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2020/08/14
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​また一つ時代が流れた
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
今夜はYouTubeで『大都会』『西部警察』を
見てみるか💻。

天国で弟と酒を酌み交わしているだろう。安らかに!
​【追記】
大都会Ⅱ、西部警察Ⅱのテーマ曲は最高♪​✌​​​

​​​​ 📺哀悼🎦渡瀬恒彦📢72歳🎬​​​​


​​​​​渡哲也さん10日に肺炎で死去していた
2020/08/14 19:22​​​​​​

​​大都会」「西部警察」など数々のドラマや映画で存在感を示した俳優、渡哲也さんが10日に肺炎で死去していたことが14日、分かった。78歳だった。この日、近親者のみで密葬が営まれた。​​
 複数の関係者によると、入院先の東京都内の病院で親族に看取られ、静かに息を引き取ったという。2015年6月に心筋梗塞の手術を受けて以降、入退院を繰り返し、ここ数年は呼吸器疾患などで自宅療養を続けていた。
渡哲也さん、10日に肺炎で死去していた

今年6月、石原プロモーション創業者でもある俳優、石原裕次郎さんの生前の映像と共演した宝酒造CM「よろこびをお伝えして50年~幻の共演~」のナレーション録りを自宅で行ったのが最後の仕事だった。
 7月27日に完成作を見た際には何度もうなずき、書面で「最後のコマーシャルを裕次郎さんとの共演で終わらせていただきますのは感慨深いものがあります」とコメントを寄せた。

 その10日前には、渡さんが2代目社長を務め、現在相談役を務める石原プロが来年1月に解散することを発表。渡さんは周囲に「時代の流れで新しい人たちが出てくる。我々は一歩下がって生きていかないと」と話していた。裕次郎さんが亡くなる直前、渡さんに託した「石原プロを畳んでくれ」という遺言を果たして天国へ旅立った。

 渡さんは1941年に島根・安来市に生まれ、兵庫・淡路島で育った。青学大在学中の64年、浅丘ルリ子(80)が主演した映画「執炎」の相手役に実弟、渡瀬恒彦さん(のちに俳優、2017年死去、享年72)がこっそり応募。それがきっかけで日活にスタウトされ、65年に映画「あばれ騎士道」の主演で俳優としての一歩を踏み出した。また、同年に「純愛のブルース」で歌手デビューも飾った。

 裕次郎さんとはデビュー前、日活の食堂で初対面した際に励ましの言葉をもらい感激。給料の交渉までしてくれたことを知って、さらに心酔し、背中を追い続けた。


​​ 日活がロマンポルノ路線へ転換した71年には、裕次郎さんが設立した石原プロへ迷うことなく入社。同プロ制作の日本テレビ系「​​​大都会​​​」シリーズ、テレビ朝日系「​​​西部警察​​​」では角刈りサングラスの大門圭介部長刑事を演じ、巨悪との銃撃戦やカーチェイス、爆破シーンの数々は国民をくぎ付けにした。
​​

 歌手としても、73年に「くちなしの花」が150万枚の大ヒットを記録し、74年と93年のNHK紅白歌合戦に出場して同曲を歌った。

 一方で病に悩まされ続けた。74年に胸膜炎を患い、主演を射止めたNHK大河ドラマ「勝海舟」を途中降板。91年には直腸がん手術でオストメイト(人工肛門使用者)になったことを告白した。
 天国では、石原軍団の看板を下ろして安堵した渡さんと裕次郎さんが酒を酌み交わして思い出話に花を咲かせているに違いない。​​​​​

渡哲也さん死去 闘病の歴史…直腸がんで人工肛門、急性心筋梗塞、肺気腫やぜんそく

デイリースポーツ 2020/08/14 19:57
​ ドラマ「大都会」や「西部警察」シリーズで大人の男の魅力を放ち、歌手としても「くちなしの花」を大ヒットさせた俳優・渡哲也=本名・渡瀬道彦=さんが10日に肺炎のため亡くなったことが14日分かった。78歳。兵庫県淡路市出身。渡さんの歴史は闘病の歴史でもあった。主な​​​闘病歴​​​を振り返る。​
​🏥闘病歴💉​​
 ▼72年7月 フジテレビ「忍法かげろう斬り」撮影中、高熱を出し、入院。「葉間肋膜炎」で2カ月入院。
 ▼75年3月12日 2月から高熱が続いており、ついに肺炎寸前で緊急入院。入院後、10日以上も40度を超す高熱。約5カ月入院した。病名は「慢性肺感染症」。しかし、実際には難病の「膠原(こうげん)病」だった。
 ▼89年3月12日 渡さんが社長となって初の石原プロ制作のドラマ「ゴリラ・警視庁捜査第8班」撮影中、腓膜筋断裂で全治1カ月半の重傷を負う。
 ▼91年6月12日、直腸がんを公表。「自分が好んで(がんに)なったわけではないが、これも天命。仕事で迷惑をかけるのも自分の責任なので、このことも公表してもらいたい」。
 ▼同6月20日 3時間に及ぶ手術。術後、病院近くで実弟で俳優の渡瀬恒彦さんが、小林専務とともに記者会見。「当初は拒否し続けた人工肛門を付けることになったが、これをどう克服、対処していくかが兄の勝負になるでしょう」と人工肛門にしたことを公表。
 実は渡瀬さん自身が、「人工肛門になることは俳優生命を絶つことに等しい、と兄貴は思っている」と命を縮めてでも、渡さんが希望する部分切除の道はないのか、最後の最後まで苦悩した1人。気迫を込めるように、一語一語をかみしめるように話した渡瀬さんの目は涙ぐんでいた。
 当時、人気俳優の「人工肛門」公表は大変な衝撃をもって受け止められた。渡さんは手術直前に部分切除と聞かされていたが、実際には人工肛門になったことを術後に知らされた。
 (73年3月に亡くなった父・賢治さんも直腸がんと胃がんと診断され、晩年は人工肛門になっていた)。
 ▼97年7月17日 直腸がんの手術後、半年に1回行っている定期検診でポリープが2つ見つかり、内視鏡で切除。うち1つが悪性の大腸がんだった。
 ▼15年6月 急性心筋梗塞の緊急手術。安静にしていないと血中酸素濃度が下がり、苦しくなることもあり、車いすでの生活に。同年11月 舘ひろし、神田正輝ら石原軍団と共に宝酒造「松竹梅」新CMを撮影。
 ▼16年8月 吉永小百合と宝酒造の新CM撮影。現場で取材に応じ、車いすが必要なくなるまで回復と説明。持病の肺気腫やぜんそくなどの呼吸器系の疾患で酸素吸入器をつけて生活していることを明かす。
 ▼17年9月 吉永と宝酒造の新CM撮影。「まだ(映画を)お引き受けできるような体調じゃない」と本格復帰には慎重な姿勢を示した。
 ▼18年春 外出時にも酸素吸入器が外せないと報じられる。​​​​​​​

