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2021/03/24
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カテゴリ:⛳ SPORTS 🧤
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​元トップアスリート、死とは無縁のような男も
53歳で死亡する。
生の儚さを感じた。
ご冥福をお祈りします。

横綱鶴竜の突然の引退表明より大きなnewsに
成っているね。
👉個人的には25,6年前、当時京王線沿線に住んでいたので京王線
 新宿駅ホームで下車して来た
古賀と鉢合わせした事がある。​​​​​​​​​​​

古賀稔彦さんが死去 「平成の三四郎」、五輪柔道金

2021年3月24日 10:36 (2021年3月24日 12:13更新)
柔道男子で1992年バルセロナ五輪の金メダリスト、古賀稔彦(こが・としひこ)さんが3月24日午前、死去した。53歳だった。関係者によると、病気療養中だった。
佐賀県に育ち、兄の影響で柔道を始めた。中学進学と同時に東京・世田谷の柔道私塾「講道学舎」に入門。世田谷学園高、日体大と歩むなかでトップ選手に台頭し、小柄ながら切れ味の鋭い一本背負い投げで「平成の三四郎」の異名を取った。

89年、91年と世界選手権を連覇。絶対的な金メダル候補として臨んだ92年バルセロナ五輪は大会直前に左膝を負傷。試合までほとんど体を動かせないなかで減量し、本番は痛み止め注射を打ちながら戦った。
準決勝は代名詞の一本背負い投げで鮮やかな一本勝ち。痛みをこらえた決勝は旗判定をものにし、悲願の金メダルに輝いた。銀メダルを獲得した96年のアトランタ五輪まで3大会連続で五輪に出場した。
2000年の現役引退後は指導者として後進の育成に努めた。特に女子の指導に長く携わり、代表コーチを務めた04年アテネ五輪では谷本歩実選手を金メダルに導いた。
07年から柔道部総監督に就任した環太平洋大学(岡山)でも東京五輪代表の素根輝選手らを指導。トップ選手だけでなく、川崎市内に町道場「古賀塾」を開くなど、子どもたちの指導にも力を注いだ。
25日から始まる東京五輪の聖火リレーで、佐賀県のランナーに選ばれていた。


​​着ると強くなった気に成る柔道着🥋だ​。​​​​
小川直也さん、同級生・古賀稔彦さん急逝に「早すぎるよ」
報知新聞社 2021/03/24 13:58
1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリスト・古賀稔彦さん(享年53)の訃報に、同級生の同五輪95キロ超級銀メダリストで元プロレスラーの小川直也さん(52)が24日、スポーツ報知の取材に「早すぎるよ。言葉が見つからない」と声を詰まらせた。
 世界選手権3連覇、全日本選手権7度優勝などの実績がある小川さんは、同級生の古賀さんとともに1990年代にニッポン柔道界をリードした存在だけに「亡くなったと聞いてびっくりした。今度会おうという話もしていたのに残念。言葉が見つかりません」と悔しさをにじませた。
 小川さんは先月初旬、体調がすぐれないという古賀さんに心配で電話をしたという。「30分くらい話をしたんですが、声はいつもどおりだった。病気も治るものだと…。高校時代から知っている仲だし、馬鹿話ばかり。体調の話になった時には、『お前は健康に気をつけろよ』などと気をつかってくれた。彼の体調が良くなったら、快気祝いでもやろうと話していたのに…」。2人は高3の国体で同じ東京チームになって以来、親交を深めてきた。1987年のエッセン世界選手権では同室。89年ベオグラード世界選手権では2人だけが世界王者となり、翌年の全日本選手権で戦おうと約束。その言葉どおりに、体重無差別の大会で古賀さんは重量級選手相手に勝ち上がり、決勝で両者の対決が実現した。
 「日本武道館が満杯になって…。ほとんどが古賀君の声援でアウェー状態だった。こっちは連覇がかかっていたし、お互いに負けられなかった」と小川さん。「階級は違うけど、お互いに柔道界を引っ張るライバル同士でもありました。電話では『お前もお前で頑張れよ』とお互いに励まし合ったんですが…」と古賀さんの急逝に心を痛めていた。​​​​​​​​​​​​​​​​


