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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2007.10.13
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カテゴリ:五輪塔を旅する

今年も9月に、竹原市・三原市・東広島市・呉市・尾道市・大崎町・今治市・廿日市市という広い範囲に及ぶ石塔の調査を実施してきました。

もちろん中心となったのは小早川領の石塔ですが、宝篋印塔の細かな部分の違いを調べるために、その周辺部にまで足をのばしました。

いつもなら9月にはいると暑さも和らぎ、瀬戸内を吹く風も心地よくなるのですが、今年は連日34度を超す猛暑!

石塔を測定する器具も照りつける太陽によって熱せられ、5分もすれば、もう熱くて持てないほどでした。

そんなかちかち山状態が連日続いたため、いつもよりペースはダウンしましたが、それでも多くの新しい発見がありました。


幸崎(さいざき)

三原市幸崎町にあるO家の墓所では、2基の宝篋印塔をはじめ、数多くの五輪塔を確認しました。


幸崎町


数えてみると、宝篋印塔は2基(基礎2個、塔身2個、笠2個、相輪は確認できず)

五輪塔は、寄せ集めですが、各部を数えると、地輪が18個、水輪が35個、火輪が35個(ほかに火輪らしきもの1個)、空風輪が2個(ほかに空風輪らしきもの2個)もあります。

このほか寺の礎石として火輪1個、地輪1個が使われています。

この点から、このあたりには少なくとも宝篋印塔が2基、五輪塔が36基はあったことがわかります。

このほかにも、江戸時代の一石五輪塔が10基あり、このうちの1基は、高さが95.5センチもある大型のものです。

また、宝篋印塔の1基は、その形や比率から14世紀代のものと見られ、このなかでは、もっとも古そうです。

おそらく、宝篋印塔がまず建てられ、その後、そのまわりに五輪塔があいついで建てられていったのでしょう。

それをある時期にこの場所に集めて祀ったようです。


すぐ近くには、弘安2年(1279)とも、元禄5年(1692)創建とも伝える曹洞宗の寺があります。

寺の開基は、はっきりしませんが、五輪塔や宝篋印塔からみて、中世後期、ここにそれなりの有力者に保護された寺があったことは間違いないでしょう。

墓所のすぐ前は、せまい瀬戸。

この石塔群は、この水路を押さえていた勢力が建てたもののようです。

おそらく中世は墓所のすぐ近くまで海がはいりこんでいたことでしょう。

その海をみおろすように建てられた寺は、この勢力の氏寺だったのかもしれません。



新庄

竹原小早川の本拠地となる新庄でも、またひとつ宝篋印塔を確認しました。

15世紀頃に作られたもののようです。


新庄


眼下を旧山陽道が走り、正面には茶臼山城のある山がみえます。

まだはっきりしたことはいえませんが、竹原小早川氏の本城となる木村城周辺に分布する宝篋印塔や五輪塔を見ると14世紀から15世紀にかけての石塔は、木村城周辺よりも、そのすぐ北に位置する茶臼山城の周辺に広がります。

小早川氏の氏寺であった法常寺も、この近くにあります。

これに対し、木村城東麓の末宗(すえむね)の谷は、荘園領主(賀茂神社)の預所(あずかっそ・荘園の管理責任者)がいた空間で、城の西南には賀茂社も鎮座します。

こうしたことからみると、あとから割り込んでくる小早川氏の拠点は、はじめは木村城周辺ではなく、もう少し北側の茶臼山城周辺の一帯だったのではないでしょうか。

これからの検討課題です。



安芸津(あきつ)

竹原小早川氏の外港として使われていた安芸津でも、たいへん立派な五輪塔をみつけました。


安芸津


お堂に囲われて大切に守られてきたため、とても綺麗で、各部がすべて揃っています。

今年一番の成果が五輪塔の発見でした。

ただ、確認したのが夕方だったことに加えて、五輪塔の周囲を何匹ものハチがホバリングをしていたため、詳しく調べることができませんでした。

また、地輪部をセメントで固めているため、正確な高さは測定できませんでしたが、ざっと測定したところ、空風輪の高さは28.5センチ、火輪の高さは22.2センチ、軒幅は36.5センチ、軒厚は中央が7.5センチ、右端が7.8センチ、水輪の幅は37.0センチ、地輪の上端幅は43.5センチありました。

空風輪、火輪、水輪、地輪の4面すべてに梵字を刻み、鎌倉末から南北朝期の五輪塔のようです。


安芸津


修験に関わる五輪塔と思われますが、詳しくは、来春、あらためて調査したいと思います。




大崎上島

大崎上島でも、藪に覆われた無縁仏のなかから、立派な五輪塔をみつけました。

藪を取り除くと、これも各部4面に梵字を刻み、安芸津の五輪塔に劣らぬ作りです。


大崎上島


空風輪の高さは24.2センチ、火輪の高さは22.7センチ、軒幅は34.3センチ、軒厚は中央で7.2センチあり、安芸津の五輪塔より、わずかながら小型の五輪塔です。


大崎上島


残念ながら地輪がありませんが、島にとっては貴重な歴史資料、きちんとした形での保存がのぞまれます。

すぐ後ろには、15世紀頃かと思われる宝篋印塔の基礎(幅34.8センチ)もありましたが、時刻はすでに17時をまわって、陽がかたむきはじめています。

残念ですが、ここも来春、改めて調査をしたいと思います。




大和町

大和町の棲真寺(せいしんじ)には、鎌倉末から南北朝期のものとみられる立派な五輪塔があります。


棲真寺


空風輪の高さは34.1センチ(空輪は21.0、風輪は13.3センチ)、空輪の最大径は24.2センチ、

風輪の最大径は16.6センチ

火輪の高さは26.3センチ、上端幅は16.9センチ、軒幅は41.0センチ、軒厚は中央で8.2センチ、右端で9.2センチ

水輪の高さは34.4センチ、幅は43.7センチ(下から21.4センチの位置で最大径)

