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宗教監禁被害者「心のネットワーク」

宗教監禁被害者「心のネットワーク」

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2018.07.27
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カテゴリ:監禁が残した傷
以下に、拉致監禁経験者の川嶋英雄(仮名)さんが投稿した内容をご紹介します。監禁後20数年にわたり、未だ細々と家庭修復を試みている「経過報告」です。
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22年ぶりの家族との再会。父には未だ会えず。。

 長らく状況をお伝えせず、すみません。以下、私自身の監禁事件発生後の、細々とした家庭修復の様子です。
 数年前より、祖母が高齢のため、特養に入っていましたが、最近、いよいよ固形物を咀嚼できなくなり、定期的に見に行っていた兄の奥さんから、これを機会に久々の連絡が来ました。5月に入って祖母が亡くなり、私と妻子数人で葬儀参加し、兄夫婦や妹、親戚数人と面会してきました。
 監禁事件以来、相手方からの交流らしい交流があったのは、実に22年ぶりのことになります。祖母の死期を機会に、というのも冴えない話ですが、他に家族交流の機会はなかっただろう、ということも感じております。
 大まかな経緯を申しますと、私は1995年の監禁後、いったん教会サイドに帰り、東京近郊で暮らしながら家庭を持ち、以来、親兄弟に細々と投げかけをしながら、家庭修復の機会を待っておりました。ちなみに私の母は中学の時に他界し、父は数年後に再婚しています。母方の祖母は父とは別に暮らしており、こちらは監禁にはさほど関わっておらず、事後も普通にやりとりしてきました。
 しかし事件以降、父親/兄/妹とは実際に会っておらず、電話でも父/兄に数回、話した程度、あとは父親/兄/妹に対して、年賀状・暑中見舞いなどの葉書、それから1・2年に一度の帰省の際、父に手紙で「会えたら会いませんか」などと投げかけをしておりました(そういえば他にも、私自身が調べた資料類を送る、米本さんの本(※米本和広著『我らの不快な隣人』のこと)を送る、などもありました)。
 監禁以降、基本的にはずっと家族に居場所を明らかにして、上記の細々とした投げかけを続けていたわけですが、今回まで連絡がないままでした。
 父には何度か帰省の際、スケジュールを知らせましたが、会おうという気配はありませんでした。葬儀にも、家を出た立場からの遠慮なのか、他の理由からか、来てはくれませんでした。ただ、兄を介して意思疎通は可能な状態になっています。


進まない家庭修復、途切れる会話、心理的軋轢

 ここからは家庭修復の難しさについて、および教会への苦言です。
 この20年間で父/兄/妹とのやりとりとして、わずかに思い出されるのは、、、
 監禁前に持っていた所持品を返してほしいと父親に手紙で知らせましたが、タイプされた手紙でごく簡単に、「もう疲れました、あなたのことで動く気持ちが湧きません」との文面が送られてきました。
 父が手書きではなく、タイプで手紙を寄越したことについてですが、私はその気持ちもよく分かるように感じます。私自身、今の家族に対して手紙を書くというのは、相当な心理的軋轢がある行為で、この20年間、決意なしに出来ないことでした。・・・「様」などと敬語で書くのが苦痛で、つい、ぞんざいな、乱暴な書きなぐりをしたくなります。
 数回、父に電話もしましたが、お互い嫌気を抑えるので会話も途切れ、そのうち切られてしまいます。
 兄とも電話で二回ほど。会話は、、、まあ、正直私を責めるばかりで、「こんなに心配しているのに」など言いますが、「ではなぜ手紙一通すら寄越さないのか」と聞くと黙り込む。兄と電話を交わした後は、私自身も1日中ムッツリと黙り込んでため息をつき、私の妻に心配される。という様で、とてもそれ以上、何か投げかけをするという気持ちにはなりませんでした。
 妹とは、今回会うまで、音信不通でした。
 会ってみて心の状態ですが、帰省して帰ってくるまでは、緊張もあったのか、何も感じませんでしたが、こちらに帰ってきた翌日に、沈んだ気持ちが半日ぐらい続きました。
 これは自分にとってお馴染みの、ムッツリ、ため息、心に鎖帷子を着たような感覚の症状で、「やはり来たか。。」という感じで、歯を食いしばって日常生活をしていると、しばらくでおさまりました。・・・まあ、要は色々、心理的な軋轢を乗り越えながらの作業になるということです。
 ちなみに現在、教会には、ほぼ全く通っておりません。
 教会に通っていないなら、家族にそう伝えればもっと早く関係修復が進むのではないか、と考える人がいるかもしれません。しかし、教会云々のことは言わば「酒のつまみ」でしかなく、本題は「家族間のうらぎり」なのです。事実起こったことは起こったことであり、なかったことにはならないのです。
 また、私の監禁を主導、教唆した向こうサイドの牧師や脱会者たち、彼らに対して思うことですが--
 私の場合は、なんの感慨も湧きません。勝手なことを言って去って行った、赤の他人ですから。あえて言えば、牧師たちが家族から数百万をだましとったことへの怒りですが、どちらかといえば赤の他人の言うことを鵜呑みにしてお金を渡し、言いなりになり、私の言葉を信じようとしなかった家族に対して、何というかタメ息があるばかりです。


