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February 22, 2011
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2月22日.JPG
ポタージュに焼き肉と少しいつもより若向きなメニュー。(笑)

今日、職場にぐっさんが来ました。
みんなあっという間にミーハーになって、
きゃ~、ぐっさんだわ~と仕事中にチラ見。(笑)

最近は大物さんが時々来てるようなのですが、
私たちのフロア(産直)はスルーされていました。
先週は上戸彩さんが来たのだそうですが、
大根や白菜の売り場には用がなかったみたい。残念。

タイトルと無関係な話ですみません。
ここからは読んだ本の話なので、興味のない方スルーしてね。


タイトルの「シズコさん」は佐野洋子さんのお母さんです。
百万回生きた猫で有名ですが、もしかしたら、
谷川俊太郎さんの元奥さんといった方が有名でしょうか?

痴呆で施設に入所している母親を訪問した著者が、
母親のベッドにもぐりこんだシーンから始まるエッセイです。

佐野洋子さんは、母親がこんなに呆けてしまうまで、
母親の手に触ったことがありませんでした。
4歳くらいの時に、手をつなごうと母親の手に触れたとたん、
このお母さんはチッと舌打ちして手を振り払ったのでした。

その後も母親は佐野さんに冷たく、厳しい関係でしたが、
佐野さんも母親と二度と手をつながない決意をしたと言います。
4歳の子供の手を、そんなにも冷たく振り払うお母さんにも、
2度と手をつながないと決心する4歳の佐野さんにも驚きました。

本当にそれからずっと佐野さんは母親と手を触れず、
嫌いな度が増してからは、触れなくなっていました。
そして触れないほど母親を嫌っていることに罪悪感を持っていました。

お母さんがどんどん呆けていく過程で、普通の弱々しいおばあさんになって、
ようやく、佐野さんはお母さんに触れることができたのでした。

施設から帰宅した佐野さんは、友人に泣きながら電話します。
母親とそりが合わず、母親を嫌って優しく出来ないまま、
施設に入れたことに対する罪悪感が佐野さんを泣かせます。

電話相手の友人も、泣き出します。
毎週母親に会いに行っていたのを、それがうっとうしくなってきたので、
来週はいけないと言ってしまったのですね。
たまたま体調の悪く、熱もあったお母さんは、娘を思って、
それを言わずに我慢してしまったのです。
10日後に訪れてそれを知り、すぐ病院に行ったのですが、
2ヵ月後にお母さまが亡くなったという後悔で泣くのでした。

友人との電話を切った後も佐野さんは涙が止まらず、
お嫁さんと喧嘩して出てきた母親を返した自分は畜生以下だとか、
泣いて謝ったところで罪が減るものかと自分を責めます。

自分とは全く性格の異なる、許せないと思うことが多い、
幼い頃の自分に、虐待と呼べるような暴行を繰り返した、
そんな母親に優しく出来なかったと号泣する佐野さんは、
読んでいて痛々しいのですが、泣けてよかったとも思えました。
母親を恨んで嫌い続けるよりも、お母さんゴメンねと泣ける方が、
どれだけ幸せかと思いました。

佐野さんのお母さんには、2人の先天異常のきょうだいがいました。
お母さんはそれを隠し、2人の世話を妹さんに押し付けて、
結婚後も、2人を自分の子供にさえ紹介しませんでした。
経歴詐称もしていました。
そういったことは佐野さんの感覚では受け入れられないことでした。

昭和初期に流行ったモダンガールだったお母さんは、
常にお化粧をしてきれいでいることを心がけ、
お客をもてなしや遊ぶこと、華やかなことが好きでした。
溺愛していた病弱な長男を亡くしたお母さんは、
佐野さんへ虐待をするようになります。

水道がないので水を運ぶのですが、それは全て佐野さんの仕事で、
10回以上往復しないと自宅の水槽はいっぱいになりません。
学校から少しでも遅く帰ると、お母さんは冷たく睨みました。
遊んで帰ると佐野さんの襟元を掴み、柱に頭をぶつけました。

冬に薪を拾いに行くのも、薪でご飯を炊くのも、佐野さんの仕事でした。
ある日かまどの前で居眠りをしてしまった佐野さんは、
かまどのじゃがいもが黒くなったのに怒り狂う母親に、
ほうきで叩きのめしながら足で転がされました。
この時、佐野さんは、私は殺されるんだと思ったそうです。
そして、殺されるなら早く死のうと無抵抗だったそうです。

赤ちゃんのオムツを川で洗うのも、畑の草取りも、
全て佐野さんの仕事でしたし、それを少しでもさぼると
もちろん折檻されました。
しかし、きちんとこなしても、1度もほめたことはなく、
ありがとうと言ったこともありませんでした。

どんなにお手伝いをしても、どんなにいい成績をとっても、
大人になって仕事で名誉なことがあっても、
このお母さんは決して佐野さんをほめませんでした。

県の写生大会で、佐野さんが知事賞をもらった時、
お母さんの第一声は「いやだわ、私、着ていくものがないわ」でした。
その後「兄ちゃんが生きていたら、洋子のやつ生意気にって言うわね。」
「きっとこの野郎、この野郎って、こづきまわされたわよ」
そんなひどいことまで言い出します。

佐野さんは亡くなったお兄さんと仲が良かったので、
兄ちゃんは絶対そんなことしないのにと思います。
大人になって、佐野さんは、その名誉は母にとって
自分ではなく兄が受けるべき名誉だったのだろうと思うのですが、
こういうお母さんに優しく出来なかった罪悪感で、
佐野さんが身もだえするほど苦しむ理不尽さを思いました。

