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貴様の見苦しく無様な相撲を見なくて良いのは結構な
こと
だが、急に宗旨替えとは怪訝に思ってしまう。
​年寄株の工面がついたのか💴
​​​​​​​🏆白鵬🏆引退勧告​🥇新型💀コロナ冠状病毒肺炎💀武漢virus感染​☠​​​​​​​​​


横綱白鵬引退へ、最多45回優勝 36歳、右膝回復に遅れ

共同通信社 2021/09/27 10:52
大相撲で史上最多の優勝45回を誇り、長く第一人者として活躍した第69代横綱白鵬(36)=本名白鵬翔、モンゴル出身、宮城野部屋=が現役引退の意向を固めたことが27日、関係者の話で分かった。通算1187勝、幕内1093勝など数々の史上1位記録を樹立した大横綱が、ついに土俵を去ることになった。
 宮城野部屋付きの親方として後進を指導する意思を持っている。
 白鵬は右膝のけがや新型コロナ感染で昨年7月場所から6場所連続休場。進退を懸けた今年7月の名古屋場所では15戦全勝で復活優勝を遂げた。しかし関係者によると、右膝の回復が遅れ、進退について熟慮していたという。
​​最強横綱・白鵬ついに引退決意…「一代年寄」望むも品格ゼロで“襲名NO”か日刊ゲンダイDIGITAL / 2021年9月27日 11時0分​​
大相撲の第69代横綱・白鵬(36)が現役を引退する方向であることが27日、分かった。
 白鵬は、右膝の手術の影響などで休場が続き、昨年11月場所後に横綱審議委員会から「休場があまりにも多い」として「引退勧告」の次に重い「注意」の決議を受けた。進退を懸けて出場した7月の名古屋場所では、最多を更新する45回目の優勝を全勝で果たした。
 しかし、痛めた右膝の状態は限界で「今後本場所で横綱として15日間土俵を務めることはできない」と判断し、現役を引退する意向を固めたという。
■史上最多45回優勝
 白鵬は最多優勝のほか、横綱在位84場所、通算1187勝、幕内1093勝。まさに最多記録ずくめの最強横綱だった。
 白鵬はしこ名のまま親方の資格を得る「一代年寄」を希望し、東京・銀座に部屋を持つことが夢だという。今後については、秋場所後の「年寄資格審査委員会」で議論されるが、過去に取り口や言動が繰り返し批判を集めており、一代年寄が認められる可能性は低いとみられている。


62キロの少年がつかんだ「運」と「夢」 孤独と闘い 白鵬引退
毎日新聞 2021/09/27 19:48
歴代最多45回の幕内優勝を誇る大相撲の横綱・白鵬(36)=宮城野部屋=が現役を退く決意を固めた。2001年春場所での初土俵から20年。横綱を14年以上務めた第一人者は自らの強さを「よりどころ」に、常に孤高の存在であり続けてきた。
 「(体重)62キロの小さな少年がここまで来られるとは、誰も想像しなかったと思う」。白鵬は自らの相撲人生を振り返る時、いつもそう口にしてきた。
 白鵬は15歳だった00年秋にモンゴルから来日。父ムンフバトさん(故人)はモンゴル相撲の元横綱で、レスリングで同国初の五輪メダリストになった国民的英雄だったが、白鵬は体の小ささから入門先がなかなか見つからず、帰国寸前のところで現在の師匠である宮城野親方(元前頭・竹葉山)に引き取られた。
 「無理やり牛乳を5リットル飲ませたり、ご飯をどんぶり3杯食べさせたり……。新弟子の頃はさぞ苦しかったと思う」。宮城野親方は当時を振り返る。それでも相撲の素質や期待から、名付けたしこ名は「白鵬」。昭和に一時代を築いた大鵬、柏戸の両横綱にあやかったものだった。
 かつて兄弟子だった同郷モンゴルの元幕内の龍皇(38)が「まるで殴り合いだった」と語った激しい稽古(けいこ)に耐え、幕下時代には巡業中に積極的に関取衆の胸を借りることで番付は急上昇。18歳だった04年初場所で新十両に上がると、わずか2場所で新入幕。07年夏場所で2場所連続優勝を果たすと、22歳の若さで横綱に昇進した。
 モンゴルの先輩横綱・朝青龍が暴行事件を起こし、10年初場所後に急きょ引退して以降、12年秋場所後に日馬富士が横綱昇進を果たすまでの計15場所は「一人横綱」として角界を支えた。常に勝利を求められ、孤独と隣り合わせの中、「昭和の大横綱」大鵬の納谷幸喜(なやこうき)さんが持つ32回の最多優勝記録を抜くことがモチベーションになった。晩年、体調がすぐれなかった納谷さんを見舞うたび、白鵬は声をかけられた。「四股や鉄砲など基本の稽古を続けなさい。稽古をしっかりやって(優勝記録を)抜かれるなら、俺はそれでいい」。13年1月の納谷さんの死去後は献血運搬車の寄贈事業を引き継ぎ、15年初場所に33回目の優勝を果たすと、「大鵬さんに恩返しができた」と喜んだ。
 白鵬が相撲人生を振り返った言葉がある。
 「10代では朝青龍関、(元大関の)魁皇関、栃東関ら先輩の壁にぶつかり、一人横綱の時代が来て、(後輩横綱が誕生し)新たな時代を生きている。私は三つの時代で、相撲を取っているんですね」
 特に同年代だった日馬富士の存在は大きく、互いが横綱になっても稽古先で顔を合わせると激しい申し合いを行った。そんな日馬富士や鶴竜ら同郷の横綱のみならず、好敵手だった稀勢の里までもが先に引退。「周りは『もういいだろう』と思っているかもしれないが、そうはいかない」。またも訪れた孤独な戦いの中で、若手の「壁」であり続けることにやりがいを見いだした。
 近年はかち上げや張り手といった荒々しい取り口に加え、公然と審判への不満を口にしたり、優勝後のインタビューで観客に万歳三唱を促したりと、横綱の「品格」が問われた。日本相撲協会横綱審議委員会(横審)の矢野弘典委員長は27日、「横綱在位中の実績は歴史に残るものがあった」と評価した一方で、「粗暴な取り口、審判に対する態度など目に余ることが多かった」と振り返った。
 文字通り、未到の境地に挑み、戦い続けた土俵人生だった。ファンからサインを求められると白鵬は、色紙に納谷さんが好んだ「夢」とともに「運」の文字を添えた。
 「運は『軍』が走ると書く。つまり、戦わなければ運は来ないんです」​​​​​​

