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遠方からの手紙

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1

明治維新・アジア主義

2009.05.03
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 明治期の日本人による英文の著作というと、新渡戸稲造の 『武士道』 のほかに、内村鑑三の 『余は如何にして基督教徒となりし乎』 とか、岡倉天心の 『茶の本』 なども有名である。岡倉は 『東洋の理想』 にある 「アジアはひとつである」 という言葉でも知られているが、それより前に書かれ、死後に公開された 『東洋の目覚め』 という文書では、次のようなことを書いている。

十八世紀の後半、東方の略奪からうまれた信用と資本によって、ヨーロッパ産業主義の発明的エネルギーが活動をはじめる。木材のかわりに、石炭が精錬につかわれるようなった。今や、飛梭、紡績機、ミュール精紡機、動力織機、蒸気機関等のおそるべき装置が完成された。農業と協力することも、人類の産業計画を十分に解決することもなしに商業主義の時代に入ったために、西洋は、商品販売市場の発見に依存する巨大な機械になった。


 驚くのは、ここで披瀝されている天心の近代観が、かの 『共産党宣言』 での著述にきわめて酷似しているということだ。『共産党宣言』 の日本語訳は、堺利彦と幸徳秋水により日露戦争中に 「平民新聞」 に掲載されたのが最初で、天心の文章はそれよりもわずかに早い。博学で、むろん外国語に堪能な天心のことだから、それ以前に 『宣言』 を読んでいた可能性はあるし、また同様の認識を他の著作から得たという可能性もなくはないだろう。

 ノートに書かれたままで公開されなかった、天心のこの文書は、インド滞在中にその地の独立運動家らのために書かれたものらしい。その意味では、同じ英語で書かれたものでも、欧米人の目を意識した新渡戸の 『武士道』 とは性格がまったく異なる。新渡戸もまた博学な人であり、彼の 『武士道』 には、ソクラテスやアリストテレス、ヘーゲルやカーライル、さらにはニーチェやヴェブレンなど、実に多くの欧米の著作や著作家の名前が登場する。

 ギリシア神話や聖書からはじまって、当時の最新の著作家にまでおよぶ、新渡戸の猛勉ぶりには敬服する。しかし、新渡戸によるそれらの名前の引用には、脈絡も必然性もない、やたらめったらなものという印象が強い。失礼を承知であえて言うならば、それはまるで、いかめしい顔をした厳格な教師に対して、「先生、見て見て、ぼくってこんなことも知っているんだよ」 と、しきりに取り入り、その関心を引こうとしている、早熟で自意識の強い 「良くできる生徒」 であるかのように見える。

 お札にもなったほどの新渡戸には悪いが、この書で彼がやっていることは、武士道をはじめとする日本の文化が、騎士道だとかの西洋の歴史や文化といかに共通性があり、同じものであるかを強調することにすぎない。それは酷評すれば、「名誉白人」 としての処遇と承認を求める、どこにでもいる植民地エリートふうのものにすぎないように思える。

 そこには、天心のような、西洋に対抗して、アジアのアジアとしての独自性を主張する強い姿勢はいささかも見られない。もっとも、その逆に、天心の場合には、アジアがあまりに理念化されていて、中国やインドの華麗で巨大な帝国と文明が、いわゆる 「アジア的悲惨」 と裏表であったという事実がまったく無視されている。まあ、だからこそ、天心はアジア主義者の祖の一人ということになったわけだが。

 話はころっと変わるが、柄谷行人は、『ヒューモアとしての唯物論』 の最後に収められた、「日本植民地主義の起源」 という短文の中で、こう書いている。

日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」 のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」 というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。

 ここで柄谷が指摘していることは、特段に新しいことではない。柄谷が言うように、日本による 「韓国併合」 は、建前上は 「日韓合邦」 という韓国側の 「要望」 を受け入れるという形で推進され、また 「内鮮一体」 などのスローガンも併合後には掲げられた。日清戦争で獲得した台湾についても、同様のことが言える。

 しかし、その内実がいかなるものであったかは、いまさら言うまでもあるまい。実際、黒龍会の内田良平によれば、日清戦争のきっかけを作った東学党の流れをくみ、韓国の側で、日韓の 「対等合併」 を目指して 「合邦運動」 を推進した一進会の指導者であった李容九は、日本に病気治療に来たさい、見舞いに訪れた内田の手を握って、「われわれは馬鹿でしたなあ」 ともらしたという。