監禁後の本人と家族の間に横たわる、根深い疑心暗鬼

 ここまで読んで、私からの相手方に対する投げかけが弱すぎたのではないか、との感想を抱く方がおられるかもしれません。
 状況をある程度分かっていただくために書きますと、いわゆる監禁先での説得は大変オドロオドロしいものであり、監禁実行側の家族というのは、たとえば統一教会のアジトには映画の一場面のように隠しボタンを一つ押せば武器の棚が出てきて、地下には死体が埋められていて、下手にコンタクトを取れば逆監禁を受けて、、、という風に思っている。
 理性的に考えるとトンデモナイ話ですが、過去、似たような新興宗教が実在したという認識もある。ふと疑いの思いにとらわれると、怖い、怖いという思いから、自らが、何をしでかすか分からない心理状態になってしまう(私が、ではなく、家族が、という意味です)。
 そういう状況で、第三者なしに会うというのは危険です。
 さらに敢えて書きますと、私自身も無理に相手方に会えば、監禁時へのフラッシュバックから、衝動的に相手に殴り掛かるぐらいのことはあり得ます。怪我があったら大変なので、今までは事を荒立てないよう、無難な投げかけをする程度にとどめてきました。この判断は、「あり」だと思っています。
 実際に、監禁後に本人が周囲に暴力を振るう可能性もあります。米本さんが取材した麻子さんも、本を出版する際に、下書きの原稿を読んでいると父親への攻撃衝動が起こり、実際に父親を殴って、親子間が心の整理をしたという下りがあったと思います。
 親子間が了解していれば、そういった解決の道があると思いますが、、、多くの場合、「カルトが暴力を振るった、怖い怖い」程度の認識で済ませられ、要は本人の気持ちが全く周囲に伝わらない可能性が高いです。

家庭修復を橋渡しする第三者の必要性

 実際ここまで、私自身の家族修復が滞っていましたが、監禁問題を本気で解決しようとする個人なり、教会の流れがもっとあれば、この失われた期間はずっと短かったと思います。

 監禁後の関係回復というのは、本人だけで進められるものではなく、実行側の反省と謝罪が必要条件です。まず監禁実行側は、監禁だったこと自体を、なかなか認めようとしません。その辺りの手順を無視して、和解した振りをするのは関係修復とはいいません。相互理解は相手と自分の対等な関係間で成立するのであって、絶対的な条件として、まず監禁をした側に、自らの過ちを認め、当人の許しを乞う素直な姿勢、その「気づき」がなければ、成り立ちません。

 監禁は人間の尊厳に対しての裏切り、親子関係への裏切りです。大切な相手と理解しあうことをあきらめるのは許しではなく、ただの「馬鹿」です。
 監禁は、「お前を人間と認めない! お前を信じない!」という宣言です。それが、赤の他人の言いなりになる形で起こった。だから、家族関係への裏切りなのです。

