カテゴリ:9 天孫降臨と笠沙之御前
猿田彦は鳥取県中部に土着の縄文人であり、徐福集団(天孫族)に協力していた。
金刀比羅神社(由良町由良宿)、松神神社(下北条村松神)、田村神社(下北条村島)、三輪神社(下北条村土下)、船内神社(上北条村下古川)、山根神社(西郷村山根) 猿田彦一族の本拠地は田村神社(下北条村島)のあたりである。饒速日命を鏡ヶ成に迎えに行かせたのは父の大物主(天忍穂耳)である。その時、天忍穂耳は関金町耳で待っていた。 饒速日の降臨は、江府町江尾神社→江府町下蚊帳→江府町鏡ヶ成→野添→神田神社→日吉神社→倉吉八幡神社のある哮峰→倉吉市夏谷のルートであった。猿田彦はさらに哮峰から船で天忍穂耳(大物主)と一緒に大国主の本拠地の北栄町茶臼山の東の海に至った。天忍穂耳(大物主)が本拠地にした北栄町下神の三輪山の隣の松神を本拠地にした。大国主と4伴諸を長瀬高浜(多芸志)に案内したのも猿田彦であった。 饒速日が亡くなったので、邇邇芸が蒜山高原の加茂神社から関金町の矢送神社に降臨した。邇邇芸は蒜山の長田神社→加茂神社→関金町の矢送神社→上福田の楯縫神社→北栄町上種の大宮神社のルートで降臨した。猿田彦は邇邇芸を北栄町上種の大宮神社に案内して、天太玉と稚産霊を天照大神と月読命がすでに降臨していた伊勢(琴浦町中尾)に案内した。 天太玉と稚産霊が降臨した中尾第一遺跡や伊邪那岐・伊邪那美が降臨した松ヶ坪遺跡や玉祖命が降臨した長瀬高浜遺跡において縄文晩期と弥生前期の遺物が同時に見つかっている。これらは、天孫族に協力していた縄文人がいたということである。この縄文人たちは猿田彦一族であった。後(紀元前160年頃)に長瀬高浜遺跡の巨大4本柱(直径2.5m前後)の高床式建物(SB40)を建てた。
2 縄文海進ピーク時の鳥取県中部の海岸線 倉吉住吉神社の前の案内板には「このあたり一帯が入り江であった時」と書いてあるのでその状態になるのは海抜20mに海面があった時(縄文時代)であり、鳥取県中部の海岸線はこのようになる。蜘ヶ家山と土下山周辺からは旧石器時代・縄文前期・中期・後期・晩期の遺跡や遺物が発掘されている。鳥取県中部には旧石器時代から連続して人が住んでいた。
3 北条町(現北栄町)の遺跡(島遺跡発掘調査報告書「位置・環境」より) 北条町は鳥取県の中央部を流れる天神川を境にして、東は羽合町、西は大栄町、南は倉吉市と接しており、北部は日本海に面している。 4 島遺跡は遺物がほとんどであり遺構は見つかっていない。島遺跡の場所は海抜5mくらいであり、縄文時代は海の底であった。流土で流されたか準王一族がここを襲ったときに捨てたものと思われる。縄文人の遺構はまだ発掘されていないが、周辺の丘陵地にあるはずである。鳥取県中部の蜘ヶ家山と土下山に縄文人が住んでいた。縄文前期・中期・後期・晩期の遺物が島集落や米里集落から発掘されている。 この蜘ヶ家山と土下山に住んでいた縄文人は猿田彦一族であった。徐福一行がこの地に到着してからイザナギに頼まれて徐福一行に協力していた。猿田彦は土着の縄文人であったから、徐福集団の道案内もし、定住できるように協力していた。「天津御子の天之御巣の壮大な構えの屋根の高い立派な宮殿を築いた」(古事記)のも猿田彦一族であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.01.05 10:04:53
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