2007/01/13(土)11:56
「子ども」をどう捉えるのか。(その2)
私は徹底して、“こども”は“子ども”と書きます。
“子供”とは、書きません。
“供”と言う漢字には文字通り、「つき従っていく人」という意味があります。
“子”は何につき従っていくというのでしょうか。
このことは、“子ども”をどう捉えるのかということに深く関わっています。
私は、“子供”と書く方は、自らにつき従わせたいという意図を持つ人と判断することにしています。
また、“児童”の“児”も結構微妙な意を持つ字です。旧字の“兒”は象形文字で、頭蓋がまだ閉じない、要は生まれたばかりの乳児を意味します。“童”はもっとはっきりしています。おことの奴隷と言う意味があるそうです。また、まだものごとをはっきり判断できない幼い子どもという意味で一般的には用いるのでしょう。
従って、“児童”と言った場合に、まだ物事の判断能力がないほど成長しておらず、大人に従う者といった含意があるということになります。
私は、“児童”という言葉も使用したくありませんが、法律としての児童福祉法があるので、使わざるをえないことが多いのです。
精神薄弱を知的障害、精神分裂症を統合失調症、痴呆を認知症という具合に、人権意識の乏しいわが国においても用語を改めてきています。
子どもの捉え方に関わる問題として、“児童”も改めていかなくてはなりません。