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戦争体験ということ

2006.12.26
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 日本の近代史において、敗戦とその後の改革が少なくとも明治維新に次ぐものであったことはいうまでもない。

 たとえば、橋川は幕末と明治の二つの時代を生きた福沢諭吉の、「一身にして二生を経るがごとく」(文明論之概略)という言葉を繰り返し引用している。その背景には、戦前と戦後を生きている自分と福沢が重ねられていることは明らかだろう。

 戦後の改革の最も大きな柱は、いうまでもなく主権者が天皇から国民に交代した新たな憲法の制定であろう。明治憲法から現憲法への交代は、手続きとしては帝国議会における明治憲法の改正として行われている。

 つまり、明治憲法と現憲法の間に、法的な断絶はないということだ。内容としてはまったく新たな憲法でありながら、旧憲法と法的に連続した 「改正」 憲法であるというところにも、現憲法の根本的な曖昧さが現れている。その理由が、憲法をめぐる政治的な混乱(左右対立の激化)を避けたいという占領軍の意向にあることはいうまでもない(このときの議会は、前年の20歳以上の男女による選挙によって選ばれた戦後初の議会である)。

 しかし、「主権者の交代」 という国家の根本問題が、このような単なる改正手続きによって行われるというのは、明らかに奇妙な話である。なぜなら、「主権者の交代」 とは政治学的には政治革命を意味する以外のなにものでもないからだ。このような齟齬を言葉の上で 「解決」 するために提起されたのが、美濃部達吉の弟子である憲法学者 宮沢俊義が提唱した 「八月革命」 説なのである。

 明治維新は、それがペリー来航という外からの衝撃によって始まった、薩長下級武士を中心とした少数勢力による政治変動であったにせよ、間違いなく日本人自身による主体的な変革であった。しかし、戦後の変革はいうまでもなく占領軍主導による、また占領軍の意向の枠内で行われたものである。地主制を解体して自作農を一挙に増大させた農地改革は、内容としては十分に社会革命(政治革命に対するという意味での)に値するものであり、これによって戦前の国家体制を支えた社会的基礎は基本的に解体された。

 農村の変貌こそが天皇制国家にとどめを指したのであり、高度経済成長もまた、農地改革による国内市場の創出があったればこそ可能だったのだろう。戦前から戦後への社会構造の変化は顕著であり、そこに大きな断絶が存在することは現在から振り返ってみれば明瞭である。

 にもかかわらず、その断絶という意識は、橋川や吉本のような 「戦中世代」 を除いて、それほど強く意識されてはいないのではないだろうか。彼らより前の世代にとっては、昭和の軍国主義は明治以来のそれまでの 「正常な」 コースからの逸脱であり、敗戦とその後の政治過程は、単に軍国主義以前の 「正常」 なコースへの復帰として捉えられたのではないだろうか。

 戦後、左派に対抗して天皇制を擁護するかのような発言を行った、美濃部達吉や津田左右吉のような戦前リベラリストの意識は、そういうものだったのだと思う。だが、そこには、昭和の軍国主義は明治国家という特殊な体制の必然的な結果ではなかったのかという問題意識が欠落している。

 さらに、天皇主権から国民主権への変化を無化するかのように、天皇はそもそも政治的権力者ではなかったことが強調され(それ自体としては正しいが)、「文化国家」 とか 「平和国家」 などといった理念がなんの矛盾もなく明治以来の歴史に接続される。象徴としての天皇という現在の憲法の規定すらも、それこそ古来からの天皇制の存在様式にもっとも一致するものだといった類の議論で非歴史化されてしまう。

 そのような戦前と戦後の連続性を最も象徴しているのは、いうまでもなく昭和という年号の存続であり、戦前戦後を通じて在位し続けた昭和天皇という存在だ。明治百年と昭和天皇の在位60年が政府によって祝われることはあっても、戦後50年がそのように扱われることはついになかった。現憲法は、戦後政治を一貫してになってきた保守政権にとっては、「敗戦」 という誕生時のトラウマと結び付いた、決して祝われることのない鬼子なのである。