 監禁時、私は家族の前で土下座して、
「こんなことはやめてほしい。後で大変なことになる」
 と訴えましたが、その言葉は無視されました。そして監禁を通じて家族間(私と家族のみならず、父と祖母、兄妹同士なども)はバラバラになりました。
 だから、今度は家族が私に「土下座」しなければ、家族修復は進まないのです。このあたり説明するのは長すぎるので割愛しますが。。。

 監禁実行側は、子供が心配で、理解したくて云々と、口当たりの良い理由を挙げますが、それが理由で子供を拒絶しているという事実に思い至ることができない。窓や戸に特殊な細工があって、特別な場所を準備して、チーム体制で協力しあって、、、どこからみても明らかに監禁なのですが、監禁したと認めようとしない。

 親は、親子の話し合いだったと言いたいのです。向こうの牧師や、弁護士や、父兄陣の教育指導もあるでしょうが、要は、監禁だと認めてしまうことに耐えられないのでしょう。関係修復は、まず実行側に、そうした気持ちを乗り越える姿勢がなければ、成り立ちません。しかし現実問題として、監禁実行側が自らその姿勢を保つということは、とても難しい話です。
 また、周囲の家族は監禁実行時に聞かされるオドロオドロしい情報を半ば信じていますから、ごく自然に会うということが実に難しい。私の場合も、20年間居場所を明らかにして「いつでも会いに来て」と言い続けても、結局は一度も来てくれませんでした。
 長い間会わないでいると、自己正当化というものが進みます。家族に全く会わないというのはやはり異常なことですから、罪悪感というものが生じ、それを正当化するために相手を責める、という方向に向かいがちです。長期化するほど、さらに修復が難しくなる部分もあるわけです。
 要は、事情が分かった第三者が仲介してくれれば、この20数年(!)は、相当、短縮できたはずなのです。

監禁後、精神分裂症になった女性について

 少し話が変わります。
 私と同僚だった教会の女性の話です。監禁以来、名前を変えてあちこちの現場を転々としていた彼女が三度目に監禁された時、教会で彼女のことを担当していた方が「彼女は親に対してコミュニケーションを取ろうとせず、云々」と言っていました。
 結果を言うと、彼女の家庭修復は酷い失敗をしました。その後、聞き知った状況では、さらに教会の別の部署に戻ってきたが、そこで精神分裂症と診断され、祝福は破棄となり親元に戻され、本人はそこで監禁ではないものの、ほぼ毎日監視のような状態で精神科通いを続け、夜は改造した二階に置かれ、毎日壁をたたきながら、親に呪詛の言葉をなげつけているとのことでした・・・やんぬるかな・・・。
 私は本人が悪いとは思いません。親と教会の担当者がなにかを間違ったのです。
私は自分の監禁を思い起こすとき、何か、銭湯に入っているシーンを連想します。ただし、一人だけ裸になっているのが私、そして周囲が服を着ているのです。
 裸の付き合い。それは自分の弱いところも何もかも、さらけ出して、お互いがそれを認めあう関係です。反対に、裸の付き合いをしようと言いつつ、実際は周囲が全員、「自分達は一切間違っていない。弱点や、改めるべき欠点などまったくない」と服を着たまま、本人だけを強引に裸にして、他人も呼んできて皆で「お前の○○は、、、貧相だな。」などと責め立てる。そんな、おぞましいことが実際に起こってきたのです。
 自分は一切間違っておらず、相手が間違っているのであり、自分の正しさを相手に認めさせれば全てが解決するのだ。自分は一切変わる必要がなく、相手が変わるべきなのだ。相手が変なものに関わった、相手がヘマをしたために、私がこんな余計なことをさせられているのだ。。。
 畢竟、監禁を監禁だと認めず、親子の話し合いであり善だと主張する親達、そして監禁が本人問題だと決めつける教会担当者達、どちらもその意識から抜け出られていないのです。

