を否定したものと解釈されている(中公版の 『エティカ』 にはたしかに石を使った比喩はあるのだが、この言葉は見つからなかった。はて?)。

 しかし、彼は人間の自由というものをすべて否定したわけではない。実際、『エティカ』 には、「自由な人間はなによりも死について考えることがない。そして彼の知恵は、死についての省察ではなく、生きることについての省察である」 というような定理もある。

 彼は、その第三部 「感情の起源と本性について」 の定理2の長い注解の中で、「人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているがその行為を決定する原因については無知であるという、ただそれだけのことにある」 と述べている。

 それはつまり、人はなんらかの行為を行ったとき、あるいは行わないとき、それを決定した自分の意志をただ無根拠に 「自由」 と称するのではなく、それがいかなる原因によって生じたものか、いかなる根拠によって制約されたものか、それをまずは省みよ、ということだろう。彼の言う人間の自由とは、おそらくその先に見えてくるものなのだ。

 「限界」 を超えるための前提は、まずその 「限界」 がどこにあるかを知ることだ。同様に、自分が抱えている 「偏見」 や 「偏向」 から自由になるために必要なのは、そのような 「偏見」 や 「偏向」 をまず自覚することだ。それは、無意識の抑圧の意識化による解消という、フロイト先生が提唱した 「精神分析」 でもたぶん同じことだろう。


追記:バタフライ効果をネタにした一日違いの記事を発見

    暴力も責任も地続きなので線引きしましょう







Last updated  2009.10.21 18:04:40
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2009.10.10
カテゴリ:思想・理論

  「認知的不協和」(cognitive dissonance)とは、人が自身の中で互いに矛盾する認知を同時に抱えた状態だとか、そのときに覚える不快感を表す社会心理学の用語で、アメリカの心理学者レオン・フェスティンガー(1919-1989)という人が提唱したのだそうだ。

 この人によれば、「認知的不協和」 が存在すると、その不協和を軽減し除去するための心理的圧力が生じ、その結果、どちらかといえば不都合な一方の要素が無意識のうちに修正されて、「不協和」 な状態が軽減されたり除去されるということだ。

 この理論の説明でよく言及されるのが、イソップ寓話にある 「キツネとブドウ」 の物語である。これは誰でも知っているだろうが、ある日、美味しそうなブドウがなっているのを見つけたキツネが、一生懸命とびあがって獲ろうとしたものの、どうしても届かない、それで最後に 「どうせあのブドウは酸っぱいんだ」 といって諦めたという話である。

 キツネとしては、一方に 「渇いたのどを潤したい」 という欲求があり、他方に 「美味しそうなブドウ」 が樹になっているぞ、という認知がある。ところが、どうしても届かないため、「美味しそうなブドウ」 という認知を 「すっぱいブドウ」 という認知に変えることで、ブドウに対する欲求を断念したというわけだ。

 この場合、キツネとしてはどうしても手に入らないブドウのことでいつまでもうじうじしているよりも、さっさと諦めて、別のものを探したほうが現実的であり生産的でもある。なので、「それは現実逃避だ!」「事実から目をそらした自己正当化だ!」 などといってことさらに非難する必要はあるまい。

 そもそも人間、なんでもかんでも可能なわけではないのだから、理屈がどうであれ、そのような心理的機制によって、かなえられない欲望がおさまり、心理的な安定が得られるのであれば、それはそれでよい。これに限らないが、人間の心というものはなかなかよくできている。

 しかし、問題は 「認知的不協和」 の対象がブドウのような物ではなく、「他者」 という人である場合。その場合、これはしばしば過大な 「自己評価」 の幻想による維持を意味し、その結果、「他者」 とのコミュニケーション不全をもたらすおそれも出てくる。

 人間にとっては、たしかに自己の精神的安定が第一なのだから、競争や争いに負けたときに、「本気じゃなかったんだよ」 とか 「おれだってやればできるんだよ」 などといって自分を慰めるのはしかたあるまい。ただ、そういうことはあくまで内心にとどめておくべきで、公言してしまっては恥ずかしい。

 吉本新喜劇の池乃めだかの 「今日はこれぐらいにしといたるわ」 というギャグが受けるのは、それがただの 「負け惜しみ」 であることが誰の目にも明白だからだが、よく考えると、たいていの人はそれと大差ないことをどこかでやっている。

 自分が人から批判されるのは、彼らがわたしを妬んでいるからだ、という理屈で自分を納得させるのもそうだし、自分が誰にも相手にされないのを、自分はみなに一目置かれているのだというようにすりかえて自分を慰めるのもそうだ。こうなると、もはや病膏肓の域に近づいてくる。これは、もはやただの 「自我肥大」 か 「自意識過剰」 にすぎない。

 これが意味するのは、自己と自己をめぐる状況について客観視ができないということだ。そして、そのような 「自己客観視」 の不能は、ただの自己正当化による 「認知的不協和」 の解消にますます拍車をかけることになる。その結果、ニワトリとタマゴのような関係が生じ、どっちが原因でどっちが結果なのか、もはや分からない状態になってしまう。

 これはとくに自尊心の高い人ほど陥りやすいものだが、そのことはつまり、この 「病」 はかならずしもたんなる 「劣等感」 の所産とは限らないということ、言い換えると、それなりに高い才能や能力を有する人でも、このような 「病」 に罹患するおそれはあるということを意味する。実際、漱石や芥川のような才人であっても、こういう 「病」 から完全に逃れることはできなかったのだから。