 「戦争体験の思想化」 という橋川の主張は、それ自体普遍性を持ったものだったと思う。しかし、その主張は 「戦中世代」 である彼であったからこそ可能だったのであり、その結果、必ずしもきちんとは理解されなかったのだろう。

 戦後60年が経過し、昭和の軍国主義の記憶が実感としてはほぼ完全に風化し、戦後生まれの世代が多数を占めている現在、戦後の社会は最初から自明のものとして受け取られているように思われる。そこでは戦前と戦後の差異が単なるなだらかな変化の積み重ねとしか理解されず、「断絶」 の存在が無視されており、戦争と敗戦の持つ意味が真摯に受け取られていない。

 そこに、現在の若い世代の保守政治家の言動が、しばしば世代をとびこえて戦前からの古い政治家の言動と一致してしまう根拠もあるのではないだろうか。







Last updated  2009.08.02 14:55:08
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2006.12.24

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは実を持って体験し痛感した。

 西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判を柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及浸透を任務とする出版人の責任でもあった。


 これは、今も角川文庫の奥付の裏に掲載されている、角川書店の創業者である角川源義による 「角川文庫発刊に際して」 と題された文の一部である。日付は1949年5月3日、意図したのかどうかは分からないが、くしくも現憲法が施行された日からちょうど2年後の 「憲法記念日」 にあたっている。

 角川源義は俳人としても有名な人物だが、1917年に生まれ1941年に国学院を繰り上げ卒業して徴兵されたということだ。早くから国文学に目覚め、折口に傾倒して国学院に進んだそうだから、保田与重郎に代表されるような当時の国粋主義的な思潮に染まっていたのかもしれないが、それ自体は当時としては珍しいことではない。戦争中に青春を送った多少とも知的な若者としては、よくあるタイプだったのだと思う。

 その彼が戦後間もなく角川書店を設立し、老舗の岩波文庫に対抗するようにして創刊した角川文庫の発刊の辞として書いたのが、上の文章である。ここには、敗戦による衝撃によって過去を捉えかえし、新たに出発しなおそうという決意が感じられる。これは、橋川の言う 「戦争体験の思想化」 ということと繋がるものだと、私は思う。

 戦争中の橋川が、戦争という現実にいかに深くのめりこんでいたかについては、たとえば年長の友人であった宗左近(詩人)の出征を送る場でのやりとり(のちに仏文学者としてサルトルやカミュの紹介をすることになる白井健三郎が 「生きて帰って来い」 といったのに対し、橋川は激昂して殴りかかったという)(宮嶋繁明著 「三島由紀夫と橋川文三」 より)といったエピソードがある。

 年長の世代が、軍国主義以前のリベラルな雰囲気やマルクス主義の理論に触れ、戦争を相対化する目を持っていたのに比べ、1922年生まれである彼にはそのような視点は持ちようもなかったのだろう。 (戦前の左翼運動はいうまでもなく非合法であったが、1935年の神山茂夫らの検挙で最終的に壊滅したものと思う)

 この点では橋川と彼の師である八歳年長の丸山との違いは明瞭だ。

 橋川は一高文芸部では先輩らからも一目置かれるほどの存在だったというが、彼が文学を捨て政治学者=政治思想史家を志すようになった契機が、敗戦という衝撃であったことは間違いない。(たとえば、橋川は太宰治との面会を回想した文の中で、「ぼくは、戦前、文学少年だったことはあるが、その頃はもうそのような児戯とは縁を切ったつもりでいた」 と書いている。また、このことは、彼の思想的な盟友の1人であった吉本の 「文学的発想だけでは駄目だと思った」 というような言葉にも通じると思う)

