8. 日本出発


8. 日本出発                                     
  横浜市立盲学校での2ヶ月は、行き帰りの往復1時間半ほどの送り迎えと、その合間にどたばたと引越しの荷造りをしたりと、目の回るような忙しい2ヶ月でした。その間もミッシェルは「あいうえおの」ひらがな点字を半分程覚え、朝の会に始まる毎日の時間割を、楽しくこなしていたようです。 短い間に春の遠足にも参加する事ができ、貴重な2ヶ月の体験でした。

  96年6月1日、ご近所の方々や、ミッシェルが卒園した2件どなりの幼児園の先生や子供たちと記念撮影をし、多くの友人の空港での見送りに感激しながら、十数個の荷物とケージにいれられた愛犬のゴールデンリトリーバーと共に、家族4人で成田空港を後にしました。その後フロリダ州立盲学校への入学が許可され、ここセント・オーガスチンに家を探しておちつくまでの約2ヵ月半は、ミシシッピ州に住む主人の両親の近くに仮住まいをし、期待よりも不安の大きな毎日でした。 人間は未知の事に不安を抱きます。 「大丈夫。 絶対にうまく行く。 不安がる事が不幸を招くから、心配しない!」と根っからの光明思考の持ち主の主人とは打って変わって、母であり、家計を預かる主婦の私にしてみると、次から次へと心配事が波のように押し寄せて来ます。 20代に一人気ままに、意気揚揚と夢を膨らませて留学したアメリカとはまるで別世界のようなアメリカがありました。 15年前に、結婚の為に渡米した時のアメリカとも違って見えました。 それは、私を頼りにしている二人のひよっこ達を守らねばと言う責任の重さから、アメリカと言う国がまったく別の国のように見えたのだと思います。 一家4人で日本を出発したものの、その時は主人は1ヶ月の休暇をとり、引越しや入学手続きの為に同行しましたが、彼はその後日本に帰り7ヶ月程仕事をすませてからアメリカに移りました。つまり、その7ヶ月間、新しい土地で私が子供を守らねばと言う責任に、かなり心配性だった私は、楽しいよりも新たなるストレスにつぶられそうでした。 本当にこの土地での生活を楽しめるようになったのは、主人にやっと安定した仕事が見つかった3年目ぐらいからだっと記憶しています。

 ニューオーリンズの空港では、一便早く到着していた十数個の荷物の内、スーツケースが一つ姿を消していました。 確か黒の目立たぬスーツケースで、荷物の預かり券と鍵が一つ余っている為、無くなった事に気づいた程で、中に何が入っていたか思いつくまでに2-3ヶ月かかりました。 どうして、思い出せないものまでスーツケースにつめ飲んで来たのでしょうね? これも、人間の物に対する必要以上の執着心かもしれません。 今度引っ越す時は、思い切って執着を捨て、すっきりとした気持で新しい生活をはじめるべきだとつくづく思いました。 それにしても、犯罪の多いアメリカにしては、空港での荷物の受け取りはずさんなものです。 誰がチェックするでも無く、各自勝手にベルトコンベアーから荷物も持って行くのですから、特に荷物だけが先に到着した場合は、盗まれても防ぎようがありません。 他の十数個の荷物が残っていた事の方が、不思議です。

 アメリカに着いてからの1ヶ月は、フィラデルフィア市の無眼球・小眼球の遺伝子の研究をし、又、サポートグループ・アイキャンの中心人物でもある、アルバート・アインシュタイン病院のシュナイダー先生の診察、無眼球の子供への手術をかなり手がけているとフィラデルフィア子供病院の小児眼科専門のカトウィッズ先生の診断、日本のテレビのコマーシャルでよく見かけたオーバーブルック盲学校の見学、そして、フロリダ州立盲学校での入学の為の査定面接、セント・オーガスチンでの住居探しなど、舅の運転で南部のミシシッピ州からニュージャージー州へそしてフロリダ州に下って、又ミシシッピ州に戻ると言う、何千キロに上るドライブのハードスケジュールでした。 渡米前にアメリカ各地からいくつか盲学校の案内書を送ってもらいましたが、気候が温暖で冬も暖かく、海に近く(これは私の希望)、地震の無い(これは主人の希望)フロリダへ行く事に決め間h下。 真っ白な砂の、広々としたビーチはとても気に入っていますが、地震のかわりに、ここはハリケーンの通り道でもあり、どこに行っても何がしかの天災とは共存していかなければないようです。 又、以前にこの盲学校で先生をしていた方と日本でお会いし、色々な情報を事前に得られた事は、とても助かりました。 最近の話では、アメリカの聾・盲学校は縮小や閉校の傾向にある中、東部ではここフロリダの盲学校だけは、毎年生徒数は増加しており、設備・教育プログラムともに、全米一を目指しているそうです。

