中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

2006/02/10(金)16:32

小早川家の御館周辺を歩く その1

沼田・小早川家領の原風景(12)

小早川氏の御館跡と考えられる本郷小学校の周辺を、もう少し詳しく紹介しましょう。 先日も紹介したように、画面の中央に写る学校が本郷小学校、その後方にどっしりと構える山が、小早川氏の本拠となった高山城です。 画面では少しわかりにくいのですが、山陽本線の手前にも、線路に並行する道路があります。 その道を、白い屋根のお宅のところで左折すると、200メートルほどで、西国街道沿いに形成された本郷の町の中心部にでます。 その左折部分のところで、線路を背にして写したのが、この写真です。 写真ではわかりにくいかもしれませんが、道は、西国街道に向かってゆるやかにくだっています。 西国街道につきあたった左側には、恵美須神社(江戸時代の名称は「胡堂」)が鎮座し、この界隈が町の中心であったことをいまに伝えています。 ただし、中世の町も、江戸時代と同じ位置にあったのか、このあたりは少し慎重に考えておく必要があります。 文政2年(1819年)の下調書出帳によると、「町裏 祇園社」とあり、町の裏側に祇園社があったことが記されています。 この祗園社がどこにあったのか、いまはわからないのですが、中世の町場に祀られることが多い祇園社が江戸時代の町の裏側にあったということは、中世の町と江戸時代の町は、少しずれていたのかもしれません。 とうぜん西国街道も、いまとは異なる道筋を通っていたのでしょう。 ただし、中世の町が、江戸時代の町と異なる場所に形成されていたとしても、山陽本線の線路より南側の低地にあったことは、間違いありません。 このように、中世後期の本郷は、西国街道沿いに町の空間、その少し高台に領主の空間が形成されていたのです。 いま町場から小学校方面に向かうには、一度、線路の手前で左にまがり、そのすぐ先の踏切を渡らなければなりません。 その踏切のところで撮影したのが、この写真です。 右手に小学校が見えます。 踏切を渡って、右にまがったところに正門、直進すると、道は次第に傾斜を強めながら、高山城のある城山へと続きます。 しかし、大正末年頃の地籍図を見ると、町場から小学校に向かう本来の道は、線路を斜めに横断して左手方向にすすんでいました。 そして、この小学校の左脇の道に通じていたのです。 こうしたことからすると、町(恵美須神社脇)から小学校へと北上するこの道は、中世の町場と御館とを南北にむすぶ重要な道として、小早川の時代から使われてきた、歴史ある道だと考えられます。

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