 漱石と並べるわけではないが、最近で言うなら、五輪招請の失敗をめぐる、石原都知事のブラジルとフランスなどとの裏取引を示唆するかのごとき発言もそうだろう。彼の過去の発言を振り返ると、招請失敗の最大の責任は彼自身にあるとしか思えないのだが、結局、彼はそういった事実や現実を認めたくないために、無意識に 「認知」 の修正をやって、責任をよそに転嫁しているにすぎないように思える。

 ところで、今日10月10日は中国では双十節と呼ばれ、1911年に長江中流の都市、武昌(現在は対岸の漢口との合併によって武漢となっている)で、政府による鉄道国有化政策をきっかけとして軍隊の蜂起が起こり、全国に波及して清王朝が倒れた辛亥革命が始まった日でもある。

 以下は、「日本改造法案大綱」 を書いて陸軍を中心にした青年将校らに影響を与えたため、2.26事件の首謀者として処刑された北一輝の 『支那革命外史』 序からの引用である。

相抱いて淵に投じた二人の中、一人は眠りから覚めなんだ。一人は蘇生した。蘇生した一人が倒幕革命の一幕を終わってむなしく墓前に哭した時、頭をめぐらせばすでに十有余年の夢である。不肖また支那の革命にくみして十有余年、まことに一夢のごとし。

ろくろく何事をもなすあたはざりし遺憾は盟友らの墓石に対するもこころよくない。清朝転覆の一幕、盟友らにとりて何程のことであらう。非命にたおれた宋教仁・范鴻仙君らの悽慘な屍を巻頭に弔らひ掲げて、ひとり暗涙をのみつつ、筆を執っていた六年前の不肖自身の心中が悲しまれる。

 文中、「相抱いて淵に投じた二人」 とは、薩摩藩の開明的藩主島津斉彬が急死したのち、錦江湾にともに身を投げた西郷隆盛と僧月照のことを指しているのだろう。月照は安政の大獄で幕府から終われる身となり、西郷とともに京都から薩摩に逃亡したが、斉彬の死による藩政の変化により追放を命じられたたため、悲観して西郷とともに身を投げたということだ。

 北のこの書のすぐれている点は、列強の進出に苦しむ 「後進地域」(今ふうに言えば 「第三世界」)における革命運動が、ときとして排外的でもあるナショナリズムの高揚を伴うことの必然性を理解していたところにある。それは、いうまでもなく幕末の倒幕運動が攘夷からはじまったことの意味を、彼が正確に認識していたからでもある。

 彼が、アメリカかぶれの孫文を評価せず、その最大のライバルであった宋教仁を支持したのはそのためだが、その結果、上海で起きた宋教仁暗殺の黒幕を、袁世凱ではなく孫文だとしたのはいただけない。しかし、それもまた、イソップのキツネと同じ 「認知的不協和」 のもたらしたものなのかもしれない。


関連記事: 「自己イメージ」 の歪み、あるいは 「認知的不協和」 について







Last updated  2009.11.10 15:49:29
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2009.10.02
カテゴリ:思想・理論

 ゴッホとの共同生活が破綻したゴーギャンがフランスからタヒチへと逃亡したのは、ゴッホと別れてから三年後の1891年のことである。タヒチが 「発見」 されたのは18世紀半ばで、最後にはハワイで先住民に殺された、かのキャプテン・クックことジェームズ・クックも、金星観測のため、1769年にタヒチを訪れている。

 むろん、この 「発見」 とはヨーロッパ人と彼らの世界にとってのことにすぎない。タヒチは、おそらくはアジアのどこかから船出し、その後、ハワイからイースター、さらにニュージーランドにまで航海を続けた人々らによって、そのはるか以前に発見されていたのである。いうまでもなく、それはいわゆる 「新大陸」 の場合でも同じことだ。

 タヒチなどの島々の 「発見」 が、当時のヨーロッパの知識人らにどのような影響を与えたかは、たとえば革命前のフランス啓蒙思想家の一人であるディドロが、航海から帰国した同国人のブーガンヴィルについて、『ブーガンヴィル航海記補遺』 という書を書いていることからもうかがえる。彼はその中で、次のように書いている。

ああ!ブーガンヴィル氏よ、あなたは無邪気で仕合せなタヒチ人のすむ岸辺からあなたの船を遠ざけるがいい。彼らは幸福でいるのに、あなたはただ彼らの幸福を損なうだけであろうから。彼らは自然の本能に従うのに、あなたはこの荘厳神聖な性格を抹消しようとしている。いっさいは万人に所属するのに、あなたは我のもの、汝のものという不祥な区別を彼らの中に持ち込もうとしている。

ついに、あなたはタヒチを去る。......すでに夜明けの時刻から、彼らはあなたが船に帆を上げるのを認める。彼らはあなたのもとに殺到し、あなたを抱擁して涙を流す。泣くがいい、哀れなタヒチ人よ。しかしお前たちの流す涙はこれらの野心に満ちた、腐敗した、邪悪な人間の到着を悼む涙であっても、決して出発を悼む涙であってはならない。

いつか、お前たちは彼らの正体を知るに違いない。いつか、彼らは片手に十字架、片手に短剣を握って到来し、お前たちを虐殺したり、お前たちに無理やりに彼らの習俗や見解を採用させたりするに違いない。いつか、お前たちは彼らの足もとにひれ伏して、彼らとほとんど変わらない不幸な状態に陥るにちがいない。

 ディドロの予言どおり、タヒチはその後、太平洋における英仏の覇権争いに巻き込まれ、1842年にはフランスの保護領、さらに1880年にはその植民地となり、現在は、共和国フランスの自治権を与えられた 「海外領土」 ということになっている。ちなみに、タヒチに近いムルロア環礁で、フランスの核実験が行われたことは、まだ記憶に新しい。