地輪は高さは44.2センチ、幅は44.7センチ

全体の高さは、126.8センチあります。

空風輪、火輪、水輪、地輪の4面すべてに梵字を深く刻み、この界隈でも群を抜く立派な作りです。


棲真寺


安芸津や大崎上島の五輪塔は、この五輪塔とほぼ同じ形をしていますが、これよりひとまわり小さく、梵字の彫りもやや弱いようです。

このクラスの五輪塔は、丹念にさがせば、まだみつかるかもしれません。


棲真寺大崎上島安芸津




なお、今年もたくさんの地元のかたにご協力をいただきました。

なかでも、新庄の宝篋印塔を教えてくださった新庄のKさん、いつも私たちの調査に協力していただき、測定やドライバーを務めてくださる忠海のOさん、お忙しいなか調査に同行してくださった忠海のSさん、現地でいつも便宜をはかってくださる吉名のFさんに新庄のSさん、小梨子を案内していただいたSさん、大崎上島を案内していただいたKさん、安芸津町史編纂室のNさん、Nさん、Mさん、そして呉市教育委員会の皆さん、お忙しいなか、本当にありがとうございました。

このところ多忙のため、ブログの更新がとまっていますが、調査は順調に進んでいます。

順次、このHPで紹介していきますので、いま少しお待ち下さい。




次回は、来春3月末を予定しています。

またお会いできる日を楽しみにしています!











最終更新日  2007.10.13 21:37:51
2007.07.01
カテゴリ:竹原市の石塔



かつて竹原小早川氏の城がある新庄から、港のある三津(みつ・安芸津)に向かうには、東野の在屋(ありや)から峠を越えて木谷(きだに)におりるルートが使われました。

しかし、ルートはひとつではなかったようです。

少し遠回りになりますが、もうひとつ、仁賀の西谷に出て、戸石(といし)、正司畑(しょうじばた)をへて、三津の印内(いんない)にぬけるルートがありました。

現在は、戸石から岩伏を経由して印内に抜ける自動車道路が整備されていますが、この道路は、明治29年生まれのSさんが村長を務めたときに、仁賀と三津の人たちによって拡張・整備されたもので、それまでは、正司畑を経由して三津に歩いて買い物に出ていたそうです(『ふるさと仁賀』26頁)

このルートは、三津のなかでは比較的規模の大きい印内の城(いまは松尾城と呼ばれていますが、本来の名前はわかりません)の東側に抜けることから、港へ抜けるもうひとつの道として重視されていたのでしょう。



そのルート上に位置する戸石の村はずれ(字「上大谷」)の田んぼの縁のところに、いま多くの五輪塔が寄せ集められています。




戸石





多くは崩れていますが、その数は、空風輪6、火輪8、水輪5、地輪3となり、少なくとも8基の五輪塔が存在したようです。





戸石の五輪塔群





しかし、いずれも粗い花崗岩で作られ、摩滅も激しく、石の質はよくありません。

形からみて、いずれも戦国時代から近世初頭の五輪塔でしょう。

このほか、自然石の墓石が2基、石仏が1基あり、墓所としても使用されていたようです。





戸石





田んぼが拡大されていくなかで、ポツンとここだけ残されているところからすると、古くから五輪塔はこの場所に祀られていたのでしょう。





戸石 戸石





火輪の軒幅は、それぞれ、21.47センチ、22.00センチ、22.17センチ、22.17センチ、23.16センチ、24.63センチ、25.01センチとなり、それほど大きなものではありません。

このうち、小型ながら19.13センチの火輪がこのなかでは、もっとも古そうです。





戸石 420





また下の写真に写る空風輪は、上記の火輪よりも時代がさかのぼりそうです。





戸石





このほかの火輪は、いずれも新しいもので、一番大きな火輪は、軒の下端が水平を作り、両端の反りがきついことからみて、古くても慶長期、おそらく近世初頭のものでょう。

つまり、古いものは小型ながら、このなかでは比較的質がよく、時代が下ると大きくはなりますが、質は低下する傾向がみられます。

質を落しても、大きなものを作りたいという願いが込められているようです。
その大きさなどから見て、造主は、戸石の土豪クラスが想定できます。





戸石 421

火輪幅 25.01センチ




戸石 422

火輪幅 24.63センチ




戸石 423

火輪幅 23.16センチ




戸石 424

火輪幅 22.00センチ




戸石 425

火輪幅 22.17センチ




戸石 426

火輪幅 22.17センチ




戸石 427

火輪幅 21.47センチ





五輪塔のある場所に立って正面(東北東)をみると、500メートルほど先に小高い丘がみえますが(トップ写真参照・赤い屋根の右上)、平たくなっている部分には、かつて寺があったそうです。

また、五輪塔群からの160メートルほどのところにあるSさんのお宅の隣には、かつてお宮があり、いまも前方の田を「ミヤダ」とよぶそうです。

このほか、五輪塔の南側にある山の反対側の谷筋は、ジョウボウダニ(丈房谷)といい、焼き場もあったそうです。

東野にある賀茂神社も、戸石に最初は祀られていたという伝説もあり、ここ戸石には、いまも中世の面影が残されているようです。



戦国時代の戸石村については、古文書からも確認できます。

天文17年(1548)12月26日の荒谷に宛てた竹原小早川家の奉行人某慶俊の安堵状に、「西村莵石・大谷土貢の事、壱貫五百文、四季納所棟別七百文臨時共に、足子一円、惣夫銭臨時共に、其外何も切岩様御判形の辻を以て前々の如く知行肝要たるべきの由候」とあり、戸石と大谷には、上仁賀の荒谷(あらたに)氏の領地がありました。