​​​​​​​古賀稔彦さん自宅で死去 死因はがん、事務所が発表 吉田秀彦氏、谷亮子氏ら追悼  スポーツニッポン新聞社 2021/03/24 19:04​​​​​​
「平成の三四郎」と称されたバルセロナ五輪の柔道男子71キロ級・金メダリストの古賀稔彦さんが24日、川崎市高津区の自宅で死去した。マネジメント会社が死因はがんと発表した。53歳。佐賀県出身。葬儀・告別式は29日に営まれるが、時間や場所は非公表。
 世田谷学園から日体大に進学。88年ソウル五輪男子71キロ級では3回戦で敗退したが、92年バルセロナ五輪で同級金メダル、96年アトランタ五輪は78キロ級で銀メダルを獲得。世界選手権も3度優勝。00年4月に現役を引退。全日本女子強化コーチや日体大助手などを経て4月から環太平洋大女子柔道部総監督を務めていた。
 バルセロナ五輪78キロ級金メダリストの吉田秀彦氏(51)は「古賀先輩の訃報を聞き、今はただ驚きと、まだ信じられない気持ちでいっぱいです。最後まで奇跡を信じていましたが叶いませんでした。今の私があるのは、古賀先輩のお陰と言っても過言ではありません」とコメント。
 2000年シドニー、04年アテネ五輪柔道女子48キロ級金メダリストで、元参院議員の谷亮子氏(45)は「現役時代は世界中のファンの皆さんを豪快な一本背負いで魅了し、感動させてくれましたし、指導者になられてからも全国の子供たちや多くの方々に広く柔道の素晴らしさを伝えられ、普及発展に多大な貢献をされてきました。最も尊敬する柔道家であり、常に柔道界に新しい風を吹かせてくれた方です」と追悼した​​

​​​​​「オレ、がんになっちゃったよ」急死・古賀稔彦さん 最期まで気丈にふるまう東スポWeb 2021/03/24 14:16
1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦氏が24日朝に神奈川・川崎市内の自宅で53歳の若さで死去したことが、日本中に衝撃を呼んでいる。
古賀さんと親しい関係者によると、昨年夏にがんの手術を受けて静養していた。その際には周囲が気を使わないように「オレ、がんになっちゃったよ」と明るく語っていたと言い、闘病を続けてきた。ストイックな古賀さんらしく、前向きに治療を続けたおかげで、一度は快方に向かったという。
ただ古賀さん自身が「完璧主義者なので」(同関係者)、現状に満足しなかったと言い、各種の抗がん剤を試すなどしてしていたが、がんは転移。腹水がたまるなど、症状が悪化していったという。
それでも決してあきらめず、複数の病院に通い闘病を続けてきた。同関係者は「余命いくばくもなく…という状態では決してありませんでした。この前話した時も大丈夫だったのに…。ショックです」と沈痛な表情だった。
​​​​☞ 流石古賀だ。最後の最後まで漢だった。
  重ねてご冥福をお祈りします​​​。