​​不規則な生活、ストレス、酒🍶、煙草🚬で寿命を縮めた感は否めない。然し、医療の力で​結果としては弟より長生きできた。​​​​

渡哲也さんと共演の永瀬正敏「どうか、どうか安らかに」高橋克典、父と縁深かった宍戸開も追悼
スポニチアネックス / 2020年8月14日 21時40分
俳優の渡哲也(わたり・てつや、本名渡瀬道彦=わたせ・みちひこ)さんが10日、都内の病院で肺炎のため死去した。78歳だった。
 97年の映画「誘拐」で共演した俳優の永瀬正敏(54)は、自身のインスタグラムを更新し「どうか、どうか安らかに。お世話になりました、有難うございました」と渡さんを偲んだ。
 また、07年のテレビ朝日系ドラマ「マグロ」などで共演した俳優の高橋克典(55)は、自身のブログに共演した時の写真を投稿し「心よりご冥福をお祈りします」と追悼。
 渡さんが65年に今年1月に死去した父の宍戸錠さん(享年86)の弟役でデビューしたという縁のある俳優の宍戸開(53)も自身のインスタグラムで「“また一人日活俳優が亡くなった…”#渡哲也 さんのご冥福をお祈りいたします」とつづった。​​​​

​​​​ 💉武漢virus🏥志村けん🛏意識混濁💊​​​​
​​💉哀悼🏥志村けん🛏武漢virusで亡くなる💊享年70歳✨​​

石原良純、渡哲也さんの訃報に涙…「渡さんが言ったことは僕らは守っていくだけなんです」
報知新聞社 2020/08/15 10:02
タレントの石原良純が15日、コメンテーターを務めるテレビ朝日系「週刊ニュースリーダー」(土曜・前6時)に生出演し、10日午後6時30分、肺炎のため死去した俳優の渡哲也(本名・渡瀬道彦、わたせ・みちひこ)さんを偲んだ。
 石原プロによると、葬儀は、渡さんの「静かに送ってほしい」という強い希望により、この日、家族葬を執り行った。お別れ会も渡さんの意向により行わないという。故石原裕次郎さんの甥で1982年に俳優としてデビューした当時は石原プロに所属するなど公私ともに渡さんと親交があった良純は、最後のお別れがかなわない状況への思いをテレ朝の小木逸平アナウンサーから聞かれ、訃報を聞いた時に俳優の舘ひろしに電話をしたことを明かした。

 その時に舘から「良純、それは上が決めているんだぞ。僕らがどう思おうと上がそう言っているんだからな」と言われ、「僕ら下の人間は上が決めているんだから、その中で整理をつけていくもんだ」と教えられたことを明かした。
 この舘の言葉に良純は「舘さんも、もちろん寂しかったでしょうし、僕もこれで本当に何もないのかなっていうのは信じられないところがあるんですけど、でも上が、社長がいて渡さんが言ったことは僕らは守っていくだけなんです」と明かすと涙ぐみながら「それはそうでやっていく。そういうもんだと教わりました」と言葉を震わせていた。​​