 このような、いわゆる 「善良なる未開人」 の発見が近代ヨーロッパの思想に及ぼした影響については、言うをまたない。世界各地での 「未開人」 の発見は、やがて 「人類学」 なる学問の誕生に導き、ヨーロッパという 「文明諸国」 の遠い過去との比較であるとか、また人類の文化と社会の「発展段階」論といった壮大な理論もいろいろと提出された。

 それはともかくとして、一般的に言うなら、自然科学であれ人文・社会科学であれ、「人間」 という生物についての科学が発達することは、人間を 「神」 の似姿という神聖な座から引きずりおろすことを意味する。

 われわれ人間が、人間自身を客観的で合理的な冷たい認識の対象とするとき、人間はもはやかつての伝統的な 「キリスト教神学」 で信じられていたような、神と同じ理性を分有し、神から特別なご愛顧を受けた、他の生物とは別格の生き物ではあり続けられない。「進化論」 がもたらした衝撃とは、まさにそういうものである。

 われわれは、すでに人間の 「意識」 というものが、神から授けられた、神と同じ 「理性」 などではなく、進化によって生まれた脳という器官の産物にすぎないことを知っている。だが、具体的な意識は、身体とそれを取り巻く、他者を含めた 「世界」 との関係の中で成立するのであり、したがってたんに脳の中にのみ局在しているのではない。

 それは自己の身体を貫き、身体をすっぽり覆うと同時に、身体からはみ出したものとしても存在する。たとえば、熟練者が道具や機械を操作するときのように。それは、いわば 「延長された身体」であり、「二乗された身体」 でもある。そして、その結果、「身体」 の側にも、「精神」 の中に取り込まれ、「精神としての身体」 に変容するという妙な状況が生じることになる。

 なんの因果かは知らないが、人間は、巨大な大脳を含む特異な身体組織を得ることで、「自己意識」 というややこしいものを持ち、言葉をしゃべるようになった。おかげで、人間はわけのわからぬさまざまな 「観念」 を生み出し、悩まされるようにもなってしまった。もっとも、それがどのようにして発生したかは、すでに遠い記憶の彼方であるから、もはや誰にも分からない。

 たとえば、呪術の力を信じる 「未開人」 は、呪いをかけられたと思うと、それだけで死にいたるという。だが、それは、彼が 「愚昧」 であるがために起こるのではない。そうではなく、それは彼もまたわれわれと同じ、「観念」 という病にとりつかれているがゆえに起きるのだ。

 そこに違いがあるとすれば、それはせいぜい、とりつかれる 「観念」 の違いにすぎない(どちらが高級であるかは、あえて問わない)。つまるところ、魔法や呪術を信じる 「未開人」 もまた、多少の程度の差はあれ、われわれと同じ立派な 「文化」 的存在なのである。

 途中ははしょるが、結局のところ、自然史という地球の歴史への登場以来、われわれ人間はみな、究極的にはこの奇妙な 「心身」 という 「下部構造」 による規定をつねに受けている。そして、そのような 「下部」 と、その上に立つ歴史や社会、文化といった 「上部」 をつなぐ配線は、たしかに明瞭ではないが(完全に明瞭になることはありえないだろう。それはつまり人間が「自由」でもあるからだ)、なんらかのイデオロギーによってことさらにつながなくとも、すでにそこにあるものである。

 したがって、そのような 「配線」 の存在を意識することは、なんらかの 「価値」、たとえば白色人種、とりわけアーリア人種の優越といった怪しげな 「理念」 や、特定の民族や社会層に対する差別を正当化するために、「遺伝学」 だとか 「生理学」 だとか、つねにひとつの暫時的な仮説でしかないなんらかの 「科学」 によって、怪しげな 「配線」 をすることとはまったく別のことだ。

 それはまた、なんらかの 「下部構造」 から直接に、「価値」 だとか 「理念」 だとかを導き出そうという話なのでもない。むろん、そのような 「配線」 の存在を認識することは、人間の自由をすべて否定することでもない。ただ、その 「絶対性」 が否定されるだけのことだ。だが、絶対的に自由な人間など、地上に存在しえぬことなど、ほとんど自明のことにすぎまい。

 しかし、「上部構造」 に対する否定的制約としてであれ、その成立を可能とする肯定的条件としてであれ、人間の 「本性」 や 「生活世界」 といった具体的な 「下部」 による規定を無視して、自らを 「普遍的」 と称する理念が大手を振って歩き回るなら、そこに生じるのはつまるところ 「啓蒙の暴力」 であり、せんじつめれば、現に近現代史の中でしばしば生じたような、「普遍性」 の名による 「テロル」 ということにしかなるまい。

 「行動主義心理学」 を提唱したワトソンは、かつて、もし自分に生後間もない健康な子供を預けてくれるならば、その子供をどんな性格にでも、どんな職業人にでも育て上げてみせると豪語したという。むろん、これはおそらく当人も承知の、宣伝をかねた一種のハッタリにすぎないだろう。

 だが、そのような人間の 「本性」、すなわち "human nature" そのものの存在をいっさい否定する論理こそが、「革命」 や 「党」、「国家」 といった大義の前には、親や家族、親しい友人らも売り渡すことが正しい行為だとして称揚された 「スターリニズム」 の論理を生んだのであり(むろん、それだけが原因ではないが)、それが最後に行き着く先はオーウェルの描いた 『1984』 ということになるだろう。