​​​​​【大相撲】横審委員長が引退白鵬に「態度、振る舞いなど目に余る。反省してほしい」東スポWeb 2021/09/27 18:48​​
日本相撲協会の諮問機関、横綱審議委員会が27日、東京・両国国技館で定例会合を開いた。矢野弘典委員長(産業雇用安定センター会長)は、現役引退の意向を固めた横綱白鵬(36=宮城野)について言及した。
同委員長は「今日、白鵬が引退するという届けが(宮城野)親方を通じてあったと八角理事長から聞いた。横綱在任中の実績というのは45回の優勝をはじめ、歴史に残るものがあった。半面、相撲の取り口、審判に対する態度、土俵外での振る舞いなど目に余ることも多く、横審はそれらを指摘し、反省を求めてきた。今後は弟子の育成にあたると思うが、こうした点は十分反省して相撲道の良き伝統を伝えてほしい」と述べた。

横審は昨年5場所のうち4場所で休場した白鵬に対して「引退勧告」の次に重い「注意」を史上初めて決議。7月の名古屋場所で45回目の優勝を達成したことで注意を解除する一方、土俵で見せたヒジ打ちやガッツポーズなどの行為に「見苦しい」「どう見ても美しくない」「大相撲が廃れていく」などと苦言。今後に問題行動を起こした場合は再び決議を下すことを示唆していた。​​​

​​​​​​​白鵬の引退意向に横審 評価と苦言「見事な成績」「模範になる存在でないと」デイリースポーツ 2021/09/27 20:03​​​
日本相撲協会の諮問機関、横綱審議委員会(横審)の定例会が27日、両国国技館で行われた。史上最多45回の優勝を誇る横綱白鵬(36)=宮城野=が引退届を提出する意向であることが、八角理事長(元横綱北勝海)を通じ、横審メンバーにも伝えられた。
 矢野弘典委員長(産業雇用安定センター会長)は「横綱在任中の実績は45回の優勝を始め歴史に残るものがあった。今までの横綱の実績と比べて、本当に見事な成績を収めた」と実績を評価した。

 一方でエルボーまがいのかち上げ、張り差しなど取り口に横審は常に苦言を呈した。名古屋場所千秋楽のガッツポーズ、雄たけびを「見苦しい」と、切り捨てるなど、品格も問題視してきた。
 同委員長は「反面、粗暴な取り口、審判に対する態度、あるいは土俵外での振る舞いなどに目に余ることも多く、横審はそれらを都度、反省を求めてきた」と説明。最後まで横綱としての振る舞いには不満をあらわ。
 「やっぱり横綱という者はもっともっと大きな責任があるということ。自分1人が強くなるじゃなしに、相撲界を引っ張っていかないといけない。模範になる存在でないといけない。時々、苦言を申し上げてきたのですが、それはみんなの共通した思い」と、残念がった。
 協会に対しても「かち上げ、張り手に一般のファンにもわかりやすい説明をする必要があるのではないかと問題提起をいたしました」と明かした。
 白鵬には親方として弟子の育成をする際は改善に期待。「本来の相撲道というのをしっかり見つめ直して、それにふさわしい力士を育ててほしい。私どもが折りに連れて問題提起していたことをしっかり思い直して、それを含めて弟子に指導をやってくれると良いと思います。相撲に対する国民的な思いはこれは別格。他のスポーツのチャンピオンが引退するのとは様子が違う。相撲道とか武士道と言われる世界。ファンも国民も本人がどういう行動を取るかと言うことは今後も自然に注目していく」と言葉を送った。