  ミシシッピへ戻ってからの次の1ヶ月は、盲学校からの入学許可の返事待ちと、購入を決めた家のローンを組むにあたっての信用調査の返事待ちと、とにかく待つ事の毎日で、時間が非常にゆっくりと過ぎていきました。 何をするにも、のんびりした南部です。 仮住まいの家、公共の交通手段も無い町で、近くには歩いていけるような公園も無く、勿論車も無いし友達もいなかったので、日本から届いたダンボールの山を横目に、子供たちと今日は1日、どうやって家の中で過ごそうかと、ため息をついていました。 その上、日本から連れてきた愛犬・ボビーはもともと雷が苦手。 アメリカの南部では、夏場は毎日のように午後から雷を伴った大雨が降ります。 家の中にいれても、その雷の音に狂ったように吠えるボビー。 私はあれやこれやのストレスで、ある晩とうとう、高熱と共に首から下、大粒の発疹で真っ赤に腫れ上がってしまい、救急病院へ運び込まれる始末。 体全体に発疹ができたのは、幼稚園の時のはしか以来です。 晴れとかゆみが消えるまでに1週間かかり、その原因はやはりストレスのようでした。 この発疹には、セント・オーガスチンでの生活が始まって3ヶ月した頃に、又襲われるのですが、その時はすでに原因はストレスと解っていたので、子供たちを連れて町の小さなマリンパークへイルカを見に行き、気持を和らげました。 イルカのお陰か、今度は4日で消えてくれやれやれ。 「病は気から」とはよく言ったものです。 心と体、両方のバランスがいかに大切か勉強しました。

  さて、眠れぬ夜が永遠には続かないように、待つ事の不安も1ヶ月後には終わり、いよいよ待望の新天地への引越しです。 引越しに限らず、日本にいる間も、ミシシッピに住む主人の両親には非常にお世話になりました。 引越しの時も舅はここぞとばかりに休みを取ってくれ、引越し用のトレーラーをレンタルし、山積になっていたダンボールと彼らが使っていないおさがりの家具などを積み込み、800キロの距離をセント・オーガスチンへと運転してくれました。 途中で車が故障して3時間も修理工場で足止めを食ったり、ハイウェーの途中ではガソリン切れとなり、「GAS!!!」と書いた紙を持ってハイウェーを走る車にガソリンをもらったりと、てんやわんやの道中で、目的地に着いた時は夜中の2時を回っていましたが、こうして2ヶ月半に及ぶ引越しは、無事に幕を閉じる事になりました。

  この間、娘たちはどう感じていたのでしょう? 9歳と6歳でしたらか、特にミッシェルはあまりはっきりとは覚えていないかもしれません。 長いドライブでは子供たちがあきないようにと、姑が小さなゲームやおもちゃを用意してくれました。(ちなみに、我が家はゲームボーイなどのコンピューターゲームは買った事がありません。) 外の景色が見えないミッシェルは今でも長距離ドライブを嫌がります。 新しい家、言葉、環境、人間関係への順応は、彼女にとっては私の想像以上に大変だったようです。上の娘はすでに英語も流暢でしたから、学校生活にもすぐに慣れましたが、日本の時のような近所の幼馴染が居なくなり、昼間は人影も殆ど見かけない住宅地で、何よりも近所で遊べる友達が居ない事が悲しかったようです。 自分たちの意志で仕事も止め、新天地での新しい生活のスタートは私たちにとっては自由と言う大きな宝ですが、自由の追行の為には、それなりの苦労も伴うものです。 自分の決断であり、頭ではその苦労は解ってはいても、実際にその真っ只中にいると、ついつい弱気になったり、愚痴がでるもので、最初の3年間、経済的な不安と学校になかなか慣れないミッシェルの事が心配で、私の精神状態はジェットコースターのようでした。 母親のそういった不安な様子は、子供にも良い影響を与えた訳がありませんが、それでも、何とかここまで家族4人で頑張れた事に感謝しています。 困難に出会っても、何かを学べるありがたいチャンスだと考えて前向きに向かっていけるかどうかが、人生の幸・不幸を決める鍵では無いでしょうか。

 不安や心配は尽きず、発疹に襲われながらの引越しでしたが、2ヶ月たってみると、娘たちもそれぞれ無事に学校への入学が決まり、引っ越してすぐには組めるとも思わなかったローンも可能となり、念願の海の近くに、それも、日本で暮らしていた東京郊外では考えられない程、安い値段で土地と家も手に入り、神様はちゃんと道を開いてくださりました。 又一つ、何とかハードルを越えられました。 感謝あるのみです。 さて、次なるハードルは、、、?



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