フロリダより、愛を込めて! 全盲の娘の子育て日記。

10.オープン・ハート・サージェリー


10. オープン・ハート・サージェリー                               2002年6月21日 投稿

 カタカナで書くと何だか宝石の名前の様ですが、これは心臓のバイパス手術の事です。 生後まもなく両眼の欠損が解った娘ですが、一ヶ月検診の時に心臓に雑音があると先生から言われ、超音波、心電図の検査をしたところ、右心室と左心室の間の壁に穴が空いている、心室中核欠損があることが判明しました。 無眼球という予期せぬ来客に誠心誠意向かい合っていた私にとって、他のお客様を歓迎する余裕はありませんでしたが、何と心臓にも欠陥があると聞かされ、やっと手がかりを見つけて崖を登りかけた所に、また谷底に突き落とされた衝撃を受けました。 「心臓の壁に穴が空いてる~!!」人間にとって未知の世界がどんなに恐怖であり、不安であるか。 しかし、その恐怖もそれ程長くは続かずに住みました。 循環器科で働くお友達の看護婦さんが、「ラムさん、心室中核欠損は心臓病には変り無いけど、良くある病気で、手術をするにしても、盲腸みたいに心臓の手術の中では一番楽な手術よ。 それに手術をしなくても成長と共に自然に穴が閉じる子供もいるし、穴が閉じなくても一生健康に過ごす人もいるし、、。 大丈夫よ。」と慰めてくれました。 この、盲腸みたいに、、のくだりがとても印象的で、「そうか、手術をするにしても、危険は殆どないのか。」と気持ちが楽になったのを覚えています。 すぐにジゴクシンと言う薬を出され、それを朝晩毎日欠かさず与える事で心臓の動きを促進させ, 発育の様子を見ることになりました。 

 「一歳までに6kg-7kgになれば立派なものです。」 と言われていたので、あまり神経質にはなりませんでしたが、後になって娘の赤ちゃんの頃の写真を見ると、その青白さにはびっくりしました。 毎日見てると気が付かないものですが、写真でしかミッシェルを見ることが無かったアメリカに住む主人の両親にしてみたら、さぞかし青白くか細い孫の姿に心を痛めたのではないかと思います。 お陰様でミッシェルは1歳の時には体重も丁度7キロになり、先生に「おめでとう!良く、育ったね。」と誉めていただきました。 細い子供でしたが、筋肉質で身軽なミッシェルは心臓に欠陥があるとは思えないほど、幼児の頃から動くことが大好きでした。 額に汗をかきながら、ソファーの上でいつまでも飽きもせずに、楽しそうに飛び跳ねていました。 それが、トランポリンに変ってからは、さらに飛び方にも磨きがかかり、くるくる回転しながら飛んだりと、いずれは本格的に体操でもやらせようかと思った程です。 心室の壁の穴の方も、超音波で見る限りは1cmかそれ以下の小さな穴だとの診断で、手術の必要は無いだろうと言われていました。 穴はいずれ閉じる場合もあるし、閉じなくても1cm以下の穴ならば大人になっても普通に生活ができるとうかがった覚えがあります。 ジゴクシンもいつしか飲まなくても良くなり、親の私達もほっと胸をなでおろしていました。 とは言っても、成長曲線を見ると、彼女は常に10パーセンタイルの線の下をすれすれに登っていくのがやっとといった数字でした。 また寝汗がひどく、寝てる間も心臓は人の倍も働いていたのかもしれません。 風邪をひくと、良く高熱をだしていました。

 アメリカに引っ越してからは、新しい生活に慣れること、又、新しく現地で眼科の先生や義眼の先生を探す事に気を取られて、検診も年に一度となっていた心室中核欠損の事は、殆ど忘れていました。 痩せてはいても、良く食べ、良く動く、ミッシェルでした。 96年の年の瀬も近づいた頃、風邪をひいてドクターにかかった時に、改めて心臓の検診を引き続き受けることを勧められ、隣の大きな町の子供専門病院の循環器科の先生を紹介してもらいました。 年が明けて訪れた病院には、フロリダ大学病院の小児循環器科でした。 そこで診察してくださったのが、とても優しい年配のミラー先生です。 若い頃は小児心臓外科医として活躍され、その当時は外来を担当していらっしゃいました。 ミッシェルはそれまでカテーテルの検査を受けたことがなかったので、ミラー先生には心臓の正確な状態を把握する為にもと、カテーテルの検査をするように勧められました。 大きな針を足の付け根の血管に通すことはちょっと心配ではあったものの、まさか手術になるとは思いもせずにカテーテルの検査をお願いし、2月には半日入院で検査を行う日取りが決まりました。 カテーテルはももの血管から針をさし、心臓まで通して薬を注入し、実際の血液の流れを調べる検査の様でした。 かなり太い針を刺すので、検査後は止血の為に2日ほど安静にする必要がありました。 「念の為に正確な状態を把握する」だけのはずの検査の結果は、私達には予想外のもので、カテーテル検査専門のメルビン先生はレントゲンを見ながら検査の値を説明してくださり、最期には「ミッシェルさんは今は健康ですが、このまま心臓に負担をかけながら生活を続けると、全米での統計の結果では、早ければ10代後半から、心臓のあらゆる機能障害を起こす確率が非常に高い。 従って、私達心臓外科チームはすぐに手術をすることを勧めます。」 と断言されました。 