 つまり、当然のことではあるが、橋川が 「戦争体験の思想化」 ということにこだわる根底には、戦争中、超国家主義と軍国主義に骨の髄まで冒されていたという彼自身の 「個人的な体験」 が存在しているのだ。むろん、このことは彼自身の思想を傷つけるものではない。自己の体験に根ざさぬ思想など、ただの流行の借り物衣装に過ぎないからだ。昭和の超国家主義にいったんは毒された過去があったからこそ、その毒を深く追及することも可能だったとも言えるだろう。

 要するに橋川の主張は、敗戦は明治維新にも匹敵する巨大な歴史的事象であり、またそのように捉えるべきだということに帰着するだろう。







Last updated  2009.08.02 14:43:45
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2006.12.23

 なぜ、この時期、橋川は 「戦争体験の思想化」 というようなことにこれほどこだわったのだろうか(私は、橋川の忠実な読者ではないので、ひょっとしたらこの時期以降にも、同様の発言を繰り返していたのかもしれないが、今は分からない)

 当然のことながら、個々の即自的で直接的な経験そのものは、時間の経過とともに風化を免れない。近代以前のように、時間の流れが目に見えぬほどゆっくりとしていて、世代を越えて歴史を共有することが可能な時代ならばともかく、つねに急速な変化を続けてゆく現代では、このことは誰にも押しとどめることはできないことだ。

 だがさらに厄介なのは、そのように直接的で具体的な経験が風化していくことによって、かえってイデオロギー的な類型化された 「神話」 への変容が、意識的にまた無意識的に進められていくということだ。実際、純然たる戦後世代の現首相らが、「国のために殉じた人々」 であるとか 「尊い犠牲」 とかいうとき、また 「靖国問題」 が政治問題化する中で語られるときの言葉は、具体的な体験からは程遠いイデオロギー的言説以外のなにものでもあるまい。

 経験を超えた普遍性を目指すこと、それによって経験そのものの風化を超えた体験の継承も可能なのではないのか。橋川が言いたかったことは、そういうことなのだろう。これは、主張としては首肯しうるように思える。

 しかし、ことはそれほど簡単なのだろうか。いや、橋川が同じようなことを何度も何度も説き、また若い世代(若いといっても、彼に比べればのことであって、けっして戦争についてまったく知らない世代なのではない)による無理解を嘆かざるを得なかったということは、彼の主張が決して自明なものではなかったことを示しているように思われる。

 彼は世代論を否定し、自分もまた自分自身の固有の体験に固執するつもりはないというような意味のことを言っている。そのため、あの太平洋戦争とその敗戦の持つ意味を、師である丸山真男の 「第二の開国」 というような言葉も引きながら、執拗に展開するのである。

 あの戦争と敗戦が、近代日本の歴史における稀有の出来事であったことは言うを待たない。国家と国民の総力をあげた戦いは連合軍による徹底的な破壊による無条件降伏で終結し、明治以来営々と築かれてきたすべてのものがいっぺんに崩壊してしまったように思われた。外国軍による全面的な占領というのも、もちろん初めての体験であった。

 戦争中まで声高に叫ばれていた価値観が180度転回し、天皇は 「万世一系」 の 「神聖にして侵すべからず」 という存在から、国の 「象徴」 という存在に変化した。軍国日本の虚像は、東条英機らの戦争指導者が極東軍事裁判で裁かれることによって暴かれた。

 しかし、このような変化がすべての人によって主体的に受け止められたわけではないことも多くの人によって指摘されていることだ。責任の所在を曖昧にした 「一億総懺悔論」 はもちろんであるが、かつて戦争を鼓吹し、万世一系の天皇を戴いた日本民族の東洋の盟主としての任務を説いていたような学者・知識人の多くが、ある者はなんの反省もなしにマルクス主義者に再転向して、過去のことはすっかり忘れたかのように平和の旗手に転向して見せたり、「五族協和」 や 「八紘一宇」 を説いていた者がそのまま横滑りに 「文化国家」=「平和国家」 としての日本の使命を説くといった、無責任な戯画としかいいようのない光景が現出したのではなかっただろうか。