 維新によってアジアの中で唯一近代化に成功し、大国ロシアにも勝利した明治の日本が、西欧の圧迫下で近代化を模索するアジア各地の国を憂える知識人やエリートらにとって、手本であり模範であったのは、想像に難くない。近代トルコの 「建国の父」 であるケマルにとっても、また頭山や犬養と親交が深かった、一時期の孫文にとっても、日本はまさにそのような 「希望の星」 であったことだろう。

 死の直前になって 「われわれは馬鹿でしたなあ」 と語った李にしても、内田に吹き込まれた 「日韓合邦」 は、ロシアと清という大国の圧力にさらされながら、旧態依然とした王朝のもとで、もはや時代に適合する能力を失っているかに見えていた自国の状況を打破し、日本と同様の 「改革」 を断行するための決定的な 「秘策」 であるかのように思えたのだろう。

 しかし、李に理解できていなかったのは、多民族で構成されながらも、民族なるものの存在を知らずにいた近代以前の 「帝国」 とはまったく異なった、近代に生まれた 「民族」 と、「民族」 を統合した 「国民国家」 なるものの意味である。その無理解を責めるわけにはいかないだろうが、李がやったことは、結局のところ、「前門の虎」 のかわりに 「後門の狼」 を引き入れたにすぎない。

 柄谷は、前掲の短文の中で、「日本の植民地経営の原点は北海道開拓にある」 と言っている。それはたぶんそのとおりだ。だが、それは、言うまでもなく、江戸時代の幕府による 「蝦夷地開発」 にまで遡る。歴代の幕閣の中で、最も蝦夷地開発に積極的だったのは、「賄賂政治」 で有名な田沼意次であり、彼は最上徳内に樺太探検を命じたりもしている。

 明治政府による北海道開発が、それ以前とは異なって 「何よりもアメリカがモデルにされた」 のは、おそらく柄谷の言うとおりだろう。札幌農学校にかのクラーク博士が招聘されたのは、そのことを象徴しているし、政府主導による近代的で国家的な規模の 「開発」 には、当然のことながら、近代的なモデルを必要とする。だが、それはそれだけの話に過ぎない。

 しかし、そのことを根拠として、柄谷が日本による植民地経営のモデルまで、アメリカに求めているのはたぶん間違っている。そもそも柄谷が言うように、アメリカの植民地経営が、「被統治者を 『潜在的なアメリカ人』 とみなすもの」 だとしても、それが 「英仏のような植民地政策とは異質である」 とまでは言えないだろう。実際、植民地の現地人や先住民を文化的に劣ったものとみなし、彼らを 「文明人」 へと教育するという啓蒙的・教化的な植民地政策は、なにもアメリカ特有のものではない。

 それは、スペインやポルトガルが 「発見」 し支配した植民地においても、イエズス会などの宣教師らによって早くから試みられている。そもそも、ただの金銀財宝の略奪に留まらない、前世紀における近代的なまるごとの植民地支配は、多かれ少なかれ、現地人の協力を必要とするものであり、その意味では現地人への教育などによる 「教化」と「同化」 という政策は、絶対に欠かせないものでもある。

 柄谷が言うのとは異なり、戦前の日本による植民地拡張と統治の特徴は、むしろ天皇制という、ほんらいどう考えても日本固有の制度でしかないものに、たとえば 「西洋の覇道」 に対する 「東洋の王道」 などという、ナショナルな性格を脱色した衣を着せて、天皇制があたかも日本というナショナルな枠を超えて、アジア全体に普遍的な価値として通用するかのごとくに偽装したところにある。

 そのような無意識の偽装が可能だったのは、おそらくは欧米による外圧のもと、急遽、突貫工事で建設された 「明治国家」 が持っていた、実態としてのナショナルな国家という性格にもかかわらず、近代的な意味での 「国民」 とその意識がいまだ成立していなかったという 「二重性」 と関係するだろう。

 柄谷が言うように、「八紘為宇という肇国の理念」 が、「明治以後の植民地主義イデオロギーにもとづいて、古代の文献を新解釈したものにすぎない」 としても、そのことと彼が指摘する、「アメリカの植民地政策」 とは、おそらくなんの関係もない。「理念」 というものは、たしかに遡行的に解釈され、しばしば捏造されるものでもある。しかし、そこで呼び出された理念が、たとえ欺瞞的にではあれ、必然的に帯びざるを得ない固有の 「歴史性」 とその意味を、柄谷は逆に無視し抹消してしまっているように思える(コメント欄に追記)。