​​​​​白鵬引退 なりふり構わぬ「相撲道」に賛否両論「貴乃花と同じ時代なら結果は違う」2021/09/27 17:00​​
横綱・白鵬が現役引退する意向であることがメディアで一斉に報じられた。7月の名古屋場所で千秋楽の大関・照ノ富士戦で全勝決戦を制し、昨年春場所以来45度目の優勝。全勝優勝は自身の歴代最多記録を更新する16度目で、一人横綱の優勝は戦後最多の19度目と新記録を次々と打ち立てた。6場所連続休場明けでの優勝は横綱大鵬の5場所を抜いて最長のブランク。結果的にこの名古屋場所が、現役最後の場所となった。
 白鵬は取組後の優勝インタビューで、「右ひざがボロボロで言うことを聞かなかったので、この一番ですべてをかけようと思って気合い入れてやりました。まさかこの年で、全勝で優勝できるなんて、場所前は思わなかったので本当にホっとしている」と安どの表情を浮かべていた。
 今後の目標を聞かれると、「これで横綱として899勝。あと1勝で900勝なので1勝目指して頑張っていきたいと思います」と誓ったが、所属する宮城野部屋に新型コロナウイルス感染者が出た影響で9月の秋場所を全休。戦う炎が消えてしまったのかもしれない。
「激闘を繰り返して心身共に限界は近かったと思います。色々言われてきましたが、樹立した記録は今後もなかなか破られることはないでしょう。白鵬は決してエリートではない。来日した時は体が細くて、来日した際にもスカウトの声がまったくかからなかった。モンゴルの帰国直前に宮城野部屋への入門が決まり、努力を積み重ねて番付を駆け上がっていった。まさに史上最強の横綱といってよいと思います」(スポーツ紙記者)
 22歳2か月の史上3位の年少記録で横綱になると、モンゴルの先輩・朝青龍が現役引退して「1人横綱」の期間が長かった。横綱在位84場所、通算1187勝、幕内1097勝はいずれも最多記録。ただ、称賛する声が多かったかというとそうではない。かち上げなどの取り口や、土俵でガッツポーズするなどの態度が「横綱としての品格を欠く」と批判された。
 皮肉にも全勝優勝した最後の名古屋場所も、相撲内容が物議を醸した。14日の大関・正代戦は仕切り線から目いっぱい遠ざかり、両足が俵にかかりそうな位置で腰を落として場内がどよめいた。奇襲が功を奏して浴びせ倒しで勝つと、千秋楽の照ノ富士戦は立ち合いで左手を出して立つと、右から強烈なかちあげ。離れてから張り手を繰り出し、四つに組み止あった後は小手投げで、勝負を決めた。照ノ富士が前に倒れると、白鵬は右こぶしを突き上げるガッツポーズで雄叫びを上げた。なりふり構わず白星をつかむ執念が、白鵬の「相撲道」だったのかもしれない。
 白鵬引退の一報は大きな反響を呼んだ。SNS、ネット上では、「色々あったが、間違いなく史上最強の横綱だと思う。全盛期の勝ちっぷりは衝撃的だった。こんなに長く横綱として活躍した力士もいないでしょう」と功績をたたえるコメントがある一方で、「白鵬が強いことに異論はない。でも、日本人力士が情けなさすぎるよ。反則技を見過ごす相撲協会もおかしい。貴乃花、曙、武蔵丸と同じ時代なら力でねじ伏せされて、エルボーみたいなかち上げもできなかっただろう。史上最強だとは全く思わない」という反論も。
 現役引退後は後進の育成に当たるとみられる。賛否両論あったが、現役時代は己の「相撲道」を貫いた。親方になり、どんな力士を育てるのか楽しみだ。


前代未聞の誓約書 白鵬に相撲協会の不信感あらわ
2021/09/30 20:21 産経新聞
30日の白鵬の年寄襲名は前代未聞の事態だ。白鵬が親方になるために日本相撲協会が求めたのは、先輩の指導に従い、相撲界の習わしを守っていくという誓約書の提出。土俵内外で品格を問われ続けた白鵬に対し、協会が抱く不信感と危機感があらわになった形だ。
優勝45回の大横綱の言動には目に余るものも多かった。肘打ちのようなかち上げ、ビンタのような張り手は粗野で、審判の判定を公然と批判する姿も見苦しかった。土俵内で残した実績は他の追随を許さないものの、品格を問われて仕方がない面は多々あった。

白鵬には協会幹部や横綱審議委員会が苦言を繰り返してきたが、言動に劇的な改善はみられなかった。親方になっても周囲の忠告に耳を傾けず、相撲界を継承していく力士を育成されてしまえば、よき伝統が破壊されるとの懸念を抱かれてもおかしくない。