 現代の社会が、いわゆるグローバル資本主義を経済としての 「下部構造」 としているとしても、われわれを規定しているのはそれだけではない。経済としてのグローバル資本主義は、自己に照応する複雑な 「上部構造」 を必要とする、それ自体が一つの巨大で複雑なシステムであり、それをもって社会を最下段で規定する 「下部構造」 であると単純にみなすことはできない。

 そのような世界の変容は、むろん無視し得ない現実であるし、世界経済をかつてのような相互に孤立した国民経済へと分断することが可能なわけでもない。とはいえ、人間という存在を最終的に規定しているのは、われわれ自身の 「心身」 と 「生活世界」 とでも言うべき具体的な現実ではあるまいか。

 まだ若かったマルクスが言った、「現実的な諸個人による物質的生活の生産」 とは、まずはそのような具体的な世界のことを指しているのであり、それはたんなる経済や経済学の問題なのではない。

あらゆる人間歴史の最初の前提は、もちろん生きた人間的諸個人の存在である。それゆえ、最初に確認すべき事態は、これら諸個人の身体的組織、およびそれによって与えられる彼らのそれ以外への自然への関係である。

『ドイツ・イデオロギー』 


 ついでに引用すると、マルクスの同時代人であったシュティルナーは、キリスト教の神とは、類としての人間の本質が疎外されたものであり、人間はそのような神として自ら疎外した自己の本質を取り戻さなければならないと説いたフォイエルバッハに対して、彼はただ神の代わりに、「人間」 なるものをその座につけたにすぎないと批判している。


 なぜなら 「神の精神」 はキリスト教的見解によれば、また「われわれの精神」 でもある。......それは天にもわれわれのうちにも住む。哀れなるわれわれはその 「住居」 である。そしてフォイエルバッハが進んでその天上の住居を破壊し、そのすべてをわれわれのうちに移そうとするなら、そのときわれわれ ―― その地上の住居 ―― は著しく混雑をきわめるであろう。
『唯一者とその所有』    


 人間と社会の 「基底」、いいかえれば、われわれを規定している 「心身」 を含めた人間が有する 「自然」 を承認することは、つまるところ、人間がけっして神ではないということ、そしてまた、たとえわれわれが神を殺したとしても、人間はけっして神にはなれないということを明確に承認し、自覚することでもある。

 結論はしごく当然な話になってしまったが、言いたいのはようするにそういうこと。なお、タイトルはむろんゴーギャンの有名な絵からのパクリである。







Last updated  2009.10.02 20:43:14
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2009.09.06
カテゴリ:思想・理論

 批評家の柄谷行人が、『探求II』 の中で次のようなことを書いている。

 ところで、子供に死なれた親に対して、「また生めばいいじゃないか」 と慰めることはできないだろう。死んだのはこの子であって、子供一般ではないからだ。しかし、子供や妻が家畜と同じ財産と思われているような社会では、それが可能であるように見える。
 たとえば、『ヨブ記』 では、神の試練に対して信仰を貫いたヨブは、最後に妻および同数の子供(男七人と女三人)とより多くの家畜を与えられる。しかし、どうしてそれで償われたといえるだろうか。死んだあの子が取り戻されたわけではないのだ。『ヨブ記』 を読んだ後に残る不条理感はそこにある。


 『ヨブ記』 というのは、ヤーヴェなる全能の神と悪魔との人間の信仰心をめぐる賭けの対象に選ばれたヨブという男が、なんの咎もなしに次々と災厄を与えられるというとんでもない話である。神と賭けをした悪魔は、ヨブの命だけには手出しするなという条件で、ヨブから財産を奪い、子らを奪い、ヨブ自身にも全身がはれ上がるという病気を与えて、彼の神への信仰を試すことになる。

 で、途中ははしょるが、「お前がそんな目にあったのは、なにか罪があるからだろう、きりきりと白状せい」 というようにヨブを責める友人らと、「いや、自分はいささかも罪など犯してはいない、神に背いてなどいない」 と反駁するヨブとの間で言い争いになり、腹を立てて、神に対し災厄の理由を問い質そうとするヨブの前に神が現れて、次のように言い放つ。

 無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえたとき、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。あなたがもし知っているなら、誰がその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。その土台はなにの上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。......  

 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか。あなたは神のような腕を持っているのか、神のような声でとどろきわたることができるか。


 こんなふうに言われては、ヨブとしては 「へへっ」 とかしこまるしかない。そういうわけで、最後に神は、試練に耐えたヨブを讃えて、その財産をもとの二倍にし、前と同じ数の子を与えたという。ここでの神は、キリスト教の神のような愛を説く神ではない。それは人間など足元にも届かぬ絶対的存在であり、また避けようのない不条理な運命であり災厄ですらある。

 柄谷は、上に引いた文に続けて、「ヨブにとっては、妻子は家畜と同じ財産であり、したがって右のような疑念は生じないのである。」 と言っている。たしかに、前近代的な家父長制にはそのような側面があることは否定できない。しかし、全能の神にとって、人間が 「代替可能」 なただの頭数にすぎないのは当然だし、ヨブとしては、神に文句をつけるわけにいかぬのもしかたのないことだろう。

 なので、この柄谷の言葉はいささか筋違いのように思える。実際、子を失ったヨブは激しく悲嘆したのだし、羊やらくだなどの家畜が二倍返しを受けたのに対し、子はなぜか前と同じ人数で返されている。家畜が二倍返しを受けたのは、それがまさに頭数でしかないからだろう。だから、家畜が二倍に増えたことは、ヨブにとって喜ばしいことである。