 明治国家における 「国民意識」 は、対外意識、とりわけ欧米に対する意識としては成立していた。しかし、内部的な意味、すなわち国家を構成する 「国民意識」 としては成立していなかった。自由民権運動の挫折が意味するものは、そういうことであり、憲法解釈として一時は定着していたかに見えた美濃部の 「天皇機関説」 が、昭和にはいるとともに、「天皇が国家の機関などとはけしからん」 と息巻いた国粋主義者らの攻撃の前に、あっさり敗退したのもそのためである。そこには、「臣民」 はいても 「国民」 は存在していなかった。

 その結果、天皇制という制度が、西欧と同じ資本主義を動力とする事実としての 「国民国家」 を統合する、ナショナルな原理にすぎないことが自他ともに明確に認識されず、天皇制が世界に冠たる 「万邦無比」 の原理として、そのままずるずるべったりと、対外的にどこまでも拡張可能であるかのごとき錯誤が生まれた。

 内田良平の 「日韓合邦論」 や石原莞爾の 「五族協和論」 から、近衛のブレーンや種々の 「近代の超克」 論者らが掲げた「東亜共同体論」 や 「八紘一宇」 にいたるまで、アジア主義者が掲げた理念は、すべてそのような錯誤に基づいている。そして、そのような錯誤は、事実としての植民地支配とその拡大を正当化し、現実を隠蔽する論理として役立てられることになった。

 彼らがいかに、東亜の平和や共存共栄を掲げたところで、それが万邦無比の天皇制の主導を前提とする以上、そこでの 「東亜新秩序」 は、実質的には日本による支配とその拡大を意味するものでしかない。「五族協和」 や 「王道楽土」 うんぬんという民族の楽園も、現実には他の民族の 「皇民化」 を前提とし、それを強制するものでしかありえない。

 東条によって予備役へと引退させられた、その後の石原のように、たとえ、いかに現実と当初の自己の理念との乖離を嘆いたところで、そうならざるを得なかったのは、当初の理念に含まれていた錯誤からくる必然にすぎないと言うべきである。







Last updated  2009.05.05 01:33:42
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2008.07.31

 あづいー。頭上からは刃のような日差しが照りつけ、大気中には眩しい光の粒子が散乱し、下を向けばコンクリートとアスファルトからの放射熱がじんわりと頬をやく。

 夏はまさに光と影というマニ教的二元論の世界であり、街を行く人はみな、故なき罪で罰せられている罪人のように、蒼ざめた顔でうつむきながら歩いている。

 今日は仕事がなかったので、積読解消のために、まず中公文庫から出ている石原莞爾『最終戦争論』 を手に取った。奥付には1993年発行とあるが、ずっとただ書棚に飾っておいただけなので、表紙も中の紙も新本同様にぴかぴかである。

 石原といえば、関東軍の参謀として満州事変を起こした首謀者であり、したがっていわゆる15年戦争と、出先機関の独走という旧軍内部の下克上に道を開いたという意味では、昭和の戦争の責任者の一人と言うべきだが、東条との対立によって日米開戦前に現役を退かされたことが幸いして、極東裁判での戦犯指名からは免れたという。

 世界統一のための東亜と米州による 「最終戦争」 を30年後(それは、くしくも米ソ冷戦が激しかった1960-70年代に当たっている)と想定し、それに向けた国力の増強と軍備の近代化を当面の目標としていた石原にとって、日中戦争の泥沼化は彼の理想である東亜協和の障害であり、また東条による時期尚早な日米開戦は、彼の苦労のすべてを画餅に帰す愚挙に他ならなかった。

 しかし、言うまでもなく、彼の描いた天皇の下での 「五族協和」 という理念自体が、そもそもただの絵に画いた餅にすぎない。それは、いわば世間知らずの軍人が描いた、あまりにも現実性を欠いた、理想という名にも値しないただの空論でしかない。

 また、強力な兵器の登場が戦争に対する抑止力となるという理屈には一定の現実性はあるものの、「一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力」 の破壊兵器や、「無着陸で世界をぐるぐる周れるような飛行機」 を備えた二大勢力による、徹底的な 「最終戦争」 ののちに現れる世界とは、マッドマックスやケンシロウの世界以外のなんであろうか。

 Wikipediaによると、戦後の彼は、「日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した」 とのことだ。それは、たしかに広島と長崎の惨状を目撃したことによる、「最終戦争論」 への反省と受け取ることも不可能ではあるまい。しかし、同時にそれは、相も変らぬ 「日本民族」 の世界的使命なる、夜郎自大な意識の現われと見ることも可能だろう。