​​大スターの定義を教えてくれた渡哲也さん
2020/08/15 13:12 サンスポ
近寄りがたいけれど、とても優しい人。
渡哲也さんを取材するときはいつも緊張した。
 石原プロ担当になったのは、芸能担当の記者になって約2カ月後の2008年新春。右も左も分からないまま、老舗の石原軍団を任された。
 小さい頃、父が酔っぱらうと上機嫌で口ずさむ歌があった。●(=歌記号)いまでは指輪もまわるほど~。1973年にリリースされた渡さんの「くちなしの花」だ。小学校に上がる前から覚えてしまった大人の歌を歌っていた“渡哲也”を取材している不思議な感覚。「西部警察」の団長こと大門刑事が目の前にいる感動。それは12年過ぎた今も変わらない。
 石原裕次郎さんの命日の墓参、石原プロの新年会、ロケ取材。何度会っても特別なオーラに緊張し、自ら駆け寄ることはできなかった。それを察するように「きょうも来てくれてありがとうございます。元気ですか?」といつも優しい笑顔で声をかけてくれた。
 裕次郎さんの記念館があった小樽での取材に同行した際は、夜に記者たちを招いてすし店で食事をご一緒した。取材とは逆の立場で、渡さんは記者たちの取材秘話など聞き役に回っていた。同席した女性記者が「うに大好き」と喜ぶと、「私のうにもどうぞ」と渋い声ですすめ、あまりの格好よさに老若男女にモテる理由が垣間見えた。

 2011年4月、東日本大震災から1カ月後の被災地へ炊き出しに行ったときも、渡さんの気遣いに救われた。夜中に東京をワゴン車で出発し、早朝に宮城・石巻市に不眠状態で到着。炊き出しの準備をしていた渡さんはエプロン姿で「本当によくここまで来てくれました」とねぎらい、子供ほど年が離れた記者たちに深々と頭を下げた。
 当時69歳。年齢だけでなく、直腸がんなど大病を経験した体にとって、寝袋で何日も雑魚寝する生活は決して楽ではなかったと思うが、「被災地の皆さんのご苦労を思えば、大変なんて言ってられない」とほほえんでいた。
 一方、舘さんが母直伝のぜんざいを作っていると、「私はやきそば担当。ひろしのぜんざいには負けないよ」といたずらっぽく笑っていた。
 大地震で崩壊した石巻市の風景に心がえぐられる中、ちょっとした言葉で場を和ませてくれた。
 それは炊き出しが始まると圧倒的な力となった。渡さんが汗だくでやきそばを作りながら被災者を励ますと、みんな花が咲いたような笑顔になった。家族を失った女性は「渡さんたちが来てくれてうれしい」と号泣していた。
 ドラマの世界だけでなく、渡団長率いる石原軍団は困ったときに助けてくれるヒーローなのだ、と実感した。それから1カ月後、渡さんは裕次郎さんに“大政奉還”すると宣言し、軍団の名物専務だった小林正彦さんとともに高齢を理由に2代目社長を退いた。
 石原プロ社長最後の大仕事として、命がけで炊き出しをしていたのだ。自分にしっかり“けじめ”をつける。それは最後まで変わらなかった。
 先月17日の裕次郎さんの命日に、「俺が死んだら会社をたたんでくれ」と言ったボスとの遺言を守り、来年1月に石原プロモーションを解散することを発表した。さらに裕次郎さんと映像技術で“最初で最後のCM共演”を果たし、石原プロとして50年続いた宝酒造のイメージキャラクターを勇退した。
 “心のこり”をかたづけて、1カ月もたたないうちに渡さんは天国に逝ってしまった。
 「一気に安心してしまったんですか、早すぎます」。当たり前の言葉しか浮かばない。
 近寄りがたいけれど、とても優しい人。それだけでなく、時間を共有するうち、自然とあったかい気持ちになって、渡哲也を取材していることに誇りを感じさせてくれる人。大スターの定義を渡さんから教わった。
 国立競技場で行われた裕次郎さんの23回忌法要で、渡さんは青空に向かってファンと一緒に「裕ちゃーん!」と大声で叫んでいた。派手なことが苦手な渡さんらしく、お別れの会は行われないが、「渡さーん!」と呼びかけられるような機会を作ってほしい。
 日本中に慕われた男。みんな、まだまだ渡さんに会いたかった。​​​

峰竜太「会ったら男でも女でもほれる人」渡さん悼む

日刊スポーツ新聞社 2020/08/16 12:52
峰竜太(68)が16日、レギュラーを務めるTBS系「アッコにおまかせ!」(日曜午前11時45分)に出演し、10日に肺炎のため亡くなった俳優渡哲也さん(享年78)について語った。
 峰は00年に独立するまで、24年間にわたり石原プロモーションに所属。仕事が俳優業からバラエティータレントにシフトし始めていた当時を振り返ると、「『軍団』というよりも、自分のバラエティーの仕事が多くなってきたので、渡さんに相談したんです。そろそろ石原プロを抜けてっていう風に言いましたら、『おお、お前は絶対出た方がいいから。頑張れ』って言われたんです」と、渡さんに独立の背中を押されたことを明かした。
 先月石原プロ解散の方針が伝えられると、20年ぶりに渡さんに電話をかけたという。「本当にお疲れさまでしたと。声はちょっと出ない感じでしたけど、いきなり『竜太、石原プロ辞めてよかったな』って言ってくれまして。『大したもんだ、よかった』って」。また「話している間に胸が詰まってきて、渡さん今度ぜひ会ってくださいよと言ったら『おうおう、いつでも会うよ』って。最後は笑って電話を切ったんです。ずっといろんな病気があったので調子がよくないというのは分かってたんです。でも、電話はものすごく元気だった」と様子を語った。
 渡さんの存在については「人間としてこう生きなきゃいけないっていう人です。誰に聞いても、渡さんに会ったら男でも女でもほれるっていう人です。そのまんまの人です。良い悪いがはっきりしてて、誠実、腰が低くて。そういう方です」。最後は「まねしようとしても大変ですけど、本当にいい道しるべをつけてくださった」と人柄をしのんだ。