 だが、子の数が前と同じだということは、「ヨブ記」 の作者にとっても、またヨブにとっても、子は家畜と同じ、ただ頭数だけで数えられる存在ではないということを暗示してはいないだろうか。もし、そうであるなら、神は子も家畜と同様に、前の二倍に増やして返してあげればよかったはずである。

 たしかに、柄谷が言うように、新たに生まれた子は、死んでしまった前の子と同じではない。だが、「生」 と 「死」 を一種の交代とみること、すなわち、新たに生まれる者を前に死んだ者の 「生まれ変わり」 とみる観念は珍しいものではない。たとえば、大江健三郎も、『「自分の木」 の下で』 というエッセイの中で、幼い頃、熱を出していたときに、母親から 「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。」 と言われたという話を書いている(フィクションかもしれないが)。

 それはつまり、この 『ヨブ記』 の記述は、自然(あるいは神)の前には、人間は 「代替可能」 なものでしかないという 「死」 の必然性と、それにもかかわらず、固有の人間は固有の人間にとって 「代替不可能」 なものであるという人間の意識との間の微妙なバランスの上に成り立っているということだ。

 さて、『ヨブ記』 についてのこの柄谷の感想は、言うまでもなく、小林秀雄の 『歴史と文学』 という講演を下敷きにしている。これは、日中戦争が長引くなかで、対米関係が悪化していった時期、ちょうど太平洋戦争が始まる半年ほど前に行われ、その後、雑誌 『改造』 に掲載されたということだ。

 歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います。それは、たとえば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかなことでしょう。

小林秀雄 「歴史と文学」 より 


 近代以前において、人間の 「代替不可能性」 などという問題が人々の意識に上らなかったのは、人と人が直接に交わる共同体では、おそらくそれが人々にとって自明のことであったからに過ぎまい。その逆に、そのような問題が近代において無視できぬ問題となったのは、まさに人間がただの番号や歯車になるという状況、言い換えるなら、人間の 「代替可能性」 という事実が、その前においては人間はまったくの無力に過ぎぬ神や運命の前においてではなく、人間が作るこの社会において、否定できぬ現実となったからではあるまいか。

 だが、そのことは、人間の 「代替不可能性」 という問題そのものが、近代以前においては存在しなかったということは意味しない。それは、自己の胃腸の働きを知ることと、胃腸の働きそのものとは別のことであるのと同じことだ。胃腸でも脳みそでも、自分の器官が正常に働いている限り、人はだれもそのような器官の働きについて、あれこれと悩んだりはしないものだ。

 だから、人間の 「代替不可能性」 という問題は、けっして近代特有の問題なのではないし、いわゆる 「近代的自我」 などというものに解消されるわけでもない。たしかに前近代では、人は 「共同体」 に包摂されており、つねに 「共同体」 とへその緒でつながっている。そこには、近代的な意味での 「個人」 だの 「個人主義」 だのといったものは存在しないだろう。

 とはいえ、そのことは 「共同体」 の中に、近代とは違う意味で 「個」 というものがまったく存在しないということまでは意味しない。いつの時代であろうと、またどんな形態であろうと、人間がつくる 「共同体」 はただの牛や羊の群とはちがうし、ハチやアリが作る 「社会」 などともまったく違う。

 かつて、レヴィ=ストロースは 『野生の思考』 の最終章で、サルトルを相手取って、次のような批判を加えた。

 だから、わたしが民族学にあらゆる探求の原理を見出したのに対し、サルトルにとっては民族学が、乗り越えられなければならぬ障害、粉砕すべき抵抗という形で問題を作り出すものとなるのは納得できる。なるほど、人間を弁証法によって定義し、弁証法を歴史によって定義したとき、「歴史なき」 民族はどういう扱い方ができるのか?  (P298)

 サルトルは思いがけぬ回り道をして、古臭い 「原始心性」 の理論家たちの錯覚に自らおちいっている。未開人が 「複合的認識」 をもち、分析や論証の能力を持つということは、サルトルには我慢がならぬことに思われるのである。その点ではレヴィ=ブリュールなどにさらに輪をかけている。  (P302)

 この批判が 「サルトルに対して」 という意味であたっているかはともかく(なにしろ、サルトルの 『弁証法的理性批判』 はむちゃ長い)、人間の「代替不可能性」 という問題を 「近代的自我」 だの 「自我肥大」 だのという問題に解消してしまうことは、結局のところ、レヴィ=ストロースが言うように、近代人と未開人の思考の間に和解不能な線を引くことであり、われわれにとって、未開人なるものをわれわれとはまったく異なった了解不能な存在とすることに等しい。

 ひところ流行った 「自分探し」 という言葉は、昨今では 「中二病」 扱いされるなど、あまり評判がよろしくない。たしかに、これは言葉としてはあまりに薄っぺらだし、猫も杓子も 「自分探し」 といった流行ともなると、いささか辟易もさせられる。それに 「自分探し」 ばかりで振り回されるのは、一種の 「自我肥大」 ではあるだろう。

 だが、「自我」 の病というものは、人間の固有の病ともいうべきものだ。「病」 というものはむろんよろしくないし、できるならばそんなものには罹らないほうがよい。もしも、罹ってしまったのなら、できるだけ早いうち、重くならないうちに回復したほうがよくはある。とはいえ、そのような病が、人間という存在そのもののうちに深く根ざしているのだとしたら、それはただ否定するだけですむものではない。