 『最終戦争論』 の中で、彼は 「正法」、「像法」、「末法」 という仏典の言葉を引き、はては日蓮が生まれた時代は、「像法」 の世だったのか、それとも 「末法」 の世だったのかなどと大真面目に論じながら、彼の言う 「最終戦争」 の時期について議論している。こういった箇所については、正直に言って苦笑を禁じえない。

 石原にはさまざまな逸話があり、彼が優秀な頭脳と権威に屈せぬ豪胆さを持った、人格的にも魅力ある人であったことは確かだろう。しかし、こういった箇所は、きわめて優秀な頭脳と個性の持ち主が、ある場合には、きわめて蒙昧な思想やイデオロギーとも十分に共存できることを示している。

 それはむろん、なによりも尊皇精神の育成に重点が置かれていた、かつての軍人教育の成果であり結果ではあるだろう。しかし、人が 「蒙昧」 に転じる道はどこにでもあり、彼のように自らを恃む者であってすら、そのような蒙昧に転落する怖れはあるのだ。世の中には、「知的選民階級」 などという言葉で、誰かを嘲笑しているつもりの人もいるようだが、そんな呑気なことを言っている場合ではないだろう。

 なお、中公文庫には、そのほかにも田中隆吉の 『日本軍閥暗闘史』 や大川周明の 『復興亜細亜の諸問題』、『高橋是清自伝』、石光真清の 『城下の人』、荒畑寒村の 『平民社時代』、『大杉栄自叙伝』、杉山茂丸の 『児玉大将伝』 など、近代史の勉強にはたいへん役立つ歴史的資料がそろっている。

 こういった資料の文庫化は、とうてい利益の上がるものとは思えないが、講談社文庫や角川文庫などのように、利潤追求のみを至上命題としている出版社が多い中、まことに頼もしい限りである。中央公論社は、もともと明治に京都・西本願寺の有志らによって設立されたそうだが、9年前の経営危機によって新社が設立され、現在は読売新聞の子会社となっている。

 若者の活字離れが叫ばれる中、出版界をめぐる状況は相変わらずたいへんのようだが、今後とも中公文庫の健闘を陰ながら応援する所存である。


参考サイト:石原莞爾平和思想研究会 







Last updated  2008.08.01 13:14:40
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2007.05.13
 いささか、くどいようではあるが、乗りかかった舟なので
 
 ということで、宮台真司の 「解説:宮崎学『近代の奈落』~ 亜細亜的相互扶助の可能性を論じる ~」 という書評から


■敗戦後、日本共産党の運動が激化したとき、共産党が広めたのが「民族」という言葉だ。同時代の水平社運動を見ると、松本冶一郎をはじめとする先達たちも 「民族」 という言葉を使っている。大和民族のことではない。意外にも部落民のことを 「民族」 と呼んでいた。

■「民族」 という言葉は、民族派右翼という呼称があるものの、元々右翼の概念ではなく、階級概念にとってノイジーな要素に注目しつつ階級概念に吸収しようとする左翼の概念だ。右翼がこの概念を使うとき、階級廃絶では必ずしも解放されない者たちという含意になる。

■松本が民族概念を被差別部落民に適用するときも、当然ながら部落解放が階級廃絶に還元できないという含意を持つ。一九四八年に参議院副議長になった松本治一郎が天皇拝謁を拒否した 「カニの横這い事件」 で、玄洋社が彼を庇護うのも、故なきことではないのだ。

 これも、宮台ファンには申し訳ないが、間違いだらけである。

 戦後の日本共産党の運動で 「民族」 という言葉が重要視されるようになったのは、日米安保条約と米軍基地の存在が象徴するように、戦後日本がアメリカに対する政治的軍事的な従属下にあり、したがって労働者を主体とする社会主義革命の前に、アメリカからの完全な独立を目指す 「民族解放闘争」 が必要だとする、いわゆる 「二段階革命戦略」と、それに基づく 「反米愛国」 路線があったからであり、それ以上の話ではない。

 そもそも、宮台が言うような 「階級概念にとってノイジーな要素に注目しつつ階級概念に吸収しようとする左翼の概念」 というならば、「中華人民共和国」 とか 「人民民主主義」 とかいった言葉で使われたような 「人民」 という概念こそ、そうというべきだろう。これは弁解のしようもない完全な間違いである。