人はなぜ、気が狂うのでしょうか。

 先ほどの彼女は、なぜ精神分裂症になったのでしょうか。それは、家族との関係が破壊されたからです。
 親子であっても、家族であっても、人間なのだから、日々、誤解や亀裂はあります。そこに疑いの刃を、裁きの鎚を下ろすだけならば、そこから亀裂が広がり、どんな人間関係でもバラバラになります。定期的に日常的に、お互いが投げかけをして関係を微調整し、自分と相手の価値を再確認しあう。その行為を継続することによって、本来あるべき関係が維持されていく。人間は、その基本的な関係が破壊されると、気が狂ってしまいます。
 監禁しておきながら監禁と認めない家族。家族の振りをして家族になろうとしない家族。本人に向き合っている振りをして、本人の心の底を吐き出せようとするくせに、本人の言うことを決して受け止めようとしない家族。彼女はそれに、耐え切ることができなかったのです。
 では、これに対して、どのような投げかけが正しい対処でしょうか。
 唯一できるのは、家族として怒ることでしょう。おそらくは、その怒るという行為が、さらなる誤解を呼ぶかもしれません。うちの子がカルトに染まって、親に怒った。やっぱりカルトは怖い、怖い。しかし誤解を受けたとしても、それでもいつか真実が伝わることを信じて、愚直に怒るしかない。そう思います。
 願わくば、本人が何に対して怒っているのか、家族に理解してもらえる日がくればよいのですが。そして、こうしたやり取りも、何が問題なのかを理解した第三者がいれば、随分違った結果になるはずなのです・・・。

そして、当の統一教会は?

 そして、実際ここまで、私自身の家族修復が滞っていたのは、やはり教会の対応の遅れ、仲介者の不在、これが大きいと考えざるを得ません。まず監禁後の本人が家族に会いたいという場合、大抵はOKがでません。そういう教会さんに私の家庭修復を安心して任せられない、という思いも厳然としてあります。
 ・・・すみません、まだ米本さんには言っていないことがありました。
 私の監禁は4ヶ月でしたが、いわゆる教会の脱会届を書いたのは最初の2ヶ月でした。その際、何というか、監禁場所が分るように細工したのです。
 教会から何もアクションがなく、次に監禁側が踏み絵として、他のメンバーの情報を色々聞こうとしてきたため、監禁に加担するようなことはできないと考え、再度教会にコンタクトして救出を求めようとしましたが、それが気づかれ、そこから監禁場所が分かるよう細工していることが分かって、急遽、場所を移動し、あと2ヶ月の延長戦となったわけです。
 監禁後に確認しましたところ、最初の2ヶ月の時点で監禁場所は教会側に伝わっていたとのこと。要は当時、山崎浩子さんの騒動などがあったので、大事になると逆に大変なので、助けに行かないことに決めたのだそうです(山崎浩子さんに何が関係あるのか、なにかどう大事なのか、私には理解できませんが)。そうこうするうちに、二度目の監禁場所に移されてしまいましたが、教会の方では、「彼はもう監禁状態が終わって、いつでも帰ってこられる状態で、云々」と内部に説明していたそうです。

 24時間監視状態は、4ヶ月の間ずっと続いており、私はとにかく必死でした。
 命がけで信仰を守って、助けを求めているメンバーを切り捨てるとは。怒りは全く湧きません。もうこの事実で、充分、結論は出ています。

 事後、1週間待って教会に連絡したところ、電話は即、教会長にまわされ、一言「すぐに帰ってきなさい」と言われてしまい、信仰を続けたいなら即、教会に戻るしかないという選択肢を突きつけられることになってしまいました。
 あとで確認したところ、その教会長は、その辺りの経緯を知らなかったそうです。例の組織体質です。
 末端で、死に物狂いで戦っている教会員よりも、のほほんとした仲間内のオママゴトが最優先するのです。同族会社の幹部と末端社員のようなものです。