 たとえば、2000年以上も前に王族の家に生まれながら、その地位を投げ捨て、修行と放浪の旅に出たお釈迦様もまた、やはり 「自分探し」 の旅に出たのではなかったのだろうか。つまるところ、「自分探し」 というものは、古くて新しい問題なのだから、そう簡単に馬鹿にできるものでもないということだ。むしろ 「ふんっ」 などと鼻の先で馬鹿にする者こそが、いずれそれによって報いを受けることにもなりかねないだろう。

参照: 「死んだ子供」 を大切にしてください ブログ 「地下生活者の手遊び」







Last updated  2009.09.14 01:16:02
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2009.04.17
カテゴリ:思想・理論

 昨日は一日曇っていたのに、今日は抜けるような青空だった。一日空を覆っていた灰色の天幕は一夜明けただけで魔法のように消え、足に力を入れて跳びあがればそのまま大気圏外にまで飛んでいけそうな青空になった。春はまことに天気の移り変わりが大きく、それに応じて、人の気分もころころと猫の目のように変わる季節である。

 誰が言い出したのか、世界の 「三大哲人」 というと、インドの釈迦にギリシャのソクラテス、それに中国の孔子様ということになっている。これに、さらに中東で生まれたキリストを加えて 「四大聖人」 という呼び方もあるらしい(ソクラテスのかわりに、イスラムの開祖ムハンマドを入れる場合もあるようだ)。

 鎌田東二という人(よくは知らないが宗教学者だそうだ)によれば、この 「四大聖人」 という呼び方を考案したのは、『武士道』 で知られる新渡戸稲造と講談社なのだそうだ(参照)。鎌田が言う、明治から大正にかけての 「修養」 ブームの時代とは、たとえば一高生の藤村操が 「不可解」 なる言葉を残して華厳の滝に身を投げた時代であり、夫人によれば 「狂人」 のごとき怒れる人であった漱石が、その死後には弟子らの手で 「則天去私」 の偉人へと神格化された時代でもある。

 また、西田幾多郎の 『善の研究』 が多くの青年に読まれ、倉田百三が 『出家とその弟子』 を書き、人道主義を掲げた白樺派が登場し、その一方で西田天香の一燈園 注1山室軍平の救世軍、その他、仏教系や教派神道系の様々な宗教団体の活動が活発化し、多くの悩める青年がそういった団体に身を投じた時代でもある 注2。亡き父の回想によれば、草生す田舎の神官の家から都会へと出てきたわが祖父もまた、そのような青年の一人であり、若い時期には天理教から大本教まで、いろんな宗派を渡り歩いていたのだそうだ。

 鎌田の言うとおり、東洋と西洋を含む世界の文明圏から、それぞれ無難なる代表者を選んで並べあげるという発想には、いかにも昔からなんでも折衷させることが得意だった日本人らしさがにじみ出ている。それは、後発文明国の知識人特有の劣等感と、その裏返しである肥大した意識、すなわち東西の文明という二人の巨人の肩の上に乗っているだけで、その両者を乗り越えたかのように思い込む小人的高慢さとの奇妙な混合物でもあり、小は思い付き的な 「東西文明融合論」 から、大は 「八紘一宇」 などという夜郎自大な妄想にまで共通している。

 「世界に冠たるドイツ」 とは、三月革命前のいわゆる 「メッテルニヒの反動時代」、いまだドイツの統一ならざる時代に、国を追われて放浪していた詩人が統一の悲願を込めて作った詩がもとになっているそうで、もともとは別に 「世界征服」 などという恐ろしい野望が込められていたわけではなかったらしいが、やがてドイツ・ナショナリズムを鼓吹する歌として熱狂的に唱和されるようになる。

 また、話がそれてしまった。さて、上にあげた四人に共通する点と言えば、いずれも自己の著作を残さなかったことだ。釈迦の言葉はその死後に 「仏典」 として結集され、孔子の言葉は 『論語』 として、ソクラテスの言葉はプラトンやクセノフォンによって、そしてキリストの言行は、言うまでもなくルカやマタイによる 「福音書」 として、現代にまで伝えられている。

 で、彼ら弟子たちが師の言葉をなぜ書に残したかというと(中には、すでに伝承された言葉でしか、師のことを知らない者すらいた)、それは言うまでもなく、身近に聞き、または伝承によって知った祖師の言葉に深く感銘したからだろう。「述べて作らず」 とは孔子様の言葉だが、彼らの弟子もまたそのような態度に徹した。それは、おのれが決して師の足元にも届かぬという自覚があったからに違いない(ただしプラトンは除く)。

 もっとも、孔子自身は 「後生畏るべし」 とも言っていて、若い人が秘めている可能性についても素直に認めている。このへんは、なにかというと「いまどきの若い者は」などと言いたがる、われわれ愚昧なる大衆とは、さすがにできが違う。この言葉は、さらに 「四十、五十にして聞こゆることなくんば、これまた畏るるに足らざるのみ」 と続いていて、これもまたそのとおりである。諺には 「亀の甲より年の功」 というが、いつもいつも年の功が亀の甲よりも優るとは限らないということだ。

 さて、三度話は変わるが、イチローが日本のプロ野球とメジャーの試合で放った通算安打数が、ついにあの張本の記録を抜いたそうである。これは、まさに孔子様の言う 「後生畏るべし」 の好例と言うべきだろう。

 スポーツの世界では、どんな名選手も年齢には勝てない。体力の衰えとともに、いつかは引退を余儀なくされ、指導者や解説者としての二度目の生を送らざるを得ない。テレビなどでの彼らの解説が的を得ており、思わず、うんうんと頷いてしまうのは、言うまでもなく、彼ら自身がかつては好選手であり名選手であったからである。