​​​急逝の古賀稔彦さん、母親には病気を告げていなかった 「もう帰ってこんけんですね」連絡受け驚きと涙 2021年3月24日 16時19分​​​
24日に亡くなった柔道家の古賀稔彦さん(享年53)の母、愛子さん(79)が同日、佐賀県みやき町の自宅で読売テレビ制作「ミヤネ屋」でインタビューに応じた。
 愛子さんはこの日の朝、古賀さんの長男から電話で訃報を知らされたそうで、「電話を受けてビックリした。やっぱり涙が先に出ますね」と振り返った。この日は古賀さんが起きてこないため、妻が「パパ起きて」と呼び掛けたところ、起きなかったとも明かした。
 古賀さんは病気について母に報告せず、愛子さんは「私には言わないで、ということだったらしいんですよ。全然何の病気かも知らないですし、やっぱり心配するから」と話した。手術を受けていたことも知らず、2、3日前に検査入院していたことを聞いたという。「いろいろあったらしくて、それから心配したっちゅう感じで、それまで全然知らなかったです」とも話した。病状はこの数日で急変したようだ。
 息子との急な別れには「私と逆になっとったけん、私が見送ってもらわなんとね。私が子どもば見送らんちゅうのは親としてはつらい」と嘆き、「もう帰ってこんけんですね。話しもされないしね」と涙をぬぐっていた。


​​
​2020年11月​ 中日新聞取材時
古賀稔彦さん自宅から斎場へ、吉田秀彦氏らおくる
日刊スポーツ新聞社 2021/03/28 16:14
24日に53歳で死去した92年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの古賀稔彦さんの遺体が28日午後、川崎市の自宅から斎場(非公表)に移送された。


​自宅1階の柔道場中央で道着をまとって眠っていた古賀さんは棺に納められ、長男颯人(23)、次男玄暉(22=日体大)、長女ひより(20=環太平洋大)、同五輪柔道男子78キロ級金メダルの吉田秀彦氏(51)らによって霊きゅう車に乗せられた。助手席に乗った喪主の妻早苗さんは、涙しながら親族や近隣住民らに深々と頭を下げるなど気丈に対応していた。​
関係者によると、古賀さんは昨年から体調を崩し、がんであることが判明。手術を受け、闘病生活を続けていた。今月上旬に体調が悪化して帰らぬ人となった。この日夜に通夜、29日に葬儀・告別式が営まれる。​​​​​​​​

古賀稔彦さん道着姿で棺、戒名に「剛、柔、制、金」
日刊スポーツ新聞社 2021/03/29 00:15
24日に53歳で死去した92年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの古賀稔彦さんの通夜が28日、川崎市内の寺院で営まれた。小雨が降る中、柔道関係者ら約3000人が参列し、「平成の三四郎」との早過ぎる別れを惜しんだ。
柔道私塾「講道学舎」で苦楽を共にした同五輪男子78キロ級金メダルの吉田秀彦氏(51)は「信じられない。中学から同じ釜の飯を食べて、何でも古賀先輩のまねをしてきた。兄貴みたいだし、2人で金メダルを取れたのは先輩のおかげ…」と涙に声を詰まらせた。
​古賀さんは最期まで「最強の柔道家」らしく白道着に身をまとい、黒帯を締めて棺(ひつぎ)に納まった。遺影は同五輪決勝で勝利した瞬間の写真など計3点が使われた。戒名は「​​​​​金剛院献柔稔制大居士​​​​​」(こんごういんけんじゅうねんせいだいこじ)。中量級で90年全日本選手権準優勝など柔よく剛を制すから剛、柔、制。金メダルの金、名前から稔を取り、「日本柔道に貢献された」との意味がある。​
高校時代からの戦友の小川直也氏は「これでお別れと思うと言葉が出ない。『ばかやろー』って感じだよ…」と声を震わせた。全日本柔道連盟の山下泰裕会長は「残念でならない。まだやり残したことがたくさんあったと思う」と悼んだ。
展示スペースには、柔道着や金メダル、家族写真などのほかに、国際オリンピック委員会のバッハ会長からの追悼メッセージもあった。葬儀・告別式は29日に営まれる。【峯岸佑樹】
◆主な参列者 山下泰裕、吉田秀彦、小川直也、北田典子、金野潤、中村兼三、山田利彦、園田隆二、泉浩、中矢力、海老沼匡、梅木真美、北島康介、岩崎恭子(順不同、敬称略)
​​​​​​