 それから手術までの3ヶ月は、又、不安な眠れぬ夜を過ごす事になりました。 心臓の切開手術と聞いただけでも、命にかかわることで不安でしたし、その痛みを考えただけでも、幼い娘が不憫でした。 その上、我が家は健康保険と経済的な問題を抱えていました。 アメリカには国民健康保険制度がありません。 当時、日本から引っ越してまだ3ヶ月の主人には仕事が見つかっておらず、私は専業主婦をしていたし、社会保険もありませんでした。 それぞれ、民間の保険会社に高いお金を払って健康保険を売ってもらってましたが、その当時、生まれつき特定の病気を持っている患者にはどの保険会社も保険を売ってくれませんでした。 特定の病気の中には心臓病も視覚障害も含まれていました。 つまり、これから心臓の手術を受けなければいけない娘に保険を売ってくれる会社が無いのです。 障害者が福祉の医療援助を受けるにしても、日本とは違って、収入の面でも又、資産の面でも、非常に厳しい制限があり、貯金を全て使い切ってから申し込みに来なさいと冷たい対応でした。 貯金を頼りに生活をしていた当時の私達にとって、それを使いきって福祉の医療援助を受けることは不可能でした。 設備は素晴らしいものの、医療費の非常に高いアメリカでの心臓の手術を、全額自己負担する事は考えただけでも気が遠くなりました。 手術後何か問題があって入院や治療が長引いたりでもしたら、一生働いても払いきれる額では無いと、起ってもいない事を考えては余計に不安を募らせていました。 娘は何が何でも手術が必要です。 でも、引っ越して仕事もない自分たちには支払いのめどがありませんでした。 それは、手術に対する不安とやっとローンで手に入れた家やスタートしたばかりの生活を失うかもしれない恐怖でした。

 アメリカにはドクターのアシスタントとして患者と病院・ドクターの間に入り手術の段取りをしてくださる、フィジシャンズ・アシスタントという人達がいます。 ドクター並みの知識を持ち、手術にも立会います。 そんな不安な中、娘の担当のフィジシャンズ・アシスタントのモーリーンさんが電話でこんなことを言ってくれました。 ”Have faith. Everything is going to be OK. Let’s do it!” (神を信じて、信念を持って立ち向かいなさい。 全てうまく行きますよ。手術をしましょう。) その言葉で私と主人は、「必ず全てはうまく行く!」と信じて、手術の成功を祈り決断をしました。 執刀医の先生はドクター・セイハミル。 手術の1ヶ月程前に、時間をとって手術の手順を丁寧に説明してくださいました。 私達と同年代の、とても誠実ですがすがしく自信に満ちた先生で、主人も私もすぐにこの方なら娘をお任せできると不安が消えていくのを感じました。 後でうかがった話ですが、セイハミル先生ご自身、幼い息子さんを病気で亡くさせたそうです。 誠心誠意、患者とその家族のに接する姿の影には、そのようなご自身の辛い経験あったのかもしれません。