また、年未詳月日付けの荒谷大蔵入道に宛てた小早川弘平(興景父)書状によると、「といし・大谷人足の事」とあり、人足や小早川家の新年を飾る「正月の松・かし(樫カ)」を負担していました。



この荒谷氏は、小早川弘景が弘平に宛てた置文(15世紀後半)に「弘景の時、出候足洗(あしあらい)も、荒谷などはあべ共に同前にて候」と記される竹原小早川家の家臣です。

ここに記される「足洗」とは、「人の足を洗うような、家臣のなかではいやしい身分」(『中世政治社会思想・上』岩波書店)をさすようですから、荒谷も、はじめは足洗クラスの家臣として、弘景に出仕したようです。

荒谷と併記される「あべ」は、よくわかりませんが、置文では、「あべなどは家もさしてなきものにて候」とも記され、「若衆なみ」の扱いをうけているところからすると、同じく下級家臣として出仕したのでしょう。

なお、『中世政治社会思想・上』(岩波書店)は、この「あべ」について、「竹原市新庄の字に安倍がある。この地を根拠とした家臣か」と記しますが、新庄に安倍の字はありません。


ここで紹介した戸石の五輪塔の造主と推察される土豪は、もしかしたらこの荒谷氏に仕えていたのかもしれません。












最終更新日  2007.07.01 22:24:59
2007.06.08

瀬戸内海の沿岸地域といっても、海岸地帯の村ばかりではありません。

内陸にはいれば、山あいの村がいくつもあります。

どこも高齢者ばかりで、村を離れたかたも多く、すでに廃村となったところも少なくありません。

村の歴史が消える、その動きは、これからさらに加速されていくことでしょう。



竹原市仁賀の山あいにも、こうした村がいくつかあります。

そのひとつ、ある村の山中で古い宝篋印塔や五輪塔の残欠を多数見つけました。

見つけた、といっても、村の人ならよく知る石塔ですが、当初は調査地域にも予定していなかった場所だけに、これは大きな収穫でした。

やはり現地をくまなく歩いてみるものです。






仁賀 宝篋印塔





宝篋印塔は、もとは観音堂(元文5年〈1740〉卯月に再建。棟札あり)のある峠から谷をみおろすように立っていたようですが、現在は、シロヤナギの根本に、崩れ落ちそうな格好で置かれています。

このため、相輪と笠の部分をはずし、木の脇に安置しました(基礎はとても重たいのでそのままです)。

残念ながら、塔身はみつかりませんでしたが、笠や基礎は、なかなか良い造りをしています。





仁賀 宝篋印塔





写真からもわかるように、相輪は、下から6輪目まで残り、上部は欠けています。



〔相輪の計測データ〕(単位はセンチ)
高さ(現状) 28.75(下から6輪目まで現存、上部欠損)
下部請花 高さ4.57 下端径11.58
伏鉢    高さ5.32 最大径12.30(下より2.6の位置で計測)
1輪の幅 1.78 間隔1.42(1輪目と2輪目の間を計測) 




仁賀 宝篋印塔





笠は、上6段下2段で、全体の高さは27.05センチ、軒幅は33.6センチ(隅飾が残る右側を正面として計測)、軒厚3.54センチとなります。

小早川領の笠は、軒幅が33センチ代と26センチ代のものが多いのですが、この笠も、前者のグループに属します。

隅飾の輪郭も4面すべてにあり、丁寧な造りをしています。


竹原小早川氏の氏寺であった法浄寺にあった宝篋印塔(現在は竹原市歴史民俗資料館の敷地内に保存)の笠(上6段下2段、高さ28.7センチ、軒幅33.5センチ、軒厚3.4センチ)とほぼ同じ大きさ(法浄寺のほうがやや高さあり)となり、造塔者は、小早川一族か、その関係者と推察されます。


高さと軒幅の比率は0.81、軒幅と軒厚の比率は0.11、最上段と最下段の幅の比率は0.65、軒幅と隅飾の幅の比率は0.31、軒幅と隅飾の間隔幅は0.35になります。

全体的に造りはよく、段形もすべて垂直に落ちています。

こうした比率や特徴から考えて、14世紀後半にはさかぼる笠とみてよいでしょう。

さきほどの相輪とも一致しますので、両者は、本来の組み合わせのようです。



〔笠の計測データ〕(単位はセンチ)
形状 上6段下2段
高さ 27.05
軒幅 正面33.6 左側面幅33.7 右側面は欠損あるため未計測 軒厚 3.54
各段の高さ 上部下段より順に、2.88 2.95 2.83 2.63 2.88 2.73   
       下部上段より順に、2.71 2.85
最上段の幅 上端13.85 下端13.88
隅飾  突起部高さ9.35(右を計測、現状) 幅10.26(右を計測)
    軒端よりの入り込み0.43  突起部傾斜92度(0.3外傾)
左右の間隔幅11.89 輪郭幅0.96 輪郭厚0.17
二弧輪郭つき。4面すべてにあり。内部は素面。
軒下 上段 高さ2.71 幅 上端26.95 下端26.9
下段 高さ2.80 幅 上端21.66 下端21.35
ほぞ穴 直径6.85 




仁賀 宝篋印塔





基礎は、高さ20.15センチ、幅36.8センチと比較的大きく、これまでの事例で見ると、小早川の一族クラスの宝篋印塔と推察されます。

格狭間も4面すべてにあり、この点は、笠の隅飾の輪郭とも一致します。


時代の特徴がもっともよくあらわれる基礎の各部の比率は、全体の高さと幅の比率は0.55、側面の高さと横幅の比率は0.48となります。

また、側面にある上下の輪郭の幅の比率は1.03、上と左の輪郭の幅の比率は1.32、基礎幅と横の輪郭幅の比率は0.11となります。

こうした比率から見る限り、この基礎は、14世紀中頃にさかのぼりそうです。


基礎の格狭間の花頭形も、上の輪郭線に対し、ゆるやかな斜線で左右に開くB型で、花頭形の内側の茨までの幅(7.2センチ)が左右両側にある二つの円弧の合計幅(5.79センチ)より長い特徴を持ち、脚も内側の茨のさらに内側で切ります。