「西部警察」幻の新作あった、渡さん固辞でお蔵入り
日刊スポーツ新聞社 2020/08/16 06:01
10日に肺炎で亡くなった俳優渡哲也(わたり・てつや)さん(本名・渡瀬道彦=わたせ・みちひこ、享年78)の代表作の1つ「西部警察」に“幻の新作”があったことが15日、分かった。複数の脚本が用意され、監督も決まっていたが、15年に急性心筋梗塞で倒れた渡さんは、翌16年に実弟の渡瀬恒彦さんに死を覚悟する言葉を伝えるなど体調に不安があり、出演を固辞しお蔵入りになったという。
渡さんの死が報じられてから一夜明けた15日、複数の関係者が「西部警察」の新作の企画があったことを明かした。「西部警察」は1979年(昭54)からテレビ朝日系で5年間に3シリーズ、236話放送された。03年には特別ドラマが制作され、連ドラ(全10話)の制作も発表されたが、ロケで人身事故が発生し、石原プロ社長だった渡さんは制作中止を決断。翌04年に「-SPECIAL」が放送された。
11年に渡さんは社長を退任し、一俳優に戻ってドラマへの出演を重ねていた。一方、石原プロは翌12年に「西部警察」などをDVD化し、16年元日からは配信も始めた。並行して、水面下で「西部警察」の新作の企画開発が進められていた。複数の映画やドラマを手掛けた脚本家により5、6本の脚本が完成。うち1本は女性都知事をめぐる事件を描き、16年に小池百合子氏が東京都知事に就任するのを予見したかのような内容だったという。
「西部警察」の新作である以上、大門軍団の大門圭介団長が主人公の企画だったが、渡さんは「俺は脇でいい」と譲らなかった。周囲が「渡さんじゃないとダメです」と言うと「ひろしで、いいよ。(主人公は)ひろしに合わせればいい」と、鳩村英次役の舘ひろしの主演を希望。懇意の映画監督と会談し、演出を依頼し内定するなど企画成立に向けて動いたが、あくまで主演を希望する周囲に「俺はやらない」と告げ、企画はそこでストップした。
その裏には、死を覚悟するほどの体調への不安があった。渡さんは15年6月に急性心筋梗塞で緊急入院。同11月に宝酒造「松竹梅」の新CMを撮影した際は「呼吸器疾患があり、血中酸素が足りなくなり、動いたり長いセリフを言うと息切れする。動くことが非常に苦痛」と明かした。16年には関係者を通じて恒彦さんに「体がしんどい。亡くなった時は一切、人には言わないで葬式をやってくれ」と死を覚悟し“遺言”を託した。恒彦さんも「兄貴らしいな」と返したという。
お蔵入りした脚本は、いずこかに眠る。映画と同規模の制作費を投じ、テレビを超えた映像作りを目指し激しい爆破、アクションを前面に押し出した「西部警察」の新作を今、新たに作るのは撮影場所の確保、制作費の調達含め、難しいと複数の関係者が口をそろえる。ただ「何とか早く元気になって、再び皆さんとお会いする日が来ることを願っております」と再起を誓うも、かなわなかった渡さんの遺志の宿った脚本は日が当たる時を待っている。
◆「西部警察」の主な出演者 渡さん演じる西部署捜査課部長刑事・大門を支える大門軍団の面々にも、個性的な俳優陣がそろった。舘ひろし(70)は、ハーレーに乗る武闘派・巽総太郎刑事を1話から演じたが、30話で巽が殉職すると、109話からは特機隊隊長を兼任する鳩村英次刑事を最終話までと、異例の一人二役を演じた。寺尾聰は、サングラスがトレードマークの松田猛刑事を演じた。石原裕次郎さんは、大門の上司で捜査課長の木暮謙三を演じた。大動脈瘤(りゅう)治療のため89話から出演しなかったが124話で復帰した。

<「西部警察」データ>

◆連ドラの放送期間 1979年(昭54)10月14日~84年10月22日

◆シリーズ制作話数 236話

◆出演俳優 1万2000人

◆ロケ地 4500カ所

◆封鎖した道路 4万500カ所

◆飛ばしたヘリコプター 600機

◆使用された火薬の量 4・8トン

◆使用されたガソリンの量 1万2000リットル

◆壊した車両の台数 約4680台(1話平均20台)

◆壊した家屋や建物 320軒

◆撮影中に関係各所に提出した始末書の枚数 45枚

◆平均視聴率 14・5%(関東地区)

◆最高視聴率 25・2%
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渡哲也さん、“昭和スター”の豪放な素顔と石原裕次郎さんから受け継いだ“悲願”
週刊女性PRIME [シュージョプライム] 2020/08/18 11:00
大都会』『西部警察』など数々の人気ドラマや映画で、凛とした独特の存在感を示した俳優、渡哲也さんが8月10日、肺炎のため死去。
 ここ数年は、持病の肺気腫やぜんそくと闘う日々が続いていた。
豪放な“昭和のスター”
 渡さんを長年、取材していたスポーツ紙記者の話。
「’91年に、自ら直腸がんであることを発表してますよね。
 ’96年放送の大河ドラマ『秀吉』では、織田信長役を演じていました。『本能寺の変』のシーンは、後に語り草になるほどの熱い演技でした。その撮影に密着していたんですが、『本能寺』シーンの撮影が終わった後、スタッフみんなでメシを食おうとなって、NHKの食堂で会食になりました。そのとき、渡さんはカツ丼とちらし寿司を頼んで、食べていたんですよ。“渡さん、そんなに食べて大丈夫ですか?”と聞いたら“いいんだよ、もう食べたいものを食べるんだ!”って。元気よく頬張っていて、さすがスターは格が違うなと思いました」