 なお、「同時代の水平社運動」 といっているが、水平社は太平洋戦争中の1942年に自然解散している。戦後は、1946年に部落解放全国委員会が再建され、その後現在の部落解放同盟に名称を変えているのだから、これもおかしな話である。好意的に解釈すれば、戦前の水平社と戦後の部落解放同盟を同一視しただけなのかもしれないが、それはちょっとあまりに乱暴な話だろう。

 松本冶一郎の話も出ているが、玄洋社は1946年に強制的に解散させられているのだから、1948年のカニの横ばい事件で玄洋社が彼をかばったなどという話もありえないことだ。

 いずれにしても、宮台氏、もう少し歴史のお勉強をちゃんとやったほうがいいようである。

 
 こんなこ書いてる暇があったら、仕事しなくちゃ

 ということで、おしまい






Last updated  2008.03.15 13:09:59
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2007.05.11

 宮台真司の近代史認識がいかにでたらめかを示す例を、MIYADAI.com Blog から引用してみる。

 その点、昔の米国は凄かったよ。例えばGHQの“ホワイト・パージ”。日本が内政外交上の無能力者になったのは米国による“ホワイト・パージ”による所が大きい。“レッド・パージ”は有名だけど、実は講和までの8年間に戦前までの右翼──国の成り立ちを真に知る存在──が根絶しにされたのは知られない。
(中略)

 同じくGHQの指示でなされた“レッド・パージ”の目的は労働運動の弾圧で、GHQは思想弾圧すべからずと指示書を書いていたほどだ。ところが右翼の思想的鉱脈は完全に根絶やしにされた。結果、維新以降の国の成り立ち、特に「田吾作による天皇利用」の真実を、コミュニケートする機会が消えた。それ以降の右翼は戦前とは別物。右翼の下にヤクザがいるんじゃなく、ヤクザの下に右翼がいて政治家に使われるようになった。護国團の石井一昌元團長にそれを歎いたら「あんたが何とかするしかないね」と返されましたが(笑)。

(中略)

 本質的な問いですね。「つくる会」の体たらくとは対照的な(笑)。なぜホワイト・パージされたか。日本の右翼が天皇制や国家権力に懐疑的な民権派をルーツとするからです。玄洋社や黒龍会だね。それが亜細亜主義者の系列で、むろん天皇機関説。

 明治後半に隆盛した天皇国粋的な教学派はネタをベタと取り違えた小僧に過ぎないんだ。さてGHQは戦前右翼の復活で亜細亜主義による天皇相対化がなされるのを危惧した。「平和を願う天皇」を使って「安全なナショナリズム」を敷設するのが狙いだったからね。この「安全なナショナリズム」方針は大成功した。これは今でも参照にたる実績です。

                       
              
 これは、対談での発言という事情を考慮しても、あまりにつっこみどころ満載の発言と言わざるをえない。まず、戦前のいわゆる右翼思想家の中で、明確に 「天皇機関説」 を述べたことがあるのは、若い頃に 『国体論並びに純正社会主義』 を書いた北一輝だけだろう。その彼ですら、中国での革命に挫折して帰国し、右翼思想家として名が売れるようになってからは、若い支持者らに配慮して天皇機関説を公言することは一度もなかったのであり、宮台の発言はどう見ても史実に反している。

 かりに百歩譲って、ここで宮台が意識しているのが、橋川文三が最初に提起し、松本健一あたりが引き継いでいる、昭和の超国家主義運動の中で見られたような 「天皇の国民」 から 「国民の天皇」 への変質といったことだとしても、それはすでに玄洋社とはなんの関係もないことだ。

 つぎに 「ネタをベタと取り違えた」「明治後半に隆盛した天皇国粋的な教学派」 というのは、おそらく美濃部と上杉の憲法論争を指すものと思われる。しかし、昭和の軍国主義は、明治憲法の解釈としていったんは定着していた美濃部の天皇機関説に対する、軍人や黒龍会などの民間右翼の攻撃から始まったわけであるから、ここでも彼が言っていることはまったくもって意味不明と言わざるを得ない。

 そもそも、玄洋社の源流は薩長と同様の勤皇派だった 「筑前勤皇党」 であり、その思想は、水戸学の影響を受けた薩長の討幕派となんら変わりはない。たとえば、高杉晋作ら、薩長の志士をかくまったことでも有名な歌人、野村望東尼などがこのグループに含まれる。

 玄洋社が当初民権派としてスタートすることになった遠因は、幕末の黒田藩内での弾圧で勤皇派が壊滅し、維新に乗り遅れたことにある。その結果、彼ら福岡の士族は、政府の要職から完全に閉め出され、必然的に藩閥政府に対する反対派の位置に立つことになってしまった。