脚幅は、下端輪郭線の約1/3(0.30)で、南北朝期に登場する様式になります(鎌倉末期は約1/5)。

こうした点からも14世紀中頃の基礎とみて大きなズレはなさそうです。


塔身がなくなっているのが、とても残念ですが、さきほどの笠や相輪も、本来の組み合わせとみてよいでしょう。


ただし、この基礎には、ひとつ大きな特徴がみられます。

それは、基礎の上部の構造が、一般的な、二段式でも、反花式でも、また反花式の簡略形とみられる繰型式でもなく、これまで見たことがない独特の形をしています。

あえていえば、繰型式をさらに省略した様式といえましょうか。


しかし、笠の隅飾の輪郭や基礎の格狭間が4面すべてにあることからすると、予算の関係で簡略化したわけではなさそうです。

この点については、今後の課題です。



〔基礎の計測データ〕(単位はセンチ)
上部形状  繰形変形 側面上端角より6.2センチ入り込み(正面では3.46)
全体の高さ 20.15  上部高さ 2.56
側面の高さ 17.73  幅 正面36.8 左側面37.1 右は木があるため測定不能
格狭間   4面すべてにあり
      輪郭幅 上3.1 下3.2 左4.1 右4.0 縁厚0.49
花頭形 幅25.46 高さ10.5 縁厚0.48  脚高さ0.95 脚幅8.45



この宝篋印塔の周辺には、いくつもの五輪塔の残欠があり、その数は、空風輪2・火輪5(うち1個は砂岩で質悪し)・水輪7・地輪3となります。
宝篋印塔を中心に、少なくとも7基の五輪塔が建ち並んでいたようです。

このほか、ここから数分山をくだった場所にも、同じような宝篋印塔が山肌の小空間に建っていたとのことですが、その後、崩してしまったため、みつけることはできませんでした。

また、宝篋印塔のすぐ近くにある観音堂から、5分ほど山中にはいった場所にも、宝篋印塔が1基あります。
現状は、猪がぶちあたったのか、崩れていましたが、最近まではきちんと建っていたそうです。




仁賀 ドウコウボウ跡付近




相輪が見あたりませんが、最近まではあったそうですから、どこに転がっているのでしょう。

笠は、上5段下2段で、軒幅は25.18センチ。

塔身は、高さ13.61センチ、幅は11.65センチ(中間で計測)、梵字などは彫られていません。

基礎は、繰型式となり、このあたりは、この形が一般的なのかもしれません。

塔身を安定させるほぞ穴が掘られています。

基礎の側面の高さは29.32センチ、幅は17.06センチ、比率は0.58となり、輪郭幅も、上2.244センチ、下2.88センチ、左4.154センチとなり、背面は素面となります。

輪郭の比率は、上下は1.28、上と横は1.85、側面幅と輪郭横の比率は0.24となり、側面比や輪郭比から見ると、16世紀頃の基礎と考えられます。

ただし16世紀末まではくだらず、戦国期でも前半の頃のものではないでしょうか。



写真からわかるように、宝篋印塔の建つ斜面のすぐ下には、平地が広がり、近くに住むDさんによると、むかしここには「ドウコウボウ」(堂光坊)という大きな寺があったと伝え聞いているそうです。




ドウコウボウ伝承地




中央の木の奥(写真正面)にも、多数の五輪塔の残欠があるそうです(肉眼でも数基は確認できます)。


寺の由緒は、まったくわかりませんが、さきほどの宝篋印塔や五輪塔などがある観音堂のとこ
ろまでが寺の範囲になるのかもしれません。

観音堂は、その寺の名残でしょう。


観音堂の近くに建つ宝篋印塔が14世紀中頃のものと考えられますから、ドウコウボウは、南北朝時代には存在していたようです。

そして、戦国期の宝篋印塔や五輪塔が残ることから、ドウコウボウは、この頃までは存続していたのでしょう。

しかも、さきほどの宝篋印塔の大きさからみて、小早川一族クラスの保護を受けていた可能性が高そうです。


小早川とともに栄え、小早川とともに歴史のなかから消えていった、まさに、まぼろしの寺といってよいでしょう。



今回の調査では、五輪塔などの残欠は、草深い山中にあったため、立ち入ることができせんでした。

冬になったら、本格的な調査を実施して、まぼろしの寺の解明に努めたいと思っています。









最終更新日  2007.06.08 16:04:58
2007.05.31
カテゴリ:竹原市の石塔

寄せ集めながらも2基の五輪塔がある仁賀町西谷の満福寺跡(八坂神社)。

五輪塔の残欠ならば、その周辺にも散見します。


寺跡から300メートルほど北東にあるH家の裏には、火輪3、水輪3、空風輪1の残欠があります。




dc091831_edited-1.jpg



少なくとも、3基の五輪塔があったわけで、それぞれの火輪の大きさは、軒幅24.31センチ、25.24センチ、23.34センチとなります。



dc091833_edited-1.jpg

上記の写真の奥にみえる寄せ集め塔。水輪+火輪+水輪


dc091834_edited-1.jpg

水輪+火輪



満福寺跡のむかって左側の五輪塔(火輪幅26.66センチ)と同じころか、それ以降(戦国末~近世初頭)のものと推察されますが、やや小さくなります。

造塔者は、満福寺跡の五輪塔の造塔者よりも、やや下のクラスではないでしょうか。


満福寺跡から南西200メートルほどのS家の裏山にあるS家の墓所にも、寄せ集めの五輪塔が3基あります。




dc0918141_edited-1.jpg

dc0918132_edited-1.jpg



写真のように、空風輪3、火輪4、水輪1、地輪1となり、少なくとも4基の五輪塔があったようです。


H家の裏にある五輪塔とほぼ同じ、戦国末から近世初頭のころのものと思われますが、空風輪をはじめ、形があきらかに異なることから、同世代ではなく、数代にわたって造塔されたる五輪塔と考えられます。