 ’41年に生まれた渡さんは、兵庫県の淡路島で育った。青山学院大学に進学し、在学中の’64年、当時憧れていたスター、石原裕次郎さんに会えればと立ち寄った日活撮影所でスカウトされた。
 ’65年に映画『あばれ騎士道』の主演でデビュー、俳優としての一歩を踏み出した。
「直腸がんの手術の結果、“人工肛門”をつけたことを公表しました。おそらくその後、最初の撮影だったと思いますが、京都に行ったときのことです。そのときも多くの取材陣の前で、おいしそうにタバコを燻(くゆ)らせていたので、みんなで“大丈夫なの?”って心配したのを覚えています。
 とにかく豪放な方で、昭和のスターって、そういう人が多かったけど、渡さんもそうした場面が印象に残っています」(同・スポーツ紙記者)
石原裕次郎さんに心酔し、背中を追い続けた
 渡さんはデビュー前、師と仰ぐ裕次郎さんと日活の食堂で初対面した際、思いがけず「頑張ってください」と励ましの言葉をもらい感激。その後は仕事、私生活と面倒見のいい“親分”裕次郎さんに心酔、その背中を追い続けた。
 日活がロマンポルノ路線へ転換した’71年、裕次郎さんが設立していた『石原プロモーション』へ入社。同プロ制作のドラマ『大都会』シリーズや『西部警察』で“角刈りサングラス”の大門部長刑事を演じ、巨悪とのド派手な銃撃戦やカーチェイス、爆破シーンの連続でファンをくぎづけにした。
 また歌手としても、’73年に『くちなしの花』が大ヒットを記録。’74年と’93年のNHK紅白歌合戦に出場している。
 華やかなスター街道を突っ走ってきた渡さんだが、病気との付き合いには悩まされ続けた。
 本人も印象に残っていることとして、’74年放送のNHK大河ドラマ『勝海舟』を病気で途中降板したこと、’81年に裕次郎さんが解離性大動脈瘤で130日間入院して生死をさまよったことだと語っているほど、病気との因縁は深かった。
 ’87年7月、裕次郎さんが他界したのを機に、渡さんは石原プロ社長に就任する。
 その後、前述した’91年に患った直腸がんと闘いつつ、’11年まで同社を率いていく。
 寡黙で硬派な渡さんの仕事ぶりを象徴するエピソードがある。
 ’89年、渡さんが社長となって初の石原プロ制作の作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の撮影中、ヘリから降りて全力疾走するシーンで、ヘリから着地した際、左足に激痛が走ったが「ただの捻挫だろう」と撮影を続行。しかし翌日、病院で診察を受けると、全治1か月半の腓腹筋(ひふくきん)断裂』と診断された。
 このケガが原因で、足をひきずって歩く後遺症が残った。ケガも男の勲章というわけだ。
きっちりとやり遂げた“最期の仕事”
 その後も’97年、ポリープが2つ見つかり、内視鏡で切除。うちひとつは悪性の大腸がんだった。
 ’15年には急性心筋梗塞の緊急手術をするなど、病の種は尽きなかった。
 そんな渡さんが今回、過酷な闘病生活を続けながら、きっちりとやり遂げた“最期の仕事”があった。
 裕次郎さんと渡さんを起用した宝酒造『松竹梅』のテレビCMの撮影だ。このCMが今年で50周年を迎えた。お茶の間に広く親しまれてきたが、現在テレビ放送中の記念CMでシリーズ最終作となり、見納めとなる。
「今年も『松竹梅』の最新CMが7月末から放送されていますが、完成させるまでにはずいぶんと紆余曲折がありました。
 渡さんは酸素吸入器が手放せず、かなりやせていましたので、どこかのスタジオで撮影するというのは、当初から難しかったようです。
 渡さんの自宅に撮影スタッフが行って撮るという案もありましたが、撮影予定だった春には、すでにコロナの問題が起きていました。撮影スタッフが大人数、闘病中である渡さんの自宅に行くことはできないと判断されたのです。
 そこで行ったのが、CG合成による制作です。しかも、松竹梅が50周年ということで、裕次郎さんと渡さんにCGで共演してもらうことになりました。できあがったCMを見た渡さん本人も、すごく驚いていましたが、満足されていたようです」(広告代理店関係者)
 因縁の名CM放映半世紀を記念して、裕次郎さんと渡さんが、合成技術で日本酒を酌み交わす、印象深い作品となった。
石原プロ解散が渡さんの悲願
 来年1月に石原プロは解散を決定。渡さんと石原プロとのCM契約が来年9月で満了となるため、今作で有終の美を飾ることを決めたという。
 シリーズへの出演本数は2人合わせて247本になる。渡さんは「最後のコマーシャルを裕次郎さんとの共演で終わらせていただくのは、感慨深いものがあります」とコメントしていた。
 実は、石原プロを解散することは、裕次郎さんの遺言のひとつでもあった。
「裕次郎さんの“命”を受けて、石原プロを自分の目が黒いうちにきれいに終わらせるというのは、渡さんの長年の悲願でもありました」(制作会社関係者)
そして、裕次郎さんのもうひとつの遺言は「映画を作ること」だった。
それは、現世での大仕事を片づけた渡さんの冥土の土産となった。今ごろ空の上で、ふたり酒を酌み交わしながら、新作映画の構想を練っているに違いない。
男気俳優・渡哲也さんの人生
’41年 12月28日生まれ。兵庫県の淡路島で育った