 学年末が近づき、ミッシェルの手術の日がいよいよやって来ました。 娘も手術を受けることは不安ではあったでしょうが、親を信じて納得し「早く穴をふさいでもらって、もっと元気になりたい。」と頑張っていました。 覚悟を決めると強い娘です。 あとは、神様にお任せするだけだと、日本の家族や友人もアメリカの家族や友人も皆が祈ってくれました。 予定よりも長引いたものの手術は無事に終わりました。 前の晩、殆ど眠れなかった私にとっても、なんとも言えぬ安堵感でした。 集中治療室に移された娘に会いに行くと、麻酔から覚め始めた娘は口から胃袋に通された不愉快なパイプに驚いてか、「ぎゃお~!」と真っ赤になって大泣きをしています。 看護婦さんに「大泣きをすると、傷口が開いて又手術のしなおしになるから、黙るようにお母さん通訳してください。」と言われ、私はあわててミッシェルを日本語で諭すと、こんな思いは2度とするまいと思ったのでしょう、彼女も泣くのをピタッと止めました。 心室中隔欠損はの状態は、穴というよりは裂け目だったそうで、超音波で見るよりもかなり大きく、また、弁にも一箇所奇形があったそうで、それも縫い付けて治したとの説明でした。 こればかりは、ドクターでも実際に切って心臓を手にして見ないことには解らないそうです。 やれやれ、本当に手術を受けて良かった。 アメリカでは心臓の手術は大人で4日、子供でも経過がよければ4-5日で退院すると聞かされ驚きました。 娘も初日はかなり苦しそうでしたが、翌日は横腹から出ていた管もとれ、徐々に楽になり手術後4日もるすと、痛みはあるもののベッドに寝てばかりの生活に飽き足りて、プレールームへ行ったり、4階から1階へと大好きな階段の上り下りをしたりと、親をひやひやさせました。 人間の自己治癒力のすごさを目のあたりにしました。 娘の手術の場合、胸の中央を大きく切る男の子と違い、傷跡をめだたなくするために、背中の右の肩甲骨の下を切って、そこから左の心臓へと手をいれての手術でした。 セイハミル先生は特に手術後の縫合も丁寧にされるそうで、傷口も今ではあまり目立ちません。 本来なら5日ほどで退院でしたが、手術後の心臓の動きがにぶくかったので、ジゴクシンを服用して様子を見る事になり、7日程の入院となりました。 「1ヶ月もしたら、元の生活にもどれます。 子供だから本人が一番自分の体調を知ってますよ。」と言われたとおり、退院後1ヶ月もすると、またひょこひょこと庭のトランポリンで楽しそうに飛び跳ねる娘の姿を見て、不思議な感覚に襲われました。

 さて、気になる手術・入院費用の事ですが、各病院にはファイナンシャル・アシスタントと言った制度があり、その家庭の状況に合わせて、無利子のローンのようなものを組んでくれます。 つまり、各月払えるだけを何年かかかって払っていけば良いシステムです。 娘が手術を受けた病院はバプティスト系の病院でしたが、アメリカの多くの病院同様、様々な団体・個人から巨額な寄付を受けています。 娘が丁度入院中にも、日本でも行われているような24時間チャリティー番組がその病院の為にアメリカ全国向けにテレビで放送されており、手術後2日目の娘と私も病室でテレビのインタビューを受ける事になりました。 成田を発って丁度1年目の1997年6月1日、長かった1年の総決算のごとく、無事に手術を終えた娘は、急に病室に訪れたカメラクルーのインタビューに汗を掻きながら答える私の横で、鼻の穴にしっかり指をいれていたそうです。 家に帰りホットしてテレビを見ていた主人と両親は、突然画面に移ったミッシェルのその姿に大笑い。 私は後から知らされましたが、これもまた、今となっては良い思い出です。 その時のチャリティー金額は覚えていませんが、それらの基金は病院の研究費、設備費、そして経済的に入院費を負担できない家族達の為に使われるとの事でした。 私達の場合も当時の状況を考慮してもらい、入院費の8割はこの基金の援助を受けられることになり、将に暗闇に一条の光、感謝の言葉もありませんでした。 アメリカでは病院の費用とは別に、ドクター達はそれぞれに患者に請求をしますが、セイハミル先生からは自分の行った手術の費用を一切請求しませんと、秘書の方を通して後日連絡が入りました。 こんな事ってあるんでしょうか?! 色々な方達が、私達の知らない所でも動いてくれ、私達を助けてくれ、モーリーンさんの言っていた”Have faith!”と言う声が胸の奥に響きました。 

 皆さん、正しいと思った道を、信念を持って進みましょう! 必ずやどこかに道は開けて行くものです。 娘もお陰様で、心臓の調子も良く、手術後は背も体重も伸びて、いつの間にやら標準となりました。 もう、10パーセンタイルの線を追いかける姿はどこへやら、、。 助けていただいたアメリカ社会の多くの人達への恩返しの為にも、主人も私も仕事へボランティアへと精が出る毎日です。 手術の成功、入院費の援助と、目に見えぬ偉大な神様の差し出す優しい手を、強く感じたオープンハートサージェリーでした。




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