 ところが、世の中には奇妙な解説者というのもいる。「批評家」 と称される解説者がそれである。作家と批評家とは一般にコブラとマングースのごとき 「不倶戴天」 の関係にあり、作家の中には 「批評家」 なんて者は、実作者に憧れながらその才能がなかった連中にすぎないなどという酷評をする人までいる。たしかに、それはそれで一理ないわけでもない。

 一般に、誰かについて 「解説する者」 は、その対象が優れていると思っているからこそ解説をする。これは当たり前のことで、なにか特別な必要性などがない限り、しょうもないものやつまらないものについてまで、わざわざ自分の限られた時間を費やし、手間暇かけて解説しようなんて酔狂な人間はいない。

 ということは、だいたいにおいて 「解説する者」 と 「解説される者」 とでは、一般に 「解説される者」 の方が優れているということだ。そして、そのことは 「解説する者」 は往々にして 「解説される者」 のすべてを理解する能力を持っておらず、ただ自分の理解力に応じた、自分が理解したと思ったところだけを(それは、しばしばただの勘違いだったりもする)解説したり、ときにはしたり顔で批判して見せたりすることもあるということだ。

 つまり、なにが言いたいかというと、世上にはマルクスだ、ニーチェだ、フロイトだのと、いろんな歴史上の偉い人の思想とやらを分かりやすく解説してくれる人がいるそうだが、たいていの場合、それはその人が理解したと思っているマルクスであり、ニーチェであり、フロイトであるに過ぎず、したがって、そんなもので分かったと思ってはいかんだろうということだ。

 ましてや、まともに原著者の著作に当たらずに、そのへんの二流・三流思想家の 「批判」 なるものを読んだだけで、原著者の思想について批判めいたことを語るのは、まったく馬鹿げたこととしか言いようがない。「学びて思わざればすなわちくらし。思いて学ばざればすなわちあやうし」 とは、これまた孔子様のありがたいお言葉である。

 そもそも百年・二百年を経て今なお名前が残り、その著作が多くの人に読み継がれてきたような人、言い換えるなら、百年に一人、現れるか現れないかのような偉い人の思想について、簡単にまとめた解説ができる人など、おいそれといるわけはないのである。


注1. 馳浩衆院議員や、ヤンキー先生こと義家弘介参院議員などらで、「国会掃除に学ぶ会」 というものが作られ、国会内での素手でのトイレ掃除が率先して行われているらしいが、その発祥はどうやらこの団体ではないかと思われる。

注2. それは大雑把に言えば、明治以来の急速な近代化に伴う社会的変動によってもたらされた 「故郷喪失による不安」 の時代であり、昭和初期の左翼運動が盛んだった時期をはさんで、そのほとんどは超国家主義運動へと合流することになる。







Last updated  2009.04.22 13:17:15
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2009.04.07
カテゴリ:思想・理論

 ずいぶん前に、某古書店の店主(もともと大学の先輩に当たる人だったのだが、50代の若さでガンで亡くなり、その後、店も結局閉じてしまった)から聞いた話だが、フルシチョフによる 「スターリン批判演説」 ののち、あちこちの古書店に 「スターリン全集」 が大量に安値で並んだ時代があったそうだ。

 その話とは別に関係ないのだが、先日書棚を整理していたら、スターリン大元帥の著書が8冊も出てきた。といっても、全部、ぺらぺらの国民文庫なのだが、たしかずいぶん昔に、古ぼけた古書店の棚の隅で埃を被っていたのを何冊か見つけて、ほほぉー、と買い込んだものである。とくに彼の 「中国革命論」 や 「十月革命論」 は、政敵だったトロツキーの著書とあわせて読むと、なかなか興味深い。

 スターリンという人はグルジアの出身だが、若い頃、聖職者になるために神学校で学んだことがあり(結局、自主退学だか放校処分だかになったらしい)、「レーニン主義の基礎」 とか 「弁証法的唯物論と史的唯物論」 などに顕著な、図式的で無味乾燥なカテキズムめいた文体に、そのときに受けた教育の影響を指摘する人もいる。

 「カテキズム」 というのは、教義問答集などとも呼ばれる、キリスト教の教理指導を目的に作成された教科書のようなもので、一般に問答形式で書かれることが多い(いまでいえば、取扱説明書などにある、FAQ(よくある質問集)みたいなものだろうか)。

 マルクスが 「共産党宣言」 を書いたのは、仕立職人をしながら共産主義の宣伝をしていたヴァイトリングという人の流れをくむドイツ人亡命者らが、イギリスで作っていた 「共産主義者同盟」 という組織から、綱領起草を依頼されたのがきっかけである。

 このときも、最初はマルクスのお友達のエンゲルスが、「共産主義の諸原理」 という問答形式の文書を書いたのだが、エンゲルス自身もその古臭い形式に不満で、結局、マルクスが新たに書き直すということになったという話である。

 ヴァイトリングは、ドイツに進軍してきたナポレオン軍の兵士だった父親と、現地のドイツ女性との間に生まれたそうで、その父親はモスクワ遠征に出かけたまま帰らなかったそうだ。なにやら、ソフィア・ローレンが主演したイタリア映画 「ひまわり」 のような話だが、帰らなかった父親が、相手役のマルチェロ・マストロヤンニのように、吹雪の中で倒れているのを助けられて生き延びたのかどうかまでは分からない。