空風輪は、むかって右のものが古く、火輪も、右側(軒幅中央27.03センチ)、左側(幅23.4センチ)、中央(24.5センチ)の順になるようです。

このうち右側の火輪は、この界隈では最大の火輪になりますので、H家裏の五輪塔の造塔者よりは、上のクラスと考えられます。

しかし、満福寺跡の五輪塔(右側)ほど古いものではありませんから、満福寺跡の五輪塔の造塔者よりも新しく、おそらく戦国末期に台頭してきた家が建てたものでしょう。

なお、左の火輪の下にも、もう1基火輪がありますが、摩滅が激しく、大きさも小型の火輪になります(火輪幅20.0センチ)



測定データ(単位はセンチ)

空風輪(右側) 全体の高さ21.0 空輪最大径13.97 風輪最大径13.97
空風輪(中央) 全体の高さ33.9 風輪最大径19.7 
空風輪(左側) 全体の高さ23.87 風輪最大径14.2
火輪  
 右側 軒幅27.03(中央) 26.51(下端) 26.93(軒上端)高さ18.4
    上端13.58 軒上端摩滅 ほぞ穴径7.76
 右側 軒幅24.5(中央) 高さ21.8
左側(上) 軒幅23.4(中央) 高さ14.7
左側(下) 軒幅20.0(中央) 摩滅激しい
水輪 最大径30.9
地輪 幅(上端)28.9 高さ8.5

中央の五輪塔の地輪にみえるものは自然石



このほかS家から100メートルほど南西にあるK家の墓所にも五輪塔の残欠があります。



dc0918142_edited-1.jpg



写真ではわかりにくいのですが、空風輪1、火輪1、水輪2、地輪1の存在から、少なくとも、2基の五輪塔があったようです。

このうち火輪(軒幅28.1センチ×22.2センチ)は、摩滅も激しく、左右の反りが強く、下端が水平であることなどからすると、比較的新しく、近世初頭のものでしょう。

ここは墓所とはいえ、K家が離村しているため、参る人もいなくなり荒れています。

離村者が増えると、このように祖先の墓も忘れ去れていくのです。

いま村には、こうした忘れられた墓所が各地に見られます。

村の衰退を物語るあかしです。


  
以上、満福寺跡とその周辺には、少なくとも13基の五輪塔があったことを確認できました。

宝篋印塔は一基も確認できませんから、小早川の一族クラスのものは、いなかったのでしょう。

また満福寺跡にある五輪塔がこのあたりでは比較的古いものになりますが、あとは戦国末以降のものとなります。

こうした点から、満福寺跡にまつられている五輪塔の主が西谷にいた領主クラスのもので、他の五輪塔の主は、その領主に随う従者の家という想定もできるかもしれません。









最終更新日  2007.05.31 13:04:18
2007.03.24
カテゴリ:竹原市の石塔

竹原市仁賀町の西谷に鎮座する八坂神社の境内には、かつて萬福寺というお寺がありました。



仁賀 萬福寺跡に残る薬師堂

萬福寺跡に残る薬師堂




寺の由来など、詳しいことはわかりませんが、楽音寺(がくおんじ)に奉納された大般若経の奥書に「折手同竹原之庄、西谷萬福寺頼勢、如是各折本 于時永禄三年十月二日」とあり、小早川隆景の時代には存在したことが確認できます(楽音寺文書)。

楽音寺は、三原市本郷町にある竹原小早川氏ゆかりの寺院で、14世紀後半から15世紀中頃の院主職(寺務一切をつかさどる僧侶)には、頼真、ついで頼春という名の僧侶がついていました。

永禄3年(1560)に萬福寺の住職だった頼勢も、院主と同じ「頼」の字をつけることから、楽音寺ゆかりの僧侶だったのでしょう。

だとすると、萬福寺は、楽音寺と同じ真言系の寺院だったようです。





仁賀 萬福寺跡より

満福寺跡からみた仁賀の風景




寛保3年(1743)の『賀茂郡仁賀差出帳』には、すでに「古寺跡、番僧も御座無く候、本尊薬師如来秘仏ニて御座候」とあり、江戸時代には無住となっています。

江戸初期の慶長年中に焼失し、その後、無住となったという伝承もありますが、おそらく福島正則の入部を契機に廃寺となったのでしょう





仁賀 萬福寺跡に残る薬師堂

仁賀 萬福寺跡




本堂は、写真に写る薬師堂の画面左側の空き地に植えられている桜の木のあたりにあったと伝えられています。

ただし、『賀茂郡仁賀差出帳』には、「堂のそうじ等、近所の百姓仕り候、村惣仏ニて御座候」ともあり、その後も村人の信仰を集めていました。

トップの写真に写る仁王像も、文政10年(1827)3月吉日に建てられたものです。






仁賀 満福寺跡





現在は、薬師堂だけが残っていますが、仏さまは、村内の別の場所に移してお守りしています。

境内には、権現社と八坂神社が鎮座していますが、これは『賀茂郡仁賀差出帳』に記される「権現」と「牛王」の「かやぶき」のお社にあたるものでしょう。





仁賀 萬福寺跡に鎮座する八坂神社


八坂神社




境内の近くには、いま2基の五輪塔が祀られています。

地元では、小早川氏にさきだって、鎌倉初期からこの地を支配していた後藤兵衛実元の末裔、四代篠原伯耆守元次、五代篠原安芸守の墓と伝えられています(安楽寺旧記)。





五輪塔




五輪塔の年代は、鎌倉時代までさかのぼりませんから、この伝承は、のちの創作にすぎません。

しかし、初代にあたる後藤兵衛とその子、後藤備後三郎実金の墓は、東野の安楽寺にあったという伝承とあわせると、前回の記事でも指摘したように、仁賀と東野の深いむすびつきをうかがわせる話として興味をひきます。