’64年 青山学院大学在学中にスカウトされて、卒業後、日活へ入社

’65年 宍戸錠とW主演の映画『あばれ騎士道』でデビュー。歌手デビューも

’66年 吉永小百合との初共演映画でブルーリボン賞新人賞を受賞

’71年 日活を退社し、石原裕次郎さんが設立していた石原プロへ入社

’73年 『くちなしの花』が150万枚のヒット。全日本有線放送大賞金賞を受賞

’79年 テレビ朝日系ドラマ『西部警察』シリーズに大門刑事役で出演

’87年 石原裕次郎さんが7月に他界したことから、10月に石原プロ社長に就任

’91年 直腸がんであることを発表、人工肛門に

’05年 紫綬褒章を受章

’11年 石原プロの社長職を辞任

’15年 急性心筋梗塞で緊急入院

’17年 相談取締役として石原プロの経営に復帰

’20年 8月10日、肺炎のため死去​​​​​

宝酒造、渡哲也さんCM継続=石原裕次郎さんと「幻の共演」
2020/08/18 19:06
宝ホールディングス傘下の宝酒造(京都市)は18日までに、このほど亡くなった俳優の渡哲也さんが出演している日本酒「松竹梅」のテレビCM放送を継続すると発表した。現在は、昭和を代表する俳優、故石原裕次郎さんとの「幻の共演」編が放送されている。

 同社が遺族や渡さんが所属していた芸能事務所「石原プロモーション」と協議して決めた。CMは1970年に石原さんの出演で始まり、石原さんを兄のように慕っていた渡さんが88年に引き継いだ。現在のCMは渡さんの出演作として110本目。石原さんの生前の映像を使い、二人が酒を酌み交わす内容になっている。

宝酒造は「優しく誠実な人柄に日本中があこがれ、たくさんの元気をいただきました」との追悼コメントを発表した。CM開始50年を記念した2種類の限定清酒も、予定通り今月末まで予約を受け付ける。販売は予約のみで、商品の引き渡しは11月の予定。​​​​​​​​

舘ひろし、渡哲也さんの遺骨に手を合わせることもできず
2020/08/20 16:05
寝室と呼ぶには広すぎる2階の部屋には、ベッドのほか、来客をもてなせるテーブルと椅子や、リハビリ用のウオーキングマシンが置かれている。2015年に心筋梗塞を患った際、妻の俊子さんが用意したものだ。
 その広い寝室で、渡哲也さん(享年78)の体調が急変したのは8月9日未明のことだった。午前4時に緊急搬送。病状を確認した医師は、
「体力がもたなそうです。長くても2週間と覚悟してください」
 と余命を宣告する。しかし、病と闘い続けてきた体はその2週間を耐えることができず、翌10日午後6時半、肺炎のために帰らぬ人となった。

 緊急搬送の前日まで、渡さんは元気だったと事務所関係者は語る。亡くなる3日前には、友人のみのもんた(75才)と電話で話をしていた。みのが寂しそうに語る。
「酸素吸入をしながらなので、息苦しそうなガサガサした声でしたが、それでも『なにしてる?』『元気になったら銀座で飲みましょう』と励まし合ってね。もう何年も、月初めに電話をくれるんです。こんなに律儀な人は芸能界広しといえど渡さんだけですよ」
 渡さんのデビュー作『あばれ騎士道』(1965年)や『東京流れ者』(1966年)など数々の映画で共演してきた女優・松原智恵子(75才)も声を落とす。
「私たち日活出身者は、年に一度くらい “仲間の会”を開いていたんです。(吉永)小百合ちゃんとか、和泉雅子さん、(高橋)英樹さんらとね。ただ、ここ3年ほど集まっていなかったので、浅丘ルリ子さんが『また集まって食事でも』と動いてくださったんです。今年6月に渡さんにもお声がけされたのですが『いまは体調を崩しているから、もう少し先のときに行けたら』とおっしゃったそうで…大変残念です」
 謙虚で律儀で真面目。オーラはあるけど、親しみ深い。渡さんを知る人の評価はおおよそこんな感じだ。
 渡さんが石原裕次郎さんの背中を追いかけたように、渡さんの背中を追いかけ、石原プロの“鉄の結束”を守り続けた舘ひろし(70才)はその性格にいちばん間近で触れたひとりだろう。しかしその舘も、渡さんの最期に立ち会えなかった。そして、密葬にも参列できていない。
「そこには、渡さんが俊子さんに遺した遺言が大きくかかわっているんです」
 とは、事務所関係者。
「『死に人に構う時間があるのなら、生きている自分自身のために時間を使ってほしい』というのが渡さんの遺言。これを俊子さんに口酸っぱく話していたようで、石原軍団は俊子さんの“遺言を果たす”という思いを汲み、いまはその言葉に従っているんですよ。舘さんは訃報を聞いた後のCMや映画の撮影も、普段通りにこなしています」(事務所関係者)
 しかし、事情をよく知る関係者の話はやや異なる。
「舘さんは石原プロの幹部に弔問をしたいと伝えたけれどもそれも叶わなかった。渡さんの自宅にある祭壇には遺骨もあるが、手を合わせることもできいないんです」