 2ヶ月で救出されていれば、私の組織への信頼度は全く変わっていたでしょう。また、事後の家族間修復も、ずっと短期間に、教会主導で進んだかもしれません。
 もう一点、忘れていたことですが思い出しました。当時、向こうで偽装脱会をしていた方が、私の家族が向こうの教会で相談会に参加しているのを知っており、私が監禁されそうだと教会本部に事前に、連絡してきていたそうです。要は、担当者はそれを聞き流すだけで、何もしなかったわけです。そのことに対しては、今まで教会側から説明も謝罪もありません。何というか、組織として終わっています。何の感慨もなかったので、かえって忘れていました。
 ただ、振り返ってみるに、私が監禁後に教会に帰り、かなり長い間残り続けた大きな理由として、将来に向けて監禁問題の解決の種を残しておきたい、でなければあまりにも経験者達が可哀想すぎると感じた部分、これは大きかったと思います。ですから、何度か第三者役を買って出て。まあ、ご存じの方はご存じの通りです。
 そのやり取りの中で、お互いの立場、そして問題点を理解した人が先方の親に会えば話が通じる。そういう手応えを感じてきました。同時に、教会内での位置や評判を、文字どおり全く気にしない人。そういう人にしか、問題解決はできない。要は、監禁経験者でなければ、そうした立場は取り切れないのですが、それは心に無数の傷を負う闘いでもあります。
 数年前、長文投稿した文(提言として別に掲載)がありました。あの文章は、実は当時22年前に骨子が出来ており、色んな部署に持っていって、読んでください、参考にしてみて下さい、と言って渡してまわっていたレポートに、多少付け加えた内容でした。自分としては、骨を砕いて日にさらすような思いでまとめた内容でしたが、要はその時、一末端信者の言うことなど、聞くに値しないと判断された、という話です。いや、それを受け止めるべき器官が教会という身体に欠如しているというべきか。

私が経験した人格的乖離について
 
 長文すみませんが、最後に人格的乖離について説明させてください。
 あまりにも悲しいこと、苦しいことがあり、しかもそれを周囲に受け止めてもらう環境がない場合、本人が第二の自分を作り出し、悲しんで傷ついている自分を客体化することで、自分を守ろうとする反応が起きることがあります。そういう人は、笑うべき場、泣くべき場で、感情を表さない。またはまったく違う反応をしてしまう。ということになります。
 10年ほど前の、「愛を乞う人」という映画を見たことはあるでしょうか。
 母親からひどい虐待を受けた娘(主人公)が、母親のもとから逃げ出し、結婚して子供を生みます。そして自分の子供とのやり取りを通して、母と向き合い、心の傷を癒そうと努力していくというストーリーです。途中、主人公は娘と喧嘩しますが、相手から酷いことを言われて、怒ったりぶったりすべき場面で、不器用に微笑もうとして、娘に「なぜそこで笑うの?バカみたい」とあきれられます。
 私自身も似たような経験があります。監禁されたとき、私は時間が止まってしまったかのような感覚に襲われ、自分が何を感じているのか、自分で分からなくなるときがありました。ワゴン車で移送され、トイレに行きたいと言っても聞き入れられず、ゴムチューブに尿を流し込んでいるとき、自分がガタガタと震えているのを感じ、ようやく気づきました。
「ああ、そうか。自分はとても怒っているのだ。今までにこんな屈辱をうけたことはない、と感じているのだ」
 しかしその時、どんなに怒って周囲に抗議しても、決して理解されないだろうということも分かっていました。だから、一旦、客体化するしかなかったのです。
 一人の人間の中に、二人の自分がいる。これは俗に、精神分裂症といいます。
 さらに、監禁経験を通して、人間とはそもそも信じられないものだ、無防備に自分の感情をさらけ出すこと自体がとても危険なのだ、という認識も持つようになります。
 この認識を推し進めると、そもそも精神分裂状態、あるいは鬱状態こそが正しい現状認識に則ったもので、大多数の健常者は逆に妄想の世界で生きているだけなのだということになり、いわゆる、戻ってくることができなくなってしまいます。
 個人として感じる部分で言いますと、監禁を受けている間も、そして監禁が終わって教会に戻ってきた後も、こうした自分を理解し受け止められる場は、ほぼなかったとしか言えません。僅かに心を許せるとしたら、監禁経験者同士でしょうか。
 特に、集合写真を撮るとき、「ハイ、チーズ!」など言われるのがとても苦痛でした。こんな傷だらけでボロボロなのに、笑えというのか。かといって、集合写真をお断りしたら、また変な目で見られるでしょう。。。

