フロリダより、愛を込めて! 全盲の娘の子育て日記。

9. 1年生の始まり

9. 1年生の始まり                                    
 アメリカの学校は”ある日突然始まる”と言うのが私の印象でした。 私の知る限り、入学式もなく、勿論、始業式、終業式、などと言うものもありません。 日本の学校行事に慣れてる私はとって、これには驚きでした。 アメリカの学校教育は1年間のキンダーガーデン(幼稚園)から始まり、日本の高校3年生にあたるシニア・12年生までが一環教育のようなところがあります。(これを、”K-12” と表します。) フロリダ盲学校では家族の希望によっては3歳児からの受け入を許可しており、これをプリ・キンダーガーデン(PreK)、とかプリ・プリ・キンダーガーデンなどと呼んでいます。  私立校によっては、キンダーガーデンを終える時に卒業式を行うところもあるようですが、公立の学校では、小学校、中学校を終える時に、日本人の私の目から見ると、簡単な式典と盛大なダンスパーティーを行います。 教育の体制がK-12のアメリカでは、12年生を終えて初めて”卒業”と称します。 高校を終えると、大学へ進学するなり仕事をもつなり、親元を離れる子供たちが多いアメリカでは、高校の卒業は社会人への第一歩でもあります。 卒業式の1-2週間前には、ホテル等の施設を借りての、プロムと言う盛大な卒業パーティーが開かれます。 男子学生はタキシードを着たり、女子学生はロングドレスに身を包み、中にはリムジンカーをチャーターしてプロムに向かう若者たちも見かけます。 卒業式は皆、スクールカラーの帽子とガウンに身を包んで、荘厳な雰囲気の中で行われます。 これぞ、待ちに待った卒業です。 

 突然始まる学校ですが、始まる前の週に1日オープンハウスと言って、新しい担任の先生に会ったり、必要な文具のリストをもらい行ける日が設けられています。 義務づけられてはいませんが、長い夏休を楽しんだ子供達が決められた時間内に親と一緒に学校を訪れ、新学期への準備です。 8割が寮生の盲学校では、学校が始まる直前の週末、寮生達が学校へ戻ってくる日曜日に、オリエンテーションが開かれます。 フロリダ各地から来る家族にしてみると、自分の子供の学校を訪れる事は、一年の内この日ぐらいの家族も多いと聞きました。 最初の年のオリエンテーションの日は、午後からフロリダ特有の落雷を伴った大雨が降り、車の運転に慣れていない私は、オリエンテーションには参加しなかったので、月曜日に子供をスクールバスには乗せずに、学校まで送って行くことにしました。 日本語が流暢になっていた主人はミッシェルが生まれてから、日本語で子供達と話していたので、勿論、ミッシェルは英語も殆ど解らないし、教室内の様子を探るのも始めての事です。 親も子供もドキドキ。 アメリカの学校でもう一つ驚いたことは、短縮授業と言うものが無く、初日から幼稚園だろうが高校生だろうが、朝から午後まで約6-7時間のスケジュールが始まる事です。 この時ばかりは、短縮授業期間があり、特に幼い子供達を無理なく長時間の学校生活に慣れさせてくれる日本の教育体制を大変ありがたく感じました。 私が思うには、スクールバスの発達しているアメリカでは、同じルートを走るバスが小学校、中学校、高校と3箇所別の場所に生徒達を運ばねばなりません。 その為、公立の学校では小・中・高校のそれぞれの始業時間、終業時間を30分ぐらいづつ、ずらす事により、スクールバスでの生徒の送り迎えを可能にしているようです。 また、日本よりも共働きをする家庭や、シングル・マザー、シングル・ファーザー(片親)の家庭が多いアメリカでは、学校が終わってもデイケアーと言った放課後,子供達を預かるプログラムに参加している子供も多く、短縮授業は恩恵が無いどころか、働く親にしてみれば、困った状況となり得ないかもしれません。