​​ NEWSポストセブン 提供 記者の取材に真摯に対応する舘ひろし
 お別れの会すらも開催の予定はないという。その理由を石原良純(58才)に聞かれた舘は、こう答えた。
「それは上が決めているんだ。ぼくらがどう思おうと上が決めているんだから」
 沈黙を貫く理由を、事務所側は「静かに送ってほしい」という“渡さんの遺志”と発表するが、舘は“上の決定”と表現する。そこにわずかな“鉄の結束”の綻びが透けて見える。
「(裕次郎さんの妻の)まき子さんと、俊子さんの間で意思の疎通が取れていないこともこの状況を生んでいる要因なのかもしれないね」(前出・事情をよく知る関係者)
 17日、仕事終わりの舘に声を掛けると、わざわざ足を止めて寂しそうな笑みを浮かべながら、
「ごめんなさいね」
 と、丁寧に頭を下げてから自宅へと戻っていった。

渡哲也さんが語ってくれた石原裕次郎さんとの思い出
スポーツニッポン新聞社 2020/08/21 12:09
あれは2009年の夏、石原裕次郎さんの二十三回忌法要を間近にした頃だった。裕次郎さんとの思い出に関する質問に、ゆっくりと丁寧に答えていただいた。
 「ドラマの『西部警察』や『大都会』は石原さんの場面だけ集中的に撮影してたんです。だから、石原さんだけ早く撮影が終わるんですが、石原さんは早く終わったら必ず撮影所から会社(石原プロモーション)に行ってました。そこでお酒を飲みながら、ご自分で作った映画の『黒部の太陽』や『栄光への5000キロ』を何回も何回も見るんです。そのまま夜になって、周りの人たちが、ひとり消え、ふたり消えしてくる。口では『哲、もう帰っていいぞ。明日撮影があるんだから帰っていい』と言いながら、目は『帰るなよ』と言ってました」
 その話から裕次郎さんとの親密な間柄がうかがえた。渡さんは俳優になる前から裕次郎さんの映画をよく見ていて、「嵐を呼ぶ男」は高校時代に3度も鑑賞。日活に入った時、裕次郎さんと初対面して「新人の渡です。よろしくお願いします」とあいさつすると「頑張ってください」と敬語で励まされたという。
 「映画の石原さんと実際の石原さんは同一と言っていいくらい、差がありませんでした。私が元空手部、石原さんが元バスケット部と同じ体育会系ということもあって、何かにつけて気にかけていただきました。若い頃、撮影後に『哲、どうするんだ?』と聞かれ『きょうは帰ってセリフを覚えます』と答えると『うちに寄って飯を食って行け』と、ごちそうになったりもしました。着ていたものを下着以外ほとんどいただいたり、お小遣いをいただいたりもしました」

​1986年1月、ハワイでバカンスを楽しんだ渡哲也さん(左)と石原裕次郎さん(右)​
 最も鮮烈だったのは「印象に残る裕次郎さんとの共演作は何ですか?」という質問に対する答えだった。渡さんはしばらく考えた後に「ないですね」とつぶやき、「印象に残るような作品を作っていただく前に石原さんは亡くなってしまいました」と説明した。
 石原プロモーションの重要な目標は映画製作だった。渡さんは裕次郎さんとともに映画を作り、その作品で共演することを熱望していた。しかし、それは、かなわずに終わってしまった。渡さんの無念さを強く感じた。
 インタビューが終わると、渡さんはこう話しかけてくれた。「これで大丈夫ですか?話は足りてますか?もし、何かあったら、電話してください。いつでもいいですから」。そこまでの気づかいを役者さんから受けるのは初めてだった。結局、電話を差し上げることはなかったが、人柄がにじむ言葉として深く胸に刻み込まれている。​​