 初期の社会主義・共産主義思想というのは、多かれ少なかれキリスト教的な平等主義の影響を受けていて(聖書には、「富む者が神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」 という言葉がある)、ヴァイトリングの場合も当時の教会や聖職者に対しては批判的だったが、聖書からうかがえる原始的な平等思想には強く引かれていたようだ。とくにドイツの場合には、かのルターから 「悪魔の頭目」 呼ばわりされた、農民一揆の指導者トマス・ミュンツァーなど、中世以来のユートピア的な異端思想の流れというのもあるのかもしれない。

 ちょっと、話がそれてしまった。スターリンのことに話を戻すと、彼の有名な論文のひとつに、「マルクス主義と民族問題」 というのがある。これは革命の前、第一次大戦が勃発する直前に書かれたもので、レーニン夫人のクループスカヤの証言(レーニンの思い出)によれば、レーニンがいわば赤ペン先生になって書かせたようなものである。

 この中で、スターリンは民族について次のように定義している。

民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を特徴として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である。


 スターリンによれば、この定義は 「民族のあらゆる特徴を数えつくした」 ものであり、ここにあげた 「すべての特徴が同時に存在するばあいに、はじめて民族があたえられるのである」 ということだ。

 この定義が完全かどうかはともかくとして、そこそこに考えられたものであることは認めても良い。とくに、「心理状態の共通性」 という言葉によって、「民族とはなにか」という問題が、当事者らの主観的な 「意識状態」 に関わることは、少なくとも認められている。

 ただし、このスターリンによる民族の 「定義」 は、言うまでもなく、当時のレーニンが指導していたボルシェビキと、マルトフらが率いるメンシェビキとの分派闘争とも無縁ではない。また、ロシア外の他の社会主義政党との対立とも関係があり、その意味では、きわめて政治的な産物でもある。

 有名なレーニンの 「民族自決権について」 は、かのローザ・ルクセンブルクを相手取ったものだが、この時期の民族問題に関する論争で、彼が最も主要な相手としていたのは、通称 「ブンド」 と呼ばれていた、現在のポーランドの一部やリトアニアを含む、当時のロシア帝国内に居住していたユダヤ人労働者らが作っていた組織である。

 つまり、この時期、レーニンは民族自決権そのものを 「ブルジョア的権利」 として否定するローザと、メンシェビキに組して、固有の居住地域を持たぬユダヤ人に対しても民族としての権利を認めろ、と要求していた一部ユダヤ人との論争という、左右を相手取った二正面作戦を戦っていたのである。

 なので、上の定義で、スターリンが 「地域の共通性」 をあげたのは、意図的ではないにしても、特定かつ固有の居住地域を持たないユダヤ人を 「民族」 から排除するという意味も持っていたことは否定できないだろう。

 しかし、この定義からすると、ユダヤ人に限らず、いかなる民族も、相互の混住が進んで、固有の定住地域を失ってしまえば、もはや民族ではなくなるということなる。たしかに、「民族」 は孤立した個人のみによっては構成されない。しかし、混住が進んだからと言って、それだけで 「民族問題」 が解消されるとは限らないのだから、これもまた現実を無視した乱暴な話ではある。

 ところで、このユダヤ人らの要求を理論的に支えていたのが、当時、ロシア以上に深刻な民族問題を抱えていた、オーストリアの社会民主党(オーストロ・マルクス主義と呼ばれる独特の一派で、バウアーやアドラー、さらに戦後ドイツから再分離したオーストリアの初代大統領になったレンナーなんて人がいる)が掲げていた、「文化的・民族的自治制」 なるスローガンである。

 これは、前掲のスターリン論文での引用によると、「民族台帳」 なるものを作って、「成年に達した市民の自由な申告によって......住民が諸民族に区分されることを前提とする」 というものらしい。彼によれば、バウアーは、オーストリア内の各民族に属する個人は、その居住地域に関わらず、それぞれの 「民族評議会」 を選出し、この評議会に、教育や文化、芸術など、民族に関連するあらゆる問題についての権限を与えるといった制度を提唱していたということだ。

 民族の権利に関するレーニンの 「地域的自治制」 は、民族自決権の承認によって、特定の民族が多数居住する、その民族固有の一定の地域に対してのみ、分離の自由を含めた自治権を認めるというものだが、この 「文化的・民族的自治制」 は、それとあわせて、国民の全体を諸民族ごとに組織するものであるから、つまり国家全体が、「民族問題」 に限ってではあるが、上から下まで民族ごとに分けられることになる。

 これは、支配的なドイツ民族以外にも多数の民族が混住していた、当時のオーストリア帝国の多民族的構成を温存したままでの民主化を目指していた、社会民主党が考案した苦肉の策のようなものだが、このような制度は、「民族問題」 という爆弾をそっくりそのまま体内に抱え込むようなものであり、平和時はともかく、いったん民族間の反目が激化すれば、国家全体が民族の対立によって引き裂かれることになるだろう。

 その意味では、レーニンがこの問題について、深刻な危惧を抱いたのも不思議ではない。実際、ソビエトの力を借りずに、いやそれどころかスターリンとチャーチルの密約すら無視して、チトーにより自力で建国された、やはり多民族国家であった旧ユーゴスラビア社会主義連邦では、それと似た制度が採られていたのだが、彼の死後にそれがどうなったかは、もはや言及を要しないことだろう。

 このスターリン民族論は、その後、革命後のソビエトにおける民族政策の基本になっていくわけだが(もっとも、実際には理論など無視した、ただの政治的な 「ご都合主義」 もあちこちに見られるのだが)、そのへんの話は山内昌之とか田中克彦などの本に詳しいだろうから、そちらに譲ることにする (おおっ、偉そう)。

       ローザの民族論についても少し触れた







Last updated  2009.04.09 17:20:20
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