白鵬が相撲と日本を愛していることに疑いの余地はない。実績が傑出しているだけに、後進育成への期待感が高い一方、日本人が求める柔和で礼儀正しい力士を育てていけるか懐疑的な目も多い。異例の関心を集めながらの船出となる。
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実績十分の白鵬 年寄襲名に異例の“物言い”がついた理由
毎日新聞 2021/09/30 19:30
45回の幕内優勝など実績は申し分のない白鵬だが、引退と年寄襲名という流れで“物言い”がついた。「優等生横綱」と呼ばれながら近年は周囲が眉をひそめる振る舞いがあり、親方になることを不安視する周囲の声が、「初めて」(芝田山広報部長=元横綱・大乃国)という異例の誓約書の形で表れた。
 理事会が襲名を承認する上で条件としたのは「理事長をはじめ先輩親方の指揮命令・指導をよく聞くこと」「相撲界のしきたりを守り、逸脱した言動を行わないこと」といった内容だ。白鵬から異論はなかったという。
 協会によると、5人の親方と外部委員1人で構成する29日の年寄資格審査委員会で厳しい意見が出たという。現役最後の優勝となった7月の名古屋場所千秋楽では力を誇示するようなガッツポーズを見せ、東京オリンピック期間中には協会に事前に連絡せずに柔道会場を訪れた。新型コロナウイルス対策に協会を挙げて取り組んでいるさなかのことだ。
 実績を考えれば大鵬、北の湖、貴乃花に贈られた(千代の富士は辞退)「一代年寄」の道が考えられた。白鵬自身、北の湖が亡くなった2015年に「北の湖理事長から一代年寄をもらいたかった」と語ったほどだ。しかし協会の諮問機関「大相撲の継承発展を考える有識者会議」は今年4月、一代年寄の「制度そのものがない」と否定的な見解を示し、可能性は事実上、閉ざされていた。理事会でも一代年寄の議論はなかった。
 白鵬は19年に日本国籍を取得し、親方になる条件は満たした。それでも異論が出たのは、張り手や肘打ちのようなかち上げなどの取り口、納得のいかない判定に対する審判批判が問題視され、優勝インタビューで観客に万歳三唱を求めて厳重注意を受けるなど、近年は協会が“制御”しきれなくなっていたことが背景にある。
 芝田山広報部長は「白鵬に対して期待があるから、しっかりとしてもらいたいということで、みんなの意見でこういうふうになった」と語った。
 白鵬は現役時代から自らスカウトした「内弟子」を育てるなど、後進育成へ強い意欲がある。親方として尊敬を集める存在になることで、周囲の不安を一掃してほしい。​​​​

​元横綱白鵬 強くなった理由「たくさん技がある人は一つも怖くなかった。型を持っている人間が一番怖かった」 2021/10/01 21:57​​​
大相撲秋場所限りで現役を引退した元横綱白鵬の間垣親方(36)=宮城野=が1日、東京・両国国技館で引退会見に臨んだ。

【引退会見の主なやりとり】

―思い浮かぶこと

 間垣親方「本当に相撲が大好きだなと、幸せもんだなと思います」

―綱の重みとは

 「横綱昇進したころは勢いもありましたし、うれしい気持ちもありましたけど、右も左も分からないときに、大鵬親方と出会ったことにこの場を借りて感謝してます。大鵬親方に、横綱っていう宿命の中で頑張らないといけない、負けたら引退という言葉をかけられたときに昭和の大横綱の言葉は重かったです。そこから横綱として3年、5年、8年、10年、頑張りたいという気持ちになりました」

―稽古は好きだったか

 「正直にいえば稽古好きな人はいないと思うんですけど、やっぱり強くなりたい、恩返ししたい気持ちがあったものですから。親方に褒めてもらいたい、見てもらいたい一心でやっておりました」

―子ども相撲大会の白鵬杯をやってきた

 「26歳から始めてこの大会は10年になりますけど、すでに大会で活躍した子供が入門して自分とも対戦し、私も負けましたし、大会の花は咲いてるのかなと思います。そして大相撲を目指す子供たち、若手の力士にはまず基本を大事にし、型を作ること。そして型ができたときに型を破ること。まさに型をもって型にこだわらない。そうすれば必ず強くなっていくんじゃないかと思います」

―親方にしか分からないつらさもあったか

 「途中、つらい部分もありましたけど、綱を長く張ることで何かできるんじゃないかという思いもありました。それがこの白鵬杯。子供たち、世界の子供たちに相撲に興味を持ってもらいたい。現役で続けていきたい思いはそこにあったと思います。(自身が)最多優勝の記録を更新したときに目標を失う、夢を失う寂しさ悲しさがあったものですから。やっぱり目標、夢が大きくあればあるほど将来、大相撲を目指す子供たちが頑張っていくんじゃないかという思いで一生懸命頑張ったつもりではあります」

―記憶に残る一番は

 「たくさんありますけど、一つに選べません。二つにしたいと思っています。上がってきて上位で壁に当たったとき、最初で最後の金星、横綱朝青龍関に勝った一番。そして何といっても双葉山関の69連勝に挑戦したときに負けた稀勢の里関。この二つを挙げたいと思います。あの負けがあるからここまでこれたっていうのはあると思います」