 その場合、政府に対する反対運動の旗印としては、当時、自由民権というイデオロギーしかなかったのは、近代日本史の常識である。したがって、そのことに過剰な意味付与をすべきではない。たしかに、このときに学んだであろう 「国民」 という思想の名残が、生来の士族的精神とともに、その後の彼らの対外的活動を支えてきたということは言えるかもしれない。しかし、彼らが 「天皇制に懐疑的だった」 などとは、どういう意味で言っているのかは知らないが、どこを叩いても出てくる話ではない。

 「亜細亜主義による天皇相対化」 という言葉で宮台が言いたいことは、おそらく黒龍会の内田良平などが唱導した 「日韓合邦」 運動や満州国における 「五族協和」 といった理念を指すものと思われる。ただし、それがどうして 「天皇相対化」 という言葉になるのかはよく分からない。しかし、そのように天皇制を無制限に拡大し、事実上日本への限りない同化を強制していく発想は、そもそも近代的なナショナルな国家=国民という理念とは明確に対立するのであり、国民国家を前提とする天皇機関説とはどう好意的に解釈してもつながりようがない。

 ただし、玄洋社よりもさらに復古的な熊本の神風連の系統や、一種の東洋的無政府主義者ともいえる久留米出身の権藤成卿などのように、明治体制による近代化そのものに否定的なグループであれば、「国家権力に懐疑的だった」 といえなくはない。しかし、彼らは玄洋社とは系譜も思想も異なっており、またさして勢力があったわけでもないだろう。

 以前にも触れたが、右翼の亜細亜主義が理念として一定の正当性を持っていたのは、せいぜい彼らが民間グループとして、政府や軍部から一定の自立性を保っていた時期に限られる。国家の利害がそこにからんできた場合、亜細亜主義であれ、戦後の東側の「社会主義的連帯」であれ、<連帯>という理念がいかに空洞化し建前化していくかは、多くの歴史が証明していることだ。宮台は、安易な 「亜細亜主義の再評価」 などを唱える前に、まずそのような歴史をきちんと直視すべきではないかと思う。

 なお、彼は 「ホワイトパージ」 などという言葉を使って、GHQによって戦前右翼が根絶やしにされたかのようなことを言っているが、これも怪しい話である。占領下で、右翼に対する公職追放や言論統制が行われたことは事実である。また、鬼畜米英から親米への転向をよしとせずに、自ら沈黙した右翼思想家もいないわけではない。戦前からの右翼思想家が、少なくともマスコミのような表舞台からは姿を消さざるを得なかったこと、また、彼らの名前や思想について語ることすら 「タブー視」 されたような時期があったことも確かだろう。

 しかし、安岡正篤や笹川良一のような戦前からの右翼が、各所各所で隠然たる勢力を保ち、歴代の自民党政権に対しても一貫して大きな影響力を持ってきたことは否定できない事実である。戦前右翼と人脈的血脈的に繋がりがある戦後政治家など、その気になれば何人でもあげられるだろう。戦前と戦後では、右翼の思想と活動に大きな違いがあり、一種の断絶が存在するのは間違いない。だが、それは彼ら自身の選択の結果というべきであって、アメリカの占領政策のせいにするのはとんだ筋違いである。

 スターリンによる大粛清のような右翼の 「大量処刑」 でも行われたのならともかく、たかだか8年の占領ぐらいで、それまで綿々と続いてきた政治的伝統を 「根絶やし」 にすることなど、そもそもできるはずがない。それこそ、愚かな妄想というものだ。ある思想を 「根絶やし」 にすることがそんなに簡単に可能だとしたら、歴史など成立するはずがないことぐらい、ちょっと考えれば誰でも分かる話ではないか。

 どうも、彼は様々な右翼思想家を十束一からげにして、その中から自分の論理構成に都合がいいところだけを、あちこちからつまみ食いにしているように見える。彼の難解な社会学理論には興味ないが、ここで彼が言っていることが、朝日新聞などを悪玉にするよくある議論のかわりに、たんにGHQを悪玉にしているだけの通俗的な 「陰謀史観」 に過ぎないことは明らかだ。高尚な理論を語るのは結構だが、実際の歴史認識がこの程度だと、あらあらとしか言いようがない。

 戦前の右翼思想家や亜細亜主義者の中にも、魅力的な人物や個性的な思想家がいたことは否定しない。しかし、その再検討を言うのなら、少なくとも史実はもちろん、橋川文三や竹内好などによる、これまでの研究成果ぐらいは踏まえるべきである。一知半解な思い付きなどからは、なにも生まれはしないだろう。