長い「癒し」への道のり

 そういった環境下で、私がとった対処はこの客体化を逆に積極的に認めて、感情を中心にした自分と、理性を中心にした自分の二者にハッキリ分ける。その代わり、この二者間に橋渡しをして対話させるようにする。周囲に変に思われないように、普段は理性的な自分を表に出しておき、周囲に受け止めてもらえないだろう感情的な自分を説得しつつ、感情を、小出し小出しに、少しずつ消化させていくという手段でした。
 これは力の要る、難しい作業ですが、理解者のいない教会内においては、これ以外の対処方法は危険だと感じていたわけです。

 また、私はとにかく文章を書くこと、それから音楽も好きなので、ストレスを感じたときは自分の体験を文章にして整理したり、音楽を聴いたりしました。そのことに随分助けられたと思います。
 また不思議に、書店や図書館で本を選んでいるとき、買い物に行って店頭で品物を物色しているとき、草花の手入れをしているとき、そして卓球などの軽い運動をしているときなどに、非常に心に癒しを感じました。
 多分ですが、現実に困難を感じている自分をいったん客体化した上で、自分の中の二者を対話させながら、何らかの達成感を得るという作業が成り立ったとき、精神が安定するのだと思います。
 逆に、ストレスが大きくなるのは、無理解な現場責任者におべっかを使わなければならない時でした。・・・相談に乗っていたメンバーが監禁されたため、精神が張り詰めて、夜一睡もできないときも、ありました。

 あるとき、教会内で、監禁から帰ってきた直後のメンバーと話していて、「大変だったね、あれを乗り越えないといけなかったんだね」と感慨にふけって話していると、それを見ていた他のメンバーが、「長年近くに居たけど、君のそんな笑顔は、見たことがなかった。そんな輝くような笑顔が出来る人だとは知らなかった」と言ってきました。。。
 ですので、大げさな言い方をさせてもらえれば、監禁以後の私の20数年というのは、それまでとは全く違う、決意なしには乗り越えられない人生でした。喜びも悲しみも間接的にしか感じず、現実から乖離した生活の中で、少しずつ、少しずつ感情を消化していく。人生の意義や価値、生きている手ごたえを直接には感じられない人生の中で、少しずつ、少しずつ、自分を取り戻していく。その作業の繰り返しでした。今回、家族間が少しだけ修復したことで、また少しその作業が進んだように感じます。

 5月の祖母の葬儀中、私はほとんど悲しみを感じませんでした。まあ、車の運転などで疲れていたのもあったと思います。周囲はほとんどの人が泣いて悲しみにくれている中、私は貝になったように身を固くして立っているばかりでした。
 あとで長男に「パパは泣かないの?」と聞かれました。
 私は「その場で泣く人もいるし、後でゆっくり悲しみを噛み締める人もいる。パパは色々ありすぎたので、その気持ちを出すのは後で、一人でゆっくりとね」と答えました。そして「悲しすぎることや、辛すぎることがあった人は、そうなることがあるんだよ」と言うと、息子は「それは分かるよ。パパはもっと色々、子供に相談すべきだよ」と答えてくれました。
 子供は、良い子達です。最近は、家族との交流が(少しは)進んだこともあり、私が通過した半生について、よく聞いて、頷いてくれます。色々間違ったりしたのかも知れないが、自分の育った家庭環境というものを考えて、自分の子供にはベストの道を残そうとして、努力や挫折を繰り返して、その結果、お前達が居るんだと言うと、そのことはきちんと理解してくれているようです。
 ・・・神山先生、たいへん慕わしいです。気さくな方でした。以前、礼拝でダンベリーでの思い出を語って下さいましたが、その話は、素直に尊敬し信じられるものでした。数十年後に霊界で会って御挨拶できればと思います。





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Last updated  2018.07.27 07:00:14
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