フロリダより、愛を込めて! 全盲の娘の子育て日記。

4. 初めて見つめる娘の目!


4. 初めて見つめる娘の目!                                   
 国立小児病院から日本義眼研究所を紹介されて(当時、ミッシェルの義眼を作ってくださった水島二三郎先生:現在は独立されて義眼工房みずしま(03-3911-7888)です。”
、心わくわくと出かけて行ったのは、娘が6ヶ月になった頃です。それまでは、両方の目から白いシリコンの柄がぽこりと飛び出していたので、病院から義眼をいれても良いと許可をいただいた時には本当に興奮しました。最初にいれていただいたのは、小さな黒いマーブルです。病院のシリコンでパンパンに広げるやり方とはちょっと違って、無理なくマーブルを目の中にいれておいて、自然と目の周りの骨の発育を促すと言った印象を受けました。義眼でないのはちょっとがっかりしましたが、それでも、初めて娘の眼の中に黒目を見たときの感動は、今でも忘れられません。親は子供に話かける時に、いつも目を見て話します。わたしも、最初の6ヶ月はシリコンの飛び出した目であれ、やはりしっかりその眼を見つめながら語りかけて来ました。その目がどんな小さくあれ、今はしっかり黒目になっているのです。

 しかし、喜びはつかの間。まだ、目の中のスペースが十分でないのと、目の中になにもひっかかりがないのとで、その黒いマーブルは帰りのバスの中で、にょきっと飛び出してしまいました。何度押し込んでも、娘が瞬きをするたびにツルリとツルリとあっさりと飛び出してしまうのです。意気消沈して、わたしは義眼研究所へ引き返しました。その後のいきさつははっきりとは思い出せません。マーブルの形を変えたり、小さな義眼をいれてみたりと色々と試した記憶があります。

 それから、いよいよミッシェルの目にあった義眼をつくるゴーサインが出ました。本来義眼は厚めのコンタクトレンズのような形をしているそうですが、目の中が空洞の娘の場合は、厚みのある飴玉のような形でした。義眼は大変高価なものですが、生まれてすぐに障害者手帳の一級を支給されてので、費用の方も福祉の援助を受けることが出来ました。日本の福祉の良さはアメリカに来てから、身にしみて感じました。日本ではあたりまえに受けていた福祉の援助も、アメリカではそう簡単には受けられません。まず、非常に基準が厳しく、現在のはっきりとした数字は把握していませんが、私が申請をした当時は、家族4人世帯で貯金は日本円にして20万円以上あったら失格、収入は月14万円以下でなければ当てはまらない、と言ったような具合です。ですから福祉で生活している障害者の中には、収入も貯金も殆ど無いにもかかわらず、けっこう立派な家電製品を持っていると言う話を聞いたことがあります。障害を持つ人の中には、貯金をする意欲も、努力をして良い職を見つけよりよい収入を得ようと言う意欲も薄れ、福祉のサービスを受けつづける為には入ったお金は使いきる生活に慣れて堕落していく人が多いのも、福祉制度に問題がないとは言い切れません。それが、アメリカ社会が抱える大きな社会問題のひとつにもつながっていると思われます。

 さて、初めての義眼はできたものの、やはり、こちらも目じりからすぐに外れてしまう状態が続きました。昼間は義眼をいれ、夜は透明な義眼に柄のつているコンフォーマーを入れてテープで外れないように止め、なんとか目の幅を広げるようにと試みたりもしました。目があるから骨は発育するそうで、その頃の私は目が外れてしまい、骨の発育がうまく行かないのではないかという不安を膨らませ、昼も夜も、娘の義眼を何とか目の中に収めておくことで頭が一杯で、精神的にも肉体的にもとても疲れていました。今、思うと、私は相当な完璧主義者だったのかもしれません。義眼が外れる苦労は、娘が2歳になることまで続きました。



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