―思い残すことは

 「全部出し切りました」

―名古屋場所千秋楽で土俵に額をつけて何かしゃべっていて

 「呼び出しに名前を呼ばれ、これが最後の一番だと思い、土俵にこの20年間本当に感謝の気持ちを伝えて上がりました」 

―膝の状態はどう言われていた

 「この半年で2回の手術を受け、コロナ感染もありまして、その中でリハビリと稽古、トレーニングを続けた中で膝も悪化したところもありました。医師からは『私はやることは終わりました。次また右膝を痛めたら人工関節になる』と言われてました」

―若い世代へ

 「基本を大事にして、まずは型を作って、その型が出来上がったときに型を破る。まさに型をもって型にこだわらない。これができていれば必ず強くなっていくんじゃないかと思います。私の相撲人生の中でもたくさん技がある人は一つも怖くなかったです。型を持っている人間が一番怖かったです」​​

「土俵では鬼に。それこそが横綱相撲と」 白鵬、引退会見の一問一答
朝日新聞社 2021/10/01 19:41
大相撲の元横綱白鵬の間垣親方(36)が1日、東京・国技館で現役引退の記者会見を開いた。引退決断の理由や、厳しい意見が多かった横綱審議委員会への思い、自らにとっての横綱像などを語った。思い出の一番には、やはり、あの黒星を挙げた。

 主なやりとりは次の通り。

 ――今、引退の記者会見という席に座ってどんな思いか。

 「大変緊張しています。ほっとした気持ちでいっぱいです」

 ――引退はどのように、いつ決断したのか。

 「引退を決めたのは名古屋場所中の10日目で決めました」

 「(右)ひざも言うことをきかなくなった。この場所は2桁勝利が私の目標でありました。その10勝を達成した時に宿舎に戻り、親方、部屋の皆さん、裏方に今場所で引退させていただきますと伝えました」

 ――迷いは。

 「右ひざのことを思えば、迷いはなかったと思います」

 ――まだいける、という気持ちはなかったか。

 「ひざのことを思えばなかったと思います」

 ――ご家族は。

 「奥さんは残念がっていましたが、子供たちからは『頑張って欲しい』『もっとやってほしい』という声はありました」

 「私が出会った方々の応援のおかげでここまで来られたと思いますし、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。この場を借りて妻に感謝しています」

 ――21年間の土俵を振り返ってどんな思いか。

 「早いような感じがします。本当に相撲が大好きだな、幸せ者だと思います」

 「今があるのは宮城野親方、師匠が私に声をかけてくれたおかげで、今があると思うので、この場を借りて師匠に感謝します」

 ――強くなっていったころを思い出して。

 「親方にほめてもらいたい一心で稽古に励みました。その思いが、関取になり、大関、横綱と昇進してくことにつながったと思います」

 ――稽古では準備運動に時間をかけていた。

 「やっぱり、体が細く、また大きくしないといけない時期もありましたし、早く強くなりたいと思う時期もありましたけど、(準備運動に時間をかけさせた)師匠の考えがすべて当たったような感じがします」

 ――目標をどう掲げ、ここまで来たのか。

 「大相撲に入るときは『横綱になりたい』という夢はありましたけど、45回優勝したいという目標は立ててはいなかった。積み重ねが、この結果につながったと思います」

 ――横綱としての900勝まであと1勝だった。

 「本当は名古屋場所後に引退をしたいという気持ちがありましたけど、やっぱり、相撲協会に報告することを優先していました」

 「照ノ富士関の横綱昇進もありましたし、オリンピック、パラリンピック、また9月場所前に(引退)という気持ちもありましたけど、部屋からコロナ感染もありまして、今日になってしまいました」

 ――14年間綱を張り続けてきた。その重みは。

 「右も左もわからないときに大鵬親方に出会いました。大鵬親方に『横綱という宿命の中で頑張らないといけない』『負けたら引退』という言葉をかけられた。32回優勝した昭和の大横綱の、この言葉は重かったです」

 ――少年相撲の大会「白鵬杯」が長年続いている。

 「もう10年になります。大会で活躍した子供(幕内阿武咲ら)が入門し、また自分とも対戦し、私も負けましたし。大会の花が咲いていると思います」

 「まずは基本を大事にし、型をつくること。そして型ができたときに型をやぶる。まさに、型をもって型にこだわらない。そうすれば必ず強くなっていくんじゃないかと思います」

 ――横綱審議委員会から厳しい意見があった。

 「横綱になりたてのころは自分の理想の相撲、「後(ご)の先(せん)」を追い求めていた時期もありました。最多優勝を更新してからはけがに泣き、自分の理想とする相撲ができなくなった。横審の先生の言葉通りに直した時期もありましたし、それを守った場所もあったと思います。だけど、けががあり、理想とする相撲ができなくなったことは反省していますし、自分自身も残念に思っています」

 ――自身にしかわからないつらさもあったのでは。

 「途中、つらい部分はありましたけど、世界の子供たちに相撲に興味をもってもらいたかった。現役を続けたい思いは、そこにあったと思う」

 「最多優勝を更新したときに目標を、夢を失う寂しさ、悲しさはありました。でも、目標は大きくあればあるほど、大相撲を目指す子供たちが頑張ってくれるんじゃないかという思いで、頑張ったつもりです」