お母さんはありがとうもごめんなさいもなく、
子供の話も聞かず気持ちも考えず、命令だけする人でした。
夫婦喧嘩をしてもごめんなさいとは決して言わず、
「そんなことありませんよ」と言う人でした。
洋子さんは決して泣かず、愛嬌のない子供で、
きょうだいの中で1人虐待を受けていたようです。
佐野さんは自分の父親にもそのことを打ち明けませんでした。

虐待が終わる日がきました。
山梨の田舎から、静岡市に引っ越したのです。
お母さんは田舎やお百姓が大嫌いで、
都会で社交性が発揮できる場所が好きでした。
家事能力の高い人で、お客様を呼ぶと必ずほめられました。
お母さんはそういう環境がなくてはいられない人だったのでしょう。
そういう環境であれば、いい人で暮らせたのでしょう。
家事能力は高く、料理や裁縫、整理整頓が得意で、
いつもきれいに見えることに心を砕いている人でした。

佐野さんの記憶をたどると、清水市に住んでいた頃、
小姑にいじめられたいる奥さんが泣いて駆け込んできたり、
教師であった父親の教え子たちをよくもてなしていて、
父親が亡くなった後も、その元教え子達は、20年以上、
毎年お母さんに会いにきておしゃべりしていました。
そのメンバーの中の1人は、20歳で癌にかかり、
死に際にお母さんに会いたいと言ったそうです。
お母さんはもちろん会いに行きました。

佐野さんには冷たかった母親ですが、
いい友達だったり、先生のいい奥さんだったり、
死に際の人を慰めることのできる人でもあったのでした。
身内の話は聞かないけれど、他人の話はしみじみ聞いたのでしょう。

父親は佐野さんの19歳の時に50歳で病死しました。
お母さんは地方公務員になって生活を支え、
子供たちを次々と大学に入れました。
佐野さんの弟さん夫婦と同居したのですが、
奥さんが猛烈な人で、佐野さんのお母さんでも
とても太刀打ちできないひどい人でした。

耐え難くなったお母さんは、愚痴電話を繰り返しますが、
佐野さんも他のきょうだいも、あの母親とうまくやっていく
お嫁さんなどいるはずもないと、母親の言葉を聞き流します。
お母さんは結局、苦労して作った家を出て、
佐野さんと同居したのでした。

そう、佐野さんは何年かお母さんと同居もしたのです。
同居は義務感からで愛情からではなかったと自分を責め、
豪華な海外旅行に連れて行っても、優しくできないと自分を責め、
お母さんに気に入った施設を選ばせて、高いお金を払っても、
お金と引き換えに母親を捨てたと自分を責めていました。

執拗なまでの罪悪感は、お母さんと和解したいという
強い気持ちの裏返しではないかと思えました。
どうしても嫌悪感が捨てらなくて、和解できないから、
和解できない自分を責めているような気がしました。

お母さんは嫁に家を追い出されてから、
「ごめんなさい」と「ありがとう」を振りまく人になり、
お母さんの「ごめんなさい」と「ありがとう」は、
佐野さんを少しずつ変えていきました。

ごめんなさいとありがとうが、どんなにいい言葉か、
ほんとうにはじめてよくわかったと書いています。
ごめんなさいとありがとうを言うお母さんは、
柔和な笑顔になり、優しさが腹の中にいっぱいつまって
零れ落ちるように見えるというのです。

施設のベッドの中で、佐野さんはお母さんのふとんをたたきました。
「ねんねんよう、おころりよ。母さんはいい子だ、ねんねしな」
お母さんはとても楽しそうに笑ったそうです。
そしてお母さんも、佐野さんのふとんをたたきながら。、
「坊やはいい子だ、ねんねしな。それからなんだっけ?」
「坊やのお守りはどこへ行った」
「あの山越えて、里越えて」と歌いながら、佐野さんは
お母さんの白い髪の頭をなでました。
そしてどっと涙が湧き出し、お母さんに謝っていました。
「ごめんね、母さん、ごめんね」
「私悪い子だったね、ごめんね」
お母さんは正気に戻ったのでしょうか、こう答えました。
「私の方こそごめんなさい。あんたが悪いんじゃないのよ。」

佐野さんの中で何かが爆発したそうです。
「母さん、呆けてくれてありがとう。
神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう。」
ずっと佐野さんの中でこりかたまっていた嫌悪感が、
氷山にお湯をぶっかけたように溶けていったそうです。
ほぼ50年の間苦しんできた自責の念から開放され、
生きていてよかったと思い、何かに許されたと感じたそうです。

お母さんと何度も抱き合って泣きじゃくり、
泣きじゃくりが終わると、風邪が治った朝のような気がしたといいます。

お母さんはそのうち寝たきりになりました。
その頃、佐野さんは乳がんの再発が骨に来てしまい、
歩けなくなっていました。
お母さんが亡くなった後のことは、時間も順序も、
ほとんど佐野さんの記憶から抜け落ちているそうです。
妹さんに聞いて理解したと言います。
亡くなった時に佐野さんはいなかったこと。
お葬式の時に佐野さんは車椅子だったこと。
そんな記憶さえ残っていませんでした。

このエッセイを書き終えた時、佐野さんは70歳で、
物忘れの加速に呆然としています。
呆け始めのお母さんと自分を重ねています。
呆けていては、こんなエッセイは書けないとは思いますが。

この本の最後の部分を書き写して今日の日記を終わります。

私も死ぬ。生まれて来ない子供はいるが、死なない人はいない。
夜寝るとき、電気を消すと毎晩母さんが小さな子供を三人位連れて、私の足元に現れる。
夏大島をすかして見る様に茶色いすける様なもやの中に母さんと小さい子供が立っている。
 静かで、懐かしい思いがする。
 静かで、懐かしいそちら側に、私も行く。ありがとう。すぐに行くからね。















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Last updated  February 22, 2011 10:45:11 PM
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