 ミッシェルの1年生クラスは、弱視のロバート君と二人でのスタートでした。 隣のクラスはキンダーガーデンで、そこの生徒も弱視のチェルシーちゃんとアンソニー君の二人。 6年後の今では、各学年6-10人の大所帯になりましたが、当時の小学部は、二学年あわせて5-10人位が普通でしたでした。 担任の先生は経験豊かなレベッカ先生。 初日から大泣きして、泣き止まぬミッシェルをレベッカ先生は優しくなだめて、ひざに抱いては良くロッキングチェアーに座って本など読んで下さったようです。 ミッシェルは今でも、その事を良く覚えており、「一年生の時は、初めての学校へ行くのが怖くて、言葉も解らないし、毎日泣いていた。」と話しています。 レベッカ先生はサイド・ビジネスとして自分で帽子やドレスを作っては売るほどの洋裁が得意な先生で、クラスの中も先生のアイデアの手で触って楽しめる教材であふれていました。 英語が解らぬミッシェルには、1ヶ月ぐらいしてやっとMさんと言う日本人の通訳の女性が見つかり、それからの5年間、Mさんが週に何日か来て、ミッシェルの勉強を助けてくださいました。 通訳もやとってくれる盲学校のサービスには大変感謝しています。 日本語が母国語であった彼女にとって、Mさんとの日本語の会話がどんあに心のよりどころとなった事でしょう。 ミッシェルは小さな頃から、その完璧主義者的性格を発揮しており、今回も「間違った英語は一切喋るまい!」と思ったのでしょうか、最初の1年は英語を自分から喋ろうともしませんでした。 同じく日本語で育った上の娘が1年生になってアメリカンスクールへ通い、3ヶ月で英語を喋るようになった事を考えると、慎重派のミッシェルは、2年目に覚えた英語のフレーズを口にするようになり、3年目ぐらいから、自信がついてやっと英語で自己表現をするようになり、かなり時間がかかったものです。 学校が始まって3ヶ月が過ぎ、レベッカ先生から「ミッシェルは一言も英語を話しません。 困りましたね。 お母さんが家でも英語を話すようにしてください。」と言われた時は、ただでさえ英語のマスターの遅いミッシェルの事が常に心配事になっていた私は、その晩又、全身をじん麻疹に襲われてしましました。 その頃、便りの主人は日本へ帰り、仕事の整理をして年が明けてからアメリカへ引っ越すことにしていたので、 1人の私は、毎日の様に「どうしよう、どうしよう、、。」 家で英語を喋れといわれても、日本語の会話が何よりも自然な親子の間で、外国語でもある英語で急に話せと言われてもなかなか話せるものではあります。 実は、私は今でも大半は子供達に日本語で話しています。 それは、私の母国語が日本語であり、今でも日本語で考えている事の方が多い事、そして、日本人が殆どいない土地に住みながらも、娘たちには日本語を忘れて欲しくない気持ちからです。 それが、ミッシェルの英語力の上達の邪魔になったことは確かな様ですが、その反面、今でも子供達は私の日本語を理解し、ミッシェルは私とは日本語で会話を続けています。 今では、学校の先生達も、子供達が日本語を失わない為にも、家では日本語を使うことを勧めてくれています。  

 英会話はなかなか上達しなかったものの、2ヶ月程通った日本の盲学校では、ひらがな点字を半分マスターしてたので、アルファベットの点字はスムーズに覚えて行きました。 「マミー、これは日本語の”あ”だね。 これは”お”だよ。」と言った具合に英語の点字を日本語に置き換え楽しそうでした。 ミッシェルは、どうも読解力が弱いようですが、暗記物は得意で、点字の先生からはとても誉められました。 もう一つ日本と違う点は、小学・中学校と毎日の時間割が殆ど同じだと言うことです。 つまり、国語、算数、理科、社会、体育と言った同じ時間割が週5日間続きます。 その中に音楽が週に1時間、コンピューターのクラスが週に1時間といった具合に入っています。 盲学校の場合はOT, PT, スピーチセラビー, モービリティー等、個人個人のプログラムもあるので、その時間は子供達は自分のクラスを抜けることになります。 毎日誰かがクラスから抜けて行く事は、教える担任の先生にとっても、授業を抜ける子供にとっても大変と言えば大変です。 ミッシェルのクラスは、音楽と体育の授業以外はこのレベッカ先生が担当されました。 ミッシェルはその他にモービリティーの先生による白杖を使う個人指導が週に2時間、点字の先生による点字のクラスが週に2時間程入りました。  