 ――思い出の一番を一つだけ選ぶとすれば。

 「選べません。二つにしたいと思います。最初で最後の金星になった朝青龍関との一番と、何と言っても、双葉山関の69連勝に挑んでいた時に負けた稀勢の里関。あの負けがあったから、いまがあると思います」

 「63連勝にふさわしい相撲をとらないといけない、恥ずかしくない相撲をとらないといけない、という思いで、ここまで来たと思います」

 ――モンゴルへの思い。

 「父を愛し、また自分を愛し、応援してくれたことが結果につながったと思う。モンゴルの人々への感謝の気持ちでいっぱいです」

 ――日本の皆さんへ。

 「私を育ててくれた方々の応援があるからこそ20年頑張れたと思います。感謝の気持ちでいっぱいです」

 ――名古屋場所の千秋楽で土俵に上がる前に額をつけていたが。

 「呼び出しに名前を呼ばれ、これが最後の一番だと思いました。この20年間、本当に支えてくれた土俵に、感謝の気持ちを伝えました」

 ――ひざの状態は医師からどう言われているのか。

 「医師には『私がやることは全部終わりました』と。『次また、ひざを痛めた場合は人工関節になる』と報告を受けました」

 ――横綱とはどういう存在だと思うか。

 「土俵の上では鬼になって勝ちに行くことこそが横綱相撲だと考えてきました。その一方で、周りのみなさんや横審の先生の方々が言う、『横綱相撲』をめざしたこともありましたが、最終的に、その期待には応えることができなかったのかもしれません」

 ――新横綱の照ノ富士関への思いは。

 「名古屋場所では後を託せる、ということを肌で感じました。若手力士が力をつけていたのは名古屋場所の15日間感じました。バトンタッチというか後を託せると思う。ぜひとも照ノ富士関に頑張ってもらいたいなと思います」

 ――厳しいことも言われた力士人生。親方としてどう生かしていきたいか。

 「弟子たちには、人に優しく、自分に厳しく、義理と人情をもった力士に育ってもらいたい」

 ――横綱として守り続けてきたものは。

 「横綱に昇進するのも大変なことです。それを14年間守り続けた。自分をほめたい。そういう気持ちでいっぱいです」
​​​​​

​​​​​​白鵬の引退会見、一問一答「親方に褒めてもらいたい一心で稽古した」(上)10/1(金) 17:35 産経新聞​​​
大相撲で史上最多45度の優勝を誇り、9月30日付で引退した間垣親方の元横綱白鵬(36)=本名・白鵬翔、モンゴル出身、宮城野部屋=が1日、国技館で引退会見を行った。会見での主な一問一答は次の通り。

本日は足もとの悪い中お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。私、白鵬改め(間垣)、引退させていただくことになりました。今後、年寄間垣を襲名し、後進の指導をさせていただきます。20年、現役中は皆さまに大変お世話になりました。そして活躍の場を与えていただきました日本相撲協会に感謝しております。本日は誠にありがとうございます。

--今の思いは

「大変緊張しています。そして、ほっとした気持ちでいっぱいです」

--引退をいつ決断したか

「引退を決めたのは名古屋場所中の10日目で決めました」

--どんな思いだったか

「去年の8月に手術し、コロナ感染になり、(今年)3月に再び右ひざを手術し、進退をかける最後の場所も、ひざも言うことを聞かなくなり…。この場所は10勝、2桁勝利が私の目標でありました。1番1番、決して簡単な取組はなかったと思います。その10勝を達成したとき、宿舎に戻り、親方はじめ部屋の皆さん、裏方に今場所で引退させていただきますということを伝えました」

--迷いはなかったか

「右ひざのことを思えば、迷いはなかったと思います」

--奥さまや子供たちに伝えたときはどうだったか

「その日には連絡をしました。奥さんは残念がっていました。子供たちは(もう少し)頑張ってほしいという声がありました」

--モンゴルへの連絡は

「母に電話したとき、よく頑張ったなと、体が大事ですからということでした」

--21年間、振り返ってどんな思いか

「話せば長くなると思いますが、本当に早いような感じがします。本当に相撲が大好きだなと、幸せ者だなと思います」

--入門したころ、日本に来て、相撲の世界に入れるかどうかわからなかった頃のことを思い出してほしい

「今があるのは宮城野親方、師匠が私に声を掛けてこられたおかげで、今があると思うので、この場を借りて、師匠に感謝しております」

--一日違えば今の白鵬関の姿はなかったと思う

(しばらく沈黙。「ふーっ」と息をつく)「感謝の気持ちと、今後師匠のもとで、一から親方として勉強して頑張っていきたいなと思います」

--どういう気持ちで横綱という地位に近づいていったのか

「今思い返せば、本当に親方、師匠が優しくて、力士思いで弟子思いで、本当に感謝していますし、親方が上り座敷にいるだけで、親方にほめてもらいたい一心で稽古に励んでおりました。その思いが関取なり、横綱、大関に昇進していくことにつながったのかなと思います」