寄せ集めの五輪塔





これは、むかって右側の五輪塔です。

水輪を二つ重ね、さらに火輪の上にも水輪を積み上げています。

水輪は、左側の五輪塔のものを含めて4個残ることから、少なくともここには、4基の五輪塔があったことになります。






仁賀 萬福寺跡 五輪塔





左側の五輪塔も、すべてが揃うといっても、おそらく異なる五輪の各部をもって組み上げたものでしょう。

火輪の形状からみて、いずれも戦国期か、それ以降のものとなりますが、左側の火輪(軒幅26.7センチ)が、火輪の下端をほぼ水平とし、軒の端を反りあげるのに対し、右の火輪(軒幅23.8センチ)は、軒の反りもゆるく、左の火輪よりも古いかたちとなります。

戦国期の火輪だとしても、16世紀前半か、あるいは15世紀までさかのぼるかもしれません。





火輪(右側)

火輪(右側)


火輪(左側)

火輪(左側)





なお、この周辺には、宝篋印塔は、残欠をふくめて確認できません。

このことからすると、この寺は、小早川一族ではなく、その家臣クラスのものによって維持されていたと考えられます。




測定データ(単位はセンチ)

空風輪1  全体の高さ25.8
空輪 最大径19.0 下端径16.1
風輪 最大径20.4 ほぞ径5.0
火輪2   
 むかって左 長さ(軒)26.66 高さ17.8 上端10.717 軒厚4.982 ほぞ穴径5.982 
 むかって右 長さ(軒上端)23.737 (軒中央)23.794 (軒下端)23.812
 高さ13.164 上端10.383 軒厚3.955
水輪  むかって左 最大径31.1  むかって右 下から 最大径28.5 30.1 26.6
地輪  長さ26.838  高さ20.8  








最終更新日  2007.03.24 17:55:23
2007.01.15
GoogleEarthの新ヴァージョンに、竹原小早川氏の居城である木村城周辺の衛星写真が加わりました。

衛星写真のターゲットは広島空港ですが、おかげで竹原小早川氏の本拠地周辺や沼田小早川氏の本拠地周辺の地形が手にとるようにわかります(地形どころか、拡大すれば1軒ごとの家のかたちまですべてわかります)。

さっそくGoogleEarthを使って、竹原小早川氏の本拠である木村城周辺を空からのぞいてみましょう。


木村城周辺の衛星写真 東野・新庄・西野・仁賀


画面の東側に木村城、その北側に小早川氏の氏神である八幡社(僧侶〈そうず〉八幡宮)、さらにその北側、国道二号線沿いに氏寺の法浄寺跡があります。

小早川氏の館跡は、はっきりしませんが、「谷から広がる中世」(『専修史学』32号・2001年)のなかで詳細に論じたように、城の西側にある手島屋敷とみてほぼ間違いないでしょう。

木村城からみると、画面右から2本目の道路のつきあたり、右手側にみえる大きなお屋敷が手島屋敷になります。

また、画面の左手にみえる谷が青田谷です。


木村城よりのぞむ東野



いま一度、衛星写真を見ると、木村城の北側にも、茶臼山〈ちゃうすやま〉という城跡があります。

木村城ほどの規模ではありませんが(主郭は17メートル四方)、東西の道と南北の道を押さえる位置にあり、小早川一族か、重臣クラスの城ではないかと考えています。

木村城の西側は、賀茂川が流れていますが、この川は、北から南へと流れ、やがて瀬戸内海に注ぎます。

その源流は、画面左側の萬福寺跡の印がある西谷(にしたに)地区のさらに南側となり、西谷を蛇行しながら、やがて北側を東西に走る国道2号線を横切り、山につきあたると、いっきに東に流れをかえて、手島屋敷の背後の山(本城山)にそって流れ、茶臼山城の南側あたりで、大きくカーブを描きながら、木村城下と想定される東野(ひがしの)方面に流れてきます。

このため、いまも、東野から西谷へむかうには、この賀茂川に沿って作られた道路を使い、大きくUの字を描くように迂回して行きます。

しかし、賀茂川が西谷から山にぶつかって東に角度をかえるあたりは、むかしは川の氾濫源と推察され、足場も悪かったことでしょう。

橋ができる前は、川には石が置かれて、それを渡って、東西に走る山陽道に出たそうです。

事実、この近くにある簡保の宿の温泉を掘るためにボーリングをしたところ、一番下に岩盤があり、その上の地層には何度も洪水をうけた形跡がみられたといいます。

したがって、道路が整備される以前は、たがいに山の道―つまり、城のある東野側からは、青田谷や、賀茂神社の南側にある柏野(かいの)の谷を通って、交流をもっていたようです。