​​​​​古賀稔彦さん通夜に3000人参列…吉田秀彦氏無念の涙「現実と受け取れない」デイリースポーツ 2021/03/28 21:43​​​​​
24日にがんのため53歳の若さで亡くなった、1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんの通夜が28日、川崎市内の寺院で営まれた。全日本柔道連盟の山下泰裕会長(63)ら柔道関係者をはじめ、約3000人が参列。同五輪男子78キロ級金メダルの吉田秀彦氏(51)は手で涙をぬぐいながら、「現実とは受け取れない心境」と無念さをにじませた。
 古賀さんが亡くなる前日にも見舞いに訪れていたという吉田氏は「こっから元気になってくれると信じて先輩に声をかけたので、それが通じずに亡くなってしまい、信じられない気持ちでいっぱいです」と悲痛な思いを明かした。
 古賀さんは柔道私塾「講道学舎」の2学年先輩で中高時代から一緒に汗を流した。ともに出場したバルセロナ五輪では、直前練習で自身と乱取り練習をしている際に、古賀さんが左膝の靱帯(じんたい)を損傷。満足に歩けない状態となったが、それでも痛み止めを注射し、テープで固定しながら執念で金メダルを獲得して感動を呼んだ。
​ 吉田氏は「中学から一緒の釜の飯を食って、自分は何でも古賀先輩のまねをしてやってきた人間。本当に兄貴みたいによくしてもらったし、五輪で2人で一緒に金メダルを取れたのも先輩のおかげ」と改めて感謝。「五輪で練習してけがさせてしまったのもそうですけど、その後に自分に気を使い、周りに気を使い、ああいう状況でも試合に出ることを諦めず、どうやって金メダルを取るかしか考えていなかった。それを間近でずっと見ていたので、なんてすごい人なんだと。自分じゃまねできないなと思っていたし、そういうすごい人が身近にいて、いいお手本になっています」と最敬礼した。

