|
カテゴリ:カテゴリ未分類
確かなデータを基にしたわけでもなく、
断定はもちろん出来ないのだけれど、 両親に「好き嫌い」が多い家庭で育った子には、 「好き嫌い」が激しい子が多いように個人的には思う。 例えば食べ物。 単純に考えて、料理を作る人(母親でも父親でもいいけれど)が嫌いなものが家庭で食卓に上ることはあまりない。無意識のうちに嫌いなものを使わないようになるからだろう。 食べ物に限らず、何が好きで何が嫌いでということはあくまでもその家庭、 あるいは個人の自由であるから、他人がとやかく言えることではない。 ただ僕は、 嫌いなものがいっぱいある人の人生と、 好きなものがいっぱいある人の人生とでは、 生きる楽しさが「かなり違う」のではないかな、 そんな風に思っている。 好きになるのにはさして理由はいらないように思うが、 嫌いになるのには何らかの理由があると思われる。 論理的な理由、生理的な理由、どちらもあるだろう。 ただ、好きになったものに対しては大抵「深く、広く」追いかけていくものだから、 好きな理由も明確になっていくのだろうが、 嫌いになったものに対しては、もうそれ以上は追いかけていかなくなるし、 排除しようとまでするだろうからおそらくはそれでお終い。 好きから嫌いへ。 そして嫌いから好きへ。 この2つはAからBへという図式は同じであるが、 それこそ天と地、月と鼈、水と油ほどの違いがある。 好きから嫌いへは、自分の中で変換していくものだが、 嫌いから好きへは、自分からは変換していき難いものだ。 好きから嫌いへは一瞬あれば事足りるが、 嫌いから好きへはそうはいかない。 嫌い→好きじゃない→嫌いじゃない、という紆余曲折から、 ようやく好きというところにまで辿りつく、ように思う。 物事を好きに近づけていくこと。 それが僕の仕事のように考えている。 アレは好き、コレは嫌いという単純な二元論的思考でしか考えられない子供(たまに親も)に対して、同じように二元論で対抗したところで結局はそれは単なる自分の考えの押し付けにしかならない。仮に「結果」だけに限定して考えればいいのかも知れないが、根源的な解決にはならないように思えてならない。だから私はなるべくそうはしないようにしている。 僕にも好き嫌いは少なからずある。 ただ、そのどちらに対しても「力ずくで排除しよう」とはしない。 なぜなら嫌いなものに対して嫌いだといったところで、 嫌いなものが雲散霧消するわけでもないし、 腹が立つか、あるいはブルーな気分になるくらいが関の山だと思うからだ。 それに、嫌いなものに対して語っている自分の顔は醜いと思うし、 そんな自分の顔を見ている他人は面白かろうはずもないだろう。 だから僕は仕事に限らずというか、全てに対してそう考え、生きている。 嫌いなものに対して過剰反応してしまうのは、 人間の生理的欲求であるのかも知れないが、 僕はそれは先天的なものというよりは、 むしろ後天的なものであるように思えてならないのだが、 まぁ、どちらでもいいのかもしれない。 とりとめもなく書いてはみたけれど、 人それぞれ色々な考え方、生き方がある。 誰もが同じようである必要なんてないし、 みんな違って、みんないい、 それでいいのではないだろうか。 どうしても嫌いなものがあるのなら、 いちいち腹を立てるよりも、 華麗にスルーしていればいいのではないだろうかと僕は思うのだが、 怒りがパワーの源になる人もいるのだろうから、 こんな私の戯言も余計なお世話なのかも知れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 26, 2018 08:44:58 PM
コメント(0) | コメントを書く |