カテゴリ:15 百済王12代から45代までの倭国王
天武天皇の后・妃・嬪・宮人について 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)はおかしいと思われる部分も多くありますが同感な部分を引用します。 1 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)より (1)鎌足は、暗唱できるほどに中国の古い兵法書「六韜」(りくとう)を愛読していた(藤氏家伝)。 この「六韜」には例えば、 「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば 宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」とある。これは「鎌足」が天武天皇に実行している。 また「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」とある。これは「不比等」が天武天皇・高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇に実行している。 この「六韜」の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆく。 (2)平安時代は政治・社会が六韜精神で運営されていた。 都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが、そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。 自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、 庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。この当時は検非違使という現在の警察にあたるものはありましたが、 正式には、法律に定められていない組織でした。それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。 そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。これが、藤原政権のやっていることです。要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。 平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。 おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。 何しろ、藤原氏は聖徳太子が示したようなビジョンを持ちません。国をよくするという考え方を持つことはできなかったでしょう。 六韜主義一本やりで、政権を奪い取ったわけですから、ひと言で言えば、大和朝廷を私物化したわけです。その後の荘園制度を見れば、 このことは一目瞭然です。 2 私見 (1)天武天皇は額田王と尼子娘(どちらも出身は鳥取県西部)を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。日本書紀は天武天皇の即位を673年とするが、十市皇女(653年生)高市皇子(654年生)より天武天皇の即位は蘇我倉山田石川麻呂天皇の死亡年の649年と思われる。 (2)660年百済国は滅亡し百済王朝は倭国に亡命した。鎌足は新羅の後ろには天武天皇がいることを知っていたので「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」を実行した。660年大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。北栄町曲の後宮にいたカヂ媛娘もこのころ天武天皇の宮人となる。 (3)倭国から奈良へのルート 羽曳野市野中寺の仏像台座框に「丙寅年(666年)の4月中宮天皇が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である」との銘文が刻まれている。中宮天皇とは奈良滞在中に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が造った斑鳩の中宮におられた天武天皇のことである。 栢寺は白鳳時代に総社市にあった。天武天皇の病気平癒を請願するのがなぜ吉備の僧侶なのかと疑問に思われるが、総社市の栢寺は伯耆国の寺院(大御堂廃寺、大原廃寺、斉尾廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺など)と同じ頃に天武天皇が創建したものである。天武天皇は奈良に行くのに倉吉から東ではなく一旦西の琴浦町斉尾廃寺と淀江町上淀廃寺と伯耆町大寺廃寺に泊まり、南の総社市の栢寺に泊まってから奈良に行かれた。額田王と尼子娘の出身が鳥取県西部なので現在のJR伯備線とほぼ同じルートで総社市に出て奈良県斑鳩の中宮に行かれた。天武天皇が斑鳩の中宮にいた時、天智、鎌足は桜井市の多武峯をテロの拠点にしていた (4) 尼子娘と額田王 181号線上からはどこでも秀麗な山容の大山が見える。尼子娘は胸形徳善の娘である。胸形の君は米子市長砂町で宗像三女神を祀っていた。北九州の宗像大社の本家である。青森県の棟方氏もここの出身である。尼子娘は米子市長砂町の出身である。
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Last updated
2018.08.13 11:11:53
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