しかも、その関係は、深いものがありました。


この土地は、中世、賀茂社の荘園「竹原荘」だったことから、賀茂神社が祀られていますが、いま東野にある賀茂神社の氏子は、西谷側にも広がっていました。

また、賀茂神社の境内に祀られている八幡宮も、もとは、西谷にあったという伝承が『国郡志御用ニ付下しらべ書出帳 賀茂郡竹原東野村』(文政2年)に記載されています。

「先年ハ、大明神ハ御山東ノ谷、八幡宮、西の谷ニ有之、然ルニ元和六申年五月廿日より廿一日、大洪水ニ山抜、両社共流失、依而再興、両社一宇ニ相成申候」

これによると、元和6年(1620)5月21日から22日にかけての大雨で山が崩れ、東の谷(柏野の谷)の賀茂社と、西の谷の八幡宮が鎮座する山がともに崩れたため、八幡宮を東の谷に勧請して賀茂社といっしょに再興したというのです。

この八幡宮があったと伝えられている場所は、画面からわかるように、賀茂社の南側にある谷をのぼって峠をこえ、西谷側に出た正面の山あたり、イモガザコとよばれる場所になります。


木村城周辺の衛星写真 東野・新庄・西野・仁賀



その西谷の風景です。


西谷


東野の柏野の谷から続く道は、画面右手にみえる山のむこうがわにおりてきます。

その山すそと対置するようにみえる左手の山裾周辺が、むかし八幡社があった場所と伝えられています。

このほか、『安楽寺旧記』(成立年未詳)によると、賀茂社は、「都之鴨より御勧請、当所へつきの時、芋カ之大石の上に御腰休、夫より東ノ谷へ御遷宮在候」という伝承もあったようです。
これによると、賀茂社そのものも、西谷から勧請したということのようですが、このあたりはどこまで真実を伝えているのか、はっきりしません。

ただ、こうした伝承がうまれるところに、両者の深い結びつきを想定できます。

東の谷、西の谷という呼び方も、両方の谷が密接にむすびついていたことに由来するのでしょう。

西谷に住む古老のかたによると、西谷の北側(賀茂川の氾濫源地域)の村との交流はあまりないが、東野との交流はあるといいます。

いまならば、山の反対側どうしの村との交流は、考えにくいことですが、むかしは、山の道で結ばれた深いつながりがあったのです。


そして、この西谷を通る道は、さらに画面の南方向に進むと、山越えをして、安芸国の中心地、西条に抜けました。

西条は、戦国時代、山口の大内氏が安芸支配のために築いた鏡山城があり、大内氏の重要拠点でした。

こうした点からすると、大内方として行動する小早川氏にとって、木村城から柏野の谷を抜けて西谷に出るこの道は、西条に通じる重要な道だったのではないでしょうか。








最終更新日  2007.01.16 00:04:54
2007.01.07
カテゴリ:本の紹介

謹賀新年

本年も「中世武士団をあるく」 よろしくお願いいたします



昨年は仕事に忙殺され、秋から更新がとまってしまいました。

最大の理由がこの本の執筆です。




『戦国争乱を生きる 大名・村、そして女たち』


『戦国争乱をいきる 大名・村、そして女たち』



さまざまなアクシデントがありましたが、昨年末、なんとか無事に世に送り出すことができました。

2005年に放送されたNHKカルチャーアワー「戦国争乱の群像」のために書き下ろしたガイドブックがベースです。

このため、章立てをはじめ、基本的なところはかわっていませんが、大幅に内容を追加し、新たな研究成果もとりいれたため、ページ数にして、およそ1.5倍に増えています。

おかげさまで販売状況も堅調に推移しており、ガイドブックよりもさらにわかりやすくなったという声も届いています。



内容については、編集者のかたがうまくまとめてくださった本の紹介文を掲載しましょう。


戦国時代は「力量」の時代でもあった。
室町幕府を中心とした秩序が崩壊し、各地に割拠した群雄は、お互いに覇権をきそいあった。
しかし、戦国時代の主役は英雄たちだけではなかった。
崩れた中央政府のかわりに、地方が力を得て、新しい秩序を形成する時代でもあった。
大名を支える家臣や村の人々や女たちもまた時代の主役であり、西国への幹線経路としての瀬戸内海を中心に活躍した海賊等も時代の担い手であった。



第1章 戦国大名の実像
 力量の時代 大名への道 君は船、臣は水にて候

第2章 大名の戦場・村人の戦場
 戦場の掠奪 生きるための戦場 雑兵に支えられた軍団 豊饒と平和を祈る 戦う村

第3章 父の偉業・子の重圧
 父の期待 重圧の日々 未来を托す「三本の矢」 隆元の願い

第4章 素顔の戦国武将
 愛しているのは源助だけだ―武田信玄 大酒を飲むな―毛利元就
 聞きなさい、父の仕合せな物語を―吉川経家

第5章 乱世を生きる女たち
 夫を改める妻 妻の力・母の力 猛き女たち  

第6章 海賊衆の世界
 海の秩序を守る海賊 台頭する三島村上氏 潮に守られた海の城 能島の海

第7章 秀吉襲来
 大名の危機管理 村の危機管理




内容は、大名の戦国、村の戦国、女たちの戦国、そして海賊衆の戦国と、多岐にわたりますが、飢饉・戦乱・疫病が毎年のように襲う戦国時代、その過酷な時代を人々はどう生きたのか、これがこの本をつらぬく視点です。



戦国時代は大好きだけど研究者の書いた本は難しくて読まないというかた

歴史小説は好きだが研究者の本はどうも…と思われているかた

さらにはゲームで戦国時代にはまっているかた

また、手軽に戦国社会の実像を読み解きたいかた

こうした方々を念頭に、できるだけわかりやすい記述を心がけました。

小説やテレビとは異なる戦国社会の実像、一度、体験してみませんか。



NHKライブラリー(NHK出版)の一冊

定価は970円+税となります



なお286頁の7行目に誤植がひとつあります。

ここは、「に達いなかった」ではなく、「に違いなかった」になります。

お手数ですが、訂正のうえご一読ください。



「中世武士団をあるく 安芸小早川領の復元」もまもなく再開します。








最終更新日  2007.01.07 12:59:36
2006.09.03

講演会のお知らせです



今年も、夏の調査にあわせて、その成果を市民のかたに還元する講演会をおこないます。

今年は、竹原市内に多く残る石塔(宝篋印塔・五輪塔)を通して、地域の歴史を復元していく手がかりをさぐります。

竹原市民に限らず、どなたでもご参加できますので、ご関心のあるかたは、ぜひいらしてください。

当日のご参加も可能です。



日時 2006年9月10日 日曜日 午後1時より 約2時間(若干延長あり)