​古賀稔彦さん告別式 吉田秀彦が涙の弔辞 53秒言葉出ず…「先輩、早すぎます」デイリースポーツ 2021/03/29 17:47​​
1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級王者で、24日にがんのため53歳の短い生涯を閉じた古賀稔彦さんの葬儀・告別式が29日、川崎市内の寺院でしめやかに営まれた。芸術的な一本背負い投げを武器に人気を集め、「平成の三四郎」と呼ばれた金メダリストとの最後の別れ。古賀さんは白い柔道着、黒帯姿で白いひつぎに納められ、出棺となった。
 柔道界からは吉田秀彦さん、谷亮子さん、野村忠宏さん、東京五輪代表に内定している阿部詩選手らが参列した。弔辞に立った吉田さんは、進行役から促されたあと、53秒間、なかなか言葉が出なかった。「先輩、早すぎますよ。亡くなる前日、会いましたね。その時、手を握って頑張ってと声を掛けたら、先輩は手を握り返してくれましたね。その感触が今でも残っています・・・」と、何度も涙で言葉を詰まらせた。講道学舎時代、そして、バルセロナ五輪の思い出を振り返りながら「強い精神力を持った先輩がまさかがんに負けるとは思いませんでした。ともに過ごしたバルセロナの10日間を見ていたので、先輩なら必ずがんに打ち勝ってまた奇跡を起こしてくれると信じていました。今まで先輩のマネばかりしてきました。先輩のマネをすれば強くなるんだな。先輩がひげを生やせば僕も生やして試合に出ました。でもこんなに早く死ぬことだけはマネできません。もっと先輩と語りたかったです。天国でゆっくり休んでください」と語り、「先輩、東京でやる五輪、見たかったですよね。日本選手の活躍を楽しみに見守ってください。先輩にサヨナラは言いたくないので、お疲れ様でした」と、結んだ。
 古賀さんは96年アトランタ五輪は78キロ級で銀メダルを獲得するなど活躍。指導者としても女子日本代表で63キロ級の谷本歩実を2004年アテネ五輪制覇に導き、環太平洋大を女子で全国屈指の強豪に育てるなど力を発揮した。昨年3月に腎臓を片方摘出し、闘病生活を送っていた。
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​​​​​​​​​​​​​​​​​小川直也氏「バカヤロー」古賀稔彦さん通夜参列で悲痛…「かけがえのない友失った デイリースポーツ 2021/03/28 21:43​​​​​​​​​​​​​​​​
24日にがんのため53歳の若さで亡くなった、1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんの通夜が28日、川崎市内の寺院で営まれた。全日本柔道連盟の山下泰裕会長(63)ら柔道関係者をはじめ、約3000人が参列。同五輪95キロ超級銀メダルの小川直也氏(52)は「言葉が出ない。バカヤローって感じだよ。早えーよ」と、どこにもぶつけようのない無念をあらわにした。
 人知れず闘病していた古賀さんとは、2カ月ほど前に連絡を取ったという。「すごく元気で笑い合っていたのに…まさかという感じ。今でも(死去を)信じられない。今日でお別れと思うと言葉が出ない」。直接会うことはかなわなかったといい、「『お前の前じゃ、こんな(弱った)体をみせられない。元気になるまで待ってくれ』と言われて。最後まで俺の前では元気な姿を見せたかったのかな…。今はゆっくり休んでくれとしか言いようがない」と語った。
 古賀さんとは同学年で高校時代から旧知の仲だった。1990年全日本選手権では体重無差別の大会にもかかわらず、中量級の古賀さんが決勝まで進出。小川氏と真っ向勝負の接戦を演じて古賀さんが敗れたものの、準優勝に輝いたことは伝説となっている。
 「ずっとライバル関係で、あいつがいるから今の自分があると思う」と小川氏。「柔道の戦いではなく、常に色々な面で戦っていたのかもしれないね。現実にみんなの前で戦えたのは全日本だったが、俺も一生あの戦いは昨日のように思い出すし…。彼が死んでから、高校時代の夢を見た。互いに当時の高校時代の制服を着ていて…。かけがえのない友を失ったよ」と寂しそうに話した。

​古賀稔彦さん通夜に3000人 吉田秀彦氏「信じられない気持ちでいっぱい」報知新聞社 2021/03/28 22:09​​​
24日にがんのため亡くなった1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの古賀稔彦さん(享年53)の通夜が28日、川崎市内の寺院でしめやかに営まれた。
 全日本柔道連盟の山下泰裕会長、バルセロナ五輪78キロ級金メダルの吉田秀彦氏、同95キロ超級銀メダルの小川直也氏ら柔道関係者をはじめ、競泳の北島康介さんら約3000人が弔問に訪れ、別れを惜しんだ。講道学舎の後輩の吉田氏は「現実とは受け取れない。信じられない気持ちでいっぱい」と声を詰まらせた。
 山下会長も「亡くなった日の朝に一報を受けて信じられず、大変ショックを受けた。まだまだ柔道界でやり残したことがたくさんあったと思う。残念ですが、天国から彼の教え子たちの活躍を楽しんでもらえたらと思います」と故人をしのんだ。東京五輪に向けて、「日本柔道も古賀稔彦さんに上から笑顔で微笑でもらえるように頑張っていきたい」と決意を新たにした。
 また、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長からも「古賀稔彦さんが亡くなられたことを知り、大変残念に思っております。この悲しみの瞬間に言葉で慰めることはできませんが、オリンピック・コミュニティがご家族と一緒になって、このような偉大なアスリートの死を悼んでいることが慰めになることを願っています」などと追悼メッセージが寄せられた。

