こじまよしこ(よしのりこB)の最近思うこと
最近、まっ白い広場事業(2月11日、25日、3月4日開催)や先の3月のこどものあそびばやその他もろもろいろんな所に参加して、考え得たものがあって、ここに書いて見たくなりました。 ・・自分で自由に遊ぶことについての実感です。当たり前な言葉だね。だって遊ぶことは強制ではないのだから。しかし、「大人がこんな遊びをしようと声をかけたりするのってどうなの?」と言う意見が私の周りで出ていて、それについてずっと考えていました。う~ん、そうだよね。半強制に感じる子もいるよね。どんな場合でも大人は黙って子ども達を見守らなければならないの?遊びってなんだろう?どういう大人になりたいのだろう?についての自分に対する問いかけ・・。 実際、3人の子を持つ母なので、「今日はこれをしましょう」といった教室にも参加したことも多いです。(学校はその際たるものなのかもしれませんね)そこでは、やっぱり楽しそうに言われたことをやり、その中で何かを自分で発見して、それを家でもしていたこともやはり多かったです。 きっと、どちらがどうではなく、バランスであり、自分はどうしたいのかを問われているのでしょうね。しかし、遊びは自分でするものであり、与えられてするものではないという自分の中の声があります。「私これしたい!」から楽しいのであって、「これしたいのに、別のをやらされた」では、ただ押し付けられただけと感じ、私は楽しくならないのです。 でもまてよ。小さい頃、大人と一緒に遊んで楽しくなかったことは、ない!いつも、いろんなところで大人(10歳ぐらい上のお兄さんが多かったが)が一緒に遊んでくれたのですが、正直、一緒に遊んだ後お兄さんがいなくなり、子どもだけになった時の白けた雰囲気、今でもありありと思い浮かびます。 いろいろ自問自答、他の人の意見を聞く中で思ったのは、大人子ども関係なく、「一緒に遊ぼうよ。これしない?」となったときに、「ううん、しない」と言う選択肢がその場に用意されていれば、それでいいのではないか?と言う答えが私の中で出ました。 そんな遊びの延長に自分の人生があるのかもしれません。自分の道は自分で選んでいく。 最近出会えた言葉を紹介したいのでします。=「自分でやることは自分できめるよ。もし、戦うことだとか、人の心をいやすことだとか、探検することだとか教えられたら、ぼくはいつもそのことばかり考えることになる。そして、それをやるとしても、自分で選ばなかったみたいに感じて、腹をたてることになる。やらないとしたら、やるべきだと思って罪の意識を感じてしまう。なにをやるにしても、人まかせにしないでぼくが自分で選ぶよ。」「なら、あなたはもう英知への第一歩を踏み出したのよ」(フィリップ・ブルマン「琥珀の望遠鏡」より・・児童文学です)= 前の言葉を言っているのは大人になりかけの子ども、最後の一言を言うのは何百年も生きた魔女という設定です。 でも、いろんな人がいて、いろんな答えがあると思います。何十億人もの人間がいるのに、答えが一つだけの問いがこの世にあるのだろうか?いろんな答えを面白いと思える今日この頃のこじまよしこ(よしのりこB)でした。