場所 広島県竹原市 竹原勤労青少年ホール 3階(市役所裏)

主催 竹原市郷土文化研究会

後援 竹原市教育委員会

入場無料(ただし資料代の材料費として200円かかります)



以下は、講演会のパンフレットに掲載した紹介文です



小早川と竹原の歴史をさぐる 第3回

『石塔から読みとく中世の竹原』



竹原は、安芸国の中世武士団として名高い小早川氏のふるさとです。

城は新庄町にあり、隣接する東野町も城下の中心でした。いまも市内を歩くと、随所に中世の人々が生きたあかしをみつけることができます。

なかでも宝篋印塔や五輪塔の数は、全国屈指! 

その多くは小早川氏やその家臣が建てた供養塔あるは墓塔と考えられますが、歴史の資料としても竹原の大切な財産です。

そこで今回は、市内各地に残る宝篋印塔や五輪塔の時代的な特徴やその見方を紹介し、石塔を通して中世の竹原を復元してみましょう。在屋と木谷をむすぶ歴史の道についても紹介します。

ふだん見慣れた石塔を通して、中世という時代の姿を思い描いてみませんか。





葛子の宝篋印塔







最終更新日  2006.09.03 12:43:38
2006.08.03

戦国時代、「日本最大の海賊」と呼ばれた村上武吉。

その本拠は、芸予諸島のほぼ中央に位置する周囲800メートルほどの能島になります。

島全体が城として築かれ、早い潮流と上陸地点の少なさから、高い防禦性を誇っていました。

しかし日常生活をおこなう上で欠かすことのできない飲料水は、300メートルほど対岸の大島に頼っていました。

大島には、集落も形成され、寺や墓も大島にありました。

その大島に、いまも土地の人が「コウガ屋敷」と呼ぶ一画があります(宮窪小学校の後方一帯、現在の海岸線より約500メートル内陸)。

コウガの意味はわかりませんが、村上氏ゆかりの場所と伝えられ、2004年の発掘調査でも、16世紀後半から17世紀初頭にかけての瓦などが大量に出土しています(『瀬戸内海西部閉鎖海域における海民文化形成史の考古学的研究1』)。

コウガ屋敷の後方(西側)には城跡もあり、その南側には「カジヤダ」(鍛冶屋田)の地名も残ります。

また元禄2年(1689)の検地帳には、「ばんじよ給」(番匠給)の地名も記載され(『しまなみ水軍浪漫のみち文化財報告書』)、職人集団の存在をうかがわせます。

また、カジヤダの近く、コウガ屋敷の南西にある証明寺跡には、14世紀中頃とみられる宝篋印塔が残り、北東の海南寺の墓地にある15世紀頃のものとみられる宝篋印塔も、もとは証明寺にあったものを移したものと言われています(移転に関しては『宮窪町誌』298頁による)。

こうした点からすると、「コウガ屋敷」から「城山」一帯に、領主の空間がひろがり、その南西に信仰の空間が存在したのではないでしょうか。

能島村上氏の日常の生活空間も、能島ではなく、対岸の大島にあった可能性が高いと考えられます。





証明寺跡よりコウガ屋敷方面をのぞむ

証明寺跡より、城跡(画面左側の家が建つあたりに見える小丘陵)・コウガ屋敷(画面右端の茶色い屋根の建物から道路付近)・海南寺(コウガ屋敷の奥、右の電柱のすぐ右脇に見える屋根)・瀬戸内海をのぞむ








最終更新日  2006.08.03 23:13:41
2006.07.17


このところ、講義・講演・原稿執筆と過密スケジュールが続き、ブログの更新がとまっています。

そんななか、石塔の調査は、順調に進んでいます。

春には、尾道・竹原・安芸津・大島(今治市)地区を中心に調査をおこない、いくつかの新しい発見もありました。

なかでも、竹原小早川氏の本拠となる竹原市新庄・東野地区から、在屋の谷を経由し、外港として機能した安芸津へのルート(歴史の道)解明に、重要な手かがりとなる「武士の墓」と呼ばれる五輪塔群や、小早川家の家臣磯兼の屋敷跡とみられる場所を確認できたことは、大きな成果のひとつでした。

その成果の一部は、6月8日の中国新聞でも大きく取り上げられています。





中国新聞2006


奥在屋にある武士の墓

奥在屋の山腹にある「武士の墓」とよばれている五輪塔群の現状

歴史の道を解明するうえで、大きな手かがりとなる





今年の夏(9月上旬)も、これまでの成果を踏まえて、小早川領内の石塔調査を予定しています。

9月10日には、竹原市内の会場にて「石塔から読みとく中世の竹原」(仮題)という講演も予定しています。

お近くのかたは、ぜひご参加ください。

会場・時間などは、市の広報にも掲載される予定ですが、このブログでもあらためてお知らせします。



えんぴつ



ただいま『戦国争乱を生きる』という単行本を執筆中です(さきに刊行された『戦国争乱の群像』の増補・改訂版です)。

当初の原稿締切り日を大幅にすぎているため、その作業にもうしばらくは没頭しなければなりません。

この仕事が一段落したら、このブログも再開しますので、いましばらくお待ちくださるようお願いいたします。








最終更新日  2006.07.17 15:13:14

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