​​​古賀稔彦さんに最後のお別れ 吉田秀彦氏涙の弔辞 東京五輪「見たかったですよね。日本選手の活躍を見守ってください」, 報知新聞社 2021/03/30 06:00​​
24日にがんで亡くなった1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの古賀稔彦さん(享年53)の告別式が29日、川崎市内の寺院で営まれた。同五輪で78キロ級を制した吉田秀彦さん(51)が涙ながらに弔辞を読み、教え子で2004年アテネ五輪女子63キロ級金メダルの谷本歩実さん(39)ら約1000人が参列。「平成の三四郎」との最後の別れを惜しんだ。
 弔辞を読み上げようとした吉田さんは53秒間、言葉に詰まった。「早すぎますよ…」。そう言葉を絞り出すと、亡くなる前日の23日に面会し、古賀さんが手を握り返してくれた時の感触が思い出された。中3で講道学舎で出会ってからの年月を振り返り「先輩の近くにいたから柔道でも先輩に追い付きたいと思うようになり、いつか同じ世界の舞台で戦いたいという夢ができました」と語りかけた。
 夢が実現したのはバルセロナ五輪だった。古賀さんは現地入り後の吉田さんとの練習で左膝を負傷し、ベッドから動けない状態だったが、後輩に気を使わせまいと「俺これで金メダル取れるよ。だからお前も絶対に取れ」と明るく振る舞っていた。吉田さんは「ともに過ごしたバルセロナの10日間を見ていたので、先輩なら必ずがんに打ち勝ってまた奇跡を起こしてくれると信じていました」と悔やみ、「東京でやる五輪、見たかったですよね。日本選手の活躍を楽しみに見守ってください。さよならを言いたくないので。お疲れさまでした」と締めくくった。
 教え子の谷本さんは「五輪で金メダルを目指す道はすごくつらかったけど、古賀先生が太陽のように明るく、頑張る力をたくさんくれた」と悼んだ。古賀さんの長男・颯人さん(23)は「これから私たち家族は父の教えと精神と遺志を受け継ぎ、父の分まで精いっぱい生きていきたいと思います」とあいさつ。「平成の三四郎」は白の柔道着と黒帯姿で出棺。約1000人が合掌し、偉大な柔道家をしのんだ。(林 直史)
 ◆主な参列者
 ▽柔道関係者 上村春樹、吉田秀彦、北田典子、谷亮子、野村忠宏、溝口紀子、恵本裕子、谷本歩実、梅木真美、塚田真希、阿部詩(順不同、敬称略)​​​

古賀颯人さん、父稔彦さん最後まで病気と闘っていた
日刊スポーツ新聞社 2021/04/03 14:40
日体大の入学式が3日に東京・世田谷キャンパスで開かれ、53歳で死去した92年バルセロナオリンピック(五輪)男子71キロ級金メダル、古賀稔彦さんが「功労スポーツマスター」の称号を受けた。この日は長男の颯人さん(23=慶応高教諭)が出席。「平成の三四郎」と呼ばれた亡き父の代わりに賞状や記念品を受け取り、改めてその偉大さをかみしめていた。
功労スポーツマスターは、日本スポーツ界の発展に著しい貢献をした人に授ける称号で、受章者は13人目。京都・伏見工(現京都工学院)時代に花園制覇をした高校ラグビーの名将、山口良治氏らが名を連ねている。式典を終えた颯人さんは「お世話になった日体大から父が名誉ある賞を受けて大変光栄です」と感謝した。
生前の父について颯人さんは「本当に最後の最後まで病気と闘っていた」と振り返り、亡くなる前日に強く手を握ってくれたことを印象的なことに挙げた。「(父は)試合で勝ったり負けたりする中でも、いつも次に向けたアドバイスをくれる。怒られたことはなく、いつも優しかった」。反面教師にすることはあったかと問われ「ない」ときっぱりと答え、ここまで育ててくれたことへの感謝を惜しまなかった。
父の背中を追い掛けながら、今後も柔道家としての道を歩む。「目の前の1戦1戦に集中して、さらに上を目指して戦っていきたい」と力強く語っていた。
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最終更新日  2021/04/03 04:29:43 PM
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