Last updated  2009.08.02 14:53:28
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2006.12.20

 かつて橋川文三が、「戦争体験の思想化」 というようなことを言ったことがある。

 橋川が亡くなってからもすでに20年以上経つが、橋川や吉本隆明、鶴見俊輔らによって 「戦争体験」 の意味が論じられたのは、さらに前、ちょうど60年安保改定前後の頃である。橋川は、たとえば次のように述べている。

 私たちが戦争という場合、それは超越的な意味をもった戦争をいうのであって、そこから普遍的なるものへの窓が開かれるであろうことが、体験論の核心にある希望である。感傷とか、同窓会趣味とかには縁もゆかりもない。もしイエスの死のアナロジーを応用するならば、キリスト教における普遍の意識は、イエスの死に対する回想的感傷の集合でないことは明白であろう。それと同じように、戦争体験にこもる個々の感傷の集成ということを、私たちは、戦争体験論の課題とは考えないのである。ことばはややおかしいが、『超越者としての戦争』 ーーー それが私たちの方法なのである。

「『戦争体験論』の意味」「歴史と体験」所収    
 
  

 この 「超越者としての戦争」 という言葉の意味を、橋川は次のように説明している。

  私のいう原理過程というのは、まさに歴史意識における普遍理念、もしくは絶対者の機能に関する意識に対応するものにほかならない。もし太平洋戦争における無数の体験集合を戦争体験の基本要素と見るならば、そこからは戦争の全体的意味はかえって明らかにならないだろう。そのような個々の体験が、構造的に国体論的存在論の規定をうけている以上、国体論的歴史を超越した視野は開かれることがないだろう。その意味でも、新たな原理の観点の樹立と、戦争体験の超越化とが見合うことになるが、その場合、原理形成の根源的エネルギーとなるものは、原理存在の意識と、原理喪失の意識との間に生じる緊張以外のものではないだろう。   (同書)


 橋川が言おうとしていることは、あの戦争とそこでの体験を、新たな歴史意識を構築するための原理とすべきだということであろう。そのことを、彼はヨーロッパにおける歴史意識の起点となったイエスの死を持ち出してまで、説明しようとしているわけだ。 しかし、イエスの死はそれが歴史上の事実であるとしても、そもそも、ごく少数の信者を含めた同時代の人に目撃されたに過ぎない。その死は、彼を三度否認したペテロを含めたその場にいた信者らによって伝えられ、広められていったのだろう。むしろ彼の死は直接に目撃した者が少なかったからこそ、ルカやマルコの福音書にあるような形へと変容をとげ、信仰の対象としての象徴的な 「物語」 に転成することも可能だったのではないだろうか。

 とはいえ、橋川は 「戦争体験」 をなにやら 「神話」 や 「伝説」 のようなものへ昇華させることを主張しているわけではあるまい。そのような象徴としての物語を歴史意識の根底に置くことは、歴史意識の非合理化へ導く恐れがあるからだ。 このような 「超越者としての戦争」 という彼の主張が、多くの人、とりわけ彼よりも若い石原慎太郎や江藤淳、大江健三郎などの世代からは理解されず、奇異の念で見られたのは、ある意味ではむしろ当然と言える。

 なぜ、あの戦争なのか、という彼らの疑問に対して、橋川はルソーやフランス革命、ドイツ・ロマン主義などを持ち出し、「戦争体験」 がこの国における歴史的個体としての意識の確立を可能にするというような主張を繰り返している。だが、このような主張が、遅れた日本における主体的な近代的個人の確立ということであれば、ヨーロッパを模範とする多くの近代主義的な知識人の主張と大差ないように思える。







Last updated  2009.08.02 15:40:40
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