 レベッカ先生は園芸も大変好きで、子供達に良く植物を植えたり触らせたりして下さいました。 遠足や課外授業も多く、地元のワニ園へ行き蛇やワニの子供に触ったり、水族館ではイルカに触ったり、又、科学博物館や近くの公園、図書館へと子供達を連れて行ってくれました。 時間のある親は、ボランティアとして参加をし、、、と言っても、いつも顔をだす暇な親は私ぐらいで、クラスのパーティーには先生のご主人やら子供さんも参加して、アットホームなクラスでした。 この様に、ミッシェルの1年生は大きな環境の変化と共にスタートしました。 実は、私にとっての変化も大変なもので、今だから笑って話せますが、最初の6ヶ月は殆どホームシックの毎日。 念願かなって、自然の美しい、ビーチの近くに家を構えられ、無事に子供達もアメリカでの学校生活をスタートさせられたもの、何か心にぽっかり穴が空いたように淋しいのです。 それは、日本で育んできた、お金では買えない大切な友人達の輪、そして何よりも私達を支えてくれた家族が近くにいない現実でした。 自分で選んだ引越しです。 頭では解っていたつもりの、家族・友達との別れですが、引越しが一段落して自分の時間ができると、1人ぽつりと見知らぬ土地に放り出されたような、孤独感に襲われました。 日本を立つ前に近所の方が言っていた言葉が心に響きました。 「転勤で海外へ移る家庭では、主婦が一番ホームシックになると聞くから、頑張ってね。 夫には毎日仕事があるし、子供達には学校があるし、、。」” 将にその言葉どおり。 車社会のフロリダでは、家の外を歩く人も少なく、家の中にいると誰にも会わずに何日も過ごし、会話の相手は子供だけななどという事もしばしば。 段々と愚痴をこぼしたくなる気持ちに、これでは、いけないと私は娘たちの学校で早速、ボランディアを始めました。 忙しく働く母親の多い中、週に一度づつでも、子供達の学校でボランディアとして働き、社会の一員としての居場所があることに安堵感を覚えました。 私にとっても、アメリカ生活の1年生の始まりです。 何しろ、前を向いて進むしかありません。

 さて、4年生で転校となった上の娘はどうだったかと言うと、最初は「隣のメグちゃんが恋しい」、「リサに会いたい。」「真理ちゃん達はなにしてるかな~?」と日本の友達を恋しがっていましたが、友達作りの上手な彼女は、すぐに何人かの友達と親しくなり、お泊りに誘ってもらったり、友達を呼んだりと、新しい環境にもうまく順応して行きました。 英語も出来たので、学校の成績も良く、殆ど心配することがありませんでした。 反面、ミッシェルには毎朝の様に、「行きたくない!いやだ~!!」と泣かれて一年間。 それでも、朝6時45分にスクールバスが家の前に到着すると、気持ちをとり直して、さっさか乗り込む娘を、「頑張れ~!」と心の中で応援することが精一杯の母でありました。 本当に嫌いなのだろうか、、それとも、ああやって、スタスタとバスに乗り込むのだから、本当は楽しいのだけど、彼女なりのストレス解消の為に、母に向かって駄々をこねているのだろうか、、。 娘の喜怒哀楽さを見ては、本来ならばどんと構えなければいけない筈の母は、一緒になって心配したてストレスを貯めていました。 上の娘はそんな私をどう見ていたのでしょうか? 何はともあれ、学校が好きで成績も良い優等生の娘と、学校が嫌いだと毎日大泣きする娘と、まったく正反対の可愛い娘たち。 この二人を立派な社会人に育てる事が私の仕事だと、ため息をつきながらも、毎日自分を励ましていました。 5年生を終え、8月から中学へ進級する今のミッシェルはどうか、、、? 元気で登校する毎日ではありますが、どうも友達づきあいが苦手、それに今ひとつ勉強が思うように理解できない、と気持ちは浮いたり沈んだり。中学への進学に胸を膨らませ、5年目に入るバイオリンには益々力が入りますが、勉強は大切だと頭では解っていても、今でも実感を込めて ”学校が嫌い!” と言い切る娘に、「そんなこと、もう10000回以上も聞きましたよ。」 と受け止め、「でも、ミッシェル、立派な大人にる為に勉強してるんだよね。 頑張ってるミッシェルを見て、沢山の人を勇気付け、幸せにできる、そんな人になるんだものね。」 と今日も繰り返す母であります。 

 次回は1年生の終わりに、急に受けることになった心臓の手術のお話です。 ミッシェルは無眼球の他に、心室中核欠損を持っていました。




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