--常に大きな目標を立てながら戦ってきた

「大相撲に入るときは横綱になりたいという夢はありましたけど、45回優勝したいという目標は立ててはいなかったと思います。一つ一つの積み重ねがこの結果につながったのかなと思います」

--数々の大記録をどう感じているか

「やはり師匠の稽古、そして基本の大切さを守ってきたことが勝利につながったのかなと思います」

--14年間、綱を張り続け、横綱の重みについてどう振り返るか

「横綱に昇進したころは勢いもありましたし、うれしいという気持ちがありましたけど、右も左もわからない時に大鵬親方と出会ったこと、またこの場を借りて感謝しています」

「その大鵬親方に横綱というもの、宿命の中で頑張らないといけない、負けたら引退という言葉をかけられたときに、32回優勝した昭和の大横綱の言葉、重かったです。それから横綱として3年、5年、8年、10年頑張りたいという気持ちになりました」

--「負けたら引退」という大鵬の言葉がその後浮かぶことは

「ありました。特にこの6場所休場というのは、大変重いものがありました」

--師匠に。今、どんな思いか

宮城野親方「名古屋場所では稽古が終わった後、足を冷やしたり、そういうのがずっと続いていたんですよね。寝ている以外はほとんど機械をつけて足を冷やしたり、そういう姿は今回が初めてだったものですから、これ以上相撲を取らせることもできないと思いました」

「3、4年くらい前からけがをして、前に出る相撲がなかなか取れなくなってきて、どうすればいいか考えながらやっていたんですが、本人は『頑張ってやります』と言って取っていたんですよ。でも治療がだんだん増えてきて、今回は本当に、この状態では無理だなとはっきりわかるような状態まで我慢していたような気がします」

--そういう弟子の姿を見るのは

宮城野親方「辛かったです。寝る前もトレーナーとかいろんな方が来て2人がかりでマッサージしたりして、それで寝ていたような状態でしたから。それを見ていると、そこまで体が悪いんだと、びっくりしました」

--平成12年暮れに入門が決まり、初めて部屋に迎え入れた

宮城野親方「そのときは175センチ、62キロの小さい体で、この子はどこまで強くなるかなと心配したくらいでした。その後、6カ月間で75キロまで太らないと相撲界を去らないといけないと。稽古させないで、食べて寝かせて、それで最後どうなるかわからないけど努力させて受かったらいいなという気持ちがありまして、それで75キロまで太って受かることができたんですよね」

「僕が今まで記憶に残っているのは、稽古を『やるな』と言ったことはあるが、自分から『やれ』と言ったことは一回もないんですよ。逆に止める側だったんですよね、あまりにもやり過ぎるから『もういいからやめなさい』ということは何回もありました」

--どんな弟子だったか

宮城野親方「準備運動とかそういうものに対しては一番だと僕は思います。今まで力士30何人入れてやってきましたけど、こういう若い衆は初めて見ました。稽古に対しては本当に真面目な子で、努力もしましたし、やはり自分が偉くなろうと思ったときには、番付が上だろうが関係なく、しっかり稽古をやってきたと思います」

「特に横綱になってすぐの時はよく大関稀勢の里関、日馬富士関をつかまえて稽古をやっている姿を見ました。2人で1時間ぐらい、稽古をぶっ通しで日馬富士関とやっていたことも覚えています。それだけよく稽古をやったなあという気持ちはあります」

白鵬引退会見、記憶に残る一番は「朝青龍に勝った初金星と…」一問一答(下)2021/10/01 18:16 産経新聞​​​
優勝45度を誇る元横綱白鵬(36)=本名・白鵬翔、モンゴル出身、宮城野部屋=が1日、国技館で引退会見を行った。会見での主な一問一答は次の通り。

--稽古は好きだったか

「正直に言えば稽古を好きな人はいないと思うんですけど、やっぱり強くなりたい、恩返ししたいという気持ちがあったものですから。親方の言う通りに、親方にほめてもらいたい、見てもらいたい一心でやっておりました」

--協会の不祥事、大震災、コロナ禍と大変な中、力士の中心にいたことについては

「さまざまな問題がありましたし、それを経験したことが私の財産になったと思うし、それを今度の後進指導に生かしていきたいと思っています」

--白鵬杯という子供たちが相撲に接する機会をつくった。これからを目指す子供たちへの思いは

「26歳から始まって、この大会がもう10年になりますけど、すでに大会で活躍した子供が入門し、自分とも対戦し、私も負けましたし、大会の花は咲いているのかなと思います」

「大相撲を目指す子供たち、若手力士には、まず基本を大事にし、『型』をつくること、そして型ができたときに型を破るという、まさに型をもって型にこだわらない、そうすれば必ず強くなっていくんじゃないかと思います。私の相撲人生の中で、たくさん技がある人は1つも怖いことなかったです。型を持った人間が一番怖かったです」

