2005/07/31(日)18:02
五輪塔を旅する その1
宝篋印塔ととともに、中世を代表する石塔が五輪塔です。
五輪塔は、石のほかにも、金属、木、水晶などで造られましたが、このうち石造の五輪塔は、12世紀後半に登場し、鎌倉時代の後半には形が整って、その後、供養塔や墓標として、広く各地で造られました。
その形は、すべては、空・風・火・水・地の五大からなるという仏教の思想に基づくもので、五輪塔の名称も、この五大思想に由来します。
このため、五輪塔の各部は、下から、方形の土台を「地輪」(じりん)、円形の塔身を「水輪」(すいりん)、笠を「火輪」(かりん)、その上の半円形を「風輪」(ふうりん)、さらにその上の宝珠形の「空輪」(くうりん)と呼んでいます。
このうち、風輪と空輪は、ひとつの石で造ることが多いため、「空風輪」とも呼んでいます。
現在までのところ、五輪塔は、中国や朝鮮半島などでは見つかっていません。
この点から、五輪塔は、日本の社会のなかで創りだされた、日本独自の石塔であると考えられています。
写真は、箱根の芦ノ湖近くにある五輪塔です。
このうち一番右側の五輪塔は、地輪に「永仁三年」(1295)の銘があり、高さは2.3メートルあります。
左側の2基は、ほぼ同型で、高さもほとんど同じです(2.58メートル、2.55メートル)。
おそらく、同時期に造られたものでしょう。
その形から、右側の永仁3年の五輪塔より、少し新しいものと考えられていますが、それでも鎌倉時代後期の特徴をもつ、たいへん貴重な五輪塔です。
いずれも、重要文化財に指定されています。
なお、この3基の五輪塔は、ガイドブックなどでは、虎御前の墓(永仁3年塔)、曾我兄弟の墓として紹介されていますが、この伝承は誤りです。
永仁3年塔の地輪に「地蔵講結縁衆」と彫られているように、これは地蔵信仰に基づいて造られた五輪塔であり、曾我兄弟などとは、まったく関係がありません。
実は、このあたりは、関東でも有数の地蔵信仰の霊場であり、周辺には、地蔵菩薩磨崖仏や宝篋印塔(相輪は後世の別物)が散在しています。
あわせて見学されるとよいでしょう。
ちなみに、鎌倉時代、この規模の五輪塔を製作するとしたら、いったいいくらかかったのでしょうか。
詳しくはわかりませんが、「厚七寸」ほどの反花座(五輪塔をすえる台座)の価格は、「一貫五百文」かかったと記す古文書があります(倹覚書状『金沢文庫古文書』)。
たいへん大雑把な数値ですが、鎌倉時代の1貫500文は、現在ならばおよそ9万円。
それが7寸の台座の部分だけだというのですから、8尺5寸の五輪塔を造るとしたら、100万円近くはかかると考えてよいでしょう。
宝篋印塔よりは安く造れる五輪塔ですが、それでも、誰もが簡単に造れるものではなかったのです。