以上、おしまい






Last updated  2008.03.15 13:03:55
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2007.02.10

 市民革命とは市民が権力を握る革命のことである。
 
 この定義に異を唱えるような歴史学者や政治学者は、たぶん一人もいないだろう。しかし、おうおうにして社会科学において誰も異を唱えない 「定義」 とは、単なる同語反復に過ぎないか、あるいはそれに近いことが多い。

 この場合もそうである。問題はこの先、すなわちある階級(この場合は 「市民」 ということになるが)が権力を握るということはどういうことなのか、ということまで深化されなければなにも意味を持たないのだ。

 いわゆる明治維新の範囲を 「王政復古」 と 「大政奉還」 からどこまでとるかについてもいろいろな議論があるが、ここでは明治20年代の 「憲法制定」 と 「議会開設」 までということにしよう。

 初期の議会において、自由党などの政党と政府が 「予算」 をめぐって激しく対立したことは事実である。しかし、近代国家においては、現代の日本のように、議会がたとえ形式上は国家の 「最高機関」 である場合ですら、実際には、立法権=議会よりも執行権を握る政府のほうが優位にある。
 
 ましてや、明治国家においては議会はただ単に予算の否決などによって政府を掣肘しうるのみであって、みずから政府を掌握する力は持っていなかった。のちになると 「東洋のビスマルク」 と自称し、先見の明を持った伊藤博文が自由党の残党を吸収して 「政友会」 を組織し、政党出身者にも権力への一定の参加が許されるようにはなった。

 さらに大正に入ると、確かに 「政党政治」 が確立されたかに見えたが、これは一時的な慣行に過ぎず、とうてい制度的に確立したものではなかった。(慣習として確立する前に、ひっくり返ってしまったわけだ。その根拠はもちろん 「統帥権の独立」 という明治憲法の特殊な規定にあったのだが)それに、いずれにしても、このへんはすでに一般に言われる明治維新の範囲を超えた話であろう。

 明治国家においては、政府の首班である総理大臣の任命権も、陸軍・海軍を統制する軍事的な統帥権も、「天皇大権」 として、形式的には 「神聖にして犯すべから」 ざる 「万世一系」 の天皇の手にあり、実質的には天皇周辺の薩長出身の元老や側近の手に握られていた。

 むろん、ヨーロッパにおいても、市民革命によってすぐに今日のような議会体制が成立したわけではない。また普通選挙制が認められたのは、ずっと後のことになる。だが、そもそも 「革命」 とは危機の時代のことであって、そこで一時的に専制的な独裁権力が成立するのは理の必然である。

 しかし、戦前の日本の場合の国家の専制的性格は明治憲法によって最終的に確定し、昭和の敗戦まで持ち越されたものであって、フランス革命とその後の動乱期において成立した、ナポレオンに代表されるような革命的独裁とは性格が違う。だから、そのような類推でもって 「明治維新の結果として市民が権力を握った」 などという主張は、とうてい成立しないだろう。

 小林良彰という人がその本の中で市民が権力を握ったことの証拠としてあげている、いわゆる 「財政問題」 は、国家をめぐる問題のひとつに過ぎない。たとえば 「資本制国家」 においても、全国的に組織された強力な労働組合が存在し議会でもそれなりの勢力を有している場合には、政府もその主張をある程度容認し受けれざるを得ない。

 しかし、ならばその場合に、「権力は労働者の手にある」 と言えるだろうか。また、彼が再三指摘しているフランス革命や明治維新によって成立した 「土地所有」 の問題も、確かに一定の政治性を帯びているとはいえ基本的には 「経済問題」 の範疇に属することであって、国家権力の性格を直接左右する 「政治問題」 ではない。

 確かに、フランス革命のきっかけは、王政による 「財政破綻」 のつけを押し付けられようとしたことに対する市民の反発にある。幕末において幕府や諸藩が同じような破綻に瀕していたことは事実だが、しかし、そのことに対する民衆の反発が明治維新のきっかけになったわけではない。「財政問題」 だけで権力の性格を論じることはできない。

 政治は経済に解消されないのだから、「だれが権力を握っているのか」 という問題は、政治権力そのものの人的組織的な構成はもちろん、具体的な政治過程に即して考察されなければならないだろう。