--横綱審議委員会(横審)をはじめ厳しい意見もあった。どう受け止めていたか

「横綱になれたころは自分の理想の相撲、『後の先』というものを追い求めた時期もありました。最多優勝更新をしてからはけがに泣き、自分の理想とする相撲ができなくなり、また横審の先生方の言葉通りに直したいという時期もありましたし、それを守った場所もあったと思います。だけどまた、度重なるけががあり、理想とする相撲ができなくなったというのは反省していますし、自分自身も残念に思っています」

--最強の横綱、白鵬にしかわからない辛さもあったのでは

「途中、辛い部分はありましたけど、綱を長く張ることで何か、できるんじゃないかという思いもありましたし、それがこの白鵬杯。世界の子供たちに相撲に興味を持ってもらいたい、現役を続けていきたいという思いはそこにあったと思うし、最多優勝記録を更新したとき、目標を失う、夢を失うというさびしさ、悲しさがあったものですから、やっぱり目標が大きくあればあるほど、将来大相撲を目指す子供たちが頑張っていくんじゃないかという思いで、一生懸命頑張ったつもりであります」

--支えてくれた家族への思いは

「近くで奥さんと子供たちが支えてくれたことでここまでこられたことは間違いありません。ことわざもあると思いますけど、『強い男の裏には賢い女性がいる』ということでしたので、本当にこの場を借りて妻に感謝しています」

--もっとも記憶に残る一番は

「たくさんありますけど、私は1つを選べません。2つにしたいと思っています」

--どうぞ

「(番付が)上がってきて上位で壁に当たったとき、最初で最後の金星というのは、横綱朝青龍に勝った一番(平成16年九州場所)。そして何と言っても、双葉山関の69連勝(に次ぐ63連勝)の時に負けた稀勢の里関(平成22年九州場所)だと思います」

--連勝がとまった瞬間を思い起こすことはあるか

「あの負けがあるから、ここまでこられたというのはあると思います」

--どんな指導者になってもらいたいか

宮城野親方「いろんな面で引っ張っていく、そういう気持ちになってもらえたらいいかなと思っています。人の見本になってもらいたい。その中で自分と似たような素晴らしい力士をつくってもらえたらなと、協会のためにも頑張ってもらいたいと、そういうふうに思っております」

--どんな親方になっていきたいか

「宮城野親方、師匠のように、優しさと弟子思いの親方になっていきたいなと思います」

--母国・モンゴルの方々へのメッセージを

「父を愛し、また自分を愛し、応援してくれたことが結果につながったと思うんで、モンゴルの人々にこの場を借りてまた感謝の気持ちでいっぱいです」

--日本の皆さんにも

「本当に、私を育ててくれた、そして私が出会った方々の応援があるからこそ、この20年間頑張れたと思いますし、その方々に感謝の気持ちでいっぱいです

--土俵に忘れたもの、思い残すことはないか

「(数秒の間)ええ、全部出し切りました、はい」

--ひざの状態は医者にどういわれていたか

「この半年で2回の手術を受け、またコロナ感染になりまして、その中でリハビリと稽古、トレーニングを続けた中で、膝も悪化したところもありましたが、医師からは『やることは全部終わりました、次また右ひざを痛めた場合は人工関節になる』と、そういう報告を受けました」

--あらためて横綱とはどういう存在か

「土俵の上では手を抜くことなく、鬼になって勝ちに行くことこそが横綱相撲と考えてきました。その一方で、まわりの皆さんや横審の先生の方々に(求められる)、横綱相撲というものを目指したこともありましたが、最終的にその期待に応えることができなかったかもしれません」

--名古屋場所後に照ノ富士が横綱に昇進した。照ノ富士関への思いは

「名古屋場所では肌で感じ、後を託せるなということを感じました。本来ならば名古屋場所後に引退(発表)という形でいきたい思いでしたが、照ノ富士関の横綱昇進のこともありますし、また五輪・パラリンピック、また9月場所前にという気持ちもありましたけど、部屋からコロナ感染もありまして、きょうになってしまいましたが、若手力士が本当に力をつけてきたのはこの名古屋場所でも15日間、感じましたし、バトンタッチというか、後を託せると思いましたし、ぜひともまた照ノ富士関に頑張ってもらいたいなと思います」

--横綱になってよかったと思えることは

「横綱というより、この大相撲と、相撲と出会ったことが私のすべてだし、そして私を選んでくれた師匠と出合ったこと、感謝ですし。もう相撲から離れれば私は何もできない者でありますので、本当にこの20年、大相撲には、相撲には感謝しています」

--相撲人生はまだ続く。厳しいことも言われたが、どういかしていきたいか

「自分の経験をいかし、親方として弟子たちには人に優しく、自分に厳しく、義理と人情を持った力士に育ってもらいたいなと思います」

--横綱として守り続けてきたものは

「横綱、大関というのは相撲協会や大相撲の看板力士でもありますし、横綱に昇進してからの14年間は、自分に勝つことが一番大変な思いでもありましたけど、横綱に昇進するのも大変なことでもありましたが、それを14年間、守り続けたというのは、自分をほめたいなと思いつつ、そういう気持ちでいっぱいです」​​​





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最終更新日  2021/10/04 05:54:46 PM
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