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Nov 5, 2007
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カテゴリ:あの戦争を考える

今朝6時過ぎ。


11月5日の朝日 気持ちが良いので出かけることに。


夫を送り出しフェレっ子達の運動が終わって、
洗濯と掃除を済ませれば自由時間!
特別な用事がなければ自分ひとりで過ごせる時間がたっぷりある
平日の貴重なお休みです。


日野市 朝9時頃の空 9時頃の出発。どんより雲。


最寄の中央線豊田駅から9時16分発の各駅停車高尾行きに乗る。
当たり前のように4分遅れて電車はやってきました。
さすがは中央線・・・。
私が乗った車両は、外国人の団体が乗り合わせていて
あちらこちらで会話が弾んでいる様子。
「○◎×▲~、○○□!!!」
「??▽▲○。」
英語ですが何言っているのかさっぱりわかりませんでした。
その団体は八王子でドッと降りましたが、その際の
「OK,Let's Go~!」
だけ、かろうじて聞き取れました。


豊田からたったの3駅の高尾。
ちなみに高尾山の麓へ行くには京王線に乗り換える必要があります。


JR高尾駅 私はこの高尾駅で下車。

駅前案内板 「昭和の散歩みち」。良い響き。




しかし私の目的地は「湯の花(いのはな)トンネル列車銃撃事件」の慰霊碑。
1945年8月5日、新宿発長野行きの非武装列車に対し、硫黄島から飛来した複数のアメリカ軍P-51戦闘機が機銃掃射を加えました。
死者は65名以上、負傷者130名以上とも言われていますが、
戦時下のため公にはされず正確な数はわからないそうです。

中央大学のゼミが事件を取り上げ編集した番組をケーブルテレビで見たのですが、惨状を語る体験者の話は生生しく憶えています。

一度手を合わせに行きたいと思っていました。


高尾駅を出て国道20号沿いを相模湖方面へ歩きます。


辿れば日本橋へ・・・ 51キロ・・・歩くとどれくらい?


10分ほど歩いたところで「西浅川」の信号を右へ折れます。
地図では「旧甲州街道」となっています。


大きな病院を通りすぎてしばらく進むと、
「小仏関跡」があります。


バス停前にひっそりと 説明板


説明板がありますが、画像が小さくて読めませんね。
八王子市のサイトから引用させていただきます。

====================

江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所です。
天正年間(1573~92)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後(1590年)に関東に入った徳川家康によって、現在地に移設され整備されたといわれています。
江戸時代の絵図によると、関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に番所が設けられていました。東門の外には川が流れ、駒木野橋が架けられていました。関所周辺には竹矢来が組まれ、川底も深くして通行人の往来を規制していました。
関所の警備は一時三人だったこともありますが、概ね四人体制で専従の関守が置かれていました。関守達は関所付近に屋敷地を貰い、江戸との繋がりも深く、地域の文化を担う文化人でもありました。
全国の関所は、明治2年(1869)の太政官布告により廃止されます。小仏関も例外ではなく、建物は取り壊されてしまいました。現在は建物の前にあった、通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っています。
明治21年(1888)に甲州街道は小仏峠を通る道から、現在の大垂水を越える道へ路線変更されました。その後旧道を保存しようという気運が高まり、関所跡は昭和3年に国の史跡に指定されました。
現在は旧道の面影を残し、また梅の名所としても知られ、ハイキングの人たちで賑わいます。

======================

昔は要所

 

昔は重要な関所だったようですが、平日だったこともあり閑散としていました。



そこから又進みます。


田舎道をひたすら歩きます なだらかな坂道を。


そして視界が広がり、右手を見てビックリ。


違和感のある風景 そびえ立つ高速道路です。


私が中央道で山梨へ行く時走る山間の道はまさにここであり・・・
何となく申し訳ない気持ちになっていると、「圏央道反対」の看板が。


圏央道反対 ここにも圏央道反対


説得力があります 伝わってきます。


圏央道に関しては「高尾山天狗裁判」が有名です。
豊かな自然環境を奪い高尾山をまさに串刺しにする圏央道の建設差し止めを求める裁判。
住民のほか、高尾の自然を愛し後世まで残したいという原告の数は1000名以上。

「自然を守りたい」と闘っている人たちもいるのに、
ちょっとばかり癒されたいがために「自然は良いですね」などと言っている私。
私は自分の都合しか考えていないのだな、と改めて気付かされました。

歩いている最中も、どこへ行くのか工事車両が私の脇を爆走していきました。



大きな火の見やぐら 火の見やぐらの脇には、
見つけたら手を合わせて下さい お地蔵さんと戦没者の慰霊塔。


右の慰霊塔の側面には「陸軍軍曹○○○○」「陸軍二等兵○○○○」と
亡くなられた方のお名前と享年が彫られていました。
この地域出身で戦地へ赴き犠牲となった方々でしょうか。


漸く辿りつきました。


いのはな慰霊碑入り口 いのはな慰霊碑説明版


右に入ると細い道が。
別の案内には「徒歩1分」とあるのになかなか見当たりません。
真っ直ぐ進み、踏み切りを渡ることにしました。


小さな踏切 かいじ


「かいじ」が走ってきました。

そして、悲劇の現場「いのはなトンネル」です。

いのはなトンネル 今はとても静かな場所なのに。


踏み切りを渡ると高台、圏央道の真下です。


大きな建造物 恐ろしく巨大でした。

静かな場所 圏央道を背にすると平和な風景。

これもまた酷い風景 でも山間にクレーンが。

農作業をするお爺さんがいましたが、なんとも不釣合いで
見ていて切なくなる光景です。


元の慰霊碑入り口へ戻ると運良く地元の方がいらしたので、
慰霊碑の場所を教えてもらうことができました。
まっすぐ進んでしまったところを右へ曲がると見えてきました。


慰霊碑 現場近くに建っています。


犠牲者の方々のお名前を見つめて手を合わせると、涙が溢れてきました。
なぜ死ななければならなかったのか。
あの戦争は何だったのか。
考えれば考えるほど答えは遠のいていきます。


これもまた説得力があります 20号へ戻る途中で目につきました。



戦争で犠牲になった多くの人たち。
今まさに失われつつある自然。
裏高尾から考えさせられることはたくさんで、
私は足取り重く高尾駅へ戻ってきたのでした。



壮大な高尾の山々

 




 






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最終更新日  Nov 6, 2007 02:03:52 PM
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