 明治維新には、「近代性」 と 「前近代性」 の並存という、先進国からの外圧にさらされた後発国特有のねじれた性格が存在する。だから、その一面に市民革命と類似した性格を認めることは必ずしも不可能ではない。だが、全体として見るならば、とうてい「市民革命」ということはできないだろう。

 しかし、こういう矛盾は現実に存在する矛盾なのであって、この問題を末梢的なこととして捨象してしまうならば、結局は明治維新そのものの固有の性格も見失われてしまうだろう。歴史に関する理論とは単なるつじつまあわせではない。そのような矛盾に満ちた特殊性を解明することこそが、理論に求められるのであり、そうでなければ理論としての存在意義もないだろう。

 ある個人をそのような具体的な個人としているものは、単なる人間一般としての共通性ではなく、「個性」 と呼ばれるその個人の特殊性なのである。







Last updated  2009.05.16 23:56:19
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2007.01.31


 ある政治的変革の最終的な結果として、たとえば近代資本主義的な経済体制が成立したから、その政治的変動が市民革命だと結論付けるのは、単なる結果解釈に過ぎない。歴史の解釈がそれだけの結果解釈ですむのなら、その途中の具体的な政治過程を一つ一つ細かく検証していく作業は理論的な意味のない無駄な作業であり、せいぜい暇な好事家にでも任せておけばいいこということになる。

 いや、そもそも歴史というものは、どの一部をとって見ても、なんらかの単一の結果=目的を目指して進む、統一的な過程などではない。その中には様々な意思や利害に基づいた多様な力が存在しており、そのような力のひしめき合いの結果として、最終的にある結果が生み出されるのだと言った方がいいだろう。

 明治維新について言うならば、これによって最終的にある程度近代的な社会が成立したことは言うまでもない。そのことの「革命性」自体を否定する人は、たぶん一人もいないと思う。しかし、そこへいたる過程を細かく見ていけば、欧米の圧力の下で日本が生きていくためには、指導者たちの主観的な意思や好みがどうであれ、欧米に手本を取った「近代化」を選択せざるを得なかったということなど様々な要因があるわけで、単純な結果解釈だけですむ話ではない。

 フランス革命が市民革命であったことは、その担い手が新興市民階級であったことからも明らかである。では、日本の場合はどうだったのか。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允などの当時の指導者は、確かに欧米の事情にも詳しく進取の精神にもあふれた人達であった。また、一部には武士ではなく、町人や農民の出身者がいたことも事実だろう。だが、幕末から維新にかけての変動を担った指導者らを、総体として市民階級の政治的代表者と呼ぶことは到底できないことだ。

 明治維新をどう捉えるのかについては、戦前の労農派と講座派による「日本資本主義論争」以来、様々な議論が行われてきた。大雑把に言えば、労農派は維新をブルジョア革命として捉え、講座派はそれを否定し「絶対主義的天皇制の成立」とする立場であったと言えるだろう。

 論争というもののつねで、この論争も結局結論が出たわけではない。当然、どちらの主張にも間違いや行き過ぎはあっただろうし、とくに講座派の側の主張が、市民革命という概念についてフランス革命のような個別の事例をあまりに理念化しすぎていたために、最終的には日本の近代化そのものを否定しかねないような教条的で硬直したものになってしまった感は否めない。

 しかし、明治維新が「市民革命」ではないとした講座派の側には、日本の歴史の解釈をヨーロッパの歴史的発展の中から取り出された一般的な原理の機械的適用や、単純な結果解釈だけで片付けるのではなく、日本という固有の社会の歴史的発展の特殊性を、実際の歴史に沿って具体的に明らかにしようという問題意識があったのであり、そのことは現在でも高く評価されるべきだと思う。

 論理的理論的なつじつまが合うことは、もちろん合わないよりもいいことである。しかし、だからといってそのことだけを至上価値にすれば、理論は現実とかけ離れたただの「空理空論」になってしまう。そのような「理論」と「現実」の剥離を、丸山はかつて「理論信仰」と「実感信仰」の対立という言葉で表現したのではなかっただろうか。

 歴史を含めた人間的社会は、生命のない無機的世界のようには一筋縄ではいかないものだ。だからといって、人間的社会を扱う研究者は、数式や理論ですっきり割り切れる自然科学の世界をうらやむ必要もないし、「おれたちのやっていることは科学じゃないのだ」みたいな変な劣等感を持つ必要もないだろう。

 単純な理論だけでは割り切れないところに、人間的社会の特性があるのであり、またそこにこそ自然科学とは異なった社会科学の醍醐味と面白さというのもあるのだと思う。







Last updated  2009.05.16 23:53:19
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