渡哲也さん 吉永小百合との恋、結婚が許されなかった理由
NEWSポストセブン / 2020年8月21日 7時5分
俳優の渡哲也さんが8月10日、肺炎のため亡くなった。78才だった。渡さんの体調が急変したのは8月9日未明のこと。午前4時に緊急搬送された。緊急搬送前に渡さんと会った知人はこう話す。
「渡さんは、最期の苦しむ姿を石原軍団の人たちには見せたくなかったんじゃないかな。肺気腫の症状がかなりつらそうで、『肺が左右両方潰れているみたいだ』と聞いた。でも、肺が機能しなくなっても最期まで、俳優・渡哲也の風格を失っていませんでした」
 渡さんは長年、肺気腫を患っていた。医療ガバナンス研究所理事長で内科医の上昌広さんが解説する。
「肺気腫とは、肺の中にある肺胞が壊れてしまっている状態です。空気を吸って吐く際には、この肺胞が伸び縮みしますが、機能しなくなると、濁った空気を体の外に出せず、新鮮な空気を取り入れることができなくなり、息苦しくなってしまうのです」
 肺が両方とも潰れる──この状態になると、生活はどう変わってしまうのか。
「肺気腫で両肺が潰れるというのは、かなりの重症です。全速力で走った後のような息苦しさが続き、酸素吸入器が必要になる。最期は肺炎で亡くなったということで、空気のないところで呼吸をするような苦しさがあったのかもしれません」(前出・上さん)
 渡さんは若い頃から、病魔に蝕まれていた。1972年、葉間肋膜炎。1974年、胸膜癒着症で大河ドラマ『勝海舟』を途中降板。1975年、肺感染症。その後、体調は回復したかに見えていたが、1991年に直腸がんの手術の結果、人工肛門での暮らしとなり、2015年、急性心筋梗塞。2016年には、肺気腫や喘息などのため、酸素吸入器をつけて生活していることを明かしていた。
 この長く続く闘病の間、ひとときたりともそばを離れなかったのが妻の俊子さんだ。ふたりは、青山学院大学在学中に知り合っていた。
「渡さんは空手部に在籍していましたが、その渡さんが一目惚れしたのが、大手鉄鋼会社役員の娘である俊子さんでした。結婚式は1971年にハワイで、ふたりだけで挙げています」(芸能関係者)
 学生時代の恋愛を貫いての結婚。しかし、正直者すぎる渡さんは婚約会見で、こんなことを口にしていた。
「ほかの女性に目移りしたこともありました。別れ話も二、三度ありました。浮気も多分、これからも多少…」
手編みの座布団
 そういう時代だった、と言えなくもない。しかしこのとき、渡さんの頭には、昭和を代表する、ある女優の姿が浮かんでいたのかもしれない。
《夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか》
 3年前に亡くなった渡さんの弟の渡瀬恒彦さん(享年72)が待つ天国へ旅立った渡さんを、独特な表現で悼んだのは吉永小百合(75才)だ。

 渡さんと吉永は、1966年の映画『愛と死の記録』で初共演。このとき渡さんは25才で吉永は22才。若い2人はすぐに急接近した。
「あの映画には、中尾彬も出演していたんだけど、当時は中尾が小百合ちゃんにラブレターを送ったりして、入れ込んでいた時期でね。その相談相手が、渡さんだったんだよ。初めて出会ったのは広島のロケ地だったはず。渡さんは、大学時代から憧れていた小百合ちゃんの前でガチガチだったそうですよ。素人同然でデビューした翌年のことでしたからね。でも、その雰囲気が小百合ちゃんにはかえって新鮮で、惹かれるものがあったんでしょう」(映画関係者)
 別の映画関係者も、吉永が渡さんに思いを寄せていく様子をよく覚えているという。
「小百合さんは手先が器用でね、手編みの座布団を渡さんに贈っていた。渡さんは『ありがたくないな、こんなものを。恥ずかしくて使えないよな』と頭を掻きながらもうれしそうにしていましたね。当時、小百合さんのことを“カミさん”って呼んでいました。みんなは“小百合ちゃん”だったけど『愛と死の記録』で恋人役を演じてから、渡さんだけ“カミさん”でした。誰から見ても相思相愛でしたよ」
 2人の交際は2年ほど続き、当然の帰結として結婚も考えていたという。しかし、それは許されなかった。『吉永小百合の愛し方』(ベストセラーズ)著者の山科薫さんが語る。
「とにかく、吉永さんのお父さんが猛反対したんです。渡さんとの結婚が、というよりも結婚そのものを認めようとしなかった。吉永さんは清純なイメージで売っていましたから、そのイメージが傷つくことを恐れたのです。吉永さんに専業主婦になってほしがっていた、渡さんのご両親の意向にも吉永さんのお父さんが大反対だったようですね」
 渡さんの評伝『渡哲也 俺』(柏木純一著/毎日新聞社)には、当時を振り返る吉永のこんな言葉が記録されている。
「どちらかがやめれば成立するのでしょうが、役者同士の結婚は絶対に無理だと思っていた」
 それが、吉永の偽らざる気持ちだったのだろう。悲恋に終わった2人だが、互いに結婚した後も、共演者としては息の合うところをたびたび見せてきた。そこに見られるのは、スターとスターだからこそ築ける、誰も立ち入れない関係性だ。
「2人は1998年公開の映画『時雨の記』で共演していますが、これは約30年ぶりの共演でした」(前出・映画関係者)
 そこで2人が演じたのは、プラトニックな恋におぼれる妻帯者と未亡人だった。
「原作は1970年代に書かれた小説で、吉永さん自身が長年、映画化を夢見て企画した意欲作でもありました」(前出・映画関係者)
 そうした役柄での共演は、否が応でも耳目を集める。映画公開の記念イベントでは、『不倫についてどう思うか』という直球の質問も投げかけられた。
 渡さんは受けて立った。
《世の中には本音と建て前があって、もしバレなければあってもいい》と“肯定”すると、《人が人を好きになるという気持ちは誰にも止められない。ずっと恋をしていくのが人間》と吉永も調子を合わせる。
 秘められた恋を肯定する2人は、リップサービスだったのか、役が抜けないのか、はたまた結ばれなかった若き日の恋に思いを馳せていたのか、イベント会場の誰もが2人の真意を探ろうと必死だったという。​​​​​​​





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最終更新日  2020/08/21 10:12:58 PM
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