2008.01.05

「水伝」 の話から考えたこと

(26)
カテゴリ:科学・言語

 つらつらと考えるに、現代の科学・技術は非常に発展していて、そのため一般の人間にはなかなか理解しにくいところがある。たとえば、相対性理論による 「浦島効果」 だとか、量子力学による測定結果に対する測定の影響だとかいう話になると、われわれ一般の人間にはまったくちんぷんかんぷんである。

 たとえば、私はいまこうやってキーボードをカシャカシャ叩いているわけだが、それがなぜ漢字だのひらがなだのといった文字となってモニター画面に現れ、さらにはブログ記事として表示され、多くの人々の目に留まることになるのか、正直言ってまったく分からない。

 技術というもののよいところは、そのように、技術の基盤となっている科学的な原理というものが全然分からなくても、とりあえず使い方さえ覚えれば、だれにでも同じように使えるというところにある。そういうわけで、一般大衆の皆さんは、「なんでだろー、なんでだろー」 などと、難しいことに頭を悩ませる必要もなしに、日々ケータイやパソコンを操作し、テレビやビデオのリモコンを操作しているわけである。

 これはむろん、ありがたい道具を発明し、難しい原理など分からない科学音痴の一般の人間にも使えるように工夫していただいた、科学者や技術者のおかげなのであるから、深く感謝しなければならないことである。

 このような現象には、だいぶ昔に女権拡張論者の顰蹙を買ったCMの言葉をちょっと借りれば、「あなた作る人・わたし使う人」 といった、非対称的な関係がある。極端な話をすれば、多少知能が発達し、おまけに手先が器用なチンパンジーとかであれば、テレビのリモコンを操作して、見たい番組に切り替えるぐらいのことはじゅうぶんに可能なのである。

 ところで、なんでも世の中には、「水からの伝言」 というお話があるそうである。この話を学校でとくとくと生徒にし、それってちょっと問題ありじゃねー、と父兄とかから指摘されると、「科学的に証明されてはいません」 という断りをつけて、謝罪をしたつもりの教師もいるという話である。

 おいおい、ちょっと待てよ。それってどこかおかしくないかい。科学って、いちいちそんなことまで実験して、ありうるかありえないか、証明しなくちゃいけないのかい。

 言うまでもないことだが、音声としての人間の言葉にしても、文字にしても、それ自体に意味なんかあるはずはない。水の結晶が人間の言葉の意味に反応するというのなら、少なくとも水には、人間が発した音声を単なる空気の振動としてではなく、日本語という言語規範にもとづいた表現として理解するという能力がなければならない。

 たとえば惑星ソラリスの海ならば、人間の思念を探り出し、それに合わせた形象を作り出すことができるのかもしれない。ソラリスの海がどのような化学的組成でできているのかは知らないが、それと同じようなことが、水素と酸素という単純な原子が2対1で結合したにすぎない、ただの水に可能なのだろうか。

 ようするに、こういう問題は、そもそも科学的に証明されているとか、いないとかいう以前の問題なのであり、それこそありえない話なのである。そこのところで、「科学的には証明されていません」 なんて断り書きをつけるのは、それこそ、問題のありかをぜんぜん理解していないことを示した、二度びっくりのおかしな話というべきだろう。

 なにも、科学が万能だのといったことが言いたいわけではない。だが、そういうことを言っている人を見ると、なんじゃらほいという感じがしてならない。そもそも、「水伝」 の話など、相対性理論だの量子力学だのといった超難解な話でもない。そんなことがありえるかどうかなんてことは、いちいち科学的な実験などする必要もないことだし、世の中の科学者の皆さんだって、そんな仮説の検証をするほどひまでもないだろう。

 思いっきり文系の人間が口を出すのもなんであるが、科学的な仮説というものは、いくら仮説だからといっても、なんでもありというわけではないだろう。世の中の2つの現象をテキトーに取り出して、その関係をいちいち実験で検証しなければ、ありうるか、ありえないか、なにも論じられないというのなら、そもそも人間の論理的で抽象的な思考能力など、いらないというのと同じである。

 近代科学の成立というと、たとえばベーコンによる 「帰納法論理」 であるとか、ガリレオによる実験の利用だとかいったことがあげられる。たしかに、そうだろうが、そのような 「科学的手法」 だとて、ある日突然に成立したわけではない。

 その基盤には、長い歴史の中で鍛えられてきた哲学や論理学というものがある。科学的方法論というのも、そのような思考を基盤にしているのだから、ただの思い付きではない、科学的仮説というならば、最低限の論理的な可能性ぐらいは、備えていなければなるまい。

 これはどうも、しばしば、科学の方法論というものが、2つの現象を比較して、その間の 「関数的関係」 を探るという、中身抜きの機能主義に切り縮められ、その結果、「仮説」 とその 「検証」 という形式的な手続き論のみが科学であるかのように矮小化されて、理解されていることにも原因があるように思える。

 現代の技術には、 「原因」 と 「結果」 をつなぐ連鎖があまりに複雑になりすぎたためか、素人にとっては、中身の見えないブラックボックス化しているところがある。

 かつて、ナチの暴力を目の当たりにしたアドルノとホルクハイマーは、文明が野蛮に退行するという現象を 「啓蒙の弁証法」 という言葉で表現したが、いまや大部分の現代人にとって、科学技術というものは、なにやら昔の人が畏怖すると同時に、憧れもした、呪文を唱えさえすればなんでもかなうという、 「魔術」 と大差ないものに退行しているのかもしれない。






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Last updated  